佐竹義栄
佐竹 義栄(義榮、さたけ よしなが、1914年〈大正3年〉9月17日[1] - 1983年〈昭和58年〉12月6日[1][2][3])は、昭和期の華族。佐竹宗家35代当主。貴族院侯爵議員。位階は正五位[4]。
佐竹義栄 さたけ よしなが | |
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『貴族院要覽』より | |
生年月日 | 1914年9月17日 |
没年月日 | 1983年12月6日(69歳没) |
死没地 | 日本 東京都 |
出身校 |
東北帝国大学法文学部卒業 (現・東北大学法学部、文学部、経済学部) |
前職 | 技術院参技官 |
現職 |
秋田県育英会理事長 子どもの家理事 |
所属政党 | 火曜会 |
称号 | 正五位 |
配偶者 | 佐竹百合子 |
親族 |
祖父・九条道実(貴族院議員) 父・佐竹義春(貴族院議員) 義父・徳川義親(貴族院議員) 叔父・九条道秀(貴族院議員) 叔父・中山輔親(貴族院議員) 義兄・大炊御門経輝(貴族院議員) 義弟・鍋島直紹(科学技術庁長官) |
在任期間 | 1944年9月17日 - 1947年5月2日 |
生涯
編集華族・佐竹義春、兼子(九条道実長女)夫妻の長男として生まれる[1]。1938年(昭和13年)、東北帝国大学法文学部(現・東北大学法学部、文学部、経済学部)を卒業[2]。以後、保険院嘱託、企画院嘱託、技術院嘱託、技術院参技官を歴任[2]。父の死去に伴い1944年(昭和19年)5月15日、侯爵を襲爵[1][5]。同年9月17日、満30歳に達し貴族院侯爵議員に就任し[2][6]、火曜会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した[2]。
戦後は、子どもの家理事(埼玉県)[7]、秋田県育英会理事長[8]を務めた。また、1947年(昭和22年)8月12日、昭和天皇が秋田県に戦後巡幸に訪れた際には、秋田市内にあった別邸を宿泊所として提供した[9]。
1983年12月6日、東京で死去した[3]。遺言により、藩政期の居城であった久保田城跡(千秋公園)の土地約14.6haを秋田市へ寄贈した。
親族
編集脚注
編集- ^ a b c d e f g 『平成新修旧華族家系大成』上巻、670-671頁。
- ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』17頁。
- ^ a b 『秋田魁年鑑 昭和60年版 93コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『火曜会所属・公正会所属貴族院議員録 25コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『官報』第5199号、昭和19年5月17日。
- ^ 『官報』第5308号、昭和19年9月21日。
- ^ 『華族総覧』62頁。
- ^ 『ジャパン WHO was WHO 物故者事典 1983-1987』283頁。
- ^ 宮内庁『昭和天皇実録第十』東京書籍、2017年3月30日、405,406頁。ISBN 978-4-487-74410-7。
参考文献
編集- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
- 日外アソシエーツ編『ジャパン WHO was WHO 物故者事典 1983-1987』日外アソシエーツ、1988年。ISBN 4-8169-0763-7
- 千田稔『華族総覧』講談社〈講談社現代新書〉、2009年。
日本の爵位 | ||
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先代 佐竹義春 |
侯爵 佐竹家(宗家)第4代 1944年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |