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2007/04/08

全宇宙を再創造するために

京都から帰ってきて、
汐留で打ち合わせ。
 有意義な時間であった。

 上野の国立博物館に。

 レオナルド・ダ・ヴィンチの
『受胎告知』を池上英洋さんと
一緒に見る。

 先日、NHKの番組の収録の
ときにもじっくり見ることが
できたが、今回も30分ほど、
絵の前に立って動かなかった。

 池上さんは、東京芸術大学での
布施英利さんの後輩。
西洋美術史、特にレオナルド・
ダ・ヴィンチをご専門としている。

 「レオナルドは、当時の一般的な
画家とは異なって、
自分の技法に自信がなかった、というか、
迷いに迷ったあげく、一筆だけ
描いて、その日を終わる。そんなやり方を
していたという記録が残っています」
と池上さん。

 レオナルドの『受胎告知』には、
このテーマについて
当時描かれていた様々な絵の技法とは
明らかに異なる方法が採用されており、
さまざまな画期的イノベーションが
含まれているという。

 私は、前回この絵を見た時に、
アカデミズムの最高の精華、
すなわち、人間とは何か、生命とはなにか、
宇宙とは、神とは、人間と神の関係とは
といった様々な問題について、徹底的に
考え抜いた人でなければできない表現
となっているということを思ったが、
 見れば見るほど、その叡智は
永遠に解かれぬ謎として絵の中に
込められているように感じられる。
 
 100年、200年、1000年
経ってもわからない。それどころか、
そこに謎があることにさえ気付かない
ような、そんな謎のあり方は、
ちょうどこの宇宙の有り様と似ている。

 ニュートンが気付くまでは、私たちは
地上のものは落ちるという現象の背後
に秘められた謎に気付かなかった。
 意識の謎も、気付かなければ
そのままで通り過ぎてしまう類の
ものであろう。

 名残惜しかったが、
 絵の前を離れて、レオナルドの手稿
(精巧な複製)や、科学技術研究についての
モデル展示を見る。

 レオナルドが鏡文字を書いていた
ということは知っていたが、ここまで
徹底していたとは知らなかった。
 池上さんによると、他人に読ませる
ための文章以外は、全部鏡文字で
書いているのだと言う。

 はっと気付いたのは、鏡文字で
文章を書くと、アラブ文字と同じように
右から左へと書くことになると
いうことである。

 最近、レオナルドの母はアラブ系で
あったという説が発表されているが、
そのことと、レオナルドの鏡文字への
執着の間には、何らかの関係が
あるのだろうか?

 レオナルドの手稿に表れた拡散的思考と、
絵画におけるすさまじいまでの凝縮の
コントラストに改めて驚く。 

 いろいろなことに関心を持ち、
試みる。

 そのような「様々な方向に散っていく」
志向性と、生涯手放さなかった『モナリザ』や
『洗礼者ヨハネ』のように、一つの絵が永遠に
完成しないかのような手業を積み重ねていく
執念と根気は、レオナルドの中でどのように
両立していたのだろうか。

 現代においては、様々な方向に散って
いくことはインターネットの発達によって
簡単にできるようになっている。
 困難なのは、「これ」と定めた何かに
ずっと集中し、蓄積していく執念を保つ
ことであろう。

 しかし、死んだ後でアイコンとして
残るのは結局は凝縮と集中の方である。
 「メメント・モリ」は、生きている
間の選択と集中の倫理としてはたらく。

 最後に、池上さんと、レオナルド・ダ・
ヴィンチにおける知の総合性とは何か
ということについて話し合った。
 
 絵を描くということは、世の中にあるものを
ただ単に写し取る「写実」であると思われ
がちだが、レオナルドが目指したのは、この
宇宙自体をキャンバスの上にもう一度創造して
しまうということではないか。

 総合的知性の最高のものは、この宇宙を
創造した神の知性である。
 ビッグ・バンによって宇宙が誕生し、
それ以来の歴史的発展の中で、やがて生物が
誕生し、我々人間が進化し、こうして、私と
池上さんが、国立博物館の中でレオナルドの
天才の本質について話し合っている。
 そのようなことが可能であるように
全てあらかじめ設計しておくことは、
最高の知性の顕れである。

 レオナルドは、つまり、絵画の中に
全宇宙を再創造するために、宇宙についての
全てのことを知らなければならなかった
のであろう。

 「最高の総合的知性は、クリエーター
(創造者)であることと一致する」
という言明の論理的な裏付けが、ここにある。
 
 だから、アーティスト諸君は、本当は
諸学を学ばなければならないし、
 逆に、学者は、論文だけがアカデミズム
の形態だと思っていると、道を誤るよ。

 神が予定した宇宙の秩序の中には、
私たちの意識があり、クオリアがあり、
観念がある。

 そのような形而上学的表象と、
物質界の関係を問うのが「心脳問題」
である。

 レオナルドは、永久機関のスケッチを
描いた。

 もちろん、実際にはこの世界には
永久機関は存在しないが、「永遠」とか、
「無限」といった概念が、目の前の物質
と無関係であると思うのではなく、何らかの
形で関連しているはずだと信じて、具体的な
作業を行う。

 人間の精神にとって最も高貴な
業である。
 職人の栄光と、心脳問題に対する
感性の実践的作用は、同じ場所にある。

 その時、
 私たちの「手」は、永遠と「今、こ
こ」を結びつける一つのメディアとなる。

 レオナルドと向き合って、ふくよかな
疲労を感じながら西門から外の夜風の中に
出ると、
 自分を包む暗がりが無限の宇宙と一つながり
であることがはっきりと直覚された。

4月 8, 2007 at 08:58 午前 |

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» 4月8日晴れ トラックバック 4月8日
昨夜は雨で 行くのやめよかなあと 思ったけど、 起きたら晴れ☆ やっほ~い☆ これは行かねば・・・。 お供は甥っ子2号。 パンダで釣る(笑) 入場無料だし・・・ ( ̄ー ̄)ニヤッ  妹に駅まで送ってもらい、 TXで北千住→常磐線で上野へ。 思ったほどの混み具合ではなく、 ホッ。てくてく歩く。いい天気☆ 気持ちエエ。で・・・ きました。。。東京国立博物館。 「ここにパンダいんの~?」 という甥っ子2号を 「すごい絵見てからね~」と 説得し、鑑賞。 ... [続きを読む]

受信: 2007/04/08 22:55:55

コメント

万能の人として知られる、レオナルド・ダ・ビンチは、
膨大な素描やメモを記したノート等を残しながら、
生み出した芸術作品の数は、意外に少ない。
「受胎告知」は、ダ・ビンチのデビュー作とも呼ばれ、
まさに原点となる作品。
 
宇宙を、その手で、ぐい、と引き寄せた。
だから、ダ・ビンチの絵には、
広大な宇宙の秩序を見るとともに
そこから、私たちの内在するものへと
つながっていくのだろう。

投稿: フミ | 2007/04/09 0:02:16

今日は文章が飛び跳ねている感じです。
先生は、相当面白かったのでしょうか、
読んでいる方も興奮でワクワクしてきます。

私は小さい頃から絵を描くも見るのも大好きで、
美術館に行っても、気に入った絵があれば
見つづける時間は1~2時間どころではありません。

ジーーーッと見つめつづけて、美しさの興奮を楽しんだ後、
見過ぎてわけがわからなくなってきたなという頃に、
ブワーーッとあらゆる感覚が襲ってきます。

喜びとか驚き生生しさ、興奮、色感覚、光感覚、透明度。
画家が作品を描いている最中の感情や体感×時間が
積分的に降って来る感覚なのです。

ゲルニカとかゴッホは苦しくてツライですが、
大抵の印象派は五感的喜びを大量にくれます。
ロマン派は物語を。そしてダビンチは。


私は感覚の妙を言葉にして人に伝えますが、
芸術家はそれらを絵にして伝えているのだと思っています。
一筆一筆の妙を自分の感覚の妙と対にするのです。

そして芸術家の一筆一筆の妙と共有する
感覚の妙を持っている人に
ちゃんと伝わってゆくのではないかと思うのです。

芸術家の感覚の妙=一筆一筆の妙=鑑賞者の感覚の妙

そこではじめて作品を通してコミュニケーションが
成り立つというわけです。
このコミュニケーションは言語的なものとは別な形ですが
しかし全人類が経験的に知っている明確なものだと思います。

あくまでも、コミュニケーションの論点に特化した
私の芸術の見方、捉え方ですが

そういった私の視点からみても
先生は物凄くダビンチと共感できたんだろうなと思います。
先生は諸学の感覚の妙を鍛えているのですから。

先生は600年も昔の人と話をしてきたのではないかしらん。
あらゆる叡智を含めたダビンチのクオリアを
受け止めてきたんじゃないかしらん。

今回のレオナルド展に先生を呼んだ人は偉いなあ.

ついでに言えば、ダビンチは受胎告知の生命の謎を
上手く先生にバトンタッチできたということかしらん。

海は動いているから生きている。
全てゆれている。
「この叡智を受け止めた人が、この謎を継いでください。」

私には大きすぎるメッセージですが、
先生にはどうなのかしらん(笑

投稿: tereki | 2007/04/08 21:25:53

『天才論』読了しました。
ブログに感想を書かせていただきます。

投稿: 河村隆夫 | 2007/04/08 12:01:50

はじめまして。

>「メメント・モリ」は、生きている
>間の選択と集中の倫理としてはたらく。

僕は縁起説が好きです。
縁によって起こる事象に対する選択と集中には、
ようやく主体が現れる。
宇宙は固体に縁をもたらせ、
選択と集中によって個性が輝き出す。
そんな感じが好きです。

レオナルドが考えるクリエイターとは、
とかく元である宇宙を忘れがちな我々に、
宇宙との一体感を思い出せる作業をする人、
という事なのかもしれません。

未完成さはレオナルド自身の無知に対する自信の表れなのかなぁ、
なんて事をこの記事を読みながら感じました。

投稿: hayashi | 2007/04/08 11:08:56

イベントなのでしょうがない事もあるのですが
(常設展は違いますが)
どうも美術館はせわしなく、ゆっくりと見ることが出来ない様な気がします
(しょうがないことです、それだけ芸術に関心のある人がいると言うことは素晴らしいことでもありますし)
そんなこともあって、あまり一つの絵に長時間見入った経験がなく
自分の感性の乏しさが身にしみる私ですが

去年の汐留に展示されていた
岡本太郎「明日の神話」はよい展示のされ方をしていたと思いました
壁画と向かい合うようにカフェがあり
腰を下ろしながらゆっくりとその空間に浸れるというのは
中々ない体験で
ぼんやりとですが、私も長時間その壁画と向き合うことが出来ました

願わくば、もっとそのような
(少し大衆的ですが)芸術と気軽に向き合える場所が増えないものか
身近に芸術的に向き合える何かが増えないものかと望むのですが
芸術というものがどうしても貴重で高価なこともあり
中々、実現は出来ないようです

「諸学を学ばなければならない」
恐れ入ります
努力してはいるのですが
どうも世の中分からないことだらけで
無駄な時間を費やしています

投稿: 後藤 裕 | 2007/04/08 10:33:41

ダ・ヴィンチの『受胎告知』を始めとする一連の名作の中に、
宇宙的で普遍的な深いものが沢山詰まっているのではないか。

人とは何か?生命とは何か?人と神との関係性とは如何?
…といった人類普遍の問題をトコトンまでも考え抜いた
ダ・ヴィンチだからこそ、あのような深い作品群を
残し得たのではなかったか。

そして、宇宙について全てを知るべく様々なことを
学び尽くしていった。

ダ・ヴィンチも「学びの人」だから
全宇宙のことを知ることが出来、それを作品群に
込めることが出来たのだ、
仮令幾年経とうと、他人には容易に永久に
解かれぬ「謎」として…。

宇宙の永遠、無限(可能無限)と今ここにあるものものたちは
決して関わりないものではなく、繋がっている。
それを「永久機関」という実際にはあり得ないものとして
表現してみせた一人がダ・ヴィンチなのだろう。

ふと、一つ思うのだが、宇宙を創造した「神」とは、
宇宙の全て存在するものに具わる、万物を貫く生命普遍の法則に則って生まれるその「力用」ではないのだろうか。

ダ・ヴィンチはそれについて必死に考え、それについて得た答えを
『モナリザ』や『受胎告知』『聖母子像』に解かれぬ謎として
封じこめたのだった。

ダ・ヴィンチのようにならなくても、
アーティストは諸学を本当に学ばなくてはならない。
あのビートたけしとて、諸学を人には見えないところで、
学んでいるからこそ、
いろいろな分野で才能を発揮できるのではないか。

茂木先生は、宇宙の秩序の中にある、
人の意識とクオリアの問題―心脳問題の
今だヴェールに覆われた謎を解くために、
色々な分野に敢然と飛びこんで、
そこから海綿のようにいろいろなもの・ことを吸収されている。

おそらくは、そこで得た知見を心脳問題の解明につなげようとなさって
いるのに違いない。

人間の精神にとって最も高貴な業を、私達はどれだけ
個々の生活の中にて、執り行っているのだろう。

投稿: 銀鏡反応 | 2007/04/08 10:06:10

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