原作付きアニメの性質
原作付きアニメは、ある意味安全牌である。市場競争の試練を勝ち抜いた原作には、それ相応の魅力、「面白さ」がある。ある意味、安心して観ることが出来る。どこかで魅力が滲み出てくる。ただ、原作が進行中のままメディアミックスすることが多いので、尻切れトンボな最終回になる危険性を孕む。
原作付きアニメよりオリジナルアニメだった
おれは、原作がないオリジナルアニメへの憧れを捨てきれなかった。オリジナルストーリーのアニメによって培養されてきたという自覚があった。だから原作付きアニメ、原作に忠実なアニメを一段も二段も低く見ていた。
原作付きアニメが不得手
正直、アニメを自覚的に観るようになって15年以上経つが、原作付きアニメとの折り合いが、未だにつけられない。巷では原作にかなり忠実な『クラナドアフターストーリー』や『とらドラ!』がもてはやされている。この現状にうまく適応できなかった。
光希桃さんの向き合い方
「アニメを観るのに原作の知識は邪魔です」と言い切っている人がいる。光希桃さんである。例えば『スラムダンク』はこてこての原作付きアニメで、俺の眼には原作の後追い感が拭えなかったのだが、光希桃さんは「質のいいアニメだった。」と評価している。『るろうに剣心』にしても、「生きる意志までも考えさせられた。」と絶賛している。
目標・課題
光希桃さんのように、原作付きアニメに対峙したい。原作付きアニメを、「質のいいアニメだった。」「考えさせられた。」と評価してみたい。
おれの課題だと思う。
久々にブログに来た。約2週間ぶりである。その2週間、何をそんなに怠けていたのか。馬券と舟券と車券をry「お前は反省をしない!!」おっしゃる通りである。ただ、新年度に入ってからは忙しい。忙しいことは最高である。変な妄想に陥るスキを与えない。
競輪入門書を買った
最近は競馬と競艇に加えて競輪にも手を出してしまったクズだが、競輪入門書を3冊買って勉強したのである。それで感じたのは、競輪の指南書を書くような人は、競馬ファン等に比べ、ギャンブルへの意識が高い、ということ。言葉を変えれば、ギャンブルに対する姿勢が、競馬ファンに比べストイックであるということ。
買うレースを絞る
3冊のうち、1冊が三原氏の著作、2冊が大三田氏の著作だったのだが、両者に共通していたのが、「筋違いの車券を買え」ということと、「買うレースを絞れ」ということだった。「筋違い」が何かということは、ここでは関係ないので立ち入らない。重要なのは、「買うレースを絞る」ことが、ギャンブルの大原則であると、三原氏も大三田氏も信じて疑わないのだ。いや、ほとんどのギャンブラーが、「買うレースを絞る」ことが最重要なルールだと信じて疑わっていないように実感する。
観るアニメを絞る
「買うレースを絞る」という原則を、アニメに敷衍すれば、「観るアニメを絞る」ということになる。
光希桃さんを後追い
「観るアニメを絞る」とは、勇気の要ることだ。
世の中には、「光希桃animestation」の光希桃さんのように、自らの意志で視聴対象アニメを絞らない方もおられる。おれも、光希桃さんのマネをして、週80番組チェックしようと思ったことがあった。
だが、『カレイドスター』の後半において、苗木野そらがレイラ・ハミルトンの後追いをしようとして失敗し、結局新しい自我に目覚めたように、おれも、光希桃さんのようにはなれなかった。おれは光希桃さんから脱却しようとした。
絞れるだけ絞る
アニメファンであり続ける方法は、「アニメを絞れるだけ絞る」ことしかないのではないかと思うようになった。「観」るアニメが少なくなる分、ひとつひとつの作品に多大な注意を払える。逆説的だが、少なく観ることで、多く吸収することができる・・・・・・おれはそう信じている。
勝負アニメは1本
せめて、勝負アニメは1本。軸となるアニメが決まらなければ、アニメライフを十全に満喫することはできないのではないか。真剣勝負で向き合うアニメは1本に絞りたい。
カードバトルアニメの礎
『遊戯王デュエルモンスターズ 20thリマスター』を観ている。『遊戯王デュエルモンスターズ』は、2000年に放映開始されたTVアニメで、東映が制作し打ち切られた第1作の仕切り直しだった。カードバトルに的を絞り、2004年までシリーズを全うした。いまのカードバトルアニメ隆盛の流れの礎は、この作品に求められるのである。
思い入れ
最新作『遊戯王ARC-V』も放映されているのだが、やはり『GX』以降の続編シリーズには違和感を感じる。というより、初代の『遊戯王デュエルモンスターズ』というコンテンツへの思い入れが強すぎる。遊戯王カードは全国的に流行っていたのである。初代『デュエルモンスターズ』は馴染みがあるから、するするアニメがあたまに入ってくる。結局アニメも漫画も思い入れが左右する部分が強い。
テンポ
それにしてもこの再放送を観ていて、もっとも注目すべき点は、「テンポが驚くほど速い」ということだ。この再放送の前には『銃皇無尽のファフニール』の録画を観ていた。『銃皇無尽のファフニール』と『遊戯王デュエルモンスターズ』を比べると、『遊戯王デュエルモンスターズ』が二倍速で再生されているかのようだ。でも面白い。テンポは速過ぎるくらい速いが、しっくりくる。
やはり多様なアニメのテンポを味わうには深夜アニメだけではダメで、全日帯アニメと深夜アニメの両方を受容する必要があると思った。
おはようございまーす。
8日も更新が空いてしまった。
この1週間、いったいおれは何をしていたのか? 馬券と舟券と車券を(ry ふざけるな何度言っても学習しないんだなお前は殺すぞ!! そんな声がどこからともなく聞こえてきそうである。まぁ理由はほかにもあって、とあるレポートの提出期限が迫っていて、そのレポートを必死で書いていたんですね。
そのレポートを書く中で再認識したのが、「メモ」や「ノート」の重要性。やっぱりきちんと構築された文章を書くには、ノートをとっておいたほうがいい。気がついたことはメモしておいた方がいい。そのためには、ペンとメモ帳を手放さないほうがいいですね。
それから机に向かっているだけではダメ。一度は外に出たほうがいい。考えに詰まったら、ぶらぶら散歩でもしてみたらどうだろう。晴耕雨読、天気のいい日でいい。軽く汗ばむほど歩いてみてはどうだろう。春の陽気も出てきたしね。おれ自身、考えの着想が浮かぶのは、8割が歩いている時(そのほかは、寝ている時だなぁ)。
それにしても、一発高配当当てるとギャンブルはなかなかやめられないのよねぇ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \
3月11日。
きょうで、東日本大震災から、丸4年になります。被災地の一刻も早い復興を願ってやみません。
「あのとき」、わたしは、都心のマンションの部屋にいました。大井競馬の中継を観ていました。2000年の鳥取県西部地震以来の、尋常でない揺れを体感しました。震度は鳥取県西部地震のほうが大きかったのですが、受けた衝撃は西部地震以上のものでした。NHKで中継された津波の光景に目眩がするほどのショックを受けました。
金曜日で、関東地方では『魔法少女まどか☆マギカ』の放映日でしたが、当然アニメの放映は中止されました。優先順位を履き違えてはならないと思います。アニメがすべての優先順位の上位であってはならない。
東日本では、競馬の開催も当然中止されました。ですがわたしは、いま恥を偲んで告白しますと、馬券を求めて関西地方まで遠征しました。泊まりがけのネットカフェではMBSの『アニメシャワー』が放映されていました。『夢喰いメリー』や『アニメミライ キズナ一撃』を観たのを、わりと鮮明に覚えています。
けれど、しばらく、アニメどころではありませんでした。その頃わたしは「アニプレッション」というサークルに所属しており、アニメにとりわけ熱心に取り組んでいました。でも、未曾有の天災の前では、アニメへの意欲もはかどりませんでした。だから、2011年1月期のアニメを、正直あまり覚えておりません。『魔法少女まどか☆マギカ』の記憶も、正直あまりありません。立ち直るのに、しばらく期間がかかりました。アイデンティティ・クライシスというか、世界の見え方が変わってしまうような節目でした。
繰り返しますが、アニメが流行っているからといって、アニメがすべての優先順位の上位であってはならないと思います。アニメファンも分別をつけるべきだと思います。アニメに対する自分の位置、アニメと自分との距離を、絶えず見極めるべきです。
重ねて、東日本大震災の犠牲者の方々のご冥福をお祈りするとともに、被災地の一刻も早い復興を祈願したいと思います。
また、5日も更新が開いてしまった。やはり年頭に掲げた、「3日に1回は更新する」という目標は少々無謀だったように思う。2月は、結局ちょうど4日に1回の割合での更新だった。それでもキツキツだったので、やはり5~6日に1回、もっと自分に甘くするなら週1程度の更新が妥当ということだろう。3月はおそらく5~6回の更新ということになると思う。
ギャンブル帝国
それにしても、前回の更新が2月28日。この4日間、おれは何をしていたのか。馬券と舟券と車券を買っていました。「その金をとっとと『ぎんぎつね』レンタルに回せよバカ!!」という誰かの声が聞こえてきそうだ。ほんとうにそのとおりである。だが現実は、競馬と競艇と競輪を打ちまくっていた。なぜか?
JRAの後藤浩輝騎手が自殺したのは、競馬ファンの方ならご存知だろう。そのショックが、この4日間のギャンブル漬けに影響したのか? それは定かではない。だがしかし俺をギャンブルに没頭させるような動機付けが何かどこかであったのだろう。それを忘れてしまった。
なぜかおれのテレビには『アメトーーク!』が映っている
アニメの話をしたい。
現在ちょうどMXテレビでは『SHIROBAKO』が放映されているが、なぜかおれのテレビ画面には『アメトーーク! しずかちゃん大好き芸人』が映っている。ぶっちゃけると、おれは『SHIROBAKO』を観たくないのだ。『SHIROBAKO』から逃げているのだ。『SHIROBAKO』恐怖症なのだ。なぜか? 理由を語れば長くなる。理由を書く機会は・・・・・・あるだろうか。5年後くらいには話せるかもしれない。
TBS木曜深夜枠
おれは木曜関東の深夜アニメ枠のなかでは、TBSのふた枠がとりわけ好きで、長年お世話になっている。作品の出来は、まさに玉石混交。B級映画みたいなアニメも、数多く編成されてきた。
『RAIL WARS!』、ぎこちねぇ
ちょうどさっき、AT-Xで『RAIL WARS!』という、昨夏にTBS木曜深夜で放映されたアニメを初めて観ていた。一言で言うと、ぎこちないアニメだな、と思った。このチープさが、B級映画みたいな味わいに繋がればいいのだが、何より本編のぎこちなさが気になった。
『幸腹グラフィティ』と『銃皇無尽のファフニール』
今夜、関東地区では、TBSで、『幸腹グラフィティ』と『銃皇無尽のファフニール』が放映される。前者はきらら系4コマが原作、後者はラノベが原作である。
するする進む『ファフニール』
率直に言って、『幸腹グラフィティ』のほうが、『銃皇無尽のファフニール』よりも、出来はいいと思う。それなのに、『幸腹グラフィティ』の視聴は2話で止まっていて、『銃皇無尽のファフニール』は7話まで一気に観てしまった。それでも、『幸腹グラフィティ』のほうが、『銃皇無尽のファフニール』よりも、出来がいいと、まだ信じて疑わない。これはミステリーだ。ぶっちゃけ、『ファフニール』の内容やキャラの名前を、まったく思い出せない、『幸腹』のキャラの名前や筋書きは、わりと克明に思い出せる。これはミステリーだ。
『幸腹グラフィティ』が何故か2話から進まない
わりと出来損ないの『銃皇無尽のファフニール』なのに、わりとしっかり作られている『幸腹グラフィティ』の3.5倍視聴が捗っているのだ? 何故だ?
アニメはミステリーだ。
8日も更新が開いてしまった。「実況パワフルプロ野球」のサクセスモードのステータスで「サボりぐせ」というのがあったと思う。おれも、すぐに「サボりぐせ」が出てくる性質である。少年時代は、もう少し勤勉だったように思う。それが高校を卒業する前後から、万事につけて怠けるクセが出てくるようになってしまった。もう少し自分に厳しく、自分を律していきたいところだ。
大切なアニメ
そんな怠け者のおれでも、なぜか『カレイドスター』という作品に対しては、12年間取り組むことを怠けたことがない。『true tears』という作品に対しても、初めてtvkの録画を観たその日から6年以上、取り組むことを怠けたことがない。『カレイドスター』や『true tears』のことが、長年あたまから離れない。ひっくり返して言えば、おれの方から『カレイドスター』『true tears』に対する意識の働きかけを怠けたことがない、ということだ。おれは『カレイドスター』『true tears』といった大切なアニメに対しては、誠実で、勤勉なのである。
刹那的ではない感動
アニメファンなら誰しも、長年意識から離れ続けないアニメというものがあるだろう。あってしかるべきだ。作品から刹那的な感動を得たとしても、その場限りの感動で、次から次へとアニメを消費していってしまう。そういった姿勢は、アニメファンの姿勢といえるだろうか?
切実なアニメはせいぜい10作品
まぁおれにしたって、長年意識から離れ続けないアニメというものはせいぜい10作品くらいというものだ。少ないだろうか? だけど、「わたしにとって長年意識から離れ続けないアニメは100作品以上あります」というのも異常だろう。それにしても1000作品以上のアニメを観て、それらを逐一事細かに覚えているアニメファンは実在するらしいのだが、いったいどんな脳の構造をしているのだろう? 解剖して見てやりたい。
人生の折々で観るアニメ
話が脇道にそれた。
長年意識から離れ続けないアニメ。『カレイドスター』『true tears』のほかにも、小学校高学年で観た『デジモンアドベンチャー』や、中学生の時に好きでよく観ていた『学園戦記ムリョウ』や『うる星やつら』、この辺りが挙げられるだろうか。『ムリョウ』や押井守時代の『うる星』は最近観返していないから、記憶が薄れている。やはり『カレイドスター』と『true tears』が別格で、おれの意識を揺さぶり続けているアニメということになるだろうか。
まぁ、一生アニメを観続けていくとしたら、その道中で、心に残る作品というのもまだまだ出てくるものだろう。ただ、現行のテレビアニメは、基本的に若者向けにできている。思春期の鮮明な印象というものもなかなか消えるものではない。
老後もアニメを楽しむとしたら、感性に合ったアニメばかりを観るのではなく、こちらの感性をアニメに合わせようとする姿勢も必要になってくるのかもしれない。
『ぎんぎつね』の録画はHDDにいつまで残っているか?
おれのハードディスクレコーダーには、いまだ『ぎんぎつね』第6回の録画データが残っている。この録画データは、何年後まで残るだろうか。この2007年購入のハードディスクレコーダーも、そう遠くない未来には寿命が来てしまうだろう。いまのハードディスクレコーダーの寿命が尽きるまで、『ぎんぎつね』第6回の録画データは生き残っているだろうか? そしていったいおれの人生のどの段階まで、『ぎんぎつね』という作品は俺に馴染み続けるのだろうか?
18年間男女共学
実はおれ、異性の人とコミュニケーションするのが、それほど苦手ではない。異性とのコミュニケーションを苦にしない、と言ってしまったほうが、適切かもしれない。小中高大と18年間男女共学で過ごし、部活などでも女子とコミュニケーションをとってきた。少なくとも女の子の前で緊張するとか、言葉がしどろもどろになるとか、そういうのを経験したことがない。
スカートには触れられない
ただし、過去に一度だけ、異性との壁を感じてしまった出来事がある。
高校時代おれは放送部に入っていた。ある日、同級生の女の子と作業をしていた。たぶん、カメラかレコーダーかなにかだったと思うが、それが同級生の女の子のスカートの上に乗っていたのである。おれはその作業機材を取ってほしいと思ったのだが、一瞬、どういうふうに言っていいかわからなかった。
こういう時、異性間のプライベートゾーンという壁、男女のどうしても超えられない距離感を感じるのである。
『TARI TARI』の一定の距離感
前回までの流れで、『ぎんぎつね』における男女の距離感の異様な近さを論じるのに、『TARI TARI』を持ちだしてきたのだった。
『ぎんぎつね』と比べると、『TARI TARI』における男女の距離感は、遠く感じられる。和奏・来夏・紗羽と田中・ウイーンが、ほとんどひっつかないというか・・・・・・男女同士がベタベタしないのである。
和奏・来夏・紗羽と田中・ウイーンが、同じ部活ながら一定の距離感を保っている。5人はたしかに結束しているのだが、正常な距離感が保たれているのだ。
紗羽と田中
ただし、そんな男女の距離感にほころびが生じた例が、『TARI TARI』でもあった。
そう、一部の人間に深いトラウマを与えた、沖田紗羽と田中大智の顛末である。紗羽と田中の距離感は、ついにラブコメディ的な領域にまで至らなかった。詳しくは『TARI TARI』の項で述べようと思うが、紗羽と田中が触れ合う描写は、なんとももどかしく、むずがゆかった。悪名高き(?)空港のシーンに至るまで。
『天体のメソッド』
そういえば『天体(そら)のメソッド』というアニメが、ついこないだまでやっていた。『TARI TARI』と同じ、インフィニットプロデュースのアニメだった。メインキャラは、女子4人と、男子1人・・・・・・に加え、地球外生命体1名。
湊太
その男子は「湊太」といって、湊太はメインキャラの1人と双子の兄妹なのだが、残る3人の女子に対しても、恋愛描写はまったく描かれない。いかにもラブ・アフェアが起こりそうな構造なのに、同じインフィニットプロデュースでも『天体のメソッド』において、ついに恋愛要素はオミットされてしまった。ここまで来ると、『天体のメソッド』という作品における男女の距離感に対し、なんとも言えない違和感を覚えてしまうのだが・・・・・・。
「ひっかかり」
脱線してしまった。いまは、『ぎんぎつね』という作品に取り組んでいる。
むしろ『TARI TARI』における男女の距離感が遠いのではなく、『ぎんぎつね』における男女の距離感が近すぎるといったほうが適切かもしれない。その根拠がこれまで長々と触れてきた第6回「どんな顔してる?」なのだが。
いずれにせよ、『ぎんぎつね』第6回で描写された男女の距離感に「ひっかかり」を感じて、今日までこのアニメについて思いを巡らせ続けている。
『ぎんぎつね』の作り手の意図
原作者とスタッフは、いったいどういう気持ちで、悟に這いよるユミを表現したのだろうか?
やばい。
『ぎんぎつね』に関する記事のはずなのに、『ぎんぎつね』の話、ほとんどしてないじゃん。
なんにしても、『ぎんぎつね』は、素朴すぎるくらい素朴なアニメだった。その素朴さはどこから来るのか? 第7話以降を観返すときに、このことが課題となってくるだろう。
「プライベートゾーン」という概念がある。
例えば、『氷菓』の千反田えるのようなキャラクターは、容易く折木奉太郎との間のプライベートゾーンを乗り越える。奉太郎が異性であろうがお構いなしに物理的な距離を詰める少女である。けれども千反田えるのようなキャラは、プライベートゾーンについての例外である。お色気シーンを売りにしたアニメならともかく、異性同士の物理的な距離というのは、健全なアニメ(?)ならば節度を持った距離になる。同性同士よりも、距離が遠い。容易にプライベートゾーンを越境しない。逆に同性同士ならば、物理的な距離もそうだが、心理的な距離も近くなるのではないだろうか。
『ぎんぎつね』の第6回は、悟が居候しているまことの家にユミと日輪子が泊まりに来るエピソード。悟に対し、まこと・ユミ・日輪子は異性である。たとえば、あなた(とくに男性のかた)が悟の立場だとして、こういう状況になったら、どういう心理になるだろうか? すでに同居人として、同い年の女子高生(まこと)がいる。それに加えて、同級生のJKふたり(ユミ・日輪子)が、居候の身分とはいえ、自分の家に泊まりに来るのだ。
おれだったら平静でいられないけどなぁ。
『ぎんぎつね』第6回の録画を、もう一度観返してみる。
冴木神社に、ユミと日輪子がやってくる。「あんた背ぇ低いねぇ。あたしと同じくらい?」と悟の背丈をはかるユミ。この時点で、ユミと悟の物理的な距離が、近い。
そうだ、この回でまず目につくのは、ユミが悟に対するプライベートゾーンをほとんど意識しないかのように振舞っていることだ。まるでユミが悟を「異性」として認識していないかのように。なんの予備知識もなくこの回の映像を観た人は奇異に感じるかもしれない。「ユミが彼氏持ちである」という予備知識がなければ。「なんでこの娘は、会ったばかりの同年代の男子に対しこんなにベタベタしているのだ?」つまり、ユミと悟の距離が近すぎるという疑義を抱くのではないだろうか。
この回以前の流れを把握していれば、ユミが彼氏持ちだから、悟に対しむしろよそよそしくならない、彼女が悟をあまり「異性」として意識しない、ということが呑み込めるのだが。
Bパート、ユミがまことと日輪子を引き連れ悟の部屋に突入する場面。
やはり、悟との距離感がもっとも近いのは、ユミである。悟にひっつくように、近づいてくる。日輪子も、「今度ノート見せてくれないかしら」と悟に近づいてくるが、ユミと比べはるかに控えめな態度で、日輪子は悟に近づくのだ。それを「密着写真ゲット!」と撮影するユミ。とにかく、ユミのアクティブさ、異性である悟に対するあけすけない態度が目につく。
悟の視点になって考えてみる。
もしおれがこの場面での悟のような状況に置かれたら、とても平静ではいられない。特に、ユミのような女子にあんなに近寄られ、ベッタリされると、正直、性欲がうずく。
あなたの場合はどうだろうか? 突然自分の部屋に女子が入ってきて、この場面のように女子に言い寄られる(ちょっと語弊がある言い方だが)としたら。悟はけっきょく堪忍袋の緒が切れてユミの頭を叩くのだが、あなたは正気でいられるだろうか? 性欲を我慢できるだろうか?
それにしても、ああいうふうにユミにプライベートゾーンを越境されて、悟はよくムラムラ来なかったものだと思う。
けっきょく悟はブチ切れて女子三人の頭を叩き、「そこに座れ!」と正座させるのだが、この悟の女子三人に対する働きかけたかも、なかなかどうして積極的なものだ。
今度は、悟のほうから、女子のプライベートゾーンに食い入ってきているような印象を受ける描写にシフトしていく。
当時から抱き続けている印象がある。
「男女の距離がスゲー近くねえか?」という印象だ。この回を観て、年頃の男女の距離感の近さ(悟―まこと・ユミ・日輪子)を、異常とすら思った。
それは『ぎんぎつね』以前に、男女の距離感がもっと現実的なものに近いアニメを観ていたからかもしれない。
たとえば『TARI TARI』。
女子高生3人と、男子高校生2人の、群像劇だった。
和奏、来夏、紗羽、田中、ウイーン。
『TARI TARI』における男女の距離感は、執拗なまでにリアルに描写されていて、レビューサイトなどでもその点を指摘する声が多かったと思う。その距離感の生み出し方は、どちらかと言うと肯定的に評価されていたのだが――。
『TARI TARI』のような男女の距離感がリアリスティックなアニメと、『ぎんぎつね』のような男女の距離感が(おれの感覚からは)イレギュラーに見える(≒近すぎる)アニメを、次回はもう少し踏み込んで比較してみたい。
おれのハードディスクレコーダーのなかに、骨董品のように残っている録画がある。『ぎんぎつね』の第6回。当時テレビ東京での本放送を、録画したものだ。録画タイトルの横に、「鍵マーク」がついている。鍵マークをつけると、録画した番組を保護することができる。つまり消去できなくなるのだ。つまり、この『ぎんぎつね』第6回が、HDDから消し去りたくないほど捨てがたいと思った。それほでまでに『ぎんぎつね』の第6回を高く買っていたのだ。
それは何故かを語る前に、第6回のあらましを記述しておこう。
悟は前の家で受けたいじめのせいで、人との間に壁を作っている。冴木家でも、夕飯を食ったらすぐに自分の部屋に引っ込んでしまう。まことの父の言葉を借りるならば、「アマテラス様」のように自分の部屋にひきこもってしまっているのだ。
転校してきた悟は、剣道も強い、勉強もできる、「文武両道」(おまけにイケメン)ということで、特に女子に騒がれている。悟がまことの神社に居候していることはすぐに同級生にバレてしまい、それを嗅ぎつけたユミが、日輪子を引き連れて冴木神社に泊まりに行く約束をまことと取り付けてしまう。
まことはユミと日輪子が泊まりに来ることを、悟に言い出せずじまいだった。ついにユミと日輪子が冴木神社にやってくる。悟と初対面したユミは、「あたしとそんなに変わらないね、日輪子よりも小さいし」と身長のことをネタにし、ハルを激怒させる。(この後もユミは悟をいじりまくる。これがこの回の枢要なポイントとなってくるのだが・・・・・・)
食卓でユミと日輪子を加えた5人は悟の歓迎会を行うが、悟は自分の誕生日を訊かれて答えられなかった。飯を食い終えると、いつもと同じように部屋に引っ込んで勉強しようとする悟。ユミたちは、「せっかくだしもう少しあたしらと遊ぼうよ」と悟を引き留めようとするが、取り合わない。部屋に引きこもり勉強する悟。自分の誕生日すら言えなかった。まだ、他人と壁を作っている。しかし、上の階で女子同士で騒いでいたユミが、悟の部屋に突撃しようと突然言い出す。
けっきょくユミと日輪子、まことは悟の部屋に突入してしまう。悟に対しちょっかいを出しまくるユミ(映像では、悟とユミの間のプライベートゾーンが極端に狭い。ここがこの回の最大のポイントである)。悟を馴れ馴れしくいじりまくる女子に対し、とうとう悟は堪忍袋の緒が切れる。しかしブチ切れた悟は、同時に素の自分を出すことがついにできたのだった。
この回でも悟(とハル)に焦点が当たっている。周りの人間との間に壁を作っていた悟が、じょじょにその壁を取り払っていくきっかけとなる回である。悟は少しだけ古い言い方をするならネクラ気質で、しゃべり方も淡々としているのだが、新しいコミュニティに触れたことで、じょじょにではあるが明るくなっていく。
この回でも悟のことが問題になっているのだが、おれが問題にしたいのは、悟(とハル)自体ではない。悟と、まことや、この回で悟が居候している家に泊まりに来るユミ・日輪子との距離感。つまり、思春期の男子と女子の距離感である。この距離感が、この作品は非常にユニークだなと思ったのだ。
この距離感を取り上げるためには、比較対象となる作品を持ちださなければならない。男女の距離感と聞いて、勘がいい方ならお気づきだろう、そう、あのアニメである!
念願の『ぎんぎつね』第3巻を、ようやくレンタルすることができた。といっても、予算の都合で第4巻以降は借りられなかったが。ともかく、『ぎんぎつね』の内容について、ようやく語ることができる。久方ぶりだ。前回は、まこと・ユミ・日輪子という3人の少女キャラに焦点を当てた。本編の第1回と第2回に対し触れたのであった。
『ぎんぎつね』の第3回から第5回について、触れておく。
まず第3回だが、主に銀太郎にスポットが当たるものの、とくに重要な話というわけではないと思った。シリーズ中で要の役割を果たす話というわけではないと思う。だから、『ぎんぎつね』を急いで観てしまいたい、という方は、この回を飛ばしてしまうといい。
一転第4回と第5回は重要である。第4回で、「神尾悟」という背が低いまことと同い年の少年と、「ハル」という、悟がもといた稲荷神社の神使(しんし)が初めて出てくる。
悟は、まこと同様、神使の姿を観ることができる。もともと稲荷神社にいた悟だったが、悟が能力を受け継いだ祖父の死により、親戚に預けられ、そこでひどい扱いを受けた。あるきっかけから、悟が、まことの住む神社に居候するようになった。ところが悟とハルの間で一悶着が起こる。
第4回以降悟とハルはレギュラーキャラとして定着し、ストーリーでも大きめの役割を果たす。とくに悟と同年代の少女キャラ(つまり、まことやユミ、日輪子)の「距離感」が重要なのだが、この事項は次回以降に回す。とにかく第4回と第5回は、飛ばせない。そういえばおれがリアルタイムで『ぎんぎつね』を初めて観たのは、第5回だったと思う。
『夏目友人帳』というアニメがある。
このような類のブログを閲覧されるような方なら、たぶんご存知のアニメ作品であろう。「月刊LaLa」連載の少女漫画が原作で、アニメ版もしぶとい成功をおさめ、4期に渡ってTVシリーズが連綿と続いている。妖怪が観える少年の夏目くんが主人公で、そういう設定は、『ぎんぎつね』にかなり近い。さしずめ夏目少年のポジションが『ぎんぎつね』では神尾悟になるのだろうか。
客観的尺度というものを、あえてアニメ作品の評判に用いるならば、『夏目友人帳』は、評価が高いアニメである。もっともアニメについての客観的尺度などというものが十二分に議論されているとは当然思えないし、そもそも客観的尺度を持ち出す意義すらも怪しくなっているのだが、ともかく、投稿型レビューサイトやら動画サイトのアニメランキング動画などでは軒並み順位が高くなる傾向にある。
だが、おれは、似た設定・舞台を運用している作品同士を比べて、『夏目友人帳』よりも『ぎんぎつね』のほうを、アニメとして好ましく思う。好ましく思うという言い方には、いろいろな語弊がつきまとうが、”主観的”尺度なるものをおれがあえて持ちだすとしたら・・・・・・『夏目友人帳』より『ぎんぎつね』を、面白さの上位に置く。とにかく、『夏目友人帳』より『ぎんぎつね』を、好きでよく観ている。
何故か?
「何故、『夏目友人帳』よりも『ぎんぎつね』のほうを、おまえは好ましく思うのだ」
そういった問には、以下のように答えたいと思う。もっと正確にいうならば、『夏目友人帳』よりも『ぎんぎつね』のほうがアニメとして面白い、と思わせる、”作用”のことについて、述べたいと思う。
一言で言うなら、掲載される漫画雑誌が対象とする読者層の違いが、『夏目友人帳』と『ぎんぎつね』に対する印象を分けているのだ。
『夏目友人帳』の掲載誌が「月刊LaLa」ということは先述したが、「LaLa」がどういった雑誌であるかということも、こういったブログを閲覧される方ならきっとご存知だろう。『彼氏彼女の事情』や『桜蘭高校ホスト部』が連載されていた雑誌である。つまり、年齢層が高めの少女漫画雑誌である。
もっとも『彼氏彼女の事情』や『桜蘭高校ホスト部』はユニセックスな漫画作品と言ってもよく、両者のアニメ化作品も男の評判は大層良かった、と思っている。だが、『彼氏彼女の事情』の主役は宮沢雪野、『桜蘭高校ホスト部』の主役は藤岡ハルヒだ。つまり、両方とも少女である。
もっとも、ご存知の通り藤岡ハルヒは男装しているという条件がつく。それでも”ヒロイン”であることには変わりがない。対して夏目はどうか? 「少年」である。『夏目友人帳』は、夏目という少年が単独主人公の作品である。しかもアニメ版を観ていると、徹底的に夏目の眼から出来事を描いているのが感じられる。言い換えれば、夏目を主体として『夏目友人帳』の物語が形作られている。
一方、『ぎんぎつね』は重層的な作品構造を持っている。神尾悟が夏目のようなポジションであることは先述したが、『ぎんぎつね』の主人公は、冴木まことという少女なのだ。半分は群像劇で、冴木父娘・まこと―悟・まこと―銀太郎・銀太郎―ハル・悟―ハル・・・・・・などなど、まことの神社まわりだけでもこれだけの関係性が重なりあっている。これに加え、ユミ―日輪子・ユミとユミの彼氏・日輪子と生徒会長・日輪子と日輪子の運転手というふうに、幾重にも関係性が折り重なっている。日輪子の運転手の視点から物語ったエピソードもアニメ本編であるぐらいだ。そう、まずそこが、『ぎんぎつね』と『夏目友人帳』を分かつ。
『ぎんぎつね』の掲載誌は、「ウルトラジャンプ」。分類するなら、青年漫画雑誌だ。『ぎんぎつね』の原作はいちおう、青年漫画なのだ。主人公が女子高生であり、男性読者に「見られるもの」としての属性を持っている。神尾悟の上位に冴木まことがある。これがデカイのだ。
『夏目友人帳』を悪く言ってしまえば、ホモソーシャルなナルシシズムが濃い作品、ということになる。ホモソーシャルとかナルシシズムとかかっこつけた言い方をしなくともいいのだが、ともかく衒学的な言葉の使い方をすれば、ホモソーシャルなナルシシズムが感じられない『ぎんぎつね』のほうをより好ましく思ったのだ。そしてそのことは掲載誌のジャンルに支えられてもいるのだ。
由々しき事態になった。『ぎんぎつね』の第3巻と第4巻を、いまだレンタル出来ていない。これではブログが前に進まない。なぜそんなに『ぎんぎつね』にこだわるの、と言われそうだが、ひとつずつ作品に対処していかないと前に進めないと思っているのである。『のんのんびより』を片付けたので、つぎは『ぎんぎつね』。『ぎんぎつね』を全うしないと次の作品には行けない(ちなみに、『ぎんぎつね』の次は『蒼き鋼のアルペジオ アルス・ノヴァ』を取り上げようと思っている)。がしかし、三日に一回ぐらいの頻度で更新しろというノルマを今年は設けている。このままだと2月は四日に一回の頻度になってしまうが・・・・・・。きょうは8日。せめて代理の記事を用意することで穴埋めにしておきたい。いや、させてください。正直次に『ぎんぎつね』をレンタルできるのがいつになるのか判然としませんが(おい!!)。
実は今、東京競馬場から帰ってきたところです。「競馬に使う金を『ぎんぎつね』に回せよ、馬鹿かお前は!!」という声が聞こえてきそうである。まったくその通りであります。大人しく馬券につぎこむならDVDのレンタル代に回せばよかっただけなのだが・・・・・・。
とにもかくにも、朝起きた時点で、競馬の優先順位がアニメを上回っていたのだ。広々とした競馬場。仲間との交遊。そしてギャンブルとしての競馬自体の白熱。そういう魅力が、アニメを今朝の時点では上回っていたのだ。
こういうことはよくある。何かの優先順位がアニメを上回ることが。とくに競馬や競艇といったギャンブルの魅力は、まさに麻薬的なものだ。競馬のことを考えていて、一晩中眠れないことがある。もっと極端な例を出せば、競馬の配当金を調べているだけで夜が明けていた、ということが何度もあった。
ルージュバックがどうとか、ドゥラメンテがどうとか、キズナとハープスターはどうなるの、とか、馬のことを考えていると、嫌なことも忘れる。
ところが、アニメのことを考えていて、嫌なことも忘れるということが、競馬に比べて少ないのだ。むしろ、アニメのことを考えていると、ストレスが充満しておかしな精神状態になることすらある。正直な話、競馬ほどアニメに没頭できていないのだ。もっと正確に言うと、アニメのことで頭がいっぱいになっている時間が、競馬ほど多くない。
「ならばなぜ、あなたはアニメという領域にこだわり続けているの?」という疑問が、当然提出される。現におれは、20年以上アニメを観続けているし、2010年代に入ってからは、ブログやTwitterといったツールでアニメについての考えを発信し続けている。そして、アニメがなかったら飢餓感を覚えるだろうし、アニメについての考えを発信するという意欲はおさまることがない。
以前に、「アニプレッション」にいた時、Skypeでおはぎさん(@ohagi23)に、「なぜあなたはブログをやっているの? なぜあなたはTwitterをやっているの?」と説教されたことがあった。「あなたにとってそういう行為に必然性があるの?」という警告が、言外に含まれていたように思う。ただ、今なら即刻、こう答えることだろう。
「本能でやっているんです。おれにとってアニメは本能なんです」と・・・・・・。
『ぎんぎつね』の第3巻と第4巻を借りそこねた。ので、『ぎんぎつね』について書き続けることがままならない。かといってブログを冷凍させたまんまも何なので、とりあえず2月最初の更新をしてみたいと思います。
文章のスタイルについて。
おれは、大学院を3度落とされるほどに論文を書く適性がなく、「お前の書くものはエッセイでしかない」「まるでポエムみたいだ」とことあるごとに言われてきた。なぜこれほどまでにおれはエッセイストなのだろうか? そしてなぜこれほどまでに論理的文章を構築する能力がないのだろうか?
ひとつに、書きながら考えるクセが抜けないということ。
もうひとつ、書き出しを考えて書き出したら一筆書き・・・・・・
つまり、「いきなり書き出す」クセが抜けないということが理由として考えられる。
書きながら考えるということは、考えながら書いているということの裏返しである。頭のなかに浮かんだことを次々と書き言葉に落としこんでいるだけなのだ。かつてはおれも考えを整理するためのノートを作っていた。それがノートをつけるという習慣が消え失せ、(汚い例で恐縮だが)下痢便のようにドバドバ言葉を排泄していくようになった。
ドバドバ言葉を排泄するとは、一気に文章を最初から最後まで書ききってしまうということである。文ではない。文章だ。
書き出しがひらめいていきなり書き出したら最後まで一筆書きで書いてしまうのである。ほんとうにそうなのだ。
おれは推敲という行為をした覚えがない。いや、推敲という行為に挑もうとしたことがある。だが、どこをどう推敲すればいいかわからなかったのだ。1週間寝かせた文章でも同じことだ。強いて言えば、書きながら推敲している。だから、おれの文章は、まとまりに欠けることが多いし、人にもよくそう指摘される。
さーて。
『ぎんぎつね』の3・4巻を借りる予算と時間、いつ作りますか・・・・・・。
鉄は熱いうちに打て、と言う。きのう、『ぎんぎつね』の第1巻(第1回・第2回と、とある特典映像の収録・・・)を観た。できるだけ早く、印象を書き留めておいたほうがいい。
えー、『ぎんぎつね』には、ふたりの脇役の女の子が出てきます。「池上ユミ」さんと「船橋日輪子」さんで、ユミを赤崎千夏が、日輪子を小清水亜美が演じています。
『ぎんぎつね』の第1回と第2回の話の筋を大雑把にいうと、第1回が、ユミと主人公のまことがケンカして仲直りする話、第2回が、ユミと日輪子がケンカして仲直りする話です。
そうやってまことと、ユミ、日輪子の3人は仲睦まじくなっていくわけですわ。
どう仲直りしていったかっていうのは映像を観て欲しいんだけど(丸投げ)。
どうも『ぎんぎつね』は原作から構成をいじってあるらしい。第1回・第2回という冒頭に、ユミと日輪子をピックアップして持ってきたのは、かなり思い切った決断だったのかもしれない。
おれが『ぎんぎつね』を観始めたのは第5回辺りからだったので、まこととユミ、日輪子はもう仲良し3人組になっていたのである。それからしてみると、第1回・第2回における、まことユミ日輪子の関係性のギスギスさは奇異にすら思えてくる。おれは仲良くなったまこととユミと日輪子しか知らなかったので、第1回・第2回の時点からそれ以降の関係性の変化(つまり、仲良しになった--)を「ドラスティック」に感じた。
ところで、池上ユミという娘はいいね。
声優が赤崎千夏というのがいい。
彼氏持ちという設定もいい。微塵の隙も与えない。ユミの彼氏持ちは第1回の時点で提示される。「微塵の隙も与えない」とは、つまり、そういうことだ。
外に出たら、雨が上がっていた。昼前に起きて正解だと思った。この天候なら、バスに乗る必要はなかった。近くのTSUTAYAにも、『ぎんぎつね』は在るかもしれない。
公園を抜けて、近くのTSUTAYAがある大通りに出た。公園の木は半分ほど枯れているのだが、この時節に繁っている大きな樹もある。なんという種なのだろう。公園にはかしましい若者も居らず、穏やかな空気が流れていた。
それにしても左足が痛む。新しく買った靴が合っていないのだろうか? それとも右足はそんなに痛くないから、左足自体の問題なのだろうか? だけれどもやっぱり新しく買った靴がキツすぎるのだろうか? A◯Cマートの店員を呪うべきだろうか? それでもやっぱり左足自体に問題がある気がする。それにしてもかつて26.5でぴったりだった足のサイズが28.0でも靴に小さすぎるとは、おれの身体はどうなってしまっているのだろう。
ともかく近くのTSUTAYAに着いた。「き」の棚を見た。有名タイトルしか無く、『ぎんぎつね』などあるわけなかった。近くでいちばん大きなTSUTAYAに行くしかない。バスはなかなか来ない。またもや足を酷使するしかないみたいだ。
近くでいちばん大きな某TSUTAYAで無事『ぎんぎつね』を借りることができた(但しレートは高くなる)。1巻と2巻を借りた。バスに乗るのがめんどくさいので帰りも歩いて帰ることにした。今度は右足が痛む。やはり靴のサイズが合っていないのか? A◯Cマートの店員を呪うべきか? いや、人を呪わば穴二つ・・・・・・
まだ、右足の痛みが残っている。帰って即『ぎんぎつね』第1巻を再生した。そしたら大きな発見があったのである。次回はこれについて述べたいのだが、靴のサイズが合っていないのも重大な課題である・・・・・・
以前「限られた視力の中で」という記事で、視力の悪化のせいで1日に観られるアニメの量が限られている、というような話をしたが、依然としておれの眼の状態は最悪である。外に出ると、「眼歛痙攣」というのか? 元々持っているドライアイのせいなのか? 眼がチカチカしてまともに開けていられないということがある。本を読んだり、ネットをしたり、アニメを観たり、テレビを観たり、おれの趣味は眼を使うものが多いので、眼の状態が最悪なのは由々しき事態ではある。
以前、とあるアニメの放送中に、眼精疲労と肩こりが限界に来て、布団に寝っ転がってしまったことがあった。テレビはそのまま点けていたので、音声だけ聞いていたのである。それでも話の筋ぐらいはわかる。耳でアニメを聴く。耳でアニメを受容するということが、どの程度までアニメを受容していることになるのか。
そこまでしてアニメにすがりつきたいか? という心の声も、時折はおれの中で聞こえてくる。布団に寝っ転がりながらもアニメに耳だけですがりつく。音声だけ聴くという手段を選んでまでアニメにすがりつく。「それほどおまえにとってアニメは切実なのか?」そういう心の声に、おれは応える。「もう、アニメから離れることなんてできないよ。おれはそういうところまで来てしまったんだ。」
おれはもうアニメを観るという習俗から逃れられないのだ。アニメと添い遂げ、死んでいくしかないのだ。制作側に回ろうなんて、つゆも思わない。アニメを観続け、「アニメオタク」の烙印を押され、抑圧され続ける。そういう星の運行の下におれはいる。最早、アニメを観るという行為に責任すら感じている--
ならば眼科に行って、眼を診てもらおうじゃないか。TSUTAYAに行って、次なるアニメ『ぎんぎつね』のDVDを借りて来ようじゃないか。
『のんのんびより』はご存知の方も多いと思うが、農村を舞台にした美少女コメディーである。旭丘分校という全校生徒4名の田舎の学校に、一条蛍という早熟な少女が、東京から転校してくる。蛍のほか、小学1年生のれんげ(れんちょん)・中学生の小鞠・夏海の姉妹を中心に、田舎の1年の四季が描かれる。
映像面でおれが印象に残ったのは、「川」と「動物」の描写だ。やけに川がキラキラしている。川のきらめきが妙に印象に残るアニメだ。そして動物の描き方がやけにリアル。あきらかに作り手のほうが、動物の存在を強調している。
声優面では、小岩井ことり(れんちょん)と村川梨衣(蛍)の代表的な作品となった。小岩井の演技については今更いうこともないと思う。注目すべきは村川だ。実は『ビビッドレッド・オペレーション』の頃から、村川梨衣は伸びる伸びると各所に吹聴していた。まぁそれは言い過ぎだが、村川はおれのお得意様声優になったのである。
『のんのんびより』の特徴は、この手のアニメとしては破格の質の高さだ。結局それにつきてしまう。質の高さに--。前の記事で、序盤のスタッフのエネルギーに圧倒されて疲れてしまった、みたいな話をしたが、『ゆゆ式』『きんいろモザイク』といった芳文社系の日常コメディーとは、あきらかに作る体制が違う。番組のつくりが違う。作品のつくりが違う。アニメの質が違う。
それで、結局おれは、「このアニメは『日常系』ではない」という結論に至った。そもそも「日常系」という概念の定義が怪しいのだが、一部では「GJ部→ゆゆ式→きんいろモザイク→のんのんびより」で日常系のローテーションになっている、みたいな言説が観られた。
とんでもない誤解である。わずかに『ゆゆ式』と『きんいろモザイク』が同出版社の作品であるという点に関連性が見られるぐらいで、『GJ部』・『ゆゆ式』・『きんいろモザイク』・『のんのんびより』の4作品につながりは、ない。日常系の数珠つなぎなどはまやかしである。
どうか、「GJ部→ゆゆ式→きんいろモザイク→のんのんびより」が日常系黄金ローテだなんて考えを滅却してもらいたい。線ではない。点だ。4作品おのおの、つくりが違いすぎる。とくに『のんのんびより』は、かなりその他3作品とは位相が異なる。繰り返すが、日常系の数珠つなぎなどはまやかしである。そもそも「日常系」なる概念がまやかしである可能性が高いのだが・・・・・・。
第1回の冒頭。
まず青空と雲の描写から始まり、電線が描かれる。そして田んぼ、川。れんちょんが野道を歩いている。田舎にはつきものの、交通安全用の子供の標識。越谷家の描写。引っ越してくる一条家。小鳥の精密な描写。線路。朝靄。2分20秒近く一切セリフはない。れんちょんが吹くリコーダーの音色だけが響き渡る。
文字にしてしまうと、感覚は伝わりにくくなるのだが、第1回アバンの描写は恐ろしく「精密」である。風景の短いカットを積み重ねる演出は、第10回や最終回など各所で観られる。そのカットのひとつひとつが、おそろしく「精密」なのだ。こういう演出が主張したアニメを、十把一絡げに「日常系」に括っていいものだろうか??
それにしても、第3巻までと、第4巻以降で視聴意欲がなぜガラリと変わったのだろう。思うに第6回(3巻までに収録された分)付近までの映像からは、スタッフの「ハリキリ過ぎ」が感じられて、それがいやだったのではないだろうか。つまり過剰にエネルギーが漲った映像を見せつけられて、気後れしてしまった。反対にこちらが、観るのにエネルギーを必要とせざるを得ない映像だった。
それが第7回(第4巻収録)を観た途端、こちらの肩の荷がストンと落ちてしまった。『のんのんびより』を楽に観られるようになったのである。なぜか? じつは第4巻あたりの収録分は、放映当時リアルタイムで観たことがあった。つまり第3巻以前の内容は、新規に観る話で、それも負荷がかかる原因だったのだろう。それに加え、第7回~第9回あたりの内容は、このシリーズ中でも特に「肩の凝らない」素朴なシーンが多い。
とくに、蛍と小鞠とこのみが、音楽の趣味やおしゃれについて語り合うシークエンスがある。おれは『のんのんびより』の中でもこのシークエンスが妙に好きだ。小鞠と、蛍・このみの音楽性の違いがなんともおかしい。『のんのんびより』全体を通してみれば、まったく重要さに欠けるシークエンスなのだが、おれとしてはこういう素朴なシークエンスのほうが、日常性をよく表していて、好きだ。
第10回の「初日の出を見た」という、とくに評価が高かったとされるエピソードを観ていた。れんちょんと駄菓子屋の関係性を描いたエピソードで、れんちょんと駄菓子屋の「絆」や、初日の出の見事な描写が評価されたし、おれも某はてなダイアリーでこの回を推した。
それでも、第7回~第9回あたりの、人によっては「中だるみ」に見える小さなネタの応酬を、今回観返して、好ましく思った。些細な描写にも、創造の魂は宿る。第7回~第9回あたりは、たしかに客観的にみればダラーっとして弛緩しているところが多いのかもしれないが、今回『のんのんびより』を観返していて幸福感をもっとも覚えた瞬間であった。
『のんのんびより』のDVDは1月9日(先週の金曜日)から観始めた。まず借りてきて帰ってきた途端に第1巻を観た。そして12日(成人の日)までに第3巻まで観終えたのだが、観なかった日が一日だけある。だがそれを思い出せない。ともかくおれはアニメを観るのが遅く、録画や過去作のDVDとなればなおさらで、『のんのんびより』の第3巻までを観る道程にキツさもあったことを告白せざるを得ない。かなり第3巻まで観続けるのが億劫だったのである。言い訳すると、大量に今年の1月期の新番組第1回をさばく必要もあったし。
ところが、昨日(1月13日火曜日)に第4巻を再生した途端、「山を降りたな」という感情が芽生えたのである。「山を降りたな」とはどういうことかというと、第3巻までとは、第4巻を観る時におれにかかる「負荷」が全然違った。第3巻までの視聴時におれにのしかかっていた「負荷」が、第4巻を再生した途端、全然なかった。『のんのんびより』を観る重荷が取れたのである。「山を降りた」「峠を越えた」とは、まさにこういうことである。
今日(1月14日水曜日)は、第5巻を観ている。もちろん第3巻以前の視聴体験のようなおれにのしかかる負荷は、とうに消え去っている。『のんのんびより』は第6巻が最終巻である。明日にはこのDVDを返したいと思っている。今日中には最終巻まで観てしまわないと、と思っている。観られる時、つまり今に一気に観てしまうしかないだろう。もう山を越えた、峠を越したのだから大丈夫だろう。
それにしても、今回はすこしレンタルDVDを観るのに無理をしてしまった。7泊8日で一度に借りるDVDの量は、2枚か3枚が適切だろう。
『ぎんぎつね』と『のんのんびより』は同じ時期にテレビ東京で放映された。『ぎんぎつね』が日曜の深夜で、『のんのんびより』が月曜の深夜だった。『ぎんぎつね』のほうは別に深夜枠にしなくても問題ないように思ったが、『のんのんびより』についてはなぜだかそういう感情を持てなかった。
『のんのんびより』を観ていた視聴者の数を10としたら、『ぎんぎつね』を観ていた視聴者の数は1に足りるだろうか。それくらい『のんのんびより』は輝いていて、『ぎんぎつね』は影が薄かった。それでもおれはこの『ぎんぎつね』という作品を原作ひっくるめてどうしても捨てきれなかった。捨てがたいアニメというものが、誰しもあるものだ。
べつにここで、『ぎんぎつね』と『のんのんびより』を対比させて論じる気はない。そんな高等技術俺にはできない。田舎を舞台にしている点くらいだろうか、共通するのは。ただし「田舎感」が過剰に強調されていたのはあきらかに『のんのんびより』のほうだ。
うず高く積まれた『のんのんびより』のDVDを前にして、途方に暮れている。3巻までは観た。『のんのんびより』から先に片付けなければならない。当座の問題は『のんのんびより』というアニメにどう対処し、どういう記事を書くか、だ。