正法眼蔵 行持(上)43
道元禅師の注釈は続きます。
自分に故郷がある場合には故郷を離れ、自分にとって大切な親兄弟姉妹があるならばそれらを離れ、名誉や経済的な利得を最高の値打ちとする考え方から離れ、田畑があるならばそれらを逃れ、親戚があるならばそれから離れるべきである。
※西嶋先生解説
なぜかというと、故郷、恩愛、名利、田園、親族というものに囚われると弱く小さくなる。仏道の世界は大きな世界、そういう大きな世界に生きる為には、小さいものに拘る事を避けなければならないという問題があるわけです。
そういう点では、わりあい人間は自分の事を自慢したがるもの。親戚に有力な人がいると「いや、あれは私の親戚で・・・」という事でよく自慢をする人がいる。
親戚に偉い人がいたって本人が偉いかどうかわからん(笑)。ただ本人は「あれは私の親戚です」という事で人に会う度にしゃべる人がいる。
自分自身がしっかりしている事がかなり大事なこと。ところが親戚に偉い人がいるなんていう事を頼りにすると、人間自身が小さくなって伸びられなくなる。親戚の偉い事だけがその人の値打ちになってしまうという恐れがあるわけであります。
本文に戻ります。
そしてさらに名誉や利得などを嫌って逃げよう逃げようとする態度もよくない。すでに名誉や利得がある時はそれらを離れる事が言われているのであるから、それと相対的な関係にある名誉や利得がない場合にもそれらを超越しなくてはならないと言う基礎的理論は明々白々である。
その様な事がどういう形で達成されるかと言うと、日常生活における瞬間瞬間の場面において一所懸命に行動していくだけの問題である。
命があるうちに名誉や利得と言うものを超越して一つ一つの事を一所懸命やっていくならば、その瞬間瞬間の一所懸命の行いと言うものが、釈尊の持っておられた永遠の寿命と同じ様な極めて長い、永遠の価値を持った行いとして具体的に現れるのである。
現在自分たちがやっている清い行いや戒律の保持は、例外なしに自分たちがやっているからこそ清い行いや戒律の保持が行い得ているのである。
つまり行いと言うものは自分でやるという事でしかない。この様な清い行いや戒律の保持が行われるようになったならば、その行いを行う自分の体、自分の心を自分自身で自ら愛惜すべきであり自分自身でも自ら尊重すべきである。
―西嶋先生の話―
行持(清い行い、戒律の保持)と言う理論は、我々の日常生活や常識的な考え方からは中々でてこない。仏教思想からしか出て来ない。
だから我々が普通勉強している思想と言うのは全部西洋思想。西洋思想と言うものが今日だいぶ行き詰まってきたところから、その西洋思想の行き詰まりを救済する考え方として、仏教がおそらく近い将来世界的に認められる時代が来ると思う。
そういうときの基礎的な考え方というものが今ここに述べられたような考え方。人間の値打ちは何によって決まるかと言ったら、何をやるかによって決まる。
頭がいいとかセンスがいいとかと言う事よりも、日常生活をどんなふうにして送っているかと言う事によって人間の値打ちは決まってしまう、こう言う考え方が仏教思想であります。
これはなかなか厳しい思想でね。人に見えないところでチョコチョコッと何をやっても見えなければいいだろうと言う様な考え方もある。あるいは、そう偉くなる必要はないんだ、自分の欠点をさらけ出してのんびりしてりゃいいんだと言う考え方もあるけれども、
仏教では人間の値打ちというものは何をやるかによって決まる。これは中々厳しい思想。そんなこと言われてはかなわないと言う考え方だって勿論ありうる。
ただ今日の時代はちょっと甘え過ぎている面がある。人間はデレデレして怠けておるんが普通だ、あんまり堅いことを言って頑張るのは昭和20年以前に流行った思想だという考え方があるけれども、
それでは今日の時代というのはちょっとタガが緩み過ぎているというふうに見られない事はない。人間はおかしなもんで、弛んでいるとこれはいかんと思う、そして緊張し過ぎると弛まなければいかんという考え方になる。
だから右に行ったり、左に行ったり変わっていくのが人間社会の普通の動き。ただ釈尊は右に行ったり、左に行ったりしていたんでは人間の価値というものは出てこない。
どんな時代がきても通用する考え方をしっかり持たなければならんと言うのが釈尊の教え。だから社会が右に行った時には左の方で頑張らなきゃならないし、社会が左の方へ行ったら右の方で頑張らなくゃならんというのが仏道。
そういう点では仏道修行というのは楽なようでそう楽でない面もある。そうかと思うと一番自然な生き方だから一番楽な生き方という事もある。自分自身が幸福だと感じ、生きている事が楽しいと感じる為には仏道的な考え方しかない。
最後までお読みいただきありがとうございます。

自分に故郷がある場合には故郷を離れ、自分にとって大切な親兄弟姉妹があるならばそれらを離れ、名誉や経済的な利得を最高の値打ちとする考え方から離れ、田畑があるならばそれらを逃れ、親戚があるならばそれから離れるべきである。
※西嶋先生解説
なぜかというと、故郷、恩愛、名利、田園、親族というものに囚われると弱く小さくなる。仏道の世界は大きな世界、そういう大きな世界に生きる為には、小さいものに拘る事を避けなければならないという問題があるわけです。
そういう点では、わりあい人間は自分の事を自慢したがるもの。親戚に有力な人がいると「いや、あれは私の親戚で・・・」という事でよく自慢をする人がいる。
親戚に偉い人がいたって本人が偉いかどうかわからん(笑)。ただ本人は「あれは私の親戚です」という事で人に会う度にしゃべる人がいる。
自分自身がしっかりしている事がかなり大事なこと。ところが親戚に偉い人がいるなんていう事を頼りにすると、人間自身が小さくなって伸びられなくなる。親戚の偉い事だけがその人の値打ちになってしまうという恐れがあるわけであります。
本文に戻ります。
そしてさらに名誉や利得などを嫌って逃げよう逃げようとする態度もよくない。すでに名誉や利得がある時はそれらを離れる事が言われているのであるから、それと相対的な関係にある名誉や利得がない場合にもそれらを超越しなくてはならないと言う基礎的理論は明々白々である。
その様な事がどういう形で達成されるかと言うと、日常生活における瞬間瞬間の場面において一所懸命に行動していくだけの問題である。
命があるうちに名誉や利得と言うものを超越して一つ一つの事を一所懸命やっていくならば、その瞬間瞬間の一所懸命の行いと言うものが、釈尊の持っておられた永遠の寿命と同じ様な極めて長い、永遠の価値を持った行いとして具体的に現れるのである。
現在自分たちがやっている清い行いや戒律の保持は、例外なしに自分たちがやっているからこそ清い行いや戒律の保持が行い得ているのである。
つまり行いと言うものは自分でやるという事でしかない。この様な清い行いや戒律の保持が行われるようになったならば、その行いを行う自分の体、自分の心を自分自身で自ら愛惜すべきであり自分自身でも自ら尊重すべきである。
―西嶋先生の話―
行持(清い行い、戒律の保持)と言う理論は、我々の日常生活や常識的な考え方からは中々でてこない。仏教思想からしか出て来ない。
だから我々が普通勉強している思想と言うのは全部西洋思想。西洋思想と言うものが今日だいぶ行き詰まってきたところから、その西洋思想の行き詰まりを救済する考え方として、仏教がおそらく近い将来世界的に認められる時代が来ると思う。
そういうときの基礎的な考え方というものが今ここに述べられたような考え方。人間の値打ちは何によって決まるかと言ったら、何をやるかによって決まる。
頭がいいとかセンスがいいとかと言う事よりも、日常生活をどんなふうにして送っているかと言う事によって人間の値打ちは決まってしまう、こう言う考え方が仏教思想であります。
これはなかなか厳しい思想でね。人に見えないところでチョコチョコッと何をやっても見えなければいいだろうと言う様な考え方もある。あるいは、そう偉くなる必要はないんだ、自分の欠点をさらけ出してのんびりしてりゃいいんだと言う考え方もあるけれども、
仏教では人間の値打ちというものは何をやるかによって決まる。これは中々厳しい思想。そんなこと言われてはかなわないと言う考え方だって勿論ありうる。
ただ今日の時代はちょっと甘え過ぎている面がある。人間はデレデレして怠けておるんが普通だ、あんまり堅いことを言って頑張るのは昭和20年以前に流行った思想だという考え方があるけれども、
それでは今日の時代というのはちょっとタガが緩み過ぎているというふうに見られない事はない。人間はおかしなもんで、弛んでいるとこれはいかんと思う、そして緊張し過ぎると弛まなければいかんという考え方になる。
だから右に行ったり、左に行ったり変わっていくのが人間社会の普通の動き。ただ釈尊は右に行ったり、左に行ったりしていたんでは人間の価値というものは出てこない。
どんな時代がきても通用する考え方をしっかり持たなければならんと言うのが釈尊の教え。だから社会が右に行った時には左の方で頑張らなきゃならないし、社会が左の方へ行ったら右の方で頑張らなくゃならんというのが仏道。
そういう点では仏道修行というのは楽なようでそう楽でない面もある。そうかと思うと一番自然な生き方だから一番楽な生き方という事もある。自分自身が幸福だと感じ、生きている事が楽しいと感じる為には仏道的な考え方しかない。
最後までお読みいただきありがとうございます。
