松本ぼんぼん
はっと気づいて外を見ると、もうとっぷりとくれていた。
塩尻の駅に、近づいていた。目的地は、もうすぐだ。
「まつもと〜 まつもと〜」
この声を聞く度に、郷愁を感じる。この地をふるさと呼ぶ人ならば、なおさらのことだろう。
ホームに降り立ち、階段をあがると、こんな夜に、と思うほど多くの人たちがあふれていた。
ゆかたを着た女の子が、髪の毛をつばめの尾のようにきれいに流して、男の子といっしょに歩いている。
幼い兄と、妹と、ちょっと疲れたようなお父さん。
お母さんがこっちよ、と叫んでいる。
歩くのが、少したいへんなくらいだった。
通りすがりの女の子が持っていたうちわに、「松本ぼんぼん」の字が見えた。
もともとの「ぼんぼん」は、女の子のための祭りなのだそうである。城下から始まった夏の習慣。
「ぼんぼんとても今日明日ばかり、あさっては山のしおれ草」と言いながら歩く。
タクシーの運転手さんが、目的地がわからない。
センターに無線で問い合わせようとしても、「よく聞こえないんですよね」と心もとない。
なんとはなしに不安なきもちで、すっかり底が黒くなった夜の道を行く。
あちらこちらが祭りなのか、どこまで行っても提灯が並んでいる。
ご先祖さまがかえってくる季節だ。
ふと、時の流れ、ということを考えた。
もう、すべては、二度と戻ってこない。
メメント・モリとは、つまり、今が過去になってしまう、ということなのだろう。
時間の流れには、誰も、抗せない。
権力者も、弱きものも、あの、祭りの女の子も。
とりかえしは、つかない。
圧倒的な壁に立ち塞がれ、不安に背中を押されて暗がりを疾走していく。
ずいぶん長い喪失のあとで、ようやく、命そのものの芯に触れたような気がした。
車はトンネルを抜け、小さな明かりが、大きくなった。
8月 2, 2015 at 11:10 午前 | Permalink
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