文化大革命

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
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革命無罪造反有理.png
毛同志認可
造反有理!! 革命無罪!!!

本項の文章と内容は、完全に正しい事実として中華人民共和国国家安全部により認定されており、 全ての中華人民共和国人民と、中華人民共和国共産党員に見せることが認可されています。

この資料を疑う者は反革命分子であり、疑った場合は農村へ送られて労働と学習と自己批判をすることになります。


主謀者の毛沢東。確かにユーモアのある髪……ゲフンゲフン

文化大革命(ぶんかだいかくめい)とは1960年後半から1970年前半にかけて行われた、中華人民共和国におけるアンサイクロペディアンウィキペディアンの権力闘争である。

革命と銘打ってはいるが実質は混乱と抗争と萌えと萎えからなるグダグダな争いであり、結果的に2000万人を超える死者・餓死者を出して中国およびアンサイクロペディアを大きく衰退させた。(この2000万人はあくまでも最小の数値であり、実際は7000万人を超えるといわれている。)


背景[編集]

劉少奇。確かにユーモアのない顔である。

中華人民共和国の思想統制はアンサイクロペディアを中心としたユーモアを庶民に広げつつ、その管理者を神格化することで進められてきた。 そのため中国版のアンサイクロペディアの項目は1950年代にはすでに100万項目を突破しており、有史以来もっとも盛んなアンサイクロペディアとして世界的に有名であった。

中国版の管理者であり、国家主席を努めていた毛沢東はその威光をもって国民を統制するという体制を敷いていたが、唯我独尊気味な性格が災いして管理者をあまり増やしてこなかった傾向にあった。 そのため、IPユーザーとリアル中二病患者が大量になだれ込み、スタブと語録だらけの記事や、箇条書きをただひたすらしたような記事、果ては自分のユーザーページにリダイレクトを貼るといった行為に及んだ。

これらの記事の濫造は、瞬く間にうちに管理者の手に余るようになり、毛沢東らはその対応が批判されるようになっていった。

そこで毛沢東らは「大躍進運動」と銘打って「管理者選挙制度」「のびた君制度」「私はブチ切れている宣言」などといった行為に走るものの、決定的な成果を挙げるには至らず、次第に求心力を失っていった。 これに対して力をつけたのが、専門家気取りのユーモアのない連中が作り出した百科事典、ウィキペディアである。

このウィキペディアの管理者であった劉少奇は出来の悪い、アンサイクロペディアならNRVを貼られてもおかしくない記事を「スタブ」と言い張ってそのまま放置するという、アンサイクロペディアでは考えられない手法で人民を取り込んだのである。

その結果、国家権力は徐々に劉少奇へ移動していってしまい、毛沢東は「あんなユーモアのない顔の奴が国家主席なんてたまるか」とばかりに政権奪取の下地を整えていったのである。

文化大革命の展開[編集]

文化大革命はその展開していく段階を三つに分けることが出来るといわれる。

  • 第一段階
1966年5月~1969年 戦う萌え系アイドルユニット、紅衛兵が結成され、第2期9回「アンサイクロペディア管理員オフ会」において、林彪が「文化大革命宣言」をするまで。主に文革の前哨段階である。
  • 第二段階
1969年~1973年 第七期十回「アンサイクロペディア管理員オフ会」で林彪の変装がバレ(後述)、加粒子砲で撃墜死するまで。後衛兵の暴走が最盛期を迎える。
  • 第三段階
1973年~1976年 毛沢東が幼女分を摂取しすぎて(後述)萌死、四人組が逮捕されるまで。つまり、毛沢東の死の直後まで。収束段階。

発端[編集]

1965年、姚文元はアンサイクロペディアのForumおよびウィキペディアアンサイクロペディアのページのノートに、「私はまたブチギレている!」と題し、毛沢東らアンサイクロペディアンに批判された管理者を暗に擁護する文章およびFlashを掲載したウィキペディアンを批判した。

結果的にこれは文化大革命の火種となり、1966年には北京大学の壁一面にNRV記事が張り出されるという事件が起きる。これらはすべてウィキペディアンを批判した内容であるが、あまりにつたなくお世辞にもユーモアのある内容ではなかった。

しかしすべての中国革命の火種が燃え上がるのは北京大学生の悪ノリであるとされているように、ここから全土へ文革の火は確実に撒かれたのである。

そして1966年5月16日には「通知」や同八月の第八期八回アンサイクロペディア管理員オフ会において、文革の要綱が林彪を経由して行われたのである。

林彪の見るに耐えない煽動[編集]

これが、
コレになった!
紅衛兵。歴史としては先駆的な萌え系ユニットであるが、中国における黒歴史の筆頭である。
学力低下の影響により、未熟な日本語しか書けなくなってしまった例。
ウィキペディアに関連する偶像、文化財の多くは破壊された。
大量のウィキペディアンはこうして捕獲された。

報告によれば、アンサイクロペディアンはウィキペディアンを完全に否定した形となっている。

「ウィキペディアンらブルジョワにおぼれた指導者たちは、まさに「井戸端」というブルジョワ司令部を形成し、アンサイクロペディアンを虐げている。また彼らは一向にユーモアを理解せず、専門化気取りの頭の固い記事しか作ることに念頭にないばかりか、スタブと称してスカスカな記事を放置し放題である。こうした邪悪な支配から脱出し、下から上へと階級を含めた全段的な闘争を起こすべきである」 と書かれていた(原文ママ)。

毛沢東の忠実な僕であった林彪は文化大革命を権力闘争へと拡散させた上で、さらに権力闘争と看做してたと思われる。

一方で林彪はもっと自分に忠実な兵を作り上げるには、自分が萌え萌えアイドルに変装するしかないと思い立ち、魔法少女に依頼して緊縛スク水猫耳少女へと変装した。なお、当時林彪は頭に包帯をぐるぐる巻きにしていたという報告があり、おそらくは頭を強打したものと推測されているが、この政策との関連は不明である。

しかし林彪はのこ政策により熱狂的な支持者を獲得したばかりか、毛沢東にすら惚れ込まれるにいたったのである。


紅衛兵の結成[編集]

こうして萌え系アイドルとして北京を中心ににぎわせた林彪は無垢な学生たちを魅惑のポーズで取り込み、忠実な僕に仕立て上げた。

もともと1960年代には毛沢東は殆ど軍事力を失っており、その補填を行う目的が大きかったのである。

結果的に彼女たちは「戦うアイドル」として全中にユニットデビュー、学校をおっぽり出して革命運動と称した遊興に走った。毛沢東は彼らを「造反有理 革命無罪」と熱烈に支援する姿勢を見せた。

しかしブルジョワジーとしてウィキペディアンを憎む一方、典型的な中二病患者でもあったため、後に毛沢東自身ですら制御できない勢いで暴走してしまう(後述)。 なお、「地球は滅んでも中二病とゴキブリは生き残る」という諺はこのとき生まれた。

この行為は俗に「下放」と呼ばれ、後々の中国において人材不足や学力不足を生む結果となった。

四人組[編集]

これに悪乗りしたのが当の毛沢東で、戦隊系ユニットを結成すると赤ん坊も斯くやのゴネゴネを発揮。

ドン引きしていた嫁・江青をかまわず引き連れ、彼女を中心に「文革戦隊 ゴニングミ」を結成。実質的な毛沢東(レッド)の下部組織であったため、現在では四人組として扱われている。

なお、彼らは政策・ギャグ・方向性ともにグダグダにすべりまくった、ある意味紅衛兵よりも罪作りな集団である。

ウィキペディアンの打倒[編集]

鄧小平劉少奇などの人物に対しては、2ちゃんねるなどで「劉少奇叩き・アンチ専用スレ」といった題目で、特定管理者・権力者・実力者を名指しで叩くスレッドが次々と立てられた。

さらに紅衛兵らはウィキペディアン実際に捕まえて天安門広場に連れ出すと、スタブ部分も含めた記事を大声で音読させるといった辱めを与えた。

さらにはウィキペディアのページにおいても多数の記事が田代砲で攻撃され、サーバーが幾たびにわたって落ちるという異常事態を引き起こした。

このため、1973年7月から文革終結まで、多くのウィキペディアの記事は半保護・完全保護状態となり、殆ど編集が出来なかった。

また実生活では大量の文化財、ウィキペディアの関連会社、パソコンなどが次々と破壊された。

殺戮と弾圧[編集]

徹底したマルクス・レーニン主義によってすべての宗教・ウィキペディアンは否定されるにいたり、ことチベットにおいては人種差別もあって手ひどい虐殺が行われた。

また、紅衛兵の取り巻きは言うまでもなく猫耳崇拝主義者であったため、鉄道オタクの多いチベット地方とは当然と批判と弾圧の対象になってしまった。

また僧侶が多いチベットにおいて、鉄道オタク=ユーモアのない記事投稿者という強烈な認識もあいまって、大量に虐殺されるにいたった。 国内においても多くの餓死者・処刑者が出た。その数はゆうに1000万人とも3000万ともいわれている。

批林批百科事典運動[編集]

1973年8月から1976年の間、四人組の発起によって頭の固い儒教とウィキペディアは悪人として批判対象となり、アンサイクロペディアを善人とする定義がなれた。 前者は完全に否定され、以後研究者は弾圧・処刑されていった。

善人
Carlb、曹操はわわアンサイクロぺたんアンサイクロペディアン、韓非、毛沢東、猫耳など
悪人
ジミー・ウェールズ、ラリー・サンガー、ウィキぺたんウィキペディアンランスなど。

これに伴い、アンサイクロペディアに係る画像・記事は逆に神聖化・偶像化を進めた。

司馬遼太郎の現地レポートによれば、それまでアンサイクロペディアンをある程度支持していたが、現地の子供たちがウィキぺたんのゴム人形を鉄砲で打ち抜いているところを目撃。 もともとKasuga氏のファンであったため、非常にショックをうけた司馬は、以降はアンサイクロペディアンや毛沢東に否定的な考えを示すようになった。

また空気の読めない四人組は海外でも同調を呼びかけたが、この考えに賛同するものは殆ど居なかった。海外からすれば「お前なにやってんだよ」的なレベルの話である。というか、子供でもわかる話である。

四人組はこうして、スベリまくり四人衆として歴史に刻まれた。

紅衛兵の暴走と林彪撃墜事件[編集]

これが、
コレになった……orz

こうして革命というより内ゲバに近い様相を呈し始めていた文革であるが、紅衛兵は典型的な中二病を発しつつ、1972年前後には膨大な数に膨れ上がっていた。

つまり紅衛兵は当時、林彪の萌化によってなんとかギリギリのラインを維持するという、拮抗状態にあったのである。

しかし1973年8月、林彪は「定期アンサイクロペディア管理人オフ会」に参加した際、その席で体調を崩してしまい、同時に萌化の魔法が解除してしまう。これにより多くの紅衛兵が「萎え」の状態に入ったばかりか、毛沢東までも深いため息をついた。

場の空気を察した林彪はジェット機で逃亡したが、程なく紅衛兵らはやりきれない感情を加粒子砲に詰めて発射。林彪は撃墜死した。なおに毛沢東は事件当時、「撃つなよ、そこにスイッチ入れた加粒子砲がジェット機に照準当たってるけど撃つなよw」と紅衛兵に言っていたため、殺害の意図はなかったといわれている。

この事件をきっかけに紅衛兵はストッパーを失い、やりきれない怒りを身に覚えてしまい、毛沢東の意図しない方向へ暴走を開始。

誰も言わないようなことを臆面なく連呼し、最終的には「毛沢東はヅラだ!」と批判するまでにいたってしまう。要するに「言いすぎた」のである。


紅衛兵が臆面なく言い放った言葉、および関連した行動[編集]

  • 赤は中国共産党の色なのに、赤信号で立ち止まるのはおかしいと主張。一部の赤信号は青信号に、青信号は赤信号に変わったため、交通機関が大混乱に陥った。
  • ウィキペディアをつくったアメリカは右側通行だ、わが国も右側通行はおかしいと主張。紅衛兵は左側通行をしたため、しょっちゅう交通事故が起きた。これらの事態収束には周恩来が動いたという。
  • コミックマーケットがあんなに混むのはおかしいと主張、10億人近い中国人がダミーサークルを作って参加、サークルチケットによる中国人の開場前行入場・行列の問題が起きた。
  • 「パワーアップキットって詐欺商法だろ」
  • 楽天ってなくてもいいんじゃね?」
  • 靖子にゃんの良さが判らない人は、真の特オタとはいえません!と主張、未来戦隊タイムレンジャー侍戦隊シンケンジャー、実写版美少女戦士セーラームーン仮面ライダーオーズのDVDを置いていないショップを腐女子の大群を伴って襲撃、焼き討ちした。


文革の収束[編集]

しかしこんな内ゲバをしていれば、国力が衰退するのは目にも明らかである。そのため、活動自体を続けることが中国内では困難になっていき、次第に沈着し始めていった。

これに追撃をかけるかのように、ハヤテのごとく!灼眼のシャナを視聴していた毛沢東は、さらにもえたんしゅごキャラ!などを読みふけっていたため、幼女分を過剰摂取し、死亡する。

幼女分過剰摂取は、ロリータシンドロームに代表される諸症状を発症する死に至る病に繋がることは、当時究明されておらず、皮肉にも林彪を切り捨てた毛沢東自身が萌死するという結末を迎えてしまったのである。

こうして指導者を失った文化大革命は一時期大混乱に陥るが、この間隙を突いて鄧小平は反撃に出て、軍部を掌握すると四人組を逮捕し、処刑した。 さらにアンサイクロペディアのサーバーをダウンさせ、その殆どのデーターを掌握、改変してしまった。

また各地で紅衛兵は捕獲後、アイドルユニットを解散させられ、農村や僻地へ放逐されていった。

文化大革命のもたらしたもの[編集]

結果的に文化大革命はアンサイクロペディアを大きく衰退させ、中国共産党内では黒歴史として扱われることになる。

現在アンサイクロペディアは二万項目に遥かに及ばないのに対し、ウィキペディアが百万項目をさらっと超えている現状は、この事件の影響が非常に大きい。

文化大革命に対する中国外の反応は共産主義者を除いて否定的であったが、極一部において否定以外の反応をした者もいた。有名な例として、スタジオジブリの高畑監督が制作した、紅衛兵の農村放逐を肯定的に捉え、日本の現状に則して下放を推奨した作品『おもひでぽろぽろ』がある。

しかし、歴史は皮肉にも、本革命をロシア革命と並んで、高く評価する。なぜなら、本革命のお陰で地球環境破壊が大幅に喰いとめられたのである。

エピソード[編集]

  • 毛沢東の趣味でロリキャラが愛好された。特に毛沢東はロリナイズドされた「西王母萌え」という新しいジャンルを作り出した。
  • 空前のネコミミブームとなったため、猫が非常に愛好動物として流行したが、飼育者は耳しか見ていなかったという。

関連項目[編集]

Bouncywikilogo.gif
文化破壊運動