佐竹氏

日本の氏族
佐竹家から転送)

佐竹氏(さたけし)は、武家華族だった日本氏族清和源氏源義光の孫昌義常陸国久慈郡佐竹郷に土着し、佐竹氏を称したのに始まる。平安時代末に平家に属して源頼朝に抵抗したので勢力を落としたが、鎌倉幕府滅亡後は足利氏に属して常陸守護職に補任され勢力を回復[4]戦国時代には常陸国・下野国から陸奥国にまで勢力をのばし、北関東最大の大名として後北条氏伊達氏と争った[5]豊臣秀吉からは水戸54万石を安堵されたが、関ヶ原の戦いで西軍に属したことで1602年に秋田20万石に減封された。戊辰戦争では官軍に属して戦い、維新後には侯爵に列せられた[5]

佐竹氏
家紋
佐竹扇さたけおうぎ五本骨扇に月丸ごほんほねおうぎにつきまる
本姓 清和源氏義光流
家祖 佐竹昌義
種別 武家
華族侯爵
出身地 常陸国久慈郡佐竹郷[1][注釈 1]
主な根拠地 常陸国太田水戸
出羽国久保田
東京市麹町区九段
著名な人物 佐竹秀義
佐竹義重
佐竹義宣
佐竹義敦
佐竹義和
佐竹義堯
佐竹敬久
支流、分家 山入家武家[2]
岡田氏(武家)[3]
岡部氏(武家)[2]
額田氏(武家)[2]
小場氏(武家)[2]
小田野氏(武家)
白石氏(武家)
高村氏(武家)
古内氏(武家)
袋田氏(武家)
松山氏(武家)
三村氏(武家)
ほか
凡例 / Category:日本の氏族

通字は「」。佐竹氏は家紋として定紋の「扇に月」(一般的には日の丸扇と呼ばれている)の他に、源氏香(花散里)・笹竜胆・佐竹桐・丸に釘貫・丁子巴・鉄線を加えた七つの家紋を「御当家七ッ御紋」としている。源氏から中近世大名、華族として明確な系譜が現代まで残った中ではもっとも大きな流れの一つである。


出自

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佐竹氏は甲斐源氏武田氏と同じく、源頼義の三男で源義家の末弟・源義光の子孫である義光流源氏の一族である[1]。佐竹氏の初代当主については、義光とする説、義光の嫡男で常陸源氏祖・進士判官の義業とする説、義業の子の昌義とする説があるが、昌義が常陸国久慈郡佐竹郷(現在の茨城県常陸太田市稲木町周辺、旧佐竹村)に住み地名にちなんで「佐竹」を名乗ったことから、昌義を初代当主とする説が一般的である。家名については、昌義が佐竹郷にある佐竹寺で節が1つしかないを見つけ、これを瑞兆とし、佐竹氏を称したという話が伝わっている。

史料で確認できるところでは、『吉記』承安4年3月14日条に「佐竹」の名が出てくるのが最古であり、それからそれ程さかのぼらない時期に佐竹氏が成立したと推測できる[6]

平安時代から鎌倉時代

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平安時代の後期には、佐竹氏は既に奥七郡と呼ばれる多珂郡・久慈東郡・久慈西郡・佐都東郡・佐都西郡・那珂東郡・那珂西郡など常陸北部七郡を支配し[1]、常陸に強い勢力を持つ常陸平氏の一族大掾氏との姻戚関係をもとに強い勢力基盤を築いていた。また、中央では伊勢平氏と、東国では奥州藤原氏と結び、常陸南部にも積極的に介入するなど常陸の有力な豪族としての地位を確立していた。

治承・寿永の乱においては、佐竹氏は平家にくみしたために源頼朝によって所領を没収された[7]。後に頼朝に従って奥州合戦に加わったが[8]、近年の研究では奥州合戦の直前まで佐竹氏の抵抗が続いていたと考えられている[9]。奥州合戦の際に無地の白旗を持参したところ、頼朝の旗と等しかったことから紛らわしいとの理由で、を白旗の上に付けるよう命じられた[10]。この扇はを描いており、以後、佐竹氏は家紋として「扇に月」(一般的には日の丸扇と呼ばれている)を用いることになる[10]

承久の乱の戦功によって佐竹氏は美濃国に所領を与えられるが、その時一族の一部が美濃に移住した。後に和泉国土佐国に見られる佐竹氏もその末裔と推測される[9]

鎌倉時代においては、奥七郡への支配権は宇佐見氏、伊賀氏、二階堂氏などに奪われ、後に北条氏などがそれらの郡の地頭職を獲得し、佐竹氏は不遇の時代を過ごすことになる。

常陸佐竹氏

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南北朝・室町時代

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元弘の乱を経て南北朝時代になると、佐竹氏第8代当主貞義および第9代当主義篤は早々に足利氏に呼応して北朝方に属し[11]小田氏白河結城氏といった関東における南朝方勢力と争う。室町幕府が樹立すると、これらの功績から守護職に任ぜられ、やがて幕府の関東出先機関である鎌倉府の重鎮として活躍した。また、貞義の息子の一人である師義は足利将軍家の直属の家来である京都扶持衆に選ばれ佐竹山入家(山入流佐竹氏)を興した。

義篤の孫で第11代当主義盛の時代、第3代鎌倉公方の足利満兼より関東の8つの有力武家に屋形号が与えられ関東八屋形の格式が制定されると、佐竹氏もこのひとつに列せられた。以後、佐竹氏の当主は「お屋形さま」の尊称をもって称された。

しかし、佐竹氏は先述のように鎌倉公方を主君としたことから足利将軍家と鎌倉公方の争いに巻き込まれることも少なくなかった。室町時代中期、佐竹氏宗家当主の佐竹義盛に男子がなかったことから、藤原北家勧修寺流の流れをくむ関東管領上杉氏より佐竹義人婿養子に迎えられて第12代当主となる[11]。佐竹氏の庶家で佐竹の男系の血筋を引く佐竹山入家はこれに反発し、宗家に反旗を翻すことになった。佐竹山入家が室町幕府と結んで佐竹宗家の常陸守護職を奪い山入の乱(山入一揆)を起こしたこと、さらには、名目上傘下にあったものの実際には独立勢力であった那珂氏(後の江戸氏)の存在などもあったことから、佐竹氏の勢力基盤は脆弱(ぜいじゃく)であったといえる。こうした内紛もあり、戦国時代に突入した後も佐竹氏の常陸統一は困難を極め、戦国大名化も遅れた。

戦国・安土桃山時代

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戦国時代になると、佐竹氏第15代当主で「中興の祖」と呼ばれた義舜が現れ[11]、佐竹山入家を討ち、佐竹氏の統一を成し遂げ久慈川以東の常陸北部の制圧に成功した。しかし、相変わらず江戸氏は不穏な動きを続け、更に山入家との戦いの間に独自性を強めた小場氏・宇留野氏・長倉氏などの久慈川以西の一族も叛旗を翻した(部垂の乱[12]。また関東の制覇を目指す北条氏の侵攻などもあって、常陸統一は非常に困難な状況にあった。

義舜の曾孫で佐竹氏第18代当主の義重は、「鬼義重」の異名をとる名将であった。義重の時代に佐竹氏は江戸氏や小田氏などを次々と破り、常陸の大半を支配下に置くことに成功し、佐竹氏を戦国大名として飛躍させた[11]

甲斐武田氏と同盟し(甲佐同盟)、北条氏とは天正12年(1584年)に沼尻(現在の栃木県栃木市)で対決した(沼尻の合戦)。また、奥州南部にも進出し、白河結城氏を下し、石川氏岩城氏などを影響下に置き、三春城田村氏と対抗する中で南奥州国人の盟主たる地位を確立しつつあった。このため、義重の正室の甥にあたる伊達政宗と対立し、義重は蘆名氏や二階堂氏、岩城氏らと同盟を結んで、奥州覇権を狙う政宗と天正13年(1585年)人取橋(現在の福島県本宮市)で対決した(人取橋の戦い)。佐竹方は3万の大軍を率い、伊達方の10倍近い兵力をもってこれを攻め、伊達方に多大な被害を与えたが、一夜にして撤退を余儀なくされ、結果として伊達方の奥州覇権を強める契機となる。

しかし義重は戦国時代を通じて領国を拡大し、子の義宣の時代には豊臣秀吉小田原征伐に参陣して、秀吉の太閤検地の結果、常陸54万5800石の大名として認められた(ただし、常陸国内でも土浦城下館城一帯は結城氏の所領とされた)。

義宣は秀吉の権威を背景に常陸南部に割拠する大掾氏配下の国人たち(いわゆる南方三十三館、主として鹿行二郡の塚原氏・行方氏・卜部氏・麻生氏・鹿島氏など万石未満の土豪。小田原陣の頃は下総の千葉氏の傘下に転じている)を討伐するなど領主権力の強化を進めることとなる[13][14]。 そして、水戸城江戸重通は小田原征伐に参陣しなかったために所領を没収され、佐竹氏は居城を太田城から水戸城に移した。佐竹家は常陸水戸54万5800石で豊臣政権下で第8位の大大名となり(一門・与力の岩城氏らを含めると80万石を超え、伊達氏や宇喜多氏を上回る)、徳川・上杉・毛利・前田・島津とともに「豊臣六大将」とも呼ばれた。

関ヶ原の戦い

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慶長5年(1600年)、義宣は関ヶ原の戦いにおいて家中での意見をまとめられず、在国のまま観望するという中立的な態度を取った。佐竹家中や影響下にある同族大名の間では、徳川氏との接点がある父・義重、上杉領になっている会津の旧領主である弟・蘆名盛重、伊達氏に好意的な弟・岩城貞隆などが東軍寄り、石田三成との縁が深い相馬義胤や実家宇都宮家の復興を期待する結城朝勝などが西軍寄りの立場であり、自身も三成に恩義を受けている義宣は態度を一貫させることができず、東軍による佐竹領侵攻を危惧して上杉氏に接近し、西軍優位にならないと見るや上杉氏と距離をおくという形になった[15]

戦後処理は翌年にはほぼ終了し、慶長7年(1602年)の3月に義宣は上洛伏見城徳川家康に拝謁している。ところが5月8日、家康から突然出羽国への国替えを命じられ、7月27日付で石高の明示・内示もなく秋田仙北へと転封された[16]。関ヶ原の戦いにおいて、家康を追撃する密約を上杉景勝と結んでいたことが発覚したためといわれている。また徳川氏の本拠地である江戸に近い佐竹氏は、同族の多賀谷領・岩城領・相馬領も勢力圏であり実質80万石以上と目された上、合戦に直接参加していないため軍団が無傷で残っており、脅威であった。こうして佐竹氏は平安時代後期以来の先祖伝来の地である常陸を去った[2]

処遇の際、細川忠興が「大大名の佐竹氏には出羽一国でなければ家臣を賄いきれず変事が起きるかもしれない」と進言したが、家康の側近だった本多正信正純親子に「出羽一国を与えるのでは常陸と変わらないから半国でよし」と決められてしまった[16]。後に政争に負けた正純が失脚したとき(宇都宮城釣天井事件)、幕府は正純の身柄を佐竹氏に預け、出羽横手への流罪とした。正純は横手城の一角でさびしく生涯を終えたという。

江戸時代

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特別重要刀剣に指定されている久保田藩の佐竹氏に伝来した太刀包平ハバキに家紋の佐竹扇が彫金されている。

江戸時代を通じて久保田藩を支配する外様大名として存続した。転封時点で明示されていなかった石高は、第2代藩主義隆の治世も後期になった寛文4年(1664年)4月2日付で、20万5,800石と決定された(実高40万石)。うち5,800石は、慶長10年(1605年)10月17日に追加で与えられた下野国河内郡都賀郡の飛び地11か村分である[17]

元禄14年(1701年)に佐竹氏第21代当主で久保田藩第3代藩主の義処は弟の義長に2万石を、甥の義都に1万石を分与し、久保田新田藩として立藩させた(新田分知のため久保田藩の石高に変化はなし)。そのうち、佐竹義都を初代藩主とする久保田新田藩は、享保17年(1732年)に義都の子の義堅が久保田藩第5代藩主の義峯の嗣子となったために廃藩となり、封地は久保田藩に還付された(義堅は早世するが、その嫡男の義真が久保田藩第6代藩主となる)。一方、義長を初代藩主とする久保田新田藩は、歴代藩主が壱岐守に叙せられたので佐竹壱岐守家とも呼ばれ、明治2年1869年)に岩崎藩と改称した。

幕末戊辰戦争では官軍に属して戦った[18]。その戦功により明治2年(1869年)には賞典禄2万石を下賜された[19]

明治時代以降

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1869年(明治2年)の版籍奉還で久保田藩知事に転じ、1871年明治4年)には秋田藩と改称し、同年に廃藩置県を迎えた[19]

1884年(明治17年)、佐竹氏第30・32代当主で最後の久保田藩主であった義堯侯爵[20]、佐竹壱岐守家第9代当主で最後の岩崎藩主であった義理子爵に叙せられ[20]1889年(明治22年)には佐竹壱岐守家の出身で義堯の養子となり一時的に宗家を相続した義脩男爵に叙せられた[21]。家臣であった分家の佐竹四家(東西南北家)に関しては、1900年(明治33年)に佐竹西家佐竹義遵[22]佐竹南家佐竹義雄[21]、および佐竹北家佐竹義尚が、いずれも男爵に叙せられた[23]。このとき佐竹東家は男子が絶えて佐竹銀子が女戸主になっていたため叙爵されなかったが、1903年(明治36年)に銀子の養子になった佐竹義準1906年(明治39年)に男爵に叙せられた[24]

昭和時代前期に佐竹侯爵家の邸宅は東京市麹町区富士見町[25]、佐竹子爵家の邸宅は千葉県東葛飾郡船橋町[26]、佐竹(西家)男爵家の邸宅は東京市世田谷区代田[27]、佐竹(南家)男爵家の邸宅は埼玉県北足立郡浦和町領家[28]、佐竹(東家)男爵家の邸宅は東京市世田谷区東玉川町[29]にあった。

岩崎佐竹家の佐竹義理子爵は相馬子爵家からの養子であり、貴族院の子爵議員や、國光生命保険会社の社長を務めた。その息子で爵位を継いだ佐竹義勝陸軍騎兵将校となった[26]

佐竹東家の佐竹義準男爵は韓国統監秘書官朝鮮総督府事務官などを歴任した後貴族院の男爵議員に二度当選している[29]。その息子で爵位を継いだ佐竹義利男爵は三菱重工業勤務を経て[29]、戦後に東洋製作所の社長となっている。

秋田県知事佐竹敬久は佐竹北家第21代当主で、同家第20代当主・佐竹敬治郎(1901~78、男爵、陸軍歩兵少尉角館町長)の養子。

京都佐竹氏(山入家)

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佐竹貞義の息子の一人である師義は足利将軍家の直属の家来となり佐竹宗家とは別の佐竹家を興した。常陸山入に主な拠点があったため俗に山入家とよばれているが、当家自身は佐竹氏を称し続けた。息子の与義の勢力は佐竹宗家を追い抜き将軍家京都扶持衆に選ばれ、この与義の子孫が代々この身分を継承した。以降、義郷―祐義―義知―義真―義藤―氏義―義盛と続いたが、義盛のとき佐竹宗家の計略にはまり滅亡した。

与義および祐義は足利幕府より常陸守護に任命されている。

歴代当主

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佐竹宗家

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代数 肖像 名前
(生没年)
続柄 位階 備考 主な子供
1   佐竹 昌義さたけ まさよし
1081年 - 1147年
源義業の子 平扶幹娘(正室)
藤原清衡娘(継室)
佐竹忠義(長男)
佐竹隆義(四男)
佐竹義宗(五男)
佐竹昌成(六男)
女(吉川経義室)
2   佐竹 隆義たかよし
(1118年 - 1181年)
先代の三男 戸村能通 佐竹義政(長男)
佐竹秀義(三男)
3   佐竹 秀義ひでよし
(1151年 - 1226年)
先代の三男 宇都宮朝綱
佐竹義宗
佐竹義重
4   佐竹 義重よししげ
(1186年 - 1252年)
先代の長男 河井忠遠
太田為高
足利義氏養女
佐竹長義
5   佐竹 長義ながよし
(1207年 - 1272年)
先代の長男 宍戸家周
二階堂行義の娘
佐竹義胤
6   佐竹 義胤よしたね
(1227年 - 1278年)
先代の長男 岩崎氏 佐竹行義
7   佐竹 行義ゆきよし
(1261年 - 1303年)
先代の長男 二階堂頼綱 佐竹貞義
8   佐竹 貞義さだよし
(1287年 - 1352年)
先代の長男 室町幕府常陸国守護 海上胤泰の娘 佐竹義篤(次男)
佐竹師義(七男)
9   佐竹 義篤よしあつ
(1311年 - 1362年)
先代の次男 室町幕府常陸国守護 小田知貞 佐竹義宣(長男)
小場義躬(次男、佐竹西家祖)
石塚宗義(三男、石塚氏祖)
大山義孝(五男、大山氏祖)
10   佐竹 義宣よしのぶ
(1346年 - 1389年)
先代の長男 初名 : 義香
室町幕府常陸国守護
河越氏の娘 佐竹義盛
11   佐竹 義盛よしもり
(1365年 - 1407年)
先代の長男 室町幕府常陸国守護 江戸氏の娘 女(佐竹義人正室)
12   佐竹 義人よしひと
(1400年 - 1468年)
先代の婿養子
上杉憲定の次男)
初名 : 義憲、別名 : 義仁
室町幕府常陸国守護
佐竹義盛 女(結城持朝室)
佐竹義俊(長男)
上杉実定(次男、上杉憲実養子)
13   佐竹 義俊よしとし
(1420年 - 1477年)
先代の長男
(11代義盛の外孫)
初名 : 義頼 小山広朝 佐竹義治
14   佐竹 義治よしはる
(1443年 - 1490年)
先代の長男 常陸国太田城 大山常金 佐竹義舜(次男)
佐竹義信(四男、佐竹北家祖)
佐竹政義(五男、佐竹東家祖)
15   佐竹 義舜よしきよ
(1470年 - 1517年)
先代の次男 従四位下 戦国大名
常陸国太田城主
岩城常隆娘(正室) 女(岩城由隆室)
佐竹義篤(次男)
宇留野義元(三男)
女(江戸忠通室)
佐竹義里(四男、佐竹南家祖)
16   佐竹 義篤よしあつ
(1507年 - 1545年)
先代の次男 従四位下 戦国大名
常陸国太田城主
不詳 佐竹義昭
17   佐竹 義昭よしあき
(1531年 - 1565年)
先代の次男 戦国大名
常陸国太田城主
岩城重隆娘(正室)
大掾慶幹娘(継室)
佐竹義重(長男)
那須資家(次男)
佐竹義尚(三男、佐竹南家当主)
小場義宗(四男)
南呂院宇都宮広綱室)
女(岩城親隆室)
18   佐竹 義重よししげ
(1547年 - 1612年)
先代の長男 渾名 : 「鬼義重」
戦国大名
常陸国太田城主
伊達晴宗 佐竹義宣(長男、初代久保田藩主)
蘆名義広(次男、蘆名亀王丸養子)
女(江戸実通室、のち高倉永慶室)
岩城貞隆(四男、岩城常隆養子)
多賀谷宣家(五男、多賀谷重経養子)
佐竹義直(六男)
19   佐竹 義宣よしのぶ
(1570年 - 1633年)
先代の長男 従四位上 戦国大名

初代出羽久保田藩

那須資胤娘(正室)
多賀谷重経娘(継室)
蘆名盛興娘(側室)
20   佐竹 義隆よしたか
(1609年 - 1672年)
先代の甥
岩城貞隆の子)
従四位下 初名 : 岩城吉隆
2代出羽久保田藩主
佐竹義章 佐竹義寘(長男)
佐竹義処(次男、久保田藩主)
佐竹義長(四男、岩崎藩主)
女(黒田長興継室)
21   佐竹 義処よしずみ
(1637年 - 1703年)
先代の次男 従四位下 3代出羽久保田藩主 松平直政 佐竹義苗(長男)
相馬叙胤(次男、相馬昌胤養子)
佐竹義格(三男、久保田藩主)
女(松平宣富正室)
女(黒田長軌正室)
女(松平宣維正室)
22   佐竹 義格よしただ
(1695年 - 1715年)
先代の三男 従四位下 4代出羽久保田藩主
23   佐竹 義峯よしみね
(1690年 - 1749年)
先代の従兄
佐竹義長の子)
従四位下 5代出羽久保田藩主 黒田長清 照(松平定喬正室)
女(戸田光雄正室)
女(佐竹義明正室)
女(松浦邦正室)
24   佐竹 義真よしまさ
(1728年 - 1753年)
先代の養子
佐竹義堅の子)
従四位下 6代出羽久保田藩主 前田吉徳
25   佐竹 義明よしはる
(1723年 - 1758年)
先代の養子
佐竹義道の子)
従四位下 7代出羽久保田藩主 佐竹義峯 佐竹義敦(長男、久保田藩主)
佐竹義方(次男)
26   佐竹 義敦よしあつ
(1748年 - 1785年)
先代の長男 従四位下 初名 : 義直、号 : 曙山
8代出羽久保田藩主
山内豊敷 佐竹義和(長男)
女(島津斉宣正室)
27   佐竹 義和よしまさ
(1775年 - 1815年)
先代の長男 従四位下 9代出羽久保田藩主 堀田正順 佐竹義厚
女(松平容敬正室)
28   佐竹 義厚よしひろ
(1812年 - 1846年)
先代の長男 従四位下 10代出羽久保田藩主 前田利幹娘(正室)
池田斉稷娘(継室)
佐竹義睦(次男)
女(伊達宗徳継室)
29   佐竹 義睦よしちか
(1839年 - 1857年)
先代の次男 従四位下 11代出羽久保田藩主 山内豊資
30
32
  佐竹 義堯よしたか
(1825年 - 1884年)
先代の養子
相馬益胤の子
21代義処の男系子孫)
従三位 相馬宗胤→佐竹義核→佐竹義就
12代出羽久保田藩主
初代侯爵
佐竹義純娘(正室)
藤堂高聴娘(継室)
青山忠良娘(継々室)
佐竹義生(次男)
佐竹雅子(佐竹義脩正室)
佐竹鐶子(佐竹義理正室)
31   佐竹 義脩よしなお
(1854年 - 1893年)
先代の甥
佐竹義諶の子)
従四位下 佐竹雅子(先妻)
ウメ(後妻)
島津英子(長女、島津壮之助夫人)
佐竹雄子(次女、佐竹義立夫人)
33   佐竹 義生よしなり
(1867年 - 1915年)
先代の次男 正三位 2代侯爵
貴族院議員
秋田県育英会総裁
佐竹祚子
徳大寺実則娘)
佐竹義春(長男)
佐竹義通(四男)
佐竹義勝(五男)
松平忠宏(七男)
伊藤静子(次女、伊藤次郎左衛門の妻)
34   佐竹 義春よしはる
(1890年 - 1944年)
先代の長男 3代侯爵
貴族院議員
佐竹兼子
九条道実娘)
佐竹義栄
鍋島則子(鍋島直紹の妻)
35   佐竹 義栄よしなが
(1914年 - 1983年)
先代の長男 4代侯爵
貴族院議員
佐竹百合子
徳川義親娘)
佐竹義忠
36   佐竹孝 先代の養子
大給義龍の子。
女系で18代義重の子孫[30]
佐竹基博

佐竹壱岐守家

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代数 肖像 名前
(生没年)
続柄 位階 備考 主な子供
1   佐竹 義長よしなが
1655年 - 1741年
佐竹義隆の四男 従五位下 初代出羽岩崎藩主 相馬忠胤娘(正室)
松浦信忠娘(継室)
佐竹義峯(久保田藩主)
2   佐竹 義道よしみち
1701年 - 1765年
先代の養子
佐竹義本の子)
従五位下 2代出羽岩崎藩主 佐竹義長娘(正室)
内藤政森娘(継室)
佐竹義明(長男、久保田藩主)
佐竹義敏(次男)
佐竹義忠(三男、岩崎藩主)
蜂須賀重喜(四男、蜂須賀至央養子)
3   佐竹 義忠よしただ
1730年 - 1787年
先代の三男 従五位下 3代出羽岩崎藩主 佐竹義恭
4   佐竹 義祇よしもと
1759年 - 1793年
先代の養子
佐竹義敏の子)
従五位下 4代出羽岩崎藩主 相馬恕胤娘(正室)
松平親盈娘(継室)
佐竹義知(岩崎藩主)
5   佐竹 義知よしちか
1787年 - 1821年
先代の長男 従五位下 5代出羽岩崎藩主 松平頼亮 女(佐竹義純正室)
女(松平直春正室)
6   佐竹 義純よしずみ
1802年 - 1856年
先代の養子
佐竹義恭の子)
(3代義忠の孫)
従五位下 6代出羽岩崎藩主 佐竹義知 女(澤宣量室)
7   佐竹 義核 よしざね
(佐竹 義堯)
1825年 - 1884年
先代の養子
相馬益胤の子)
正三位 初名「相馬宗胤」、後「佐竹義堯」
7代出羽岩崎藩主
佐竹義純娘(正室)
藤堂高聴娘(継室)
青山忠良娘(継々室)
佐竹義生(長男、伯爵)
女(佐竹義脩室)
女(佐竹義理室)
8   佐竹 義諶よしつま
1837年 - 1870年
先代の養子
(相馬益胤の子)
従五位下 8代出羽岩崎藩主 熊川氏娘 佐竹義脩(岩崎藩主)
9   佐竹 義理よしただ
1858年 - 1914年
先代の養子
相馬充胤の子)
従二位 8代出羽岩崎藩主
初代子爵
佐竹義核 佐竹義立(長男)
佐竹義種(次男、子爵)
松平総子松平乗統夫人)
奥平秀子奥平直恭夫人)
10   佐竹 義種 先代の次男 2代子爵 佐竹小夜子蜂須賀正韶娘)
11   佐竹 義通 先代の養子
佐竹義生の子)
(7代義核の孫)
3代子爵
12   佐竹 義勝 先代の弟
(7代義核の孫)
4代子爵 佐竹義久
13   佐竹 義久 先代の子

系譜 

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配下武将

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常陸守護職 佐竹家臣団(直臣団)

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以下、佐竹氏の直臣・陪臣として活躍した武家の一覧[注釈 2]

陪臣

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佐竹氏一門 佐竹東家家臣

  • 安島氏
  • 飯嶋氏
  • 大縄氏
  • 小貫氏
  • 国安氏
  • 関氏
  • 高村氏
  • 人見氏
  • 柏氏

佐竹氏一門 石塚家家臣

  • 藤井氏
  • 館氏
  • 山田氏
  • 篠原氏
  • 河井氏
  • 志賀氏
  • 冨田氏

常陸守護代 小野崎氏家臣

常陸守護代 江戸氏家臣

  • 安島氏
  • 飯嶋氏
  • 打越氏
  • 大高氏
  • 小田野氏
  • 海老沢氏
  • 佐川氏
  • 立原氏
  • 茅根氏

佐竹氏庶流 小野岡氏家臣

  • 梶山氏
  • 立原氏

佐竹氏庶流・頃藤城主 小川家家臣

  • 神長氏
  • 清水氏

羽黒城主 向氏家臣

大橋城主 茅根氏家臣

真壁城主 真壁氏家臣

旧小田城主 小田氏

その他

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氏姓
神社
寺社

脚注

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注釈

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  1. ^ 佐竹村、現・茨城県常陸太田市佐竹地区。佐竹寺、佐竹南台(天神林町、もとの天神林村)、佐竹小学校(谷河原町、旧・谷河原村)、佐竹高等学校(稲木町、旧・稲木村)、佐竹郵便局(磯部町、旧・佐都荘磯部村)の地域。
  2. ^ 主に(常陸太田市史編さん委員会編 1982, p. [要ページ番号])などに基づく。

出典

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  1. ^ a b c 太田 1934, p. 2603.
  2. ^ a b c d e 太田 1934, p. 2610.
  3. ^ 太田 1934, p. 2609.
  4. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『佐竹氏』 - コトバンク
  5. ^ a b 旺文社日本史事典 三訂版『佐竹氏』 - コトバンク
  6. ^ 佐々木 2021, p. 7.
  7. ^ 太田 1934, pp. 2603–2604.
  8. ^ 太田 1934, p. 2604.
  9. ^ a b 佐々木 2011, p. 8.
  10. ^ a b 太田 1934, pp. 2604, 2609.
  11. ^ a b c d 太田 1934, p. 2605.
  12. ^ 佐々木 2021, p. 14 - 15.
  13. ^ 藤木 1964, p. [要ページ番号].
  14. ^ 太田 1934, pp. 2605–2606.
  15. ^ 佐々木千葉 2021, pp. 290–298.
  16. ^ a b 渡部 1992, p. 35.
  17. ^ 渡部 1992, pp. 37–38.
  18. ^ 百科事典マイペディア『佐竹氏』 - コトバンク
  19. ^ a b 新田完三 1984, p. 20.
  20. ^ a b 太田 1934, p. 2611.
  21. ^ a b 松田敬之 2015, p. 327.
  22. ^ 松田敬之 2015, p. 329.
  23. ^ 松田敬之 2015, p. 328.
  24. ^ 松田敬之 2015, p. 326.
  25. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 44.
  26. ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 353.
  27. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 558.
  28. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 606.
  29. ^ a b c 華族大鑑刊行会 1990, p. 622.
  30. ^ 世界帝王辞典 佐竹氏”. 2019年1月13日閲覧。

参考文献

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  • 太田亮国立国会図書館デジタルコレクション 佐竹 サタケ」『姓氏家系大辞典』 第2、上田萬年三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、2603-2612頁。全国書誌番号:47004572https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130938/395 国立国会図書館デジタルコレクション   
  • 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342 
  • 佐々木倫朗; 千葉篤志 編『戦国佐竹氏研究の最前線』山川出版社、2021年。ISBN 978-4-634-15181-9 
  • 佐々木倫朗 編『常陸佐竹氏』戒光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第三十巻〉、2021年。ISBN 978-4-86403-375-6 
  • 七宮涬三『常陸・秋田佐竹一族』新人物往来社、2001年6月。ISBN 4-404-02911-X 
  • 千田稔『華族総覧』講談社〈講談社現代新書, 2001〉、2009年7月。ISBN 978-4-06-288001-5 
  • 中山良昭『江戸300藩殿様のその後 : 明治から平成まで、大名はこう生き抜いた!』朝日新聞社〈朝日新書, 060〉、2007年8月。ISBN 978-4-02-273160-9 
  • 新田完三『内閣文庫蔵諸侯年表』東京堂出版、1984年(昭和59年)。 
  • 常陸太田市史編さん委員会編『佐竹家臣系譜』常陸太田市〈常陸太田市史編さん史料, 19〉、1982年3月。全国書誌番号:82044499 
  • 藤木久志「豊臣期大名論序説--東国大名を例として」『歴史学研究』第287号、青木書店、1964年4月、31-41頁、NAID 40003815780 
  • 松田敬之『〈華族爵位〉請願人名辞典』吉川弘文館、2015年(平成27年)。ISBN 978-4642014724 
  • 渡部景一『佐竹氏物語』無明舎出版、1980年9月。ISBN 4-89544-133-4 
  • 渡部景一『「梅津政景日記」読本 : 秋田藩家老の日記を読む』無明舎出版、1992年5月。ISBN 978-4-89544-201-5 

関連項目

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関連施設・文物
関連氏族・人物

外部リンク

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