思想・哲学・歴史

2017年8月21日 (月)

人類歴史の摂理法則から見た東アジアの近未来(概要)

はじめに

人類歴史を紐解いていくと、そこに一つの発展・繁栄・衰退の法則があることが分かる。しかもその展開は、数理性をもって展開されている。明治以降の日本の近代史は、40年という周期をもって展開され、現在は2025年解体というシナリオに沿って進んでいる。18651905194519852025という節目の年を境に歴史は反転している。現在は、丁度80年前の歴史現象が再現されている。

80年前の1937年は、第二次世界大戦の始まりの年といわれている。4月にはドイツ空軍機のスペインゲルニカ爆撃、11月には日独伊防共協定が成立、12月にはイタリアが国際連盟から脱退する。米国ではこの年、財政支出大幅削減の予算が実施され、翌1938年は「ルーズベルト不況」と呼ばれる恐慌が起きる。実質GDP11%下がり失業率は4%上昇した。株価は暴落し、軍事支出に頼る戦時経済に打開策を見出すという最悪の展開になっていく

日本では、1936年に軍事クーデター、二・二六事件が起こる。1937年には77日盧溝橋事件が勃発、8月には第二次上海事変、12月には南京事件が勃発、1945年まで続く日中戦争に突入する。現在、我々人類は戦争に突入するか否かという歴史の分岐点に立たされている。

ところで、現在我々人類はもっと大きな歴史の転換期を迎えていることを自覚しないといけない。人類歴史は狩猟社会段階➡農業社会段階➡工業社会段階3段階の発展をしてきており、現在は産業革命から始まった工業社会段階への飛翔の最終段階であるという認識である。

工業社会段階の安着の課題を検討する前に、まず農業社会段階への移行をふりかえることにする。

 

1、農業社会段階への移行

 人類は、BC7000年期メソポタミアの地で農業社会段階への歩みを始めた。農業社会が定着するにあたっては、原始的共同体である氏族社会は崩壊していく。新しい富の獲得とそれに伴う生産力の飛躍的発展は、社会のあり方を変えることになる。生産力の向上は、生み出された新しい富の獲得を巡って争いを繰り広げるようになる。富の獲得競争である。この時期、いかなる人もこの富の獲得競争という熾烈な争いから逃れることはできない。参加しなければ他からの富の獲得競争に敗北して滅亡してしまうからである。それ故、富の拡大時代は動乱時代となる。

動乱は技術革新の波がおおむね終結するまで終わらない。技術革新が継続・進展していると、新しい富を獲得する新興勢力が生み出され、旧勢力との覇権争いをもたらすからである。合従連衡が繰り返される。一度覇権を握った王朝といえども没落していく。動乱の最後の段階は特に悲惨である。技術革新がほぼ終結した中で、「ゼロサム社会」の富の奪い合いの闘いが起きるからである。

そして最後に覇権を握るのは、人類を安定に導く術(倫理規範・統治体制)を得た指導者であり国家である。

 

2、工業社会段階への進展と覇権

(技術革新―産業革命)

工業社会段階への離陸は、産業革命に始まる。産業革命は、自然の開発、機械の発明、生産技術の発達という具体的な条件だけでなく、宗教上の変革、合理主義精神の普及、科学的思考、科学的発見などの諸々の諸条件が重なって起きたものである。そして、産業革命の結果、人類は今までなかった新しい生活様式を手に入れた。産業革命は、18世紀のイギリスの繊維産業革命に始まる(第一次産業革命)化学、電気、石油および内機関の分野での技術革新である第二次産業革命1865年頃から始まる。第三次産業革命は、1970 年代の電力と IT による工場の自動化に始まる。

現在始まっているIT革命と呼ばれている第四次産業革命は、人とものすべてをインターネットによってつなげることをめざしている。このことは、第一次産業革命以降人類が獲得した新たな生活基盤をすべて連結していこうとする動きである。産業革命によって人類が獲得した生存基盤STAGEを永続安定化させる革命であり、工業社会段階安着への最後の改革である。この改革が成功するか否かは、人類文明の存続にかかわる重大問題である。

(経済体制)

産業革命以降、人類は自由主義体制を構築して富と市場の争奪戦を行ってきた。自由主義経済体制は、経済的な利潤追求行為を前提とした経済体制である。この経済体制は、人間の創造本性を刺激し技術革新を推進するものであり、また、新たな市場を開拓して富の獲得を増進するために適したものである。しかし、自由に秩序なく富の争奪戦が行われるため、時間的・空間的に経済の揺らぎが生じ歪みをもたらすものとなる。すなわち、貧富の差の拡大(富の空間的偏在)と経済変動の振幅の拡大(富の時間的偏在、バブルと大恐慌を生み出す)を起こすこととなる。

こうした経済の歪みの拡大は、富める者と貧しき者の対立を激化させる。共産主義は、この経済システムがもつ悪魔性に反発してアンチテーゼとして生まれたものである。

産業革命以降の自由主義経済は、壮絶な市場の争奪戦を行ってきたが、その争奪戦が緊張した局面を迎え世界を二分する対立に及んでくると大戦争が起こる。それが世界大戦である。自由主義経済体制は対立を激化させるため、戦争と手を結んでいるのである。

二度の世界大戦によって、植民地獲得が非難されると、今度は経済のグローバル化(貿易協定)という仕組みの中で市場の争奪戦が行われてきている。現在進行しているのが第三次世界大戦である。人類が工業社会段階に安着するためには、第三次世界大戦を超えないといけない。超えて世界が一つにならないと工業社会段階は到来しない。現在人類は、最終的な生みの苦しみを味わっているのであり、正念場を迎えているのである。

 

3、動乱の時代の始まりと東アジアの未来 

2017年という年は、第二次世界大戦の起点になったとされる1937年から80年目にあたる。再び戦争が起きかねない時である。第三次世界大戦(自由主義陣営と共産主義陣営との対立)の最終局面に至っている。動乱の歴史は繰り返すだろう。動乱は、経済的混乱として現出するか、軍事戦にまで展開していくか、そして核兵器が使用されるかどうかは、現時点では決まっていない。どういう歴史が刻まれるかは、現代の人間がいかなる行動を取るかにかかっている。 

動乱の時代の中心となる国は、第三次世界大戦の自由主義陣営(韓国、日本、米国)・共産主義陣営(北朝鮮、中国、ロシア)6カ国である。この6カ国が中心となって動乱は展開される。

日本はどうなるであろうか。現在、日本は既に明治維新以後150年を経過し繁栄の頂点に達している。通常、国家の繁栄の期間は100200年とされており、いつ黄昏を迎えても不思議ではない。一国の繁栄の頂点を迎えた文明が更に繁栄を続けていくためには、他民族と融合してより大きな文明圏(東アジア文明圏、環太平洋文明圏)を築き上げることにしか道がない。そのことができない場合、日本は他国の脅威の前に衰退し分裂の時代を迎える。

韓国、北朝鮮は、どうなるであろうか。両国はすでに分断国家となっている。北朝鮮を説得して朝鮮半島の統一を果たすことができない場合、次の展開は第三国によって占領されるというのが歴史の示すところである。

中国は、地道に国力を高めて世界の支配権を米国から奪おうとしている。中国は動乱の台風の目である。動乱期の行く末は中国の行動にかかっているといっても過言ではない。

 

4、動乱を回避する道

動乱を回避する鍵は、ベルリンの壁崩壊をもたらした背景にある。ソ連の書記長に就任したゴルバチョフが、ペレストロイカ(再構築)と呼ばれる政治体制の改革運動グラスノスチ(情報公開)ソビエト連邦の政治を民主的な方向に改良していった。対外的には、制限主権論(社会主義国の連帯重視の原則)を放棄して、「新思考外交」を掲げて東欧諸国への統制の停止していった。このことがベルリンの壁崩壊につながった。

東アジア世界が現在の危機を回避し乗り越えるためには、ベルリンの壁崩壊に象徴される民主化政策の実施がなされる必要がある。

北朝鮮は社会主義革命によって神を否定してしまった。神なき主体思想は、人間主義に陥ることによって失敗している。北朝鮮は神のもとでの主体思想に戻ることが必要である。神を否定した中での主体思想のもとでは繁栄はない。北朝鮮の未来は、神を迎え入れた主体思想を確立することによってはじめて切り開かれることになるだろう。

中国の歴史は、古代から現代に至るまで、中央権力の力による支配とその支配にいかに対処するかという民の歴史である。中央権力は、時として民を力によって粛清してきた。儒教も統治のために都合よく使われてきた面がある。中国は、中国思想がもつ欠陥を自覚して自らの手により変革しない限り、中国自らが人類歴史のリーダーとして世界を引っ張っていくことは難しい。たとえ力によって世界の覇権をつかんだとしても、世界は安定せず崩壊することになるだろう。

米国にも大きな問題がある。米国は、自由主義を標榜しグローバル市場経済を主導してきている。自由主義経済は、強い者が弱い者から富を奪うという側面を有している。米国の世界的企業は、グローバル主義を主導することによって世界の富を独り占めしようとしている。このことが世界の緊張を高めていることに気づく必要がある。合法的であっても他人の生命、富を奪う行為は、悪なのである。自由主義経済による富の獲得は節度を持たないといけない。米国が節度を回復することが世界平和を実現するもう一つの鍵である。

農業社会が定着期に入った時、神が人類に示されたとされる戒めを思い起こしほしい。モーセに示された十戒である。その八番目には、「あなたは盗んではならない」9番目には、「あなたは隣人について偽証してはならない」10番目には、「あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべての隣人のものをむさぼってはならない」(「出エジプト記」第20)と記されている。当人の了解なしに人・富をむやみに奪ってはならないのである。

トランプ大統領は、「米国第一主義」を主張している。「米国第一主義」は、米国を孤立主義に陥らせ世界秩序を不安にさせるものとして批判されているが、摂理的にみて正しい政策である。世界の覇者と思われ世界の警察官を自認している米国も、国内を見てみれば強者が弱者を追いつめ弱者の生存を脅かしている。世界の覇者である米国においても、国民の富は、強大な世界的企業の利益のために、そして海外からの経済産品の輸入によって奪われているのである。富は、企業間で、地域間で、そして人間間で偏在し貧富の差を生み出しているのである。それが生存を脅かすところにまで来ているという現実を無視してはいけない。トランプ大統領の米国の中産階級の雇用を守らなければならないという政策は正しい。この政策に反対している人々は、他人のものを奪っているということに気づいていない。

5、おわりに

現在はキリスト教でいわれてきた終末が訪れているだけである。人類歴史の裏で歴史を演出してきた神と悪魔(サタン)の戦いが最終章を迎えているのだ。混乱は致し方ない。今人類がなさなければいけないことは、神のもとに帰ることである。そして、緊急になさなければならないことは、第三次世界大戦の軍事戦を未然に防ぐことである。次に、IoT革命を活用して新しい経済=共同体家族主義経済を築き上げることである。

人類歴史の摂理法則から見た東アジアの近未来(本論)

表題のブログは、全32ページにわたっています。内容が膨大で多岐にわたるため、全容が把握できるように目次を作成しました。また本論は長いので、PDFファイルにて保存しています。本論の内容を見る場合は、人類歴史の摂理法則から見た東アジアの近未来(〇)の下にある挿入ファイルをクリックしてください。そうすると、PDFファイルに保存されている本論が現れます。

なお、本論とは別に概要版をアップロードしています。

(概要版) http://kivitasu.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-23e1.html

 

人類歴史の摂理法則から見た東アジアの近未来(1)

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はじめに

(1)  人類歴史の摂理法則

 人間存在 と人間の地上活動の基盤STAGE

 STAGE―社会組織―意識】 の三層構造

 人類歴史の発展の三段階(狩猟社会段階➡農業社会段階➡工業社会段階)

 発展・繁栄・衰退の5段階法則

 合体と分裂(主導・従順・融合・対立・離反・分裂・協助)

 

人類歴史の摂理法則から見た東アジアの近未来(2)

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(2) 人類歴史の発展段階から見た農業社会段階への移行

      2-1、メソポタミア文明

      2-2、古代中国文明

      2-3、覇権の確立と農業社会段階の成立

 

人類歴史の摂理法則から見た東アジアの近未来(3)

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(3) 工業社会段階への進展と覇権

      3-1、産業革命(技術革新) 

(産業革命前夜-内的革新)

(第一次産業革命~第三次産業革命)

(第四次産業革命と工業社会段階への安着)

 

人類歴史の摂理法則から見た東アジアの近未来(4)

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 3-2、経済体制

(資本主義経済体制と大恐慌)

(新しい経済=共同体経済家族主義が始まろうとしている)

      3-3、世界大戦(自由主義陣営対全体主義陣営) 

 

人類歴史の摂理法則から見た東アジアの近未来(5)

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(3) 動乱の時代の始まりと東アジア

(4) 混乱を回避する道―鍵はベルリンの壁崩壊をもたらした秘密にある

(ゴルバチョフ大統領とペレストロイカ)

(北朝鮮の主体思想と変革)

(中国の変革)

(米国の経済世界支配と変革)

(6)  最後に

2016年4月19日 (火)

アダム・スミスの意図した「神の見えざる手」

アダム・スミスが、語った「神の見えざる手」という言葉は、資本主義社会に大きな波紋を起こして来た。人間は、個人の利益を追求するという利己心を以て取引をしても、「神の見えざる手」が市場の調整を果たし、社会全体の利益になるという考え方となって定着した。
アダム・スミスの「神の見えざる手」は、「国富論」の記述を離れて、市場における自由競争が最適な資源配分をもたらす(需給関係を通じた価格変動の)自動的な調整機能を指すものとして使われるようになった。市場における調整にゆだねるという自由主義の根拠となっている。
はたして、アダム・スミスは、人間の利己心を無制限に是認したのであろうか。古来、人間の経済活動に対しては、アダム・スミスのように楽観的な見解はない。
 
孔子・二宮尊徳の経済観
 
中国の聖賢孔子は、経済活動に対して、慎重に言葉を選んで語っている。
子罕(まれ)に利を言う。命と与(とも)にし、仁と与(とも)にす。

<先生は利について進んで話をすることは少なかった。それに触れるときは運命や仁徳と絡めて話された。>(子罕第九)

孔子は、道義の追求のみを許し、利益の追求を許さなかったということではない。普通の人たちが利を優先して義を軽んじたり、ひどいときには利に目がくらんで義を忘れてしまうことがあったからこそ、わざわざ利について語らなかったという。

 

日本の社会改善家二宮尊徳も、「道徳なき経済は悪であり、経済なき道徳は寝言である」という有名な言葉を残している。経済を切りはなした道徳は、現実の社会では役立たない、現実味をもたないと述べている。一方、道徳性のない経済は悪となると語っているのである。放任された経済がいかに醜い結果をもたらすかを戒めている。ここには、アダム・スミスのように経済が「神の見えざる手」によって導かれるなどと楽観的な考えはまったくない。

では、アダム・スミスは、経済活動をどのように考えたのであろうか。「神の見えざる手」とは、何を意味したのであろうか。

 

●「神の見えざる手」は、 an invisible hand であって、≪of Godはない≫
 
「神の見えざる手」と呼ばれている箇所は、an invisible hand of Godであって、原文にはof Godはない。つまり、「見えざる手」と訳する方が正確である。「神の見えざる手」が導くという理解は、市場における調整はすべて神の御心であるという解釈につながった。
 
では、「見えざる手」とは何か。自由競争という形式においては、「見えざる力」言い方を変えれば「神秘的な力」が決定権をもっているということを述べていると理解してよいだろう。
 
アダム・スミスは、理神論の立場から万能の神によって事物の秩序が保たれるという考えに立っていたので、「神が導く」と理解できるような記述をしたのであろう。しかし、理神論というキリスト教の立場に立つとしても、キリスト教の世界観の中では、神の存在とともに神の行く手を邪魔しているサタンという存在がいることを忘れてはいけない。私は、「見えざる手」には、この世の支配者「サタンの見えざる手」も働くというもう一つの神秘的な力もあるということを指摘したい。市場は、神の見えざる手による調整とともに、サタンの導きによる調整(カタストロフィー)があるということである。
 
事物の自然な流れと経済活動
 
これほど有名になった「見えざる手」という言葉は、「国富論」の記述の中で一回しか出てこない。その箇所は、資本を持っている人が、どの産業どの場所に投資するかを判断する場面において使われている。「見えざる手」は、「個人の利益追求は、安全を目指して、なるべく目のとどく近い場所に投資先を求める」という個人の性向を述べた後に出てくる。
 
「各個人は、かれの資本を自国内の勤労活動の維持に用い、かつその勤労活動をば、生産物が最大の価値をもつような方向にもってゆこうとできるだけ努力するから、だれもが必然的に、社会の年々の収入をできるだけ大きくしようと骨を折ることになるわけなのである。もちろん、かれは、普通、社会公共の利益を増進しようなどと意図しているわけでもないし、また、自分が社会の利益をどれだけ増進しているのかも知っているわけではない。
外国の産業より国内の産業を維持するのは、ただ自分自身の安全を思ってのことである。そして、生産物が最大の価値をもつように産業を運営するのは、自分自身の利得のためなのである。だが、こうすることによって、かれは他の多くの場合と同じく、見えざる手に導かれて、自分では意図してもいなかった一目的を促進することになる。かれがこの目的をまったく意図していなかったということは、その社会にとって、かれがこれを意図していた場合に比べて、かならずしも悪いことではない。社会の利益を増進しようと思い込んでいる場合よりも、自分自身の利得を追求するほうが、はるかに有効に社会の利益を増進することがしばしばある。社会のためにやるのだと称して商売をしている徒輩が、社会の福祉を真に増進したというような話は、いまだかつて聞いたことがない。」
<大河内一男監訳「国富論Ⅱ」中央公論新社 第4編第2章p317~318>
 
個人的な利得や打算と、生産の増大という社会的利益とは、「自由放任」や「自由競争」を媒介にしても、論理的には結びつき得ない。これをつなぐ役割として登場するものが「見えざる手」であり、「見えざる手に導かれて」個人的なものと社会的なものとが結合しうるのである。
ここで注意してほしいのは、スミスが述べている経済活動は、事物の自然な流れに従った安全をめざした目のとどく投資である、ということである。このような事物の自然な秩序に従うという前提であれば、「(神の)見えざる手に導かれて」個人的なものと社会的なものとが結合すると述べているのである。そうではない投資ならば、個人的なものと社会的なものとは結合しないということが裏に隠れている。投機という資本主義社会を混乱させている投資は、スミスが語った「見えざる手」ではなく、「サタンの見えざる手」の導きと解していいだろう。
二宮尊徳が農村の再建の際、重視した「分度」と呼ばれる基準に通じるものである。尊徳は「分度を超ゆるの過、恐るべし」という言葉を残しているが、事物の自然な流れを無視したり超えると、恐ろしいカタストロフィーが待ち受けている。アダム・スミスは、あくまで事物の自然な流れのもとでの投資・経済という条件の中では、神の見えざる手に導かれると語ったのである。

 

 

2016年2月20日 (土)

シンマクスとカシオドロスとベネディクトゥス-未来の選択を間違えてはいけない。

塩野七生さんの著書 ローマ人の物語ⅩⅠⅤ「キリストの勝利」の中にクイントゥス・アウレリアス・シンマクスという歴史的にはあまり知られていないローマ人が紹介されている。ローマの指導者階級に属する人で当時の高級官僚の頂点になる「首都長官」にまで登りつめた人物である。

シンマクスは、グラティアヌス帝の命令によって元老院議場から撤去されていた勝利の女神像をもとにもどしてくれるようテオドシウス帝に書簡によって請願し、キリスト教ミラノ司教アンブロシウスと論戦をしあった四世紀を代表するローマの知性人である。

ローマの伝統の偉大さ、ローマの神々に対する愛着を切々と述べ、消えゆく文明「異教ローマの誇りの最後の炎」としてキリスト教に対して論陣を張った。しかしこの論戦は、ミラノ司教アンブロシウスの勝利に終わり、勝利の女神像は元老院議場には戻ってこなかった。そして、紀元393年、テオドシウス帝はローマを訪れ、元老院議場に議員を集め、ローマの神々を採るかキリスト教を採るかを迫った。多くの元老院議員は、皇帝の要求を容れて、ローマ古来の神々を捨て、キリスト教の信徒に変わった。この時、正式にローマ文明はキリスト教の前に降伏し、キリスト教の国家として出発した。シンマクス自身は、元老院議員が皇帝の要求を容れてローマ古来の神々を捨てることに賛同した際、その場にいなかったという

そして、その後キリスト教化という政策の下に神像や彫像は破壊の嵐を受け、ローマ古来の家門の守護神を祭る私的な祭祀も禁止された。各家庭にあった先祖を祭る神棚も偶像崇拝として取り払うように強制された。ローマ人が好んだ花飾りも禁止された。そして、多くの神殿も教会に変わり、オリンピアの競技会も全廃された。

紀元6世紀、ゴート族のラヴェンナの王宮で公務に当たっていたカシオドロスは、生まれ故郷の南イタリアに戻り、広大な所有地に小さな修道院と「Vivarium」(苗床とか養魚場を意味する)という学園を建設した。寝食を共にしながら、ギリシャ・ローマの著作を通して自由な精神を会得し、各人の持つ能力を高めることにあった。文学・哲学・音楽及び医学が重視され「schora」を目指した。図書館も整備され、運営する財団組織も作られていた。よきローマの伝統を残したいという情熱が伝わってくる。

そしてもう一人の人物、中部イタリアの貴族の家に生まれたベネディクトゥス。聖ベネディクトゥスとして知られるベネディクト修道院の創始者である。カシオドロストと同時期にナポリに近いカッシーノの丘に純然たる修道院を設立した。後世、キリスト教の戒律として名を残す修道院の始まりである。絶対服従の下、修道士たちが一日を祈りと労働に二分された集団生活を送る場であった(当時労働は、美徳とされていなかった)。夜明けから午前十時までは労働。十時から正午までは祈り。午後三時までは休息。午後三時から日没までは労働。日没後は夕食、就寝。ギリシャ・ローマの著作の筆写も労働に加えた。中世の時代の一大砦となっていく。

その後、カシオドロスの学園は、いつのまにか歴史の中で消滅し、ベネディクトゥスの修道院は現在まで存続している。何に違いがあったのかというと、① 労働を義務として課したか否か ② 祈りを課したか否か ③ 自由な精神かキリストへの絶対服従か の三点であるという。

現在、人類は大きな文明の転換期を迎えている。この三人を通して教わることは、

① 歴史には定めがあり、流れの定まった歴史はもはや抗しても益をもたらさないことがある。
② 歴史は残酷である。時として、過去はすべて捨てられる。
③ 人間的思いから出発した自由な活動はどんなに素晴らしくみえても成功するとは限らない。
④ 祈りとか服従という宗教的精神は無益のように見えるが、絵空事ではなく歴史をつくってきている、ということか。

こうしてヨーロッパは中世に入っていった。人間精神の普遍性から考えてみた場合、ここにあげた三人の歴史の中での浮沈には、人間精神の向上・成熟という過程が関係しているように思われる。いずれにしても考えさせられる三人である。人類は、今後どのような変革の道を探ればいいのであろうか。

2015年10月29日 (木)

中国で一番尊敬されている経済学者―青木昌彦先生

「7月に亡くなった経済学者・青木昌彦氏の研究を振り返る会が北京の清華大学で25日にあり、著名な学者ら100人以上が参加し、業績と人柄をしのんだ。会場は、青木氏が10年前、設立に尽力した清華大の「産業発展と環境ガバナンス研究センター(CIDEG)」。基調講演した銭穎一・清華大経済管理学院長は、青木氏が亡くなる直前の今春にも3度、訪中していたことを挙げ、『我々は友好的な中日関係に力を注いだ日本人を失った』と惜しんだ。改革派経済学者の重鎮として知られる呉敬璉氏はその思想を「博大精深(幅広く奥深い)」と表現。経済成長の方式と、晩年に語った中国の法治を巡る発言での影響を評価した。」【朝日新聞デジタル2015/10/27】

ご存知と思うが、国際経済学連合(IEA)会長も勤め、ノーベル賞候補だった青木昌彦スタンフォード大学名誉教授である。比較制度分析市場経済にも企業組織や法的規制、社会規範などの違いにより多様な制度様式がある。また政治学が扱ってきた国家も多様だ。それらの制度関係を、ゲーム理論を言語として用いながら、理解しようというもの>によって世界的に著名な日本の経済学者である。1988年には、「日本経済の制度分析」を執筆し、株主と従業員双方の利益のバランスを取る経営者という概念を導き出した。

すごい研究者なんだねと納得するだけの人ではない。中国人が尊敬する理由は他にある。青木先生が共産主義信奉から資本主義経済の研究に入り、ゲーム理論を用いた比較制度分析という地平線を開かれ、多様な資本主義制度があることを理論づけた経済学の大家であるからなのだ。

青木先生は、学生時代は共産主義者同盟(ブント)の指導部の一人だった。東大在学中に姫岡玲治の筆名で執筆した論文「民主主義的言辞による資本主義への忠勤-国家独占資本主義段階における改良主義批判」は、共産主義者同盟の理論的支柱となり、「姫岡国独資」と略称された。(Wikipedia)

当時安保闘争を共に闘った篠原浩一郎氏は次のような所感を書かれている。http://www.alter-magazine.jp/index.php?%E3%80%8C%E7%A7%81%E3%81%AE%E5%B1%A5%E6%AD%B4%E6%9B%B8%E2%80%95%E4%BA%BA%E7%94%9F%E8%B6%8A%E5%A2%83%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%80%8D%E9%9D%92%E6%9C%A8%E6%98%8C%E5%BD%A6%E8%91%97

青木氏の「履歴書」を読んで驚いたのは留置場の話から始まったことだ。本書の多くがブントと安保闘争に割かれている。国際経済学連合会長に選ばれ、ノーベル賞候補と目され、国際的な象牙の塔の彼方に去ってしまったとばかり思っていた青木氏が、今なお安保闘争にこだわり、其の時から持ち続けた志を研究の中心に据えて生きていたことを初めて知って、安保闘争をともに闘った人間として、言い知れぬ喜びを感じた。

付録の青木著-[安保闘争]で、彼の明快な論理と当時のブントが持っていた熱気を知ることが出来るだろう。安保改定を日本独自の軍事力強化ととらえ、共産党の対米従属強化ではないと喝破した。敵をアメリカではなく日本資本家階級を代表している岸政権とさだめて、闘いの方向を明らかにした。社会党や総評幹部が日本共産党の見方に追随していた当時を考えるとこの指摘は非常に重要であった。全学連は国会デモという戦術だけではなく、闘争の対象を正確に示したことで国民の広い支持をえたのだった。

当時のブントの活動家にとって、姫岡玲治(青木昌彦)「日本国家独占資本主義の成立」は、敵にスターリンの「経済学教科書」あればこちらに姫岡の国家独占資本主義論ありと共産党系反主流派と論争するのにいつも後ろに控えているという安心感があった。ブントはこの本があるために活動家集団から、共産主義政党となることができたともいえる象徴的な存在である。これを著者は、「書庫で見つけたこの本のホコリでくしゃみが出た」で片づけているのは勿体ない。(中略)

安保闘争を画期として、国のかたちをめぐるゲームのあり方が変わった。(青木氏は)計画経済には不可能な最適な分配を市場メカニズムが実現できることを証明する理論のハーウィッツを慕ってミネソタ大学大学院に留学し(1964年)、研(究活動に入り)じきに頭角を現した。完全な個人を前提とする経済学と社会が前提となる社会学とのあいだのおり合いをどうつけるかと(苦悶された)。私の感じでは、いくら最適な配分を経済学が求めても、政治や社会の仕組みに無関係では、問題の解決にならないではないかとい素朴な疑問と共通していたのではないだろうか。そしてこれは、このあと比較制度分析と言う形で社会科学の統合という形で解決される。

その青木先生は、常々シンクタンクを作らないといけないといわれ続けていた。私も昔から日本再生にはしっかりしたシンクタンクが不可欠であると主張してきた。複雑な現代社会であるがゆえに、社会を冷徹に分析して整理しないと有効な政策など立案できるはずはない。青木先生と同じ考えである。しかし、青木先生の挑戦は完全には目的を達成できなかったのかもしれない。篠原氏の所感の中に次のような箇所がある。

「しっかりした政策立案できるシンクタンクを作る必要がある」という青木氏の提言に官僚トップも賛成して、青木氏を所長に迎えた独立行政法人経済産業研究所が設立されるが、3年経たないうちにやはり官僚の無能の海に飲み込まれてしまい、退任せざるを得ない経験もしている。

他方、中国精華大学にCIDEG(産業発展と環境ガバナンス研究センター)というシンクタンクを設立した。こちらの方は、中国の環境問題に関する利益集団ごとの対立を冷静に討議する場として役立っている。

本物のシンクタンクを作らない限り、日本は世界の中で取り残されるだろう。政治家の票目当て,官僚のセクト主義に振り回された政策をやっていたら日本は沈没するだけである。

さて、中国経済の方向についての青木昌彦先生の見解(2013年3月の講演会)を山形浩生氏がまとめられているので、転載して紹介する。http://cruel.hatenablog.com/entry/20130410/1365588896

青木の主張は非常に明解で、以下の通りである。

●農業人口比が減ると、一人あたり GDP が増えて豊かになる(日本、韓国、これまでの中国の発展を見ると、見事にそうなっている!)

●よって、中国が今後も成長路線を続けられるかどうかは、農業人口を減らせるかどうか次第。

● これは農業&土地がらみの制度に左右される

では、制度はどういうふうに決まるのか?

制度は社会経済環境と共進化するものなのだ、と。つまり、制度は経済環境にあわせて、経済合理性にもとづいて発達変化するという立場。つまりは新制度経済学の一部だとぼくは理解している。

そしてそれを中国(の土地と農業)の文脈で示すべく、青木は清朝からの中国の経済制度の変遷をなぞる。そこには、次の三つのレイヤーがあって、相互に協力、競合している:

自作小規模農民によるボトムアップ的な農業経済

官僚制に基づくトップダウンの王朝支配

その間にある、血縁、地縁、取引関係等々に基づく中間

で、中国の制度というのは、中間層の勢力増強から生じる連邦制/地方分権と、王朝への中央集権的な土地集中との両極をいったり来たりするのだそうな。それぞれの段階における変化は、そのときの社会経済条件から生じる。

1、清朝初期:国家の下の中央集権

2、血縁などを通じた中間層による土地の集約と実質支配の展開

3、太平天国の乱鎮圧(これは地域中間層の民兵がやった)から清朝末期の軍閥による中間層/連邦制

3、共産中国革命による土地の中央集中化

4、蠟(とう)小平開放政策による土地の再分散化と中間層(国有企業など)の復活

では今後はどうなるか? いま中国の財務相となった楼継偉が掲げる6つの改革があるそうな。年金、税制、戸口(戸籍みたいな制度で人口移動を制限)、公共サービス、人民元、中央銀行。で、これを政治的にやる気をもって進められるかどうかで、中国の発展が今後続くかは決まる。 

6 つの改革をやるとどんな具合中国の発展が今後継続するのかは、下記の論文に書いてあると紹介されたという。

The Chinese Economy:A New Transition (Iea Conference) 2012/11/27

Masahiko Aoki/Jinglian Wu            

興味深い見解である。論議は叉の機会にしよう。

2015年10月23日 (金)

〔中国が西洋化することによって世界史が完成する〕という言葉

表題に掲げた「中国が西洋化することによって世界史が完成する」という言葉は、意味深な言葉である。すぐに民主化すればいいということだろうと反応されるだろう。それほど単純な問題ではない。この言葉は、20世紀に発信されたものではない。無論、共産主義中国に対して発せられたものでもない。それだけにその意味に関心が行く。共産主義という政治イデオロギーだけの問題ではないのである。

この言葉は、ドイツの哲学者ライプニッツ(16461716)の言葉である。(1)

<ゴットフリート・ライプニッツ>

記号論理学・微積分学の創案、二進法の考案、エネルギー概念の先駆など、科学革命をリードする17世紀の哲人。論理学、数学、科学、哲学、宗教から中国学まで論じた。17世紀は「天才の時代」と言われるが、ライプニッツ(1646~1716)はその天才の時代の最も天才的な天才であった。その博識と透徹は古今東西に比を見ないと評されている。中国へ向かったイエズス会の伝道師と親しく交流して情報を得ていた。『最新中国事情』『中国自然神学論』という著作がある。

ライプニッツは『0と1 の数字だけを使用する二進法算術の解説,ならびにこの算術の効用と中国古代から伝わる伏羲の図の解読に対するこの算術の貢献について』(Explication del’Arithmethique Binaire, qui se sert des seuls caracteres 0 et 1, avec desremarques sur son utilité et sur ce qu’elle donne le sens des anciennesfigures Chinoises de FOHY, 1703)において,自らのアイディアである二進法の算術と中国の八卦の図との対応―アナロギア―を指摘している。(2)

また、『中国自然神学論』(Discours sur la theologie naturelle desChinois, 1716)においてライプニッツは「上帝」の概念をめぐって次のように述べている。「中国人がもっとも崇高なものとして,理と太極の後に話題にするのは上帝です。そして上帝は天なる王,いやむしろ天を支配する巨大なる精神です。中国に長い間滞在したリッチ神父は,この上帝が天と
地の主であり,キリスト教でいう神と解釈できると信じました。リッチ神父はまた,神を天主つまり天の支配者と呼びました。。そして中国では,キリスト教の神を指すのに通常はこの天主という語を用います。(中略)重要な問題はむしろ上帝が中国人にとって永遠なる実体かもしくは単なる被造物かという点にあります。(中略)上帝と理が同一だとすれば,完全な論拠でもって神に上帝の名を与えることができます。そしてリッチ神父が,中国古代の
哲学者は,上帝つまり天上にいる王である至高存在とそれに臣従する多くの精霊の存在を認め,それらを崇めているという。」(2)

ライプニッツは、『中国最新事情』の冒頭で,中国を「ある種の東洋のヨーロッパ(quaedam orientalis europa)と呼んでいる。この表現は,ヨーロッパと中国には,それ自身のうちに多様を含む統一体である点で同様の構造が見出される,という言い方である。宣教師の情報を頼りに西洋キリスト教の視点で、儒教、朱子学を理解して高評価して、同じ底流を感じたのである。またライプニッツは君主主義者であったため、彼の君主政治観は儒教の君主観と共感できるものが多かった。教会の問題にも関心の深かったライプニッツは,中国皇帝を改宗させることができれば,戦争での勝利以上の効果があると考えていたようである。

ライプニッツは、中国という国がキリスト教の教えに近い民族性を有しており、中国がキリスト教国家になれば世界がすべてキリスト教の世界になるというキリスト教的世界観に基づいた言葉であるのである。現在の西欧から中国に突きつけられる民主化、自由化の要求も、この流れのもとにある。

ライプニッツの中国を西洋化することによって世界史が完成するという終末論的歴史哲学がその後、大きな影響力を欧米に残した。その後継者ヴォルフ(Wolff),ヴォルテール(Voltaire)、ドルバック(Baron d’ Holbach)などに受け継がれ、中国人が西洋流の自由民主主義を受け入れたら、「歴史の終焉」という文明観まで生まれた。(1)

しかし、中国は現在もキリスト教国家になっていない。共産主義政権下では、キリスト教は迫害まで受けている。ローマ法王が訪中を願っているが実現できていない。中国の宗教思想の根源には、まだまだ理解の及ばない深い闇があることに気がつく必要がある。

参考文献(1): トーマス&ドロシー・フーブラー著 鈴木 博訳「シリーズ世界の宗教 儒教」青土社 1994

参考文献(2):長綱啓典「蓋然性の論理学―ライプニッツ中国学の方法論への一視点―」
https://glim-re.glim.gakushuin.ac.jp/bitstream/10959/3588/1/toyobunka_16_380_358.pdf

2015年10月 3日 (土)

排他主義は国を亡ぼす-(古代ローマの衰亡より)

「ローマ帝国とは、広大な地域に住む多様な人々を、イデオロギーだけでなく軍隊や生活様式を通して「ローマ人である」という単一のアイデンティティにまとめ上げた国家であった。」(南川高志)
そのローマが衰亡していった時、何がローマ帝国の内部で起こったのであろうか。歴史は気象変動によって中央アジアのフン族が西進し、その侵略を受けて他の蛮族が玉突き状になって西へ西へと押し出され、その怒涛の流れを押しとどめる力がローマ軍になかったがために蛮族がローマ帝国内になだれ込むことによって引き起こされたとされている。

しかしローマ帝国は、4世紀の370年代中ごろまで、対外的には決して劣勢ではなかったのである。その大ローマ帝国があっけなく崩壊した。ローマ帝国軍が大敗北したアドリアノープルの戦いが378年。諸部族のガリアからイベリア半島までへの侵攻とブリテン島の支配権喪失が409年。ローマ帝国はごくわずかな期間に帝国西半分の支配権を失ったのである。ローマ帝国の黄昏は短く、30年という年月で潰え去ったのだった。

出発は、376年、世にいう「ゲルマン民族の大移動」の始まりである。ドナウ川北岸からローマ属州入りを求めてきたゴート族の集団に皇帝ウァレンスが渡河許可を出したことに始まる。370年代に入って東から遊牧の民フン族が西進してきてゴート族グレウトゥンギ集団(東ゴート系)の居住地(黒海北岸)を攻撃してきて壊滅させた。すぐ西側に居住していたゴート族のテルウィンギ集団(西ゴート系)は、カルパチア山脈の方へ避難。とともにローマ皇帝に使者を送り、「属州トラキアに土地を与えてくれたらローマ軍に兵士を提供しよう」と申し出た。この回答が先の渡河許可であった。ドナウ川を渡河した人数は、近年の研究では多く見積もっても数万人とそれほどの大人数ではなかったともいわれている。

問題になったのは、ドナウ川を渡河して属州モエシアに入ったゴート族の人々に対するローマ軍の司令官トラキアのルピキヌスとモエシアのマクシムスの対応だった。どこかの割り当て地に移ることを期待していた難民たちを引き留めて彼らが欲している食糧を提供しないどころか、高値で買い取るように迫った。難民の人々は、狗の肉を手に入れるために奴隷を手放さねばならなかった。しばらくして人々にドナウ川から110㎞ほど南にある属州の中心地マルキアノポリスに移動させた。渡河した人々は飢えで苦しむようになり、ローマ側に対する怒りが集団の中にみなぎるようになった。ローマ軍の司令官ルピキヌスは、反乱を封じ込めるために、難民の指導者フリティゲルンとアラウィウスを親切を装って宴会に招き、彼らの護衛を殺害して二人を人質にしようとした。アラウィウスの消息は不明だが、フリティゲルンは危機を脱して自陣にもどり、ローマ軍に誠意がないのを確認して連帯する集団を募った。

難民の指導者を除くことに失敗したローマ軍司令官ルピキタスは、ローマ軍を終結させ、南下するゴート族の軍を迎え撃とうとしたが、フリティゲルン率いるゴート軍に敗れて軍旗を奪われ、ルピキタスは戦場から逃亡したのだった。その結果、ドナウ川から属州モエシアに入る通路は無防備に開かれた状態に置かれ、次々にフリティゲルンと協働する集団が次々に現れるようになってきた。そればかりか帝国内に受け入れられていた集団からも、東のアラニ族やフン族までも対ローマ戦線に加わるようになった。

ローマ帝国が長らく戦略的に避けていたさまざまな部族集団がローマ帝国に対して連帯するという事態がはじめて出来あがったのであった。378年フリティゲルンから再びトラキアを割り当てるように要望するという使者が皇帝ウァレンスのもとに送られたが、皇帝はにべもなくその要求を退けた。その結果、暑い夏の盛り、アドリアノ―プルの戦いとなった。闘いは、ローマ軍の大敗北となりローマ軍は甚大な被害を受けた。皇帝をはじめ貴顕のものが大勢死に、将校クラスが35名斃れた。ローマ軍の戦死者は1万5千~3万人になったと推測されている。ローマ帝国の東半分の主力軍は壊滅状態となった。これ以降、ゴート族は二度とドナウ川の北側に押し戻されることはなかった。歴史家アンミアヌスは、「後悔が止むことのない破滅」という印象深い表現で記述している。

戦いに勝利したゴート族は、ローマ領内を荒らしまわるものの思うように都市の攻略を進めることができず膠着していた。382年こうした状況を打ち破るゴート族との条約(フォエドゥス)が結ばれ、ゴート族はドナウ川とバルカン山脈の間の属州地域に広く居住を認められた。しかし定住した人々はそこに留まって兵役と農耕に従事するのではなく、再度移動し始める。

395年テオドシウス帝がなくなると、ローマ帝国は二皇帝(東ーアルカディウス、西ーホノリウス)に二分割・継承される。テオドシウス帝までは帝国の分担について連携、つながりがあったが、テオドシウス帝亡き跡、継いだ二皇帝は幼少だったため、補佐役の独裁となって鋭く対立する事態となった。最大の懸案は、東西両ローマ帝国の境に位置するマケドニアとダキアの帰属、領土問題だった。東西ローマ帝国の対立を察したゴート族の指導者アラリックは不信感を募らせていた人々を率いて帝国内を荒らしまわり、生きるために略奪を行った。スティリコを司令官とするローマ軍はゴート族を打とうとするのだが、官僚間の対立政争、内部抗争が邪魔をし続けた。こうしてテオドシウス帝死後数年にして東西の帝国はもはや元に戻らぬ分裂状態になった。

401年、アラリック率いるゴート族はついに北イタリアに侵入ミラノを包囲した。スティリコは、ブリテン・ガリアから軍を集めてアラリックを撃退し、イタリアを守った。それは片方ではガリアを無防備にして犠牲にすることになった。406年、ヴァンダル族などが大挙してライン川を渡河してガリアに入ってくる。410年には、アラリック率いるゴート族はローマ市に侵入、3日間にわたって殺戮と略奪を働く。

ガイナス事件(移動してきたゴート族出身の将軍。399年、東ローマ帝国の実権を握ったエウトロピウスを小アジアで起きたゴート族の反乱を利用して失脚させ、その後反乱軍と合流してコンスタンティノープルに入り一時権力を握る。半年後、理由は不明だが、コンスタンティノープルから退去せざるを得なくなる。退却中、部下のゴート族兵士が市民に大勢殺害された。)

一方近年の研究によると、アドリアノープルの戦いでのローマ軍の大敗北、皇帝の戦死以降、ローマ世界の外に住む人々、及びそこからローマ帝国に移ってきた人々をまとめて「ゲルマン」と捉え、野蛮視、敵視する見方が広がってきたという。もはや誰でもローマ市民になれて、ローマ帝国はどこまでも広がる世界であるというという伝統的なローマ人の思潮は消え失せてしまったかに見える。ローマ帝国内に急増する外部部族の流入、移動によってローマ式の生活様式(特に装い)に反する者が目につくようになった。西のホノリウス帝が397年以降、幾度もローマ市内でのズボンの着用、頭髪を長くすること、毛皮の外套を着ることを禁止する法律を出している。

北アフリカの市民シュネシオスの「ゴート族出の兵士たちを排斥せよ」という演説」(ゴート族の者たちを軍隊から追い出し、ローマ人の軍隊をつくるべきだ。外部部族の者たちは古巣ローマ人の奴隷だったのであって、そのような者が軍隊の司令官などにあるのはもってのほか。今のうちに追い払わねばならない。そのためにローマ人は団結しなければ、と語った)を行った。

もはや、4世紀後半諸部族の移動や攻勢の前に危機に瀕したローマ人のアイデンティティは偏狭な差別と排除の論理の上に構築されたものに変質し、外国人嫌いを伴う排斥の思想となり、視野狭窄で世界大国にふさわしくないものとなった。帝国を成り立たせていたアイデンティティが変質して国家の本質が失われていったのだった。南川高志氏は、「排他的ローマ主義」と呼んでいる。

西ローマ帝国ではホノリウス帝の時代、高位の政治指導者から「第三の新しいローマ人(先頃ローマと接触してきた部族=ゴート族など)の姿がない。特に西ローマ帝国では、政治軍事の担い手、高官に外部の部族出身者が採用されずイタリアの伝統的な貴族出身者が占めるようになっていた。東ローマ帝国が、政府や軍隊に外部部族が採用されるようになっていたのと対照的である。ローマ帝国は、外敵によって倒されたのではなく、自壊したという方がより正確である。

(参考:南川高志著「新・ローマ帝国衰亡史」岩波新書 2013より)

シリアの難民問題・イスラム国問題・中国問題・ロシア問題の処理を誤ると、世界は深刻な混迷に陥るであろう。

2015年9月 8日 (火)

中国は、アヘン戦争の屈辱を忘れてはいない。

中国の南シナ海、東シナ海への海洋進出と軍備拡張が世界の大きな脅威となり緊張を生んでいる。経済力をつけた中国が、かつての中華帝国のように横暴に振る舞うのではないかと、近隣諸国は戦々恐々である。しかし、中国の軍拡路線にはただ自国の戦略を周辺諸国に押しつけようとしている以上に、中国がこの200年ほどの間に西欧諸国から受けた仕打ちを忸怩たる思いで受け止め、その対抗策として行っている側面があることを忘れてはいけないだろう。それは、19世紀歴史に名をとどめているアヘン戦争(1840~1842)に由来するものである。当時、中国は西欧諸国になすすべなく力で翻弄された。中国は現在も、対抗力を持たない限り再びしてやられると身にしみて感じていることと思う。中国と国境を接する国としては、中国のこの感情をよくくみ取ることが大切ではないだろうか。

トーマス&ドロシー・フーブラー著 鈴木 博訳「シリーズ世界の宗教 儒教」青土社1994より、アヘン戦争に至る経緯とその後の中国の歴史について転載した。

19世紀、欧州諸国と米国は中国との正常な貿易関係の樹立に積極的だった。しかし、清朝政府は外国との貿易を広州港の周辺地域に制限し、外国の政府と正常な外交関係を樹立することを拒否した。中国はそれまで自給自足していて外国の整品を必要としなかった。そこに、イギリスが非常に魅力に富む製品、『アヘン』を思いついた。イギリスの商船がインドからアヘンを中国に持ち込むと、中国にはアヘンがあふれ始め、アヘン中毒が深刻な問題になった。皇帝は、アヘンの吸引や輸入の禁止で応えた。しかし、アヘンの吸引はすでに広い範囲に広がっており、広州を通じて密輸入され続けた。1839年道光帝は人々から非常に尊敬されている湖広総督の林則徐(1785~1850)を欽差大臣(特別の任務のために皇帝から派遣される大臣)に任命した。広州に赴いてアヘンの密輸入の問題を解決するのが林則徐の任務であった。

林則徐は、布告を発して、アヘンの悪影響を指摘し、すべての吸飲者にアヘンと吸飲具を引き渡すよう命令した。また、600人の学生を集めて特別な科挙を実施して、中国の古典について中国の古典について決まりきった質問を発したのち、知っているアヘン業者の姓名をあげさせるとともに、アヘン問題について何をしたいのか質した。科挙の興味深い歪曲であった。

林則徐は、理性と美徳に訴えればイギリスの支配者であるヴィクトリア女王を動かせると考えて、アヘン取引を停止させるよう要求する書簡を女王に送った。女王の良心に訴え、アヘン乱用の悪影響が女王自身の臣下に及ぶことを望んでいないことを想起させ、イギリス人商人がアヘンを他国に売ることを許している理由を問い質したのである。ヴィクトリア女王がその書簡を受け取ったかどうかはわからないが、林則徐は女王から返書を受け取らなかった。

そこで、林則徐は、外国人商人を投獄し、船内にあるアヘンを引き渡すことに同意するまで人質にするという劇的な手段に訴えた。外国人商人はその要求に屈した。林則徐は、南中国海の精霊に犠牲を捧げて陳謝してから、押収したアヘンを海中に投棄した。

その結果、中国とイギリスの間でアヘン戦争(1840~1842)が勃発した。一方的な戦争であった。イギリスの軍艦は小型で軽装備の中国の軍艦を撃破し、海岸を制圧した。イギリス軍が上陸して南京に向かって進撃を始めると、道光帝は講和を申し入れた。

中国のこの敗北によって、中国と外国との関係に革命がもたらされた。外国との貿易のために多数の港湾が解放され、香港島がイギリスに割譲され、欧州の他の列強も同じような条約を締結するよう要求したのである。中国は外国人に治外法権を与え、都市に住むことを認めさせられた。ということは、犯罪の被害者が中国人であっても、犯人として告発された外国人は外国の法廷で裁かれることを意味したのである。治外法権を獲得した結果、外国人は中国の法律を公然と無視するようになった。

しかし、中国人は抵抗するには無力であったばかりか、あいつぐ軍事的敗北によって領土をいっそう割譲されたのである。1884~1885年の清仏戦争で、中国はベトナムの宗主権を失い、フランスはベトナムをはじめとするインドシナを植民地にした。また、中国は欧米との条約で外国の商品に対する関税自主権を失った。キリスト教宣教師も、中国の国内を歩きまわって改宗させる権利を獲得した。この「不平等条約」の体制は、中国人として生まれた者にとって1943年にいたるまで屈辱そのものであった。

この一連の敗北によって、中国とその儒教体制は深刻な打撃をこうむった。その後百年、中国は自国の問題に不作法に割り込んでくるもっと広大な世界に適応しながら、いかにして儒教的伝統をそのまま存続させるかという問題と格闘したのである。

この屈辱に対する中国政府の最初の反応は、伝統的な価値観を強化するよう呼びかけることであった。中国が弱体化したのは儒教的伝統を墨守しすぎたためだと考えている学者が少なくなかったし、欽差大臣の林則徐のように、中国は欧米とその工業技術にもっと学ぶ必要があることを悟っている人もいた。恭親王奕訢(えききん、1832~1898)は欧米の技術や教練法を採用して中国の軍事力の近代化に努め、学者は地理、歴史、政治、法律などに関する外国の著作の翻訳に取りかかった。この期間は、「同治中興」(1861~1874)や「洋務運動」(1860~1894)として知られている。

しかし、儒教的方法に対する何世紀にもわたる固執によって、中国の社会的変革は遅々としていたが、小さな隣国の日本がもっと融通がきくことを証明した。日本は欧米人を顧問に雇い、軍事力を強化し、1894年に朝鮮を侵略した。朝鮮は清国に援軍の派遣を要請した。その結果始まった日清戦争(1894~1895)は中国にとって最大の屈辱であった。日本の艦隊が中国の北洋艦隊をしたたかに打ちのめし、日本軍が中国の領土に上陸した。講和交渉ののち、中国は領土の一部を日本に割譲させられた。儒教的な世界秩序がひっくり返され、長年にわたってアジアの教師と自任していた中国が、中国から儒教を学んだ日本に打ち負かされたのである。

この敗北によって中国のの若者は行動に駆り立てられた。1895年科挙の最終試験に集まった若者たちは志を同じくする仲間を見出し、近代化と改革の要求「公庫上書」を朝廷に提出した。グループの指導者が「康有為(1858~1927)」であった。この提案は、英語を学び政治を近代化するのに熱心であった光緒帝(1871~1908)の共感を得た。しかし光緒帝は弱冠24歳で、西太后として知られる高齢の伯母、慈禧(じき)皇太后(1835~1908)の支配下にあった。3年後、光緒帝は伯母が宮殿で静養している時に行動を起こし、中国の近代化を目標とする一連の布告を発した。これが百日で終わることになる「戊戌(ぼじゅつ)の変法(百日維新)」である。事態を知った西太后は、紫禁城に戻って政府の支配権を取り戻し、皇帝から権力に復帰するよう要請されたと布告した。しかし実際は、光緒帝を皇宮の庭園(現在の中南海)の贏(えい)台という島に幽閉し、若い顧問を何人か処刑した。清朝は自力で立ち直る最後の機会を逸した。2年後の1900年、義和団事件が勃発し、1911年には辛亥革命が勃発し、1912年2月12日中国史における最後の王朝が崩壊したのである。

歴史を重視する中国では、政権が共産党になっても、いや帝国主義に対抗して樹立した共産党政権だからこそ、過去の西欧諸国の仕打ちをかみしめて軍備戦略を練っているものと考えられる。

2014年8月18日 (月)

やまと魂とは、「ますらをの高く直き心」雄武を示す言葉ではない.

(1)現在の「やまと魂」の解釈の起源

 

明治以降の日本人は、「大和魂」という日本精神を、「皇国の道」「日本人として堅く守る道」というように解してきた。その解釈には、決然として事にあたるあるいは潔く進退を決すべきとする意味合いがあり、武士道につながる精神と考えられてきた。その解釈の原点は、賀茂真淵の解釈にある。

 

賀茂真淵は、「やまと魂」という言葉を、万葉歌人等によって詠まれた「丈夫(ますらを)の、をゝしくつよき、高く直きこころ」という意味に解した(『爾比未奈妣(ニヒマナビ)』)。「万葉」の「ますらをの手ぶり」が、「古今」の「手弱女(てわやめ)のすがた」に変ずる「下れる世」になると、人々は「やまと魂」を忘れたと考えた。真淵の「源氏物語新釋」を見てみると、「此頃となりては、専ら漢学もて、天下は治る事とおもへば、かくは書たる也。されど、皇朝の古、皇威盛に、民安かりける様な、ただ武威をしめして、民をまつろへ、さて天地の心にまかせて、治め給ふ也。……」と書いてゐる。

 

賀茂真淵の弟子にあたる本居宣長も、「やまとだましひを堅固くすべきこと」(「うひの山ぶみ」)を強調して、「(大和魂)とは、神代上代のもろもろの事跡のうへに備はりたる皇国の道、人の道」と解した。宣長の「やまと魂」は、「才」に対して使用しているのであるが、宣長の言説のうちに「やまと魂」という言葉が目立つようになってくると、「やまと魂は、ますらをの高く直き心」であるという解釈が日の目を見るようになる。

 

事実、平田篤胤の国学(国粋主義)になると、「やまと魂」は、明治以降の意味合いである「雄武を旨とする心」として解釈されるようになったのである。篤胤は言っている。、「とかく道を説き、道を学ぶ者は、人の信ずる信ぜぬに、少しも心を残さず、假令、一人も信じてが有まいとままよ、独立独行と云て、一人で操を立て、一人で眞の道を学ぶ、是を漢言で云はば、眞の豪傑とも、英雄とも、云ひ、また大倭魂(やまとだましい)とも云で御座る。」(「伊吹於呂誌」上)と。

 

(2)やまと魂の本来の意味

 

では、「やまと魂」とは、もともとはどんな意味だったのか。

「やまと魂」とか「やまと心」とかいふ言葉が上代に使われてゐた形跡はない。真淵の言ふ「手弱女のすがた」となった文学のうちに、どちらも初めて現れて来る言葉なのである。

「やまと魂」は「源氏」に出て来るのが初見、「やまと心」は、赤染衛門の歌(「後拾遺和歌集」)にあるのが初見といふ事になっていて、当時の日常語だったと見ていいのだが、王朝文学の崩壊とともに文学史から姿を消す。

 

○源氏物語の例

 

「源氏」の中の「大和魂」の用例は一つしかないが、それは「乙女の巻」の源氏の言葉に見られる。「猶、才(ざえ)を本としてこそ、大和魂の世に用ひらるる方も、強う侍らめ」--才(ざえ)は、広く様々な技芸を言ふが、ここでは、夕霧を元服させ、大学に入学させる時の話で、才は文才(もんざい)の意、学問の意味だ。学問といふものを軽んずる向きも多いが、やはり、学問といふ土台があつてこそ、大和魂を世間で強く働かす事が出来ると、源氏君は言ふので、大和魂は、才に対する言葉で、意味合いが才とは異なるものとして使はれている。才が、学んで得た知識に関係するのに対し、大和心の方は、これを働かす知恵に関係すると言つてよさそうである。

 

○今昔物語の例

 

巻二十九に、「明法博士善澄、強盗ニ殺サレタルコト」といふ話がある。ある夜、善澄の家に強盗が押し入った。善澄は、板敷の下にかくれ、強盗達の狼藉をうかがっていたが、彼等が立去ると、後を追って門前に飛び出し、おのれ等の顔は、皆見覚えたから、夜が明けたら、検非違使の別當に訴へ、片っ端から召し捕えせる、と門を叩いて、わめきたてたところ、これを聞いた強盗達は、引き返して来て、善澄を殺した、という話である。

作者は、物語に付言して、「善澄才ハメデタカリケレドモ、露、和魂(ヤマトダマシイ)無カリケル者ニテ、此ル心幼キ事を云テ死ヌル也」と。これで見ると、「大和魂」といふ言葉の姿は、よほどはつきりして来る、やはり学問を意味する才に対して使われていて、机上の学問に比べられた生活の知恵、死んだ理屈に対する、生きた常識といふ意味合いである。両者が折合ふのは、先ずむつかしい事だと、作者は言ひたいのである。

 ○赤染衛門の歌(「後拾遺和歌集」)の例

 赤染衛門は、大江匡衡の妻、匡衡は、菅家と並んだ江家の代表的文章博士である。「乳母せんとて、まうで来りける女の、乳の細く侍りければ、詠み侍りける」と詞書があって、妻に贈る匡衡の歌、「果なくも 思ひけるかな 乳もなくて 博士の家の 乳母せむとは」―言ふまでもなく、「乳もなくて」の「乳」を、「知」にかけたのである。そのかへし、―「さもあらばあれ 大和心し 賢くば 細乳に附けて あらすばかりぞ」―この女流歌人も、学者学問に対して反撥する気持を。少しも隠さうとはしてゐない。大和心が賢い女なら、無学でも、子供に附けて置いて、一向差支へないではないか、といふのだが、辛辣な点で、紫式部の文に劣らぬ歌の調子からすれば、人間は、学問などすると、どうして、かうも馬鹿になるものか、と言ってゐるようである。

 この用例からすれば、「大和心しかしこくば」とは、根がかしこい人ならとか、生れつき利発な質ならとかいふ事であろう。大和心、大和魂が、普通、いつも「才」に対して使われているのは、元はと言へば、漢才(からざえ)、漢学に対抗する意識から発生した言葉であることを語っている。

「やまと心」は「漢(から)心」に対する対語なのである。誰でも、一度ならず、寸法の合わない服を着た時の、なんとなく着心地が悪くて、心が落ち着かない、不愉快な感じを経験したことがあるだろう。日本人は漢字が渡来してからは、漢字ですべてを表記していたが、しかし、どこかに心地の悪さを感じていた。そこで、漢字を音訓を併用して書き表す古事記の表記法を生み出し、王朝文学があらわれるころには、平仮名は発明し、何とかその心地の悪さを補おうとしてきた。はじめは、その心地の悪さが、どこから来るのか、意識されていなかったが、江戸時代の鎖国政策によって、外よりも、自分たちの内側に意識が向けられた時に、すなわち賀茂真淵や本居宣長が現れる頃になると、それは、はっきりと姿を現して意識されるようになってきた。それが、「から心」に対しての「やまと心」なのである。(ようこそ均整法へhttp://home.kinsei.net/aruji/tenbyou2.htm

(参考文献:「小林秀雄全集」第十四巻25 新潮社 2002 p258276

2014年8月16日 (土)

明治天皇の即位式と地球儀

明治天皇の即位式に地球儀が置かれていたことは知っていましたか。このことは、近代の日本歴史を動かしていくシンボル的な意味をもっていくのです。なぜ、地球儀が置かれたのか、そこには歴史を動かしていった秘密が隠されているといってもいいかもしれません。

Wikipediaでは、次のように記しています。

慶応21225日(1867130日)、孝明天皇の崩御を受け、儲君睦仁親王が翌慶応319日(1867213日)に践祚して皇位を継承した。当初は11月に即位の礼を行う予定であったが、大政奉還など時勢が急速に変化していく中で、国事多難を理由に見送られた。


明治新政府は、翌年の慶応4年(明治元年/1868年)5月に新時代の到来を宣布する為、変化に相応しい新しい即位式の挙行を目指し、津和野藩主で神祇官副知事の亀井茲監をして「御即位新式取調御用掛」に任命した。岩倉具視は亀井に唐風儀式の撤廃と古式復興を命じた。新時代の象徴として、式典に於いて
地球儀用い、皇威を世界に知らしめる事を目的とした。孝明天皇即位に使われた高御座は内裏とともに焼失していたので、例年の節会などに使う帳台をもって高御座と称した。唐風とみなされた装束や装飾は全廃されたため、礼服は廃止され、平安時代以来礼服に次ぐ(といっても礼服は朝賀が中絶した平安中期以降即位だけに使用する装束であった)正装であった束帶が使用された。庭に建てる儀仗用の旗の類も廃止され、幣旗という榊がたてられた。


慶応4817日(1868102日)に、10日後の827日(18681012日)に即位の礼を行うことを発表し、同月21日から関連儀式を執り行った。殊に崇徳天皇に勅使を遣わし命日である同月26日に霊前で宣命を読み上げた翌日27日、即位の礼当日は、宣明使が宣明を読み上げ、参列者中筆頭位の者が寿詞を読、古歌を歌われた。そして「拝」と一同唱和し、式典が終了した。

 

Wikipediaでは、新時代の象徴として地球儀を用い、皇威を世界に知らしめようとしたとだけ書かれているのです。では、どういう経緯でこの企画がなされたのか、またどのような意図のもとに企画されたのか、そこには幕末から明治維新に転換していく中で起きた日本の価値観の革命が隠されています。そして、いい意味でも悪い意味でも明治以降この新しい価値観に日本人は大きく影響されていくのです。

羽賀祥二氏の論文から、明治天皇の即位式と地球儀の関係を見てみます。

 

復古神道家は、王政復古の大号令、五ケ条の誓文、神祇官再興、孝明二年祭、祈年祭再興、国是確立の奉告という慶応3年終わりから明治26月までの1年半にわたる諸政策のなかに神武創業・祭政一致の理念を反映させた。

復古神道家の国家構想=神政構想は、五ケ条の誓文のなかで結実したのだが、天皇がその代始にあたり天神地祇を親祭し、そのもとで諸侯会盟を実現すべきであるというものだった。この天神地祇親祭は代始という意味とともに、対外的には「万国の総帝」たる天皇の地位を象徴する意味を併せ持っていた。

造化三神《天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・高皇産霊神(たかみむすひのかみ)・神皇産霊神(かむむすひのかみ)》およびイザナギ・イザナミが、万国の天地・万物を造化したという創造神話をもつ以上、「神代より皇統をつたへ」た天皇が、造化三神以下の天神地祇・皇霊を祀ることは、「万国の総帝」としての地位を証すものであった。そして慶応4827日の即位礼にも「万国の総帝」を示す儀式が含まれていた。即位式にあたり紫宸殿南庭の階下には、嘉永5(1852)年6月徳川斉昭が献上した地球儀が置かれた。

これについて旧即位礼を廃して「皇国の神裔たる御礼式」を立案した福羽美静は、天皇が「左右の御脚を交はる交はる挙げて、日本の国土を踏ませ給ひ、此の如くして全帝国に登臨まし々たる御即位の大礼とハ為し給ひき」と述べている。即位式の式次第を見るかぎり、福羽のいう天皇の動作の記述はみられないが、地球儀を設置したことに「万国の総帝」としての地位へ就くという意味を込めたことは確かであろう。(羽賀祥二著『明治維新と宗教』筑摩書房 1994 p6162

 

天皇は、日本の盟主としてだけではなく「万国の総帝である」という主張がなされているのです。この主張は、日本人を奮い立たせて西欧列強に伍すことを狙いとしていたというよりも、日本は「世界の盟主になるべきである」という民族主義・国粋主義の主張がなされていると捉えるべきでしょう。こうした観念は、その後欧化政策の推進のもとでは表に出ることはあまりありませんでしたが、天皇を中心とする国体主義に受け継がれ、後日民族イデオロギーとして「西欧列国からアジアを解放するという大東亜共栄圏構想」として歴史の表舞台に出る根となったのではないでしょうか。

近代日本を考える上で、そして今後の日本を考える上で、この事件の持つ意味は大きいと思われるのです。

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