ジュリアス・カッチェン『DECCA録音全集』
ダンボール箱に入っていたので、BOXセットは破損もなし。最近のポンド安のおかげで、6400円(送料込)ほどとかなりお買い得だった。
ジュリアス・カッチェン・デッカ録音全集(35CD) (2016年08月31日) 試聴ファイル(deccaclassics.com) |
再リマスタリングされている全集盤は、既発盤と音質に違いがあり、マスターテープの音質が異なるためか、曲によってかなりばらつきがある。
ただし、私の持っている再生装置(ARCAMのプリメインアンプ&CDプレーヤー、DALIのMENUET、AKGのヘッドフォン)と私の耳の感度&音の好みに基づいた印象。同じCDであっても同じ音で聴いてはいないだろうから、印象も人によって違うはず。
<録音年代による違い>
モノラル録音のうち、ラフマニノフ《ピアノ協奏曲第2番》、1954年録音のモーツァルト《ピアノ協奏曲第20番》は、既発盤の響きの痩せたキーキーする音から音質がかなり改善されて、残響が増えて音の輪郭も滑らかで全集盤の方が聴きやすい。
モノラル録音のグリーグ、ムソルグスキー、チャイコフスキー、ガーシュウィン(コンチェルト)、ブリテンは、全集盤は総じて音の鮮明さが増しているけれど、残響が増した部分は既発盤よりもさらに電気的に聴こえるときがある。
既発盤の方が音の輪郭がしっかりしているので、打鍵のアタック感や低音の量感・力感が強く、メリハリも強めに聴こえる。
ムソルグスキーの《展覧会の絵》は、両盤ともかなり電気的な響きで、全集盤の方がそれが強くなっている。
※後年ラジオ放送のために録音したmelo盤の《展覧会の絵》では、モノラル風のデッドな音質でアコースティックな感じがする一方、音の分離が良くないので低音の和音が重なると混濁して聴こえる。
ブリテンの《Diversions》は、音質が少し鮮明になっているけれど、それほど大きな違いは感じない。
amazonのユーザーレビューを読むと、PRAGA盤(『Masterpieces for piano left hand』)のリマスタリングの方が音質が良いとコメントしている人がいた。
1950年代末から1960年代半ばくらいのステレオ録音(ベートーヴェン、ブラームスなど)は、響きが膨らみ・長めで音も鮮明になり、音の輪郭の角がとれて流麗な響きなので、フレージングも滑らかに聴こえる。
一方で、(モノラル録音と同様に)全集盤の方が、ダイナミックレンジが狭まったような感じで、音の輪郭や打鍵が滑らかに聴こえ、起伏がゆるかやでメリハリが弱くなっている。オケの場合はピアノの音がやや小さく・弱く聴こえる。
1967~68年の録音は、もともと既発盤の音質がかなり良いので、リマスタリングの差による違いはそれほど大きくは感じない。逆に再リマスタリングしたために残響が増えすぎて、過剰気味に感じる曲もある。
総じてステレオ録音は音が鮮明で響きも増えているせいか、電気的な響きで均質に感じたり、音が小さく遠くなっていると感じる曲がある一方、既発盤の方がアコースティック感があり、音が近くて間近で聴いているようで臨場感や親密感を感じる曲も多い。
全集盤の方が音質が悪いと思ったのは、1961年録音の『ENCORE集』(CD34)。
DECCAの輸入盤・国内盤は持っていないので、キングレコードのオムニバス『ピアノ名曲集』(3曲収録)と、音質がデッドでモコモコしたMP3ダウンロード版"encores"(Maestoso)との比較。
全集盤は、ピアノの音は鮮明で残響がかなり多く、電気的なエコーがかった音でキンキンする。シンセかエレクトリックピアノ風の酷い音でどうにも最後まで聴けなかった。
キングレコード盤は多少音は籠っているけれど、ずっとアコースティックな音に聴こえる。収録曲が少ないのが残念。
MP3ダウンロード版の”encores”は、LP原盤を板起こししたのかも。デッドな音で和音は混濁気味だけど、そこそこアコースティック感のある音なので、全集盤よりはるかにマシ。
結局、今まで通り、キングレコードの『ピアノ名曲集』とMP3版”encores”で聴くのがベストな選択になる。
ただし、MP3ダウンロード版の《英雄ポロネーズ》と《幻想ポロネーズ》は、”Decca Recordings 1949-1968”・全集盤(CD10)と同じ音源で、音質はダウンロード版よりもずっと良い。
ボーナスCDみたいなCD35は、SPレコード(78 rpm shellac盤)録音の初CD化(フランクは未公開音源)。1948-54年にかけて録音されている。
バラキレフ《イスラメイ》は、1954年と1958年(こっちは未聴だった)に録音。
両曲聴き比べると、1958年録音は音質がはるかに良くて音が滑らかだし、テンポも速くタッチも軽快で細部の弾き方も丁寧になった感じがして、4年前の録音よりもずっと良い。
《イスラメイ》はあまり好きな曲ではなかったけど、この演奏なら最後まで面白く聴ける。
放送用録音のmelo盤は、1958年盤より音は良くないけれど、テンポが速くなって30秒ほど演奏時間が短く、勢いが増している。
<ブラームスとベートーヴェン>
ブラームス録音では、ピアノ協奏曲第1番と第2番は、既発盤より音が鮮明で聴きやすい反面、残響がやや過剰気味。
タワーレコード限定盤の方が音質がかなり良い(特に第1番)。残響が適度に長く、芯がしっかして明瞭な音で、ナチュラル感もあるので、聴きやすい。(好みの問題として、全集盤がこういう音質のリマスタリングだったら良かったけど)
ピアノソロも、全集盤は全体的に響きが鮮明(特に高音)でシャープになり、響きも増えて、流麗感がある。
一方で、曖昧模糊とした陰翳が若干薄くなり、時々響きが幾分電気的な感じる(特に高音)。
音が柔らかく輪郭も滑らかになったせいか、メリハリが弱くなり起伏がゆるやかで、低音部の量感・力感が少し軽くなった感じがする。
残響が増えため、もともと響きがかなり多かった部分では、少々響きが過剰気味に聴こえる。(2つのラプソディ第2番など)
曲によっては、響きが増えた影響で情感深さがさらに濃厚になり、ベタっと肌に張りつくような感覚がする。(特に、ヘッドフォンで聴いたときのOp118-2)。また、音が既発盤より若干遠めで、響きが均質化しているような感覚があり、間近で聴いているような臨場感や親密感が薄まった感じがする曲もある。
ブラームスのヴァイオリンソナタは、全集盤ではピアノの音が鮮明になり、モコモコ感も少し残っているのでシャープ過ぎず、かなり聴きやすい。
反面、既発盤で感じた砂糖菓子のようなシュワ~としたピアノの音色の甘さが、全集盤では薄くなっているし、ヴァイオリンの音色も音がすっきりとした分、奥行きや深みが少し薄くなったような気もする。
微妙な違いなのだけど、やはり既発盤の方が音質的は好みにあっている。
CD22のブラームス《クラリネット・ソナタ第1番&第2番》は未公開音源。
ヴァイオリニストのThea KingがNina Milkinaと同曲を録音してから5年が経過していなかったため、契約上リリースできず、そのままお蔵入りとなっていたもの。
クラリネットソナタよりも、ヴィオラソナタの方が好きなので、この2曲はそもそもまともに聴いたことがない。
1968年録音なのでもともと音質は良いはず。全集盤では残響が増えて、ピアノの音も少し金属的な響きがしないでもない。特にピアノの低音が強く、響きもかなり厚く固まって聴こえる。
1967年~1968年にスークやシュタルケルと録音した演奏(既発盤)に比べて、ピアノの音がかなり鮮明で音の輪郭がシャープでフォルテも力強い。地味で暗い響きのクラリネットに対して、ピアノの存在感が強いかも。
タッチのコロコロ感はいくらか残っているけれど、モコモコとした曖昧さを含んだような雰囲気が消えて、スークとシュタルケルの演奏で感じた独特な味わいは薄い。これは音質のせいか、共演者との違いが演奏に関係しているのか?
お蔵入りになっていたクラリネットソナタが聴けたのは良いのだけど、(おそらく録音する予定だった)スークの弾くヴィオラソナタが聴けないのが本当に残念。
ブラームスよりもベートーヴェンの方が、音質の違いが演奏の印象に影響している。
特に《ピアノ協奏曲第3番》。もともと情感濃いめの演奏だったせいか、ヘッドフォンで聴いていたら、残響が長いせいかネットリと粘着的な響きで演奏のメロウさを増幅して、肌にまとわりつくような感覚がする。
既発盤の方が、音質はさほど良くないけれど、若々しい情感のさわやかさがある。
《ピアノ協奏曲第4番》も、全集盤の方が流麗な響きで弱音の細部の繊細さが良く出ている一方で、ピアノの音が小さく起伏も緩く、メリハリが弱くなって、ぼや~とした感じ。既発盤の方がピアノの音の輪郭が明瞭で存在感がしっかりしている。
1960年録音の《ディアベリ変奏曲》は、全集盤の方が少し音がクリアで残響が増えて、聴きやすくなった感じ。
1968年録音の《ピアノ・ソナタ第32番》と《バガテルOp.126》は、もともと音質が良いので、全集盤は多少残響が増えて、音の輪郭が幾分滑らかになっているけれど、ピアノ協奏曲のような既発盤との大きな違いは感じない。
結局、全集盤のベートーヴェン録音は、ピアノ協奏曲で残響の多さと繊細な響きの粘着性、強弱のコントラストと起伏の緩さを感じるので、好みの問題として、多少音質が落ちるとしても既発盤の方を聴きたい。独奏曲の方は大差ないのでどちらでもかまわない。
<ステレオとヘッドフォンの違い>
ステレオのスピーカーまたはヘッドフォンで聴くと、聴こえ方にかなり違いがある。
スピーカーの方は、全体的に全集盤の響きの豊かさが良くわかり、かなり聴きやすくなっているけれど、演奏自体の印象が大きく変わるというほどではない。
ヘッドフォンで聴くと、音の解像度が高いので、既発盤でもかなり明瞭な音で、残響はステレオよりも少し多めに聴こえる。
全集盤になると、響きの細部の微妙な変化が聴こえると同時に、残響もかなり多く聴こえて、音が重たく感じる。
特に緩徐部の弱音は、(アファナシエフみたいな)ネットリとして陰鬱で暗く、沈みこむような音色に聴こえるときがある。
ベートーヴェンの《ピアノ協奏曲第3番》第1楽章やOp.118-2では、音が沈んで陰鬱さとメロウさがさらに濃くなって、ネットリとして肌にはりつくような感じがする。
音響や印象が大きく変わったというよりも、残響の微妙の差によって情感の濃厚さが増して、(それまで限界ギリギリだった)私の許容範囲を少し超えてしまったという感じ。聴き慣れれば、それほど気にならなくなるかもしれない。
既発盤は、スピーカーだと音がモコモコして鮮明さに欠けるところはあるけれど、コロコロとした硬めの音でメリハリや起伏の変化が聴き取りやすい。
それに、ヘッドフォンで聴くと音がクリアになり、ストレスなく聴けるし、全集盤のような暗さや陰鬱さはなくて、私の抱いているカッチェンのイメージ通りの音と演奏が聴ける。
やはりヘッドフォンで聴くなら既発盤、ステレオで聴くならどちらでも良いけど、鮮明な音で聴くなら全集盤、アーティキュレーションとか奏法をしっかり聴くなら既発盤という選択になるのかもしれない。
でも、この音質だと全集盤の方を聴くことはほとんどないような...。僅かながらも初出音源が入っているし、メモリアルイヤー記念として、このまま持っておいても良いかなという気はする。
結局、全集盤も既発盤も音質には一長一短があり、さらに再生装置次第でCDの音の聴こえ方も演奏の印象も変わってしまう。
どちらがカッチェンの実際の演奏に近いのかわからないけど、リマスタリングの設定次第で音質がコロコロ変わるCDよりも、LPの方がリアルな音に近いのかも。
ブックレットに記載されているカッチェンのプロフィールは、既発盤"The Art of Julius Katchen"シリーズのブックレットの内容と重なっている部分が多い。
でも、いくつか新しい情報も載っていて、どれもカッチェンの人となりや才能がよくわかるエピソードだった。
(1)”Encore”集の録音風景
カッチェンは、公開演奏を愛する天性の”showman”だったが、スタジオ録音もたいていは手慣れた(at home)もので、強い集中力のおかげで長時間の録音も平気だった。
しかし、”Encore”集の録音では、カッチェンが思っていたほどにスムーズには進まなかった。
「スタジオ録音の冷静さのなかでは、大成功したコンサートの最後にアンコール曲を次から次へと弾くような雰囲気や気持ちに達することは、不可能だった。とうとう諦めて、友人30人を招待して、多少なりともライブのようにしてみたところ、1時間が過ぎて聴衆が盛り上がった時には、いつものようにアンコール曲を弾く用意ができていた。」
(2)レコーディング風景
録音プロデューサーのRay Minshullの回想:カッチェンがリラックスしていた唯一のポジションは、椅子に座ってピアノの鍵盤へ腕を伸ばしている姿勢の時。
《ハンガリー舞曲集》で連弾していたピアニストのジャン=ピエール・マルティは、実はカッチェンの弟子(pupil)だった。
立て続けにベートーヴェンの代表作3曲とディアベリ変奏曲のような複雑な曲を録音するのにかかった時間は、3時間の録音セッションが2回足らずだった。
(3)譜読み
カッチェンが初めて弾く曲を習得するときは、最初は完全にピアノから離れて、楽譜を読み込んでいくのが習慣だった。「私がピアノに向かう時は、単に頭の中にある設計図(blueprint)を実現するだけなのです。」
(カッチェンは演奏旅行には楽譜を持っていかなかった、楽譜は頭の中ではなく写真のように全て指に写し取られていた、とローレムは回想していた)。
(4)ハチャトリアン指揮によるピアノ協奏曲録音計画
カッチェンの率直さ(outspokeness)が不利益をもたらすことも避けられなかった。
カッチェンが東ドイツツアー中に”ベルリンの壁”を非難したことから、ハチャトリアンはカッチェンと録音することを禁じられ、作曲家自身の指揮によるピアノ協奏曲の録音予定をキャンセルした。
(この話は当時DECCAのプロデューサーだったカルショーの著書『レコードはまっすぐに』にも載っていた。)
(5)南アフリカ共和国での演奏会
当時、悪名高いアパルトヘイト(人種隔離政策)を取っていた南アフリカ共和国でのコンサートは、カッチェンの率直さ(directness)を物語るエピソード。
”champion of the underdog”(弱者を擁護する人)カッチェンは、ケープタウンのSoweto township(ソウェト/非白人居住地域)で無料のコンサートを行うと主張したことが、南アフリカ政府の連中の癇に障った。
南ア政府は、カッチェンがコンサートのために搭乗する予定だった国有南アフリカ航空のケープタウン-ヨハネスブルク行フライトをキャンセルしたが、カッチェンは後続の飛行機に搭乗して彼らの企みを妨害した。
カッチェンがコンサート会場に現れると、いつも”白人限定”のイベントに参加することを禁止されていた聴衆から鳴り響く拍手で歓迎された。
別の演奏会では、ケープタウンのシティホールの舞台上でピアノに歩み寄って、この街はこの”heap of trash”(ぽんこつ)よりももっと良いピアノがふさわしいと宣言し、50ポンド紙幣をピアノの上にぴしゃりと置いて、「あなた方の街にふさわしいピアノを購入する基金を始めるために」と説明したのだった。
(6)現代の音楽に対して
後年では主要なドイツロマン派音楽がレパートリーの多くを占めるようになって行ったが、キャリア初期では(ある程度は)現代の音楽の擁護者(champion)だった。しかし、”musique concrète”(現代音楽の一様式)のようなものに対しては、理解することができなかった。「どうして醜い音を作り出したり、不快なもの(nastiness)に集中し続けなければいけないんだ?」と言っていた。
ブリテンをとても称賛していたように、現代の作曲家のなかで本当に親近感を持っていた作曲家もいた。
ブリテンが自身の指揮で《ディバージョンズ》を録音するために、特にカッチェンにソリストを依頼したとき、カッチェンはブリテンにさらにピアノ協奏曲を作曲するように説き伏せたのだった。
カッチェンの母国の作曲家であるコープランド、フォス、ローレムの作品も演奏した。ローレムの《ピアノ・ソナタ第2番》を録音して以来、カッチェンとローレムは友人だった。
<参考記事>
ジュリアス・カッチェンにまつわるお話
| ♪ ジュリアス・カッチェン | 2016-10-24 18:00 | comments:2 | TOP↑
こんにちは。
早速の詳細な報告お疲れさまでした。
全集一気聴きですか。おいおい、さらに細かい楽曲ごとの感想などもあげて頂けると幸甚です。
私はこのセットを二回ほど通して聴いたあと、なにかもやもやしたものが残って少し前に出て一度聴いたきりだったクリフォード・カーゾンの全集がどんなものだったかと思って取り出して全部聴いてみたのですが、こちらはピアニストの好き嫌いうんぬんではなく、素直に納得のいく音質のものが多くて、ああそうだよなあ、英デッカの音というのはこういう音なのだよなあ、などと妙に納得したりしていました。(もちろん年代によって違いはありますが)
それでふと前々から感じていたことを思い出したのですが、カッチェンの録音って英デッカのわりに意外に音のよくないものが多いですよね。とくにピアノソロでその傾向が強いような。素直にいいと思えるものは新しいほうのラフマニノフとか、シューマン、グリーグの協奏曲とか60年代半ば以降のものとか(ほかにもありますが)、あんがい少ない気がします。それに比べて、カーゾンのは元々の録音がかなりいいものが多い(あるいはバックハウスもそうかもしれない)。
なんなのでしょう、この違いは。原盤保存状態の違いでしょうか。はたまたディレクターの違いによるものか。まあたんなる思い込みに過ぎないのかもしれませんけれども。
とはいえ、このセット、未聴音源が聴ける(さほどありがたくもない?)ということで、それなりに意義があった、ということでよい企画だったのではないでしょうか。
最近はゼルキンのベートーヴェンとシューベルトの白い箱に入ってるやつを聴いていました。いいですねえ、ゼルキン。これはこれでやたらと硬い音質みたいな気がしますけどゼルキンのピアノの特徴を捉えるにはちょうどいいのかもしれません。(しかしこの白箱シリーズの味気ない装丁はなんとかならないものでしょうか)
ということでお邪魔いたしました。
| ほこり | 2016/10/27 15:16 | URL |