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遊牧の暮らしも学校生活も奪われた……あるチベット人女性の死(tonbani)

2012年04月07日

■中学校女子生徒ツェリン・キ「焼身への道」■

*本記事はブログ「チベットNOW@ルンタ」の2012年4月2日付記事を、許可を得て転載したものです。


Tibet Peaceful Liberation Monument
Tibet Peaceful Liberation Monument / Bernt Rostad

3月3日、アムド地方マチュで、女子学生ツェリン・キが焼身抗議し、その場で死亡した(詳細は過去ブログを参照。記事1記事2)。漢民族の商人が多い野菜市場での焼身だったが、漢民族は燃え上がる彼女に石を投げつけたとの報告もある。

3月26日、英紙ガーディアンのJason Burke記者がキの親戚らをインタビューし、彼女の子ども時代から焼身までの人生を描いた記事を掲載した。現地取材したと思われず、十分な取材ができているとは言えないが、それでも貴重な記事だと感じたので、ご紹介したい。

キだけではない。焼身に至ったチベット人一人一人に、それぞれのストーリーがあるのだということを少しでも想像していただければ幸いだ。
 
あるチベット人女性、焼身への悲劇の道
記事:Jason Burke 
ガーディアン、2012年3月26日(ダラムサラ電)

ツェリン・キは、家族の生活の崩壊と、仲間である学生たちの抗議活動が弾圧されるさまを目にした。そして今月(2012年3月)、彼女は5リットルのガソリンをかぶり、自らの体に火を放った。

幼い頃、ツェリン・キのお気に入りの時間は、夏の牧草地に向かう日、そして帰る日の移動だった。中国甘粛省の田舎、テトック遊牧村の30世帯は自然のリズムに従って生活していた。春には家畜のエサを求め、ヤクの背に家財を積み込んで高地の丘や谷に向かう。子供たちは高地の湖や小川でカエルとたわむれて遊んでいた。冬が近づくと、彼らは低地の草原に帰って行った。
 
移動の前日はまず重い荷物を荷造りし、先に送りだす。女性と子供たちは遅れて移動するが、家財は先に移動しているので、星空の下で眠ることになる。この時がキのお気に入りの時間だったのだ。

「移動日にはキがいつも興奮していたのを思い出す。兄弟や姉妹、いとこたちと外で寝るのが大好きだった。」先週、ガーディアンの取材に答えたキの親戚はそう振り返った。「学校に上がってからも、いや10代後半になってからも、キは夏の牧草地への移動に着いていった。町があまり好きではなかったんだ。」

3週間前(3月3日)の午後、20歳の学生となったキは、マチュ市街の野菜市場で焼身した。最後の行動は公衆トイレの中で、チベットの伝統衣装を脱ぎ、体にガソリンをかぶることであった。そして彼女は市場に歩き出し体に火を放った。こうしてキはこの1年間で23人目となる焼身抗議者になった。

この数週間というもの、数日ごとに新たな焼身のニュースが伝えられている。キが亡くなった後にも、胡錦濤国家主席の訪問を前にインド・ニューデリーでは27歳の亡命チベット人男性が焼身した。彼を含め、すでに7人が焼身している。インドの丘の町、亡命チベット人が住むダラムサラの通りは、彼ら「殉死者」のポスターであふれている。最も新しいポスターは44歳の農民のものだ。さらに多くの者たちが「殉死者」の列に続くことは間違いない。

1959年の蜂起失敗以来、ダライ・ラマはチベットを逃れて、ここダラムサラで暮らす。この地に住む亡命チベット人たちは、「焼身抗議は中国当局の弾圧政策を前にした絶望感から生まれたもの」と説明している。

ある僧院から秘密裏に持ち出された手紙は、 2週間前に34歳の僧侶が僧院前で焼身した理由を説明している。地域の学校におけるチベット語教育の規制、保安要員の増強、宗教活動に対する新たな規制、これらが焼身の要因となったのだ。また遊牧民に対する強制移住も問題の一つだという。

中国の官僚は、焼身を「分裂主義者の陰謀」「犯罪」として非難する。中国の公的報道機関は「キは事故により頭を負傷し、鬱状態に苦しんでいた」と報じた。匿名希望の親戚が話す物語は、中国メディアのそれとはまったく異なるものだ。

キは1992年、遊牧兼業農家の2人目の子供として生まれた。村には30所帯が暮らしていた。生活はヤク、馬、羊によって支えられ、彼女もこれらの家畜と共に暮らしていた。マチュの町まではバイクで2時間ほど。町には学校や病院がある。しかしキが町に出かけることはほとんどなく、シンプルで質素な暮らしを送っていた。医療事情が悪いため、出産時に妊婦が死ぬことも目の当たりにした。また、ほとんど誰も読み書きができなかった。

しかしそんな生活にも変化の時がやって来た。キがまだ少女だった頃のこと、新しい政策が始まった。各家庭に牧草地が割り当てられ、山には境界線として鉄条網が張りわたされた。自由に移動する遊牧の時代は政策によって終わりを告げたのだ。

もう一つの変化は教育だった。かつて遠く離れた町の学校に通う遊牧民の子供はいなかった。しかしマチュのように、多くの遊牧民が強制移住させられた土地には、新しい施設が作られるようになった。キは彼女と弟を町のチベット族中学校に送ってくれるよう両親を説得した。最後に1人の叔母が両親を説得した。こうしてキが11歳の時に寄宿舎に住んで学校に通う生活が始まった。

「彼女は本当によく頑張った。他の多くの遊牧民の子供たちのように、彼女も遅れて学校に通い始めた。しかし、その遅れを短期間で取り返した。先生たちは彼女は他の生徒たちの模範だと言っていた」と親戚は語る。

学校で成功したキではあったが、決して田舎のことを忘れることはなかった。親戚の中には適切な牧草地を得ることができず町に移り住む者もいたが、キは夏休み、冬休みになると、必ず家族の下に帰った。勉強のために住むようになった町は格子状の道路、商店と多量の漢民族入植者とともに急速に発展していたが、田舎の風景と対照的なものだった。

「彼女が学校から帰って来ると、何も変わらない昔のままの生活が続いているように思えた。成長した彼女はヤクの面倒をみたり、羊の毛を刈る仕事等もテキパキとできるようになっていた。彼女には他にも楽しみがあった」と親戚は思い出す。「彼女はすばらしい声の持ち主だった。だから、村で祭り事があるときには、いつも彼女はそこで歌うために呼ばれていた。」

宗教的儀式も加わるそのような祭りは、時代の流れを緩慢なものにする作用があった。チベット仏教の儀式は念入りに、疑いの余地なく守られた。夏場の牧草地においても、お経とダライ・ラマ法王の写真を掲げるために特別の小さなテントが用意された。「宗教は至る所にあった。それは生活の一部となっていた。」

ティーンエイジャーとなったキだが、「政治」に傾倒する兆候は一切なかったという。ただし彼女は読書家だった。知識に飢えていた。「家族の下に帰る時、彼女はいつも何冊かの本を持って帰った。みんなが寝入った後、彼女はランプのそばで本を読んでいた」と親戚は言う。

キが焼身抗議を決意した理由を確認することは困難だ。焼身という行為自体は仏教の基本的教義の多くに反するものだ。ダライ・ラマも焼身という行為の背景、原因は理解できるとしつつも、行為を容認しているわけではない。キは自ら進んで政治的活動に関与しようと思ったのではなかったのだが、自然と「政治」の渦の中心に位置することになった。

2008年の春、チベットは数十年に一度の動乱を経験した。平和的デモに対し当局が厳しい弾圧を行った故に、多くの町で深刻な衝突事件が起った。マチュでも警察の車両や政府の建物が燃やされた。チベット支援団体や人権団体、西欧諸国の報道によれば、このとき何百人ものチベット人が逮捕されている。

少なくともマチュにおいては、この時始まった動乱は容易には収束しなかった。2010年、学生たちがチベットの自由と独立を求めて立ち上がった時、キの学校はその中心となった。10人以上が逮捕された。それでもデモは一ヶ月後に再度行われた。人望厚い校長が辞職させられ、少なくとも2人の教師が拘束された。このことがまた学生たちの怒りを煽った。キは学校の活動の中心にいた。

2008年の後、前例を見ないほどの「政治意識と愛国心」が生まれた、とダラムサラの僧侶は語る。彼はチベットに帰る時のために匿名を希望しながら「インターネットと携帯電話の普及により、今は誰でもダライ・ラマ法王の動向、抗議デモ、焼身について知ることができる。これは大きな変化だ」とガーディアンに話す。

一月はじめにキは、近い親戚に対し「連続する焼身抗議がなぜ起るのかが理解できる」と話した。「誰だってこのような生活を続けることはできない」と語った。

キは一ヶ月の冬休みを家族の下で過ごし、町に帰った。そして、その翌日に死んだ。焼身前日の夜、キはいとこの家に泊まった。朝は友人がバイクで学校まで送ったという。キはその日、クラスの学生たちの登記を集める仕事があったが、その仕事を果たすことはなかった。

しかし彼女は学校には行かず、町に向かった。最初に寄ったガソリンスタンドは彼女にガソリンを売ることを拒否した。2軒目も断られた。その次のスタンドで彼女が5リットルのガソリンを買う姿が目撃されている。

野菜市場での焼身抗議から数時間後、中国公安当局は彼女の黒こげになった遺体を運び出した。

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