日本の大学入試は「プロクラステスのベッド」である
日本の大学入試問題は、文部科学省の定めた「高校」までのカリキュラムの中で、思考能力を求められる問題が出題される。
そのレベルは、たとえば、アメリカのSAT(Scholastic Aptitude Test)、ACT(American College Testing)などの試験に比べて、格段に高い。
そのことは、たとえば、このSAT practice test
http://www.proprofs.com/sat/exams/practice-tests.shtml#
と、2010年度前期 東京大学入試問題
http://www.yozemi.ac.jp/nyushi/sokuho/recent/tokyo/zenki/index.html
を比較すれば明かだろう。
このことは、大学入学時点での日本の高校生の学力水準を高めに保つ効果を持つかもしれない。一方で、日本の大学入試は、「プロクラステスのベッド」としても機能し得る。
本来ならば、たとえば科学が好きで、得意な子どもは、高校の数学などとっとと終わらせて、その先にどんどん進んでいけば良い。アメリカのSATのような問題だったら、特に何の準備もしなくても、解答することができるだろう。
ところが、上に挙げた東京大学の入試のように、高校までのカリキュラムに出題範囲を限定した上で、その中で人工的な難しさを追求した出題をしていると、大学入試が終わるまでは、高校生はそのカリキュラムの範囲に足踏みすることになる。
本当は、さっさと量子力学や統計力学、線型代数か解析幾何の進んだ内容を修得すれば良いのに、18歳の段階では、いつまで経っても高校のカリキュラムの範囲であれこれと勉強をしなければならないことになる。
ここに、行きすぎた標準化の弊害を見ることができる。
アメリカの大学入試で課されるpaper testが、SATレベルのものに限られているのは、すべての受験者に共通して求める学力はその程度に抑制して、それ以上にどのような方向に「突出」するかは、各学生にゆだねる、一つの「叡智」だと言っても良い。
学問というものは、ある程度の段階を超えると、標準化をすることが難しくなる。どの方向に伸びていくかは、分野によっても人によっても異なるからだ。
アメリカのSATは簡単だが、同時に、高校生の時から非可換代数や無限集合論に精通した学生をつくるかもしれない。一方、日本の大学入試は、18歳までの学生に人工的に限られた範囲での競争を強いることによって、そのような個性を伸ばす芽を実際上摘む。
学力における個性と、標準化のバランスをどのように見るか。この点においてアメリカと日本の大学入試は、異なる思想に基づいている。
6月 25, 2010 at 09:55 午後 | Permalink
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