twitterの方で少し触れた内容ですが、自分の趣味用に作ったあちらのアカウントで書くのも場違いな気がしたので、ブログの方に改めて書いておきたい思います。
1897 Itto Ryu film
VIDEO さて、つい先日Youtube上にアップロードされたこちらの映像。1897年(明治30年)に日本(京都?)で撮影された剣術の稽古映像と言われている、非常に古く、かつ貴重な映像です。
どのくらい貴重かというと、かのエジソンがキネトグラフ(撮影機)とキネトスコープを発明したのが1891年ごろ、さらにリュミエール兄弟がシネマトグラフを発明し、現在の映画と同じスクリーン投影方式と撮影技術を確立させたのが1895年ごろですから、1897年に撮影されたこの映像は、世界の映像史のまさに最初期の作品と言えるものです。
私も映像史を詳しく研究しているわけではないのですが、おそらく現存している日本武道の古映像としては、史上最古のひとつではないかと考えられます。
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もともと2014年ごろにも同じ映像が上がっていたのですが、画質が非常に見にくいものだったため、細部がよくわからないという難がありました。
今回、非常に見やすい画質の映像としてアップロードされたため、初めて細かいところまで観察することが出来るようになったことはありがたいと思っています。
Japanese men at Kendo, 1900's Film 91146 (過去に上がっていたもの)
VIDEO この映像の撮影者は「コンスタン・ジレル」という人物とされています。ジレルの業績については、下記のサイトに詳しくまとまっていますので、ぜひご参照ください。日本における映像史のはじまりが、実にわかりやすく説明されています。
エキゾチック・ジャパン!~映画日本上陸~ 第1章-映画の誕生(6) http://www5f.biglobe.ne.jp/~st_octopus/MOVIE/BIRTHOFMOVIE/6JAPAN.htm さて、ここからが本題なのですが、まず上記の古映像で撮影されているのは、ある剣術流派の稽古風景であるということです。
日本の武道文化に詳しい人が見れば、画面左奥の人物が大きな籠手を腕にはめている特徴をもって、伊藤一刀斎景久→小野次郎右衛門忠明の系譜につながる、「
一刀流 」剣術系の映像であることを推定できると思います。
古映像を見る限り、組太刀(いわゆる剣術の形)の所作や手順も、現代に伝わっている
「小野派一刀流 」剣術とほとんど同じです。
実際、私も今回のリマスター版の映像を見るまでは、小野派一刀流の古映像だと思いこんでました。Youtubeの投稿者コメントにも「This is a demonstration of Itto Ryu
(probably Ono ha ) 」とありますね。
小野派一刀流(現在)
VIDEO ただ、Twitterで他の方からもすでに指摘が上がっている通り、この古映像は「小野派一刀流」ではなく、そこから分化した「
北辰一刀流 」のものではないかという説が出てきました。現在は私もそれに同意です。
北辰一刀流(現在)
VIDEO 北辰一刀流といえば、世間的にはこの流派を学んだ坂本竜馬、山南敬助、吉村貫一郎といった、幕末期の人々を思い出す方が多いのではないかと思います。北辰一刀流は竹刀稽古を発達させた流派として知られていますが、
実は伝わっている組太刀(形)は、元となった小野派一刀流の手順や構成とほとんど同じ です。
しかしながら、一応、小野派一刀流と北辰一刀流を見分けるポイントがあります。
それは「
組太刀の1本目と4本目の所作の最後に、仕太刀(一刀流でいうと籠手を着けない方)が、「下段の構え」に取るか、それとも「上段の構え」に取るか 」という点です。
まず基礎知識として、小野派一刀流、北辰一刀流という流派は、ともに「大太刀五十本」という組太刀の形が中核となっていることを知っていただきたいと思います。この50本の形は、さらに5本一組で10組に分かれています。このうち、一番最初の5本セットの組を「ヒトツカチ(一つ勝ち)」と言い、「①1本目(ヒトツカチ・切落)、②2本目(迎突)、③3本目(鍔割)、④4本目・下段霞、⑤5本目・脇構の付」の5つで構成されています。
今回紹介した映像は、すべてこの最初のヒトツカチの組の1本目から順に演武しているものとなっています。
では、上記3つの映像の中から、最初の1本目と、4本目の動きに着目しながら映像を見てみます。
小野派一刀流(現在)の映像では、最後に籠手を打った後、仕太刀(籠手を着けていない方)が切っ先を下ろし、「
下段の構え 」にとって残心を取ります
これに対して、北辰一刀流(現在)の映像では、最後に籠手を打った後、仕太刀は切っ先を頭上に上げ「
上段の構え 」に取っていることがわかりますでしょうか。
たいした違いじゃないのでは、というご意見はもっともなのですが、史料で確認される限りにおいて、この1本目と4本目の最後を上段の構えに取るのは、北辰一刀流になってからの工夫とされています。
史料の記載は次の通りです。
【小野派一刀流の覚書より抜粋】
一 一ツ勝
打太刀陰ヨリ打 遣方清眼ニテ切落シ 左ノ手ヲ切勝
下段ニ取位 一 下段ノカスミ
打太刀下段ノカスミニカマエ居ル 遣方下段ヨリ付 打太刀廻シテ手ノ内ヲ切 下ケテ右ノ手ヲ切
下段ニ取位 これに対して、北辰一刀流は次のような記載です。
【北辰一刀流組遣様口伝書の記載】
・(1本目)一ツ勝
(利)晴眼にて出(頭を打って)切落し、咽を突き、
左甲手を打ち、上段 小野派一刀流にては下段也 今先生改めて上段となす ・(4本目)霞(下段の霞とも云ふ)
(利)下段にて出場合になりたる時、敵の太刀先、上より太刀の刃方にて付け仕掛る(内小手を払切にするを)打落し、直に内
小手を切上段 小野派にては、あと下段なり 今改む その他、千葉栄一郎編の「千葉周作遺稿(1942)」でも同様の記述を確認できました。
ただし内藤伊三郎編の「北辰一刀流剣法(1906)」では、1本目を上段、4本目・下段霞を「(最後は)下段」と書いてあるのですが、この辺りは誤記なのか、それとも内藤先生の学んだ伝系では下段にしていたのかは不明です。
いずれにせよ、組太刀の1本目と4本目の終わりに「下段に取るのが小野派」、「上段に取るのが北辰」と見ていただいてよいでしょう。
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以上の知識を頭に入れたうえで、もう一度最初の古映像、つまり1897年の一刀流の映像を見てみます。
すると、1本目と4本目の形の最後に、仕太刀が籠手を打った後、「
どちらも上段の構えを取っている 」ことが見て取れます。
これまで述べてきたように、この特徴は小野派一刀流ではなく、北辰一刀流の特徴と言えるものです。
よって、この古映像は「
1897年の北辰一刀流の稽古の映像 」の可能性が高い、と言えるのではないかと思います。
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残念ながらこの映像は7本目・陰刀の途中で途切れているため、全容は明らかではないのですが、映像史にとっても、武道史にとっても、また日本史にとっても、非常に貴重な史料であることは間違いないかと考えます。
こういった古映像からも、武道史に関心を持っていただける人が出てきてくれると、非常に嬉しいですね。
2017/11/14追記
この記事で取り上げた古映像ですが、リュミエール研究所長ティエリー・フレモー総代表による京都新聞を通じての情報提供呼びかけにより、撮影場所が特定されたとのことです。
京都新聞【 2017年11月14日 08時40分 】
「京都最古の映像、撮影場所特定 読者情報ヒントに」
http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20171114000026 場所は「岡崎町博覧会館」とのことで、大正元年には取り壊されてしまったようですが、建物がまだ健在であった頃に撮影された映像のようですね。
このブログ記事を書いてからしばらく経ちますが、私自身にとっても非常に感慨深いニュースとなりました。
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