バットマンほど真実について知りたがりながら逆に遠ざかるキャラはいない「Batman Arkham Knight」感想・考察
漫画からスタートしたバットマンシリーズは映画・アニメなど様々なメディアにて独自の解釈の作品が生まれた。単なるメディアミックスというだけに留まらず、そのメディアでしか成立しない何かを捉えるほどの完成度を見せることも少なくはない。たとえばノーランの「ダークナイト」などなど…
「Batman Arkham Knight」は漫画や映画のバットマンとは異なる、ビデオゲームならではの描かれ方をしている。でもフランク・ミラーの傑作漫画以降に付きまとっている正義や善悪の境界で苦悩するバットマンを描いているけれど、そこじゃない。他のジャンルでは見られないスタイルを追求していることが大きい。それは「バットマンを操ってオープンワールドのゴッサムシティを飛び回る」ということでもない。
このゲームを作ったRockstadyはビデオゲームでしかできないアートスタイルとストーリーテリングを追求しようとしている。(自分のバットマン観測範囲だが)それはたぶん漫画や映画、アニメでは追及されてないところだ。
すばらしい試みだ…アメコミのモダンエイジ期にリスペクトを送っているだろうクリストファー・ノーランの映画の試みにも重なる。だがこのゲームもノーランの映画と同じくらい「このメディアならでは」を追及する一方、本当のコアになる部分を落としている。
ブレードランナーやbioshockを思い出す、雨とネオンの都市
「Batman Arkham Knight」は徹底してカットシーンとゲームプレイを途切れさせない。漫画や映画のバットマンが独自の物語表現を行っているのを追うように、ビデオゲームならではの表現や関係に注力している。
雨の降り続ける闇夜に延々と煌めく広告、そしてネオンサインの街、そして拡張現実のガジェットを使いこなすバットマンといい、それは前回に書いたように ビデオゲームにて不思議な形で醸成されたサイバーパンクのヴィションとスチームパンクのヴィジョンである。
バットマンにてあまり選ばれることの無かったアートスタイルは映画「ブレードランナー」から「bioshock」まで想起させられる。ビデオゲーム文脈独特のアートスタイルで埋め尽くされたゴッサムシティの造形は凄まじい。オレはバットマンをやっていたはずなのに、「ファイナルファンタジー7」や「クーロンズゲート」の記憶を引き出されるとは思わなかったり。
実際にゲームプレイシーンにバットマンの前に現れるジョーカーという手法は非常に「half-life」や「bioshock infinite」のようなFPSの演出手法に近い。サードパーソンビューの作品では非常に珍しいことだ。ジョーカーの血を輸血してしまったというのもあるのか、全編にわたって自身の精神のなかにいるジョーカーの声を聴き続けるのである。
しかしそのわりには最近のtall taleのADVから「witcher3」みたいな善悪の倫理選択みたいなシークエンスは一切ないことは、近年のトレンドから振り返ると気になる。ジョーカーの呼び声に苦悩するバットマンみたいな葛藤まではゲームプレイに反映しない。ここまでジョーカーをゲームプレイ中フィーチャーしながら一方的に語りだけなのは、後々全体の印象に響いてくる。
ストーリーの要所でよりプレイヤーに生々しく伝えようとする主観視点
「Batman Arkham Knight」は執拗にゲームプレイの中で体感するストーリーに注力している。さっき挙げた「bioshock infinite」っぽさもあるのか要所要所でFPSの視点になることだ。冒頭の警官が事態に巻き込まれるシークエンス(ちょっと「killing floor」みたいな…)をはじめ、要所でFPS視点になるなどビデオゲームの文脈上でしか味わいづらい演出を導入してる。
この点で他のメディアのバットマンと比較して、このアートスタイルとストーリテリングの大胆な導入はビデオゲームでしか成立しないバットマンを追及している。だがしかし、その野心の一方で取りこぼしていくものも少なくない。
代償にコブラ戦車のケツを追いかけ回したりするような、真エンディングを餌にした穴埋めの惨めなチャレンジが膨大に存在し、GTAタイプオープンワールドにありがちな梱包材のプチプチ潰しのようなサブミッションなどなど、オレにはつらいゲームサイクルが展開されていた…「Batman:Arkham Asylum」で完成されていたシンプルに高速で展開するステルス戦闘は魅力あるし、リドラーチャレンジの謎解きなどは悪くはないのだが…
それも込みでノーラン・バットマンの物足りなさと同義だ…そのジャンルでしか成立しない何かを見ていながら本質的に捉えきれない。ノーランの「ダークナイト」がどこか映画でしか成立しないドライで現実を切り取る瞬間みたいなものも、亡くなったヒース・レジャーのジョーカーが引っ張って来てくれたともしばしば言われる。映画は常に生々しいドキュメンタリーの要素もありその瞬間のその被写体を映すから、ヒース・レジャーのそれが反映しているのかもしれない。
ノーラン自体は映画でしか成立しない何か探りながらを掴みきれていない(アクションシーンを撮るのが本当に上手くないことは、意外に本質的な問題だと思うし)。それに「Batman Arkham Knight」は近い。ストーリーテリングの手法や培われてきたサイバーパンクライクなアートスタイルの野心の一方、全体のゲームプレイやゲームサイクルの面でコアを掴めていない。
かつてムービーを多用してストーリーを進めるゲームは批判の的になった。でも手にするコントローラーから離れたところでストーリーが進行することが耐え難い部分は、「half-life」や「bioshock」などなどを通ってここ10年の間に進歩したことには違いないだろう。
しかし近年はストーリーそのものを生々しく伝えるだけではなく、ストーリーそのものによりアクセスできる試みも少なくない。「Batman Arkham Knight」はプレイヤー自身が自由に行動して、ストーリーや世界がどうなっているのかを知っていくオープンワールドならではのデザインはあまり生きていないし、ミッション全体の進行を見てもそうだ。結局メインストーリーの演出が特化して優れているのだと思うし、実際各種ゲームサイトの好評を読み込んでもそこが多く褒められている。
「Batman Arkham Knight」はビデオゲームで培われてきたストーリテリング・アートスタイルが特化したことで漫画や映画のバットマンと肩を並べる”そのジャンルならでは”を確立している。だが真に”そのジャンルなら”ではには届いていない。
それはバットマンというキャラクターも同様な気がしてきた。主人公ブルース・ウェインほど世界の真実について知りたがるようでありながら、そこから遠ざかっているキャラクターもないから。
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