東アジア共同体構築に向けて、日本は何を願い何を譲歩するつもりか。
過去のブログにおいて、繁栄の頂点を迎えた民族がさらなる繁栄を築くためには、文明融合という道しか残されていないと書いてきた。人類歴史には国の衰退に歯止めをかけ更なる繁栄をなして進化した国がある。その稀なる事例が歴史に名を留めている大文明である。現在、東アジア共同体の構築が今後の日本の行方を左右するものとしてクローズアップされてきているが、この道は人類文明を新たな次元に導く分岐点となるものであり、私が20年以上前から提唱していることである。日本が希望に満ちた未来を踏み出すことができるか否か、まだ答えは出されていない。しかし、この道に踏み出すには民族の大いなる覚悟と決意が必要である。如何に何を譲歩して対象国と合意するか、これがポイントとなる。
歴史をふりかえりながら、考えてみよう。
① エジプト文明
エジプト文明は、紀元前3150年ごろ上エジプト(カイロ南部~アスワン辺り)と下エジプト(カイロ南部~地中海)が統一されたことに始まる。上エジプトのナルメル王(従来いわれていたメネス王と同一人物あるいは後継者ともいわれている。ナルメル王は実在の物証が多数ある一方、メネス王は王名表や伝承にしか登場しないという)が遠征して下エジプトを併合して統一したことに始まる。その当時、上エジプトは主神ホルス神(生産の神オシリスの子、天空と太陽の神、ホルミオスの名ではライオンの外観となり、ハルマキスの名ではスフィンクスとなる)を信仰し、ファラオ(王)はホルス神の化身としてホルス名を名のった。下エジプトは、主神セト神(オシリスの弟で砂漠と異邦の神、キャラバンの守り神であり嵐の神、オシリスを殺害したことになっておりホルスと敵対、セトは創世記のアダムの子セツともいわれている)を信仰していた。
ナルメルは、下エジプトに侵攻し統一を成し遂げるが、両国の融和のために拠点を下エジプトのメンフィス(カイロの南27kmのナイル川左岸)に定める。また民族の対立を和らげるために両国の守護女神(上エジプト:ネクベト・白いハゲワシの姿で描かれる)(下エジプト:ウアジェト・頭上にコブラをつけた女性の姿で描かれる)を追加したり一時ファラオ(王)はセト名を用いたりしたという。征服した国の宗教を受け入れたといったら良いであろう。この統一がその後4000年続くエジプト文明の始まりとなる。
② 古代ローマ帝国
紀元前1世紀内乱で苦しんでいたローマは、国家存亡の危機に立っていた。打ち続く戦役で疲弊した自作農民の農地は荒廃して農地を手放なさなければならなくなった人が続出した。自作農は都市に流入し、一方手放された農地は貴族に渡り奴隷に耕作させる大土地所有が形成される。BC2世紀のグラックス兄弟の一定の公有地を国に返還させ無産市民に分配するという土地改革案は挫折し、有力貴族同士が抗争を繰り広げる内乱の100年を迎えていた。
BC58年、ガリア・キサルビナとガリア・トランサルビナの属州総督に任官されたガイウス・ユリウス・カエサルは、BC58~BC51のガリア戦役においてガリア全土を制圧してローマ属州に編入した。カエサルは、征服したガリアを「ケルト族(ガリア・ルクドゥネンシス)」「ベンガエ族(ガリア・ベルギカ)」「アクィタニア族(ガリア・アクィタニア)」と三つの部族ごとに属州を設置する。そして、属州の自治権を大幅に認めてあつれきを最小限に留める。征服された部族からみれば、敗北の痛手は少なく未来に希望を託すことができた。また、部族の有力者にはローマ市民権を与え、元老院の議席も与えた。ガリアの部族にとって、ローマは征服者の国ではなく同胞に近いものとなった。以来、ガリアでは部族の反乱はなく順調にローマ化が進展した。編入された当時は経済的に遅れていたが、時と共に経済は発展してローマの屋台骨を支えるまでに成長する。ガリアは、パックス・ロマーナの優等生となった。
③ 大英帝国
1年前のブログでスコットランドとイングランドの合同が大英帝国の出発であったことを記述した。再度詳述する。1707年スコットランドとイングランドの合同がなされる前の100年、両国は同じ国王を抱く兄弟国であった。1603年エリザベス1世の死去によって王位継承者の絶えたイングランドの王位に就いたのがスコットランド国王ジョージ6世(イングランドではジョージ1世)であった。「王冠の結合」は、両国がプロテスタント陣営に属していたためスムーズに進んだ。その後、スコットランドでは英語の学習が進み両国はいつ統合しても不思議ではない状況であった。しかし、両国は同じブリテン島にあっても全く違う歴史をもっていた。スコットランド人にとって「イングランド嫌い」は生理的なものであり、具体的に圧迫されてきた歴史が面々と続いてきていた。そこに両国の国王に君臨したジョージ6世が宗教の統一(スコットランドへの国教会制の導入)・議会の合同を画策したため、17世紀は宗教的混乱と革命の世紀(1649年清教徒革命、1688年名誉革命)となった。
経済的には、イングランドでは貿易や商業で富を蓄えた新興中産階級が社会の中枢に台頭してくるのだが、スコットランドではその歩みは遅々たるものであった。その理由は、植民地という「金のなる木」がスコットランドにはなく貿易商人が活躍できなかったからである。しかも、イングランド商人は市場や植民地からスコットランド商人を排除して利益を独占していた。政府も「航海法」を施行して植民地への輸出商品はイングランドの船でしか運べなかった。スコットランドは、完全にイングランドに依存していた。この状況を打開するために起死回生の策として計画されたのがダリエン計画であった。ダリエン計画は、北米パナマ近くのダリエンに基地を築き、太平洋と大西洋を結ぶ輸送路の要衝を押さえて交易を行おうとするものであった。この計画に多くのスコットランド人、イングランド人が投資する。当然ながらイングランドは自国の権益が侵される為妨害を図ってきた。投資していたイングランド人の資金30万ポンドが引き揚げられた。1698年ようやくダリエン目指して出発するがスペイン船団に襲われるなどで完全に失敗してしまう。その結果、スコットランドは完全に破綻した。この計画につぎ込まれた資金は、スコットランドにあった現金総額の半分に相当していた。
もう一つ当時の対外情勢がこの合同を成立させる誘因となる。イングランドは、スペイン継承戦争を遂行していた。この戦争遂行にあたって、スコットランドの了承は必要なかったため、スコットランド人は不満をつのらせていた。1703年スコットランド議会は、「安全保障法」と「戦争と平和に関する法」を成立させ、イングランドで決定されていた王位継承法を拒否してスコットランドの王位は独自に決定すること、イングランドの戦争遂行に従う意思のないことを表明した。この決定に腹を立てたイングランドは、スコットランド人を外国人とみなし、対イングランド貿易を禁止するという「外国人法」を制定する。戦争遂行中のイングランドは、スコットランドを敵視すればフランスに有利に働き戦争の行方に暗雲が立ち込めるため、何としても同君連合は守らなければならなかった。
イングランドは、議会合同を画策する。一方スコットランドの貴族層は、ダリエン計画の失敗により苦境に陥っていた。苦境の中でフランスと手を結ぶか、イングランドと手を結ぶかが現実の選択肢として表面化する。ただ、イングランドとは同じプロテスタントであるという一点がイングランドとの合同の拠り所となる。イングランドの画策は比較的順調に進む。イングランドは手広く買収工作を行う。また、「ロビンソン・クルーソー」の作者として知られているダニエル・デフォーは画策工作を行う。結局、スコットランドとの合同は40万ポンド弱をスコットランドに渡すことで1707年1月16日、賛成110票、反対68票で議会の合同は成立する。
その後10年余り民衆の義憤は収まらず、反乱と暴動が繰り返される。スコットランドは、教会の独立、法律と教育システムの自由のみを残し、主権と議会・貨幣鋳造権を喪失した国家をもたない国民となってしまった。経済的にはイングランド航海法による制約が取り払われたため、自由貿易圏が創出されていた。このほぼ敗北という中から、スコットランド啓蒙といわれている18世紀の知的復興が起こり、英国産業革命をリードするスコットランドが誕生する。スコットランドなくして現代工業社会はなかったかもしれない。近代銀行業・鉄鋼・造船・交通土木・港湾・化学・・・産業革命は、別名スコットランド人の革命であるといわれる。第四の専門職としてのエンジニアという言葉と思想は、スコットランド人が生み出した言葉である。
④ 欧州連合(EU)
第二次世界大戦以降、ソ連とアメリカ合衆国にはさまれた西ヨーロッパでは、ウィンストン・チャーチルがヨーロッパ合衆国を提唱するなどヨーロッパを統合させようとする機運が高まっていた。1950年、ロベール・シューマンが二度の戦争によって荒廃したヨーロッパを結束して統合を目指して経済と軍事における重要資源の共同管理構想を掲げたシュリーマン構想を発表した。1952年に欧州石炭鉄鋼共同体が設立され、第一歩を記す。1957年には経済分野での統合とエネルギー分野での共同管理を進展させるべく、欧州経済共同体と欧州原子力共同体が設立された。欧州の連合は時と共に進展し、1992年マーストリヒト条約が調印され、経済・外交・司法の三つの柱の下で更なる統合が図られたきた。1998年には欧州中央銀行が創設され、翌年単一通貨ユーロが導入され、2009年1月までにユーロ導入は16ケ国になっている。2000年には、「欧州連合基本権憲章」が公布され、2004年「欧州憲法条約」が策定調印された。しかし、欧州憲法条約の超国家主義的な性格に対して、加盟国の主権が脅かされるのではないかという不安が起こり、批准に反対する国(フランス、オランダ)が出てきた。この事態を受けて「熟慮期間」が設けられ、欧州の統合は一時的に停止した。2007年欧州憲法条約から欧州連合の旗などの超国家的な性格を排除した基本条約が「リスボン条約」として調印された。2008年末全加盟国の批准が成立し、2009年12月1日条約は発効した。欧州連合(EU)の組織は拡大し、加盟国は現在27ケ国に達している。
しかし欧州連合(EU)は万全ではない。リーマン・ショックに始まる世界金融危機の中で、ユーロ圏のギリシャ、アイスランドを始めとする数ケ国で深刻な財政問題が顕在化した。この根本的な原因は、成長率や生産性、インフレ率や文化が異なる国が一つの経済圏として結束して出来ているにもかかわらず、共通通貨であるユーロ通貨を使用する16ケ国については、それぞれの国が独自の財政政策を行う一方、金融政策はECB(欧州中央銀行)がユーロ圏のすべての国に適用される金融政策を実施していることが原因である。このギャップが金融市場における信用不安をもたらしている。各国の主体性を重んじるか、経済の統合を一気に加速させるか欧州連合(EU)はその岐路に立たされている(イギリスは、通貨ポンドを維持しており、ユーロ圏に入っていない)。ECB(欧州中央銀行)の中には、この際積極的に統合を進めるべきであるという意見が強い。EC統合は正念場を迎えているといえよう。
以上、人類歴史の4つの事例をながめた。今人類が立たされている試練は、民族がいかにして国境を越えて一つになることができるかという試練である。東アジアは特に難しい問題を抱えている。しかし、この問題を先送りにして希望ある未来を描くことは出来ない。国家融合・民族統合の要諦をまとめてみよう。
国家・民族の統合は、国境のない平和で経済の自由な貿易圏を目指して企図され相互に恩恵をもたらすものとなるが、既存の国境ある社会がもつ現実が障害となる。このため、国境を越えた共通の意識圏を醸成するために相当の熟成期間が必要である。この時期に一人一人が過去の対立・しがらみの解消と未来に対する冷静な判断の目を熟成することが重要である。一方的な価値観の押し付けや統合を急いでは失敗する。そして、この時というタイミングで決断すること、相手が納得する譲歩条件を提示できるかが重要となる。民族融和が実現しない限りこの試みは失敗である。戦前日本が大東亜共栄圏を提唱しアジア各地に進出したが、相手国に対して譲歩のない進め方をしたため失敗するのは必定であった。さらに、この統合は平和と自由な経済活動をもたらすだけでなく、文明を新次元に導き人類歴史に繁栄を刻むものとなる。既述したエジプト文明、ローマ文明、産業革命と大英帝国、これらの繁栄の背後に民族統合の歴史があったことを心に留めてほしい。
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