松平定喬
松平 定喬(まつだいら さだたか)は、江戸時代中期の大名。伊予国松山藩の第6代藩主。定勝系久松松平家宗家7代。官位は従四位下・侍従。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 正徳6年6月9日(1716年7月27日) |
死没 | 宝暦13年3月21日(1763年5月3日) |
改名 | 百助(幼名)、定喬 |
戒名 | 顕徳院殿従四位拾遺補闕前隠州順誉和光慈観大居士 |
官位 | 従五位下・山城守、隠岐守、従四位下侍従 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗→家重→家治 |
藩 | 伊予松山藩主 |
氏族 | 久松松平家定勝流 |
父母 | 父:松平定英、母:島津綱貴の娘・お栄 |
兄弟 | 定喬、定功 |
妻 | 佐竹義峯の娘・照 |
子 |
鉄 養子:定功 |
生涯
編集正徳6年(1716年)6月9日、第5代藩主・松平定英の長男として誕生した。幼名は百助。母は島津綱貴の娘、お菟(正室・信解院殿、お栄とも、2代藩主松平定頼の曾孫)。享保15年(1730年)、従五位下・山城守に叙任。その3年後、父の死去により家督を継承。2カ月後、隠岐守に転任。
享保21年(1736年)、先祖陽光院殿(久松俊勝)の百五十回忌のため、三河国安楽寺で法要を営む。元文元年(1736年)、従四位下に昇る。延享4年(1747年)、桃園天皇立太子の賀詞のため、朝廷への御使に任ぜられ、侍従に叙任。京都へ至り桜町天皇に拝謁。宝暦6年(1756年)、初代定行以来100年間途絶えていた溜之間詰に任ぜられる。宝暦13年(1763年)、病に陥りまもなく危篤に陥り、弟・定功を養嗣とする。3月21日に江戸松山藩邸愛宕下上屋敷にて卒去。享年48。
法号は顕徳院殿従四位拾遺補闕前隠州順誉和光慈観大居士。遺骸は三田済海寺に土葬される。遺髪が松山大林寺へ送られ、法要が営まれる。これ以後、藩主は三田済海寺に土葬され、松山大林寺へは遺髪が送られることとなった。