2023年09月09日

「昭和すぎる」喫茶店の店主  藤原美恵子(ふじわらみえこ)さん (沼津市)

「昭和すぎる」喫茶店の店主
 藤原美恵子(ふじわらみえこ)さん (沼津市)
 父親が開業した沼津新仲見世商店街の喫茶店「ケルン」(沼津市大手町)を1人で切り盛りする。半世紀以上趣が変わらない店は過ぎた時代を懐かしむ中高年に加え、古さに新鮮さを感じる若者を引き付ける。85歳。
 ーこれまでの歩みは。
 「高校を卒業して洋裁学校に1年間通った後、父の手伝いを始めてからずっと働いている。当時は日付が変わる時間まで営業し、3交代勤務だった。1990年に父が他界し、夫と共に店の2階に移り住んだ。5年ほど前から1人で営業している」
 ーこだわりは。
 「冷凍食品は一切使わず全て手作り。見た目はシンプルで家庭的な味にしている。愛を込めているからおいしい。お客さんから値上げしろと雷われ、数年前に全メニュー50円値上げした。おかず4品のサービスランチは750円、クリームソーダは450円。1日2度来る常連さんや年金暮らしのお客さんを考えるともう値上げできない」
 ー評判の受け止めは。  「昭和の人間なのでうれしい。ぼろぼろだから直そうとしたこともあるが、雰囲気を変えないでと言われてそのままにした。10歳若かったら直したかもしれない。今は私もこの雰囲気が好き。コロナ禍前は若者がたくさん来て驚いた。人形を持ったラブライブ!ファンも訪れる」
 ー今後は。
 「いつまで続けられるか分からないが、これからも形を変えずに営業したい。お客さんはいい人ばかり。会話して元気になり長生きできている。特に常連さんは家族みたいなもの。水やおしぼりを配り、食器を片付け、買い物に付いてきてくれる人もいる。お客さんが好きなことをして、ゆっくりくつろげる店であり続けたい」
 (東部総局・矢嶋宏行)
【静新令和5年9月9日(土)この人】

藤原美恵子さん
  

Posted by パイプ親父 at 06:17Comments(0)この人

2023年09月06日

福原義春さん死去 92歳  元資生堂社長・会長

福原義春さん死去 92歳
 元資生堂社長・会長
福原義晴

 国内化粧品トップ資生堂の社長、会長を歴任し、芸術文化活動を支援する文化人経營者としても知られた同社名誉会長の福原義春(ふくはら・よしはる)さんが8月30日午後2時0分、老衰のため死去した。92歳。東京都出身。葬儀・告別式は近親者で行った。後日、お別れの会を開く予定。
 資生堂が5日発表した。創業者福原有信氏の孫で、慶応大卒業後の1953年に資生堂に入社。取締役外国部長などを経て87年に社長に就任した。化粧品の値崩れ要因となっていた過剰な流通在庫を大幅に圧縮する経営改革を断行。社員公募による経営改革室の設置や、社員が働きやすい制度の導入といった先進的な取り組みも進めた。
 中国に合弁の化粧品会社を設立するなど海外での販売拡大を推進し、資生堂を世界的な企業に成長させる基盤を築いた。同社が小売店に対して定価販売を求めたことが独禁法違反に当たると公正取引委員会に指摘された際には、勧告の受け入れを決断。化粧品業界で定価廃止の動きが広がり、消費者が安価に入手できるきっかけとなった。
 97年に会長となり、2001年に名誉会長に退いた。東京商工会議所副会頭や企業メセナ協議会会長、東京都写真美術館長など多くの公職を務めた。著名な文化人として講演や執筆も積極的に手がけ、洋ラン栽培や写頁撮影など趣味も多彩だった。
 経営者と同時に文化人
評伝 フランスのメディアに個人財産がどれほどあるかを尋ねられた際、こう切り返した。
「唯一の財産はエスプリ(精神)」。物質的な富とは異なる自らの知性、心情こそが蓄えだと表現した。8月30日に死去した資生堂の元社長福原義春さんは、家業を世界的企業に育て上げた経営者であると同時に、一流の文化人、評論家でもあった。
 幼少の頃は植物学者か遺伝学者になりたかった。趣味の写真も書籍の表紙を飾るほどの腕前だったが、創業者の孫として生まれた福原さんに「職莱選択の自由はなかった」。慶応大で経済学を学び、大学新卒の定期採用1期生として家業である資生堂に入社した。
 入社後は国内で総合化粧品ブランドの商品企画や宣伝に携わり、大規模な広告展開を通じて販売拡大につなげる経験を積んだ。経営難だった米子会社再建に奔走し、世界展開の礎となったフランスや中国進出の足掛かりもつくった。
 社長就任は1987年。当時の大野良雄社長が急死し、56歳でかじ取りを任された。記者会見で「突然大波が来て、一人だけ岸に打ち上げられたような気がする」と不安な心情を吐露したが、いずれ資生堂のトップを継ぐことは避けがたい運命だった。
 不良在庫の圧縮や経営改革室の設置など合理化を進め、経営者として手腕を発揮したが、福原さんの人間性がうかがえる象徴的な取り組みは「さん付け活動」だ。上司を役職名で呼ぶ慣習を見直し、上下関係に縛られない企業風土を育んだ。育児休業の推進をはじめ、女性の働きやすさに目配りを欠かさなかった。当時を知る社員が思い起こすのは、硬直した社内制度を改めようと尽力した変革者としての姿だ。
 他方、企業による文化支援にも熱心に取り組んだ。ヒト、モノ、カネのほか、企業又化を重要な経営の要素と捉え、芸術振興に心血を注いだ。仕事で接した社員には直筆の手紙を出すなど、こまやかな心の持ち主だった。洋ラン栽培を好み、2001年に名誉会長に退いた後は著述や講演で精力的に動き回った。
【静新令和5年9月6日(水)朝刊】
  

Posted by パイプ親父 at 10:58Comments(0)訃報