« 2014年9月 | トップページ | 2014年11月 »

2014/10/30

「先代の猫」

東京藝術大学で授業をしていた頃、春から秋にかけては、上野公園の東京都美術館の前で飲んでいた。

寒くなると、根津の車屋に降りていく。
下の木のテーブルのあたりが、ぼくたちのお気に入りで、わいわいがやがや芸術論を闘わせていた。

昨日、植田工の「シシューポスの神話」の展示があるというので、上野桜木町のギャラリーに行って、そのあと、みんなで、久しぶりに車屋に行った。
ひょっとしたら、数年ぶりになるのではないかしら。

車屋には、白猫がいた。昨日入ったら、また別の猫がいて、ああ、代替わりしたんだな、と思った。階段のところに、先代の猫の写真が張ってある。なつかしいな、と思いながら見ていた。

酔っ払って、外に出て、戻ってきたときに、今の猫がすりよってきたので、おお、よしよし、と撫でていて、あれっ、と思った。

ひょっとして・・・

マスターにうかがったら、そうだった。元々の猫が、そのまま生きていたのだ。

「いくつですか?」

「こいつ、18歳になります。」

ひええ、長生きな猫くん。そういわれて、よく見ると、白くてもこもこした毛、間違いない。先代だ!

代替わりしたと思っていたら、猫はそのままだった。

変わったのは、おれたちだけか。

久しぶりに飲む車屋のビール、そして日本酒の味は格別で、また近々来たいなあ、と思った。

「先代の猫」が、「現役」のままがんばっているんだから、ぼくたちもまた、青春を貫かねばなるまい!


Kurumaya20141029


10月 30, 2014 at 08:20 午前 |

2014/10/25

私の秋の日

ずっと「面倒くさい」と思っていた「旅ラン」にこのところすっかりはまっていて、「人生最大のよろこび」のひとつとなりはじめている。

 なぜ「面倒くさい」と思っていたかと言えば、リュック意外に、ランニングシューズを入れる袋をもう一つ持ち歩かなければならないからだ。
 しかし、その面倒くささを補って有り余るほど、たのしく、うれしい。

 昨日は、嬉野温泉に到着して、お世話になる大村屋さんのほんとうに泉質のいいお風呂にぱっとつかって、それから走り出した。

 旅ランのよろこびは、初めての土地で、こっちの方じゃないか、とあたりをつけて走っていくことで、しかも、歩くときよりもいわば「早回し」で景色が変わる。そして、自動車でめぐるのでは絶対にたどり着けないような場所へと、行くことができるのだ。

 昨日も、嬉野温泉の、「シーボルトの湯」と、その手前に広がる川沿いの緑の公園という、すばらしい景観にまずは出会った。
 そこから、裏道を、「轟の滝公園」方面に走っていたら、工場のところを横に入っていって、そしたら、本当に笑ってしまうくらい素敵な、高台に田んぼが広がっている景色に出会った。

 その中の小さな道を走っていくと、次第に、風景が広がっていって、やがて立ち止まって振り返ると、そこには嬉野温泉の街並みがあって、その向こうに、おだやかな姿の山々があり、私の秋の日は、そこに、一つの思い出のアルバムとして、収納されたのであった。

Ureshino20141024


10月 25, 2014 at 06:59 午前 |

2014/10/17

 小銭チャレンジ!

ぼくには、小銭がたまる「構造問題」がある。

 と言っても、会計のときに面倒臭くて千円札を出してしまう、ということではなくて、走る時に、ランニングパンツのポケットに千円を入れて行くからだ。

 コインだと、どうしてもじゃらじゃらしてしまう。だから、千円を入れて、走った後に、コンビニに寄って、飲みものを買って、「ぷはー、お疲れさま〜」と飲みながら歩いたりする。
 
 時には、自販機でジュースを買うこともある。

 勢い、次第に小銭がたまってくる。
 走れば走るほど、たまってくる。
 最近、よく、走っている。

 それで、それを一気に「消費」しようとして、時折、小銭をたくさんもって意気込んでコンビニに出かけていく。

 千円札と、小銭を持っていく。

 ところが、そのような時に限って、会計が「1020円」だったりするのだ。

 それじゃあ、10円玉二枚しか消費できないではないかっ!

 1387円とかだと、「ラッキー!」と思ったりする。
 100円玉3つと、10円玉8つと、1円玉7つ、計18枚も消費できるからだ。

 このあたり、自分でも、アホだと思うけど、会計の時にレジに表示される会計額に一喜一憂する自分を抑えることができない。

 最近は新しいテクを生み出した。会計して、1020円だったりすると、さりげない風を装って、レジの上にある小物(チョコレートとか)を、さも、その時に思いついたように、「あっ、これもください!」と「押し買い」する。

 再チャレンジするのだ。その結果、見事、「1098円!」とかになると、とてもうれしい。

 1110円だったりすると、残念な気がする。


 こうして、一生懸命小銭を消費するのだが、未だに「小銭残高」があって、小銭が滞留しているのである。

 スイカとかパスモで買えばいいじゃないか、という人もいるかもしれないが、きっと、小銭とのつき合いを楽しんでいるのであろう。

 まあ、これも、縁ですから。出会いと別れ。
 
 これからも、できるだけ多くの小銭を使う、「小銭チャレンジ」、続けます!

10月 17, 2014 at 06:50 午前 |

2014/10/14

人生のテンポ設定

新幹線は、台風にも強かった。大阪、広島、山口と、在来線がすべて止まっている中で、山陽新幹線だけは、ありがたいことに、動いていて、私は無事移動することができた。

 小倉で、ソニックに乗り換えた。6分遅れていたので、かえって間に合った。自由席しか空いていなかったが、幸い座ることができた。

途中で、となりの男性が降りて行ったら、そのあとからコンセントが出てきた。なんだか、結果として、いい流れになっていた。

大分までは、だいぶ時間がかかった。ずっと仕事をしていたし、ビールが飲みたいところだったが、ガタゴト揺られながら、仕事を続けていた。

九州の東側の交通事情についてはいろいろ言われるところだが、遅いのは決してイヤじゃない。ゆっくり移動することで、多様性が見えてくる。これは、歩きながらあるいは走りながらいつも思っていることだ。

歩かなかったら、見えないものが、さまざまに見えてくる。自動車なら一瞬だけど。

人生のテンポ設定において、プレスティッシモも必要だが、時にはラルゴが良い。ゆっくり歩いてこそ、見えてくる世界の多様性があるのだ。

10月 14, 2014 at 08:00 午前 |

2014/10/10

 カラスおばあさんの愉悦

走っていて、林から道路に抜ける直前のちょっとした空き地に、三羽のカラスが舞っているのが見えた。

 カラスというものは、近くで見るとびっくりするほど大きく、強そうで、こいつらがヒッチコックの「鳥」みたいに本気になって襲いかかってきたら、コワイだろうと思う。

 ところが、その、三羽のカラスの舞いの輪の真ん中に、ひとりのおばあさんが立っていたのだ。

 (ぼくは、ふだん、女性のことを「おばさん」とか「おばあさん」と書かないで、「女性」と書くのだけれども、かなりご高齢(おそらく80歳以上)だったし、この文脈ではそのように書いた方が伝わると思うので、「おばあさん」と書く)。

 そのおばあさんは、どうやら、白いビニル袋の中に餌のようなものを持ってきているらしく、その餌を、カラスに向かって投げていたのだ。

 それで、カラスたちも、喜んでしまって、そのおばあさんの周りを、至近距離で舞い飛んでいたのだ。

 あんなに近くにカラスが来て、こわくはないのだろうか、と思いながら、その、カラスの輪舞曲の中を走り抜けようとした、その時だった。

 見てしまったのだ。そのおばあさんの、「愉悦」の表情を。

 目は輝き、口が少し開いて、舞い飛ぶカラスたちを、おばあさんは、至高のよろこびを感じている、というように、見上げていた。

 おばあさんの魂は、その場所にいなかった。きっと、どこか少し違うところにいた。

 その一瞬の表情が、ぼくの脳裏にもう強く刻印されてしまって、ぼくは、現代の地上を走りながら、まるで、お能の印象的な一場面を拝見したような、そんな戦慄を感じてしまったのだ。

10月 10, 2014 at 07:08 午前 |

2014/10/08

三十三間堂の静寂

 先日、京都駅から京都大学医学部まで歩いたのをきっかけに、なんだか、京都を歩くのが好きになってしまって、囲碁名人戦を拝見するために会場のウェスティン都ホテル京都入りするのも、歩いていくことにした。

 ルートをにらんで、鴨川をまずは渡ってしまうことにした。
 
 あたりはとっぷり暮れて、人通りも少ない。

 京都も、真ん中あたりはだいぶ開発されていて、普通の街と変わらなくなってしまっているけれども、東山は、昔ながらの街並みが続いていて、歩いていると、ほっとするのだった。

 やがて、塀が現れ、それがずっと続いた。

 落ち着いた街並みだけれども、塀とその向こうの世界は、さらに深い趣が広がっているように感じた。

 三十三間堂だった。

 歩き続けながら、思った。

 現代においては、宗教は、どうも分が悪いけれども、お寺や、神社という、祈りの場があることで、守られてきたものは大きい。

 人間は、欲望のおもむくままに、開発し、更新し、街の様子を変えてしまうけれども、お寺があるということで、数百年の単位で、一つの静寂が保たれる。

 鎮守の森が、畏れの心とともに守られるように。

 だから、宗教の機能は、私たちがふだん考えることとは別のところにもあるのかもしれない。

 暗がりを抜け、祇園のあたりに来ると、ずいぶんにぎやかになって、私も、普段の調子になってきた。

 お腹が空いていることに気付いて、「餃子の王将」に入り、味噌ラーメンと餃子を注文した。
 
 おいしくいただきながら、さきほどの三十三間堂の静寂が、ずっと、心の底に残っていた。


Sanjusan20141006


10月 8, 2014 at 07:10 午前 |

2014/10/06

レインシャワーの男の、ささやかな願い

29日連続でつないできた「腕立て200回、腹筋200回、3キロ以上のランニング」も、さすがに今日は途切れるのではないかと思っていた。

 朝6時過ぎ、ふと気付くと、雨脚が弱まっている。

 チャンス! とばかりに、急いでスニーカーを履いて走り出した。
 小雨しか降っていない。余裕だよ! 台風が近づいていると言っても、まだまだ大丈夫!

 良かった! これならば、無事、走り終えそうだ。

 約半分の、1.5キロくらいまで来た時、その、なんだよ、トイレに行きたくなったわけだ。

 ちょうど、公園のトイレが近くにあったので、個室に入って、トイレしながら、余裕をこいて、スマホで台風のニュースなどを見ていたわけだ。
 それで、トイレも終わって、「さあ、あと1.5キロ走ろうか」と立ち上がろうとしたその瞬間のことさ。

 ザーッ!!! (ここのところ、フォントを変えられるのならば、72ptくらいの、マックス大きいやつ。しかも、太字になっている感じ)

 外から、突然、凄い音が聞こえてきた。

 えっ、なに? まさか、急に、雨が降り始めたってわけじゃ・・・

 って、個室のドアを開けてみたら、読者のみなさんも、本当は、結論は最初からわかっているよね。

 はい、凄い雨でした。

 ためらわずに、走り始めましたよ。どうせ、家には帰らなくちゃいけないし。傘なんて、当然持っていないし。

 あの、「レインシャワー」って、ご存じですか?

 天井の方から、シャワーの水が、さーっと落ちてくるやつ。あれ、気持ちいいですよね。温かいお湯に、包まれるみたいで。

 はい、レインシャワー状態でした。
 しかも、それはそれは、冷たい雨でした。

 公園のなるべく木立の下を走りながら、そんなもん、役に立つわけもなく、あっという間にTシャツが濡れて、肌にべたーっとついて、髪の毛もびしょびしょで、それでもマダマダ、と走って、なんとか、3キロ走ったのですが、そんな中、私が考えていたことは、時々通り過ぎる、傘を差した人たち(そうですよね、普通、傘を差して歩いていますよね、こういう日は)が、私を見て、どう思うか、ということでした。


 あっ、バカが走っている。でも、走り始めたときは、小雨だったけど、途中で降ってきちゃったんだな。だから、今、急いで家に戻ろうとしているところなんだろう

 と思ってくれれば、いいな〜、と思いながら、走っていました。それが、レインシャワーの男の、ささやかな願いでした。

 万が一にも、

 あいっ、こんな雨の中、ぐるぐる走っていやがるよ。さっきから、何周もしてやがるじゃないか。一応、公園の木立の中を走ろうとしているみたいだな。しかし、木立の中走っても、この大雨じゃ、ムダだよ。あんなにびしょびしょ濡れちゃって。本当にバカだなあ。

 と、まったくその通りのことを、正しく見抜かれたら、恥ずかしいなあ、と思いながら、距離が3キロに達するまで、ぐるぐるバカみたいに走っていたのである。。。。

 (よい子のみなさんへ。おじさんは、雨が降っていても、風が弱かったから走ったのであって、風が強いときとかは、絶対に外に出てはいけません。また、雨に濡れたら、よくタオルでごしごしふいて、乾いた服にすぐに着替えましょうね。おじさんも、それはちゃんとやったよ。)

10月 6, 2014 at 07:42 午前 |

2014/10/05

二人いたら、それは、もはや流行である!

今朝は、台風も近づき、やや強い雨が降っていたけれども、なんとか、三キロちょっとだけ、走ることができた。

 公園の森を抜けたところにある建物の前を通り過ぎた時のことである。

 パーン、パーンと乾いた音がする。

 まさか、と思って、そちらの方向を見ると、建物の隅、雨が当たらないところで、おじさんがしこを踏んでいる。
 建物の壁に反響して、こちらにも届いてくるので、いい音がしているらしい。

 しばらく前、9月21日に、ぼくは別のところで、しこを踏んでいるおじさんを見つけて、びっくりしてツイートしたのだった。その時の文章を引用する。

(引用始まり)

今朝、走っていたら、びっくりした。住宅街の中の公園で、おじさんが「しこ」を踏んでいたのだ。しかも、ハンパな踏み方じゃない。足を振り上げ、地面に向かって、「バーン」「パーン」と、びっくりするほど大きな、乾いた爆音を立てて足を踏み下ろしていた。一目で、アマじゃないとわかった。

ぼくは動揺して、走りながらさりげなく「しこ踏み」おじさんに近づいて、脇目で観察した。まわしなどしていなくて、普通のトレーナーをつけている。かと思ったら、また「パーン」としこを踏んだ。150キロの剛速球が、キャッチャーミットに収まったような、そんな音がした。

あのおじさんは、何だったのだろう。体型は、そんなに太っている、というわけではなくて、むしろ、筋肉質の、ひきしまったからだをしていた。昔相撲部だったのが、選手は引退して、今はコーチをしているとか。とにかく、ただものではないしこ踏みおじさんを、朝から見てしまった。

(引用終わり)

 このあと、ぼくは、「行動変人」についての思い出を書いていくのだが、今朝、別のおじさんが建物の隅でパーン、パーンとしこを踏んでいるのを見て、実は、はげしく動揺したのだった。

 なぜ、そのおじさんが「別の人」だとわかったかと言うと、そもそも、前のおじさんがしこを踏んでいた公園と、今朝のその建物が直線距離にして約1キロ離れているということもあった。

 しかし、何よりも、つまりその、今朝のおじさんは「髪型」が前の人と違っていたのだ。

 確認するために、走りながらぼくがおじさんのピカピカの頭を見つめていると、おじさんは、なぜか、しこを踏むのを休んで、自分の頭をなでた。

まっ、まさか、ぼくの視線を感じたのかしら。

さて、変わった行動をする人が、ひとりいたら、それは「変人」であると、私たちの脳は片付けることができる。

しかし、パーン、パーンの、しこ踏みおじさんが、二人いたら、それは一体どうなるのか。その時、私たちの世界は、根底からゆらぐのではないか。

そう。二人いたら、それはもはや変人ではない。

二人いたら、それは、もはや流行である!

間違っているのは、しこ踏みおじさんではなく、ぼくの方だっ!

ひょっとしたら、世間では、今、しこ踏み健康法なるものが流行しているのであろうかっ!

かつてない理性のゆらぎを経験しながら、私は、雨の中、さらにランニングを続けたのであった。

パーン!

10月 5, 2014 at 08:26 午前 |

2014/10/03

振り切れているものを知ること。

なぜオペラに行くのかと言えば、そこに非日常があるからだろう。

 新国立劇場ができて、日本で、世界水準のオペラが見られるようになった。昨日初日の『パルジファル』も、すばらしい出来。東京でこのようなオペラが、独自制作で見られるようになったのは、なんと幸運なことだろう。関係者に心から感謝したい。

 演出は、天才としかいいようがないハリー・クプファー。この人の演出したバイロイトの『さまよえるオランダ人』は、オペラ演出史上に永遠に残る名演だが、今回の『パルジファル』も、衝撃を受けることがいくつかあった。

 クプファーの演出は、斬新であって、しかし人間の魂の芯をとらえて離さないのである。

 いわゆる「ネタバレ」をしないで、演出内容を分析することは不可能なので、どうにでもとれるあいまいなことを二つだけ。クンドリーの扱いは、女性視線の『パルジファル』をという近年の潮流に沿ったものだが、さらに一歩踏み出したように思う。二幕のパルジファルとのダイアローグは、すばらしかった。

 そして、もう一つ、今まで見たことがない趣向が。いらしていた畏友、山崎太郎君に確認したが、やはり、『パルジファル』演出史上、あの趣向はないらしい。それが何なのか、新国立劇場で確認ください。

 芸術は、この宇宙に欠けているものを、人間が生み出すのであろう。だからこそ、魂が深いところで慰撫される。

 『パルジファル』では、みんなが傷ついている。

 パルジファルも、クンドリーも、アムフォルタスも、そして「敵役」のはずのクリグゾールも。おそらくは、グルネマンツも。

 昨日たまたま観に来ていた白洲信哉は、オペラを見るのはほとんど初めて、とか言いながら、「救済がテーマのオペラだけど、救われない人もいるじゃないか」という、作品の本質に関わる鋭い感想を述べていた。酒癖は悪いが、信哉、君は偉い!

飯守泰次郎さんの指揮、オーケストラの演奏は、確固とした深いワグナー音楽を奏でていた。そして、世界最高水準の歌手たち。力がハーモニーとなって、感動の時間となった。

 「芸術の力」を感じさせる、すばらしい『パルジファル』の成功を、祝いたい。

 上演はあと4回あって、スケジュールさえ合えばもう一回行きたいくらいだが、果たせない。山崎太郎君は、もう一回行くそうだ。(昨日確認したら、国内外のオペラを、山崎君は年間40〜50は見ているとのことだった。お仕事に関連してとはいいながら、凄いことだ。)

 新国立劇場の梅田潤一さんによると、ハリー・クプファーの構想を実現するために、スタッフは本当にご苦労されたようで、その成果は舞台に現れているように思う。

 ぜひ、みなさんに見ていただきたい。特に、若い世代には、多少無理をしてもいいから、足を運んで欲しい。

 ぼくは、学生時代から、無理をしてバイトをしたお金をつぎ込んでオペラに通ったが(「オペラ係数」は異様に高かった)そのことが、今、間違いなく「糧」になっていると思う。芸術とは何なのか、自分の中で、揺らぐことのない基準ができるから、何かに出会った時、ぶれることがないのである。

 振り切れているものを知らないと、日常的な多くのものを、判断することもできない。それは、人生最大の不幸でもあるのだから。一方、振り切れているものを知っていることは、人生最大の幸福である。

http://www.nntt.jac.go.jp/opera/parsifal/

10月 3, 2014 at 07:53 午前 |

2014/10/01

 昔の人は偉かった。

仕事で、群馬県の伊勢崎市にある境町駅付近に行かなければならなかった。

 ネットで調べると、乗り換えがかなりたいへん。両毛線などを使って、がったんごっとん行かなくてはならない。

 商売柄、昼下がりのローカル線は、時々困ったことがあって、特に、下校時の高校生の集団なんかに見つかると、意外と面倒な時間が訪れたりする。

 困ったなあ、と思って、しばらく地図を眺めていたら、良いことを思いついた。

 そうだ、埼玉県の早稲田本庄駅までは、新幹線で行ける。

 そこから、利根川を超えて、境町駅まで歩いていけばいい!

 幸い、ある程度、時間があった。

 即、実行。本庄早稲田駅から、てくてく、途中、利根川の雄大な景色を眺めながら、折々にぼんやりとたたずんだりして、4時間10分かけて、歩いていった。

 利根川の流れの中には、腰までつかって釣りをしている人がいた。

 いいなあ、大きな空、広々とした大地。

 境町駅に着いたときには、とっぷり日が暮れていた。この上なくぜいたくな午後を過ごしたように思った。

 「本庄早稲田から、歩いてきました」と言ったら、相手方は大いに驚いていたが、考えてみると、昔の旅人はもっと長い距離を歩いたのだろう。

 昔の人は偉かった。

 よく言われることだけれども、私たちは、ふだんの文明の生活で、命のスペクトラムのほんの一部しか使っていないことを、時々思い出してみる。

Walk20140930b


10月 1, 2014 at 07:20 午前 |