佐竹義長

江戸時代前期から中期の大名。出羽岩崎藩初代藩主。佐竹壱岐守家初代。従五位下・左近将監、壱岐守、兵部少輔。佐竹義隆の四男

佐竹 義長(さたけ よしなが)は、江戸時代前期から中期にかけての大名出羽国岩崎藩初代藩主。佐竹壱岐守家初代当主。官位従五位下左近将監壱岐守兵部少輔

 
佐竹 義長
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 明暦元年9月4日1655年10月3日
死没 元文5年12月7日1741年1月23日
改名 千代松丸(幼名)、義知(初名)、義長
別名 左近
戒名 指月院殿空山宜弾
墓所 東京都板橋区小豆沢の総泉寺
官位 従五位下左近将監壱岐守兵部少輔
幕府 江戸幕府
主君 佐竹義処徳川綱吉家宣家継吉宗
出羽岩崎藩
氏族 佐竹氏
父母 父:佐竹義隆
母:光聚院
兄弟 義寘義処義慰義長、亀子
正室:相馬忠胤の娘
継室:松浦鎮信の養女・聖相院
義峯、昆ら2男2女
養子:義道
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生涯

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明暦元年9月4日1655年10月3日)、出羽久保田藩2代藩主・佐竹義隆の四男として誕生した。母は佐竹義章の娘・光聚院

寛文8年(1668年)12月12日、江戸幕府4代将軍徳川家綱御目見する。寛文10年12月28日(1671年)、従五位下・左近将監に叙任する。元禄3年(1690年)、兄で久保田藩3代藩主の義処より2万石を分与された。

元禄14年(1701年)2月11日、幕府からも正式に支藩として公認され、秋田新田藩(後の岩崎藩)は成立した。義長は文学に不学で、仁愛の無い暗君と称されている。元文5年12月7日(1741年)、死去。享年86。跡を婿養子の義道が継いだ。

子孫は、義長の官位から壱岐守家とも称された。

系譜

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子女は2男2女

父母

正室、継室

側室

  • 白旗氏

子女

養子

脚注

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