劇場版 機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer- 感想・講評 第十回
- ジャンル:[アニメ・コミック]
- テーマ:[機動戦士ガンダムOO]
感想・講評 第十回『キャラクター考察4』
キャラクター考察はラストになると思います。
それにしても、年末にはもうBD&DVD発売ですよ。早いなぁ、まぁ鉄は熱いウチに打てではないですが、早いに越したことはないのかもしれません。無駄に引っ張っても、関心が薄れて熱が冷めてしまうかもしれませんしね。
しかし、昨今はどうしてもBDに移行させたいのか、初回特典がBDにしか着かないから悩みモノです。BD割高だし、映像きれだけどさ。ここいらで、そろそろBDレコーダーはともかく、プレイヤーくらいは購入しておこうか。
※ちなみに小説版は読んでません。もし小説版に似たような記述があっても複製ではなく、また小説版と違った解釈であったとしても個人的な解釈ですので、それを了承して頂けますようお願い致します。
では、さっそく考察です。
◇ビリー・カタギリ
本当は国連チームで書くつもりだったのですが、技術屋だったので。
まぁ、劇中では半ば解説役だったビリー。後は、お色気の受けwww よほど、1st・2ndと不遇扱いにしたからなのか、劇場版で高待遇となったキャラクター。
素朴な疑問としては、2ndから劇場版までの2年間でスメラギ(クジョウ)への想いは断ったのか、と言う点。まぁ、ビリーのことだから未だに未練タラタラなんだろうけれど、あそこ(2ndラスト)で国連に戻ってしまう辺りがビリーの押しの弱さか。
個人的には、あのままビリーがCBに入っちゃうのも手だったと思うんだよね。マスラオ、スサノオの開発者だったわけだから、ユニオン系の技術をCBが取り入れるってのも面白い展開じゃないかなって。特にCBにはキュリオス系譜の可変ガンダムがあるわけだから、イアンとビリーの合作版可変ガンダムと言うのも、ちょっと観てみたい気分。
ある種、スメラギの為だけにA-LOWSでも、最終決戦でもやりたい放題だったのに、劇場版ではそうした部分が一転してしまっているのは、キャラクター性としてはやや勿体ないかなぁ、と。
それとも、スメラギにフラれてしまったのかw それならば、納得するしかないが。
50年後、彼はまだまだ生きているのだろうか? 年齢としては厳しそうだが。
◇ミーナ・カーマイン
劇場版の新キャラクター。ビリーと同じで解説役。ELSと言う未確認の地球外生命体が絡んでくる作品である以上、こうした解説役が多く居るに越したことは無い。さらに言えば、声優効果も(ぇ
CV釘宮理恵と言うことで多くの方が考察するミーナとネーナの共通性。どうやら、カーマイン家の遺伝子がイノベイド用に提供されているらしく、ネーナはカーマイン家の遺伝子によって生み出された、と言うことらしい。こうしたところに細かな配慮があるのは、さすがと言うべきか。
しかし、ネーナとは一転して悪質性が無いから、普通にその場面ば「ビリーwww」で笑えるから良い。ある意味、ビリーと彼女の存在が、劇場版では箸休めになったのではないだろうか。
水島監督が語るように、未確認のELSと言う存在が出る以上、そこは怪獣の出て来るパニック映画に近い。終始パニック映画とすること出来なくはないだろうが、それだとメリハリに欠ける。そうした中で、一種のラブコメディに近い二人のやり取りは、箸休め的な印象を受けた。
50年後、遺伝子提供するほどの優秀ならば、もしかしたらイノベイターに覚醒している、と言うことも…。
◇沙慈・クロスロード
一般の代表は、最後まで一般のままで。
そんな印象を覚える。1stシーズンでは至極一般人で、姉も恋人も戦争に巻き込まれて腕を失う(姉に至っては死亡)と言う経験をした。その心理状態は、もしかしたら私たち日本人に一番近いのかもしれない。
彼自身は戦争の一番遠いが、大切なものを傷つけられ喪った戦争を強く嫌悪している。それは、平和と呼べる世界に身を置きながら、世界規模の大戦で原爆を落とされて敗北した経験を持つ我々日本人が戦争や原爆に対して嫌悪感を抱く部分に似ている気がした。
2ndシーズンでは、彼は戦争に巻き込まれていた。
大切な人の為に、嫌悪すらする世界に身を置く矛盾。CBを糾弾しながらも、自らの身勝手な行動で多くの者の命を奪った矛盾。自分の信じる幻想と、目の前の現実とのギャップへの矛盾。
2ndシーズンの沙慈は、矛盾との戦いだった。
理想と現実のはざまの中で、それでも彼はただただ理想を追い求め、恋人だけを想い求めた。大局を見ることがなかった沙慈。それは彼が一般人であることの証拠なのかもしれない。
そこの是非は問うべきではないだろう。
沙慈には沙慈の護りたい、求めたいセカイがあるべきで、そのセカイの中心に居て欲しいと彼が願い続けたのは世界平和でも紛争根絶でもなく、ルイス・ハレヴィと言う一人の女性だったのだから。
劇場版では、彼は1stシーズンと同じ立ち位置にいた。問題に対して「何で!」と助けに来た刹那を、強く詰問することしか出来ず、巻き起こる戦いに目をそむけて逃げ続けて。
それでも、沙慈は今度こそ自分の足で立ち上がった。
自分に出来る戦いをする。
それは2ndシーズンでイアンから言われた言葉だったか、あるいは刹那に言われた言葉だったか。ともかく、彼は1stシーズンと同じ立ち位置ながら、2ndシーズンで得たことを教訓に自分に出来る戦いをした。それは、誰かを傷つける為でも、何かを得る為でも無い。
ただ、護りたい人を護る為の戦い。
沙慈は一般人だ。確かに刹那やロックオンのように戦う力は持たない。けれども、彼には彼にしか出来ないことがある。ELSが飛来する地球圏で、それでも太陽光発電をつなぐ軌道エレベーターを維持する為に自分に出来る戦いをした彼は、確かに劇場版で成長した姿を我々に魅せてくれた。
50年後は、どうなんだろうねw ただ水島監督が各方面のインタビューで答えたように沙慈は覚醒することはないのだろう。もしかしたら、そこに(後天的な施しがあったとはいえ)イノベイターとして覚醒するかもしれないルイスとの新しい問題が孕むのかもしれないが、彼は自分に出来る限りで彼女の為に尽くし続けるのだろう。
◇ルイス・ハレヴィ
沙慈と一緒で、立ち位置が1stシーズンへと戻った彼女。
それでも、同じ立ち位置に戻っても、その性格や言動に影が見え隠れするのは沙慈や他のキャラクター以上に2ndシーズンでの傷の深さを物語っている。
沙慈と同じでルイスも多くの者を喪った。2ndシーズンでもさらに慕っていた上官までもが命を落とし、属していたA-LOWSまで解体された。
戦争と言う行為に対して最も大きな被害を被り続けたのは、きっと彼女なのだろう。
決してメインで描かれることはないが、戦争の悲惨さを知りながらその悲惨さよりも、自らの復讐に賭した2ndシーズン。
それから2年。
彼女は戦う力を持っている。かつてはパイロットであったのだから。脳量子波も使えるのだから。
でも、その力をおそらく彼女は否定する。
かつての彼女を知る者は、そんな彼女を見て何と言うだろうか?
「戦う力を持つのなら戦え」「地球を護る戦いだから戦え」か。
あるいは、脳量子波が高いばかりにまともに戦えない可能性を示唆されて「おとなしく脳量子波遮断施設に居ろ」だろうか。
そのどれも意味が無い。
力とは何か? 素質とは何か? 才能とは何か?
それは、内的な自覚と外的な評価の両立によって支えられるものだ。如何に、「自分には才能がある」と内的な自覚をしようが、外的な評価―――つまり評価すべき人間が評価しないのであれば、その才能に意味はない。逆に、如何に外部が「キミには力がある」と評価しようが、当人が内的な自覚やそれを認める、あるいはそれを必要とすることをしなければ、その才能に意味があるとは思えない。
力とは、素質とは、才能とは、自分が認め他者も認めて初めて成り立つものではないだろうか。
ルイスの場合は、自分の意思でその力を認めないだろう。必要としていないからね。
だから、彼女はただただ祈った。自分に出来ることは、戦うことではない、と。戦うことで恋人に辛い想いや心配をさせるのはルイスの戦いでも本位でもない。だから彼女は、自分が出来る戦いに赴いた恋人を想い続けるのだ。両手を強く握りしめながら、傍に誰も居ない不安を肌で感じながら、それでも真っすぐとその両目は戦い続ける戦場や、そして沙慈を映すモニターから決して目を背けない。
それこそが、彼女の戦いだろう。
50年後、彼女はイノベイターに覚醒しているのだろうか? この辺りは、アレルヤやマリーと同じで、後天的な外科要素によって脳量子波を得た者たちは、イノベイターとして覚醒出来るのか、と言う問題に息詰まる。この辺りは、もう水島監督や脚本を担当した黒田氏ではないと解らないかなぁ。
彼女がイノベイターとして覚醒した場合は、以前に書いたように沙慈との寿命差が顕著に出る為、彼女と沙慈はもう一つ絶対的な悲劇と別れを経験しないといけないのかもしれない。それはそれで切ないな、と思いながらも、成長したこの二人ならば、共に生きることは出来なくても一つの答えを得ることが出来るような気はしている。
◇クラウス・グラード
カタロンの代表から議員に転身なのだから、凄い出世なクラウスさん。
劇場版では、元々のサブキャラなので大した出番はないわけだけど。それでも、随所に彼らしい決意が現れていた気がする。
っていうか、それ以外に考察出来ないよーwww
それでも、変革を受け入れたからこそ彼はラストカットでイノベイターでしか構成されないシーンにいた(=イノベイターへ変革した)。そんな気がしています。
ちなみに彼はこの外宇宙航行艦「スメラギ」による外宇宙航行プロジェクトの代表ではあるけれど、艦長ではないようです。艦長はあのELSと融合した少女だそうです。
◇シーリン・バフティヤール
おそらくクラウスらの気配りか、中東担当になったであろうシーリン。
彼女もまた1stシーズンと同じ、マリナを支える立ち位置に戻った。1stシーズンでは解らなかったであろうまりなの本当の意味での良さを劇場版では理解している気がする立ち回りが多かった。
これは多くのキャラクターに言えることなんだけど、立ち位置が1stシーズンに戻ったキャラが多い。立ち回りに限らず、性格や性質とかも含めて。
それってとても思うところがある。
結局のところ、1stシーズンの在り方ってCBや三大大国群とか限らずに、ある意味完成された形だった、と言うことだと思う。世界があって、それに反する者がいて、それでもそれらにかかわらない者たちや自分たちのことで手一杯の者たちがいて。
それでも、歴史が動く中で同じ中に居られなかった人たちが2ndシーズンを通してようやく、再び戻るべきところに戻った。それがどことなく感慨深いと言うか、何と言うか。巧く言葉にし辛い部分でもあるのだけど、感覚として「あぁ、良いな」って思える。
2ndシーズンはある意味1stシーズンの悲劇を継承しているわけだけど、劇場版は2ndシーズンの悲劇を乗り越えた先にあるものが見える気がするから。
◇マリナ・イスマイール
キャラクター考察のラストを飾るのは、メインヒロインか否かで賛否分かれそうなこのキャラクター。
結局のところ、このキャラクターは、既存のキャラクター概念のひとつ上を行く。主人公だからとか、ヒロインだからとか、そうした概念を超えたところにこのキャラクターはいると思う。
もうすでに、誕生した時点で完成していたキャラクター。決してブレず、最後まで自分の道を歩み続ける。それを頑固や頑なと思う人もいるのだろうけれど、そうした部分すら超越する。
ある意味、彼女の存在は真理なのだろう。
戦い続けた刹那はもちろん、世界もELSも結局のところマリナの対話すると言う意思に収まった。もう彼女の存在が、この世界と作品における答えの具現そのものなのだから。
だから、ある意味、俗世的な恋愛劇とか人間関係とかはマリナ・イスマイールと言うキャラクターに似合わない。
ソレスタルビーイング(天上人)以上に、彼女は聖母のような天上人的なキャラクター。私はそんな風に感じている。
50年後、メタル化した刹那と再会したマリナ。おそらく、生涯伴侶など持たずに、一国の王女として立ち振舞い続けて隠居したことだろう。
きっとその間に辛酸をなめたこともあったはず、色々なことがあったはず。
それでも曲げずにきた信念の中で、彼女の信念はさらに強固に、そしてさらに懐が広く深くなったに違いない。だからこそ、戦うことで得るものがあるとした刹那の存在を“認められた”のだ。
確かにリボンズやELSとの戦いを経て刹那は、対話の重要性を理解していた。あのELSとの戦いでも、戦う為でなく解り合う為に戦っていた。
でも、それは戦うことでしか得られないものがあるとした過去の刹那があってこそだ。
そうした過去をも許容出来る広さと深さ。そうした変わらず成長した部分を知ることが出来た。
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