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2018.03.17

主の祈りとか

 昨年、比較的長期にわたってブログを事実上休止してしまった。ツイッターなどでは発言していたので、まったくネットの世界から消えてしまったわけではないが、まあ、ブログを書く気力がなかった。理由はいくつかある。個人的なことや内面に関わることもある。その内面に少し関係することではあるが、ブログを書くことで攻撃を受けるのはやだなというのがあった。日本は言論が自由な社会だが、そのせいなのか、社会的に対立した意見のある問題で、個人が意見を述べると、ひどい攻撃を受ける。ネットが日常に普及しだして、それがさらにひどくなっている。
 いや、正確にいうと、抑制の動きもある。このブログを始めたころは、おまえなんか死ねばいいのに、というような殺意のあるような、匿名の暴言を受けたものだった。さすがにそれは、普通に刑事に触れるようになったので、最近はない。身体の危険が感じられないなら、言論上の攻撃を受けるのはかまわないじゃないかとも思うし、そうするしか発言ができないなら、攻撃を受けるのも、言論の自由のコストだろうし、自由な言論の社会を維持するには誰かがそうしたコストを払わなくてはならない。ブロガーというのはそういうものであるべきだろう、と思っていた。
 が、さすがに、こんな攻撃や暴言を受けるのは、見合わないなあと感じるようになった。そしてそれは、並行して、日本の社会に言論の自由があろうがなかろうが、僕なんか知ったこっちゃないなあというげんなりした感情を惹起した。そして、そうした感情があるなら、無理してブログなんか続けることもないじゃないか、自然でいようと思った。
 その後、しばらくして、自然に、たまにブログでも書くかなあ、本はずっと読んでいるしなあ、ブログ復帰のリハビリがてらに書評みたいなものから再開するかなあ、と、ということで、今に至る。
 ブログも長く続けているし、そもそも私は日本の社会がインターネットに向き合う前、パソコン通信の黎明期からこの世界を見てきたので、だいたいこういうことを言えば、こういう攻撃はくらうなというのは、あらかた予想できる。このあらかた、というのが微妙で、それでもさすがにこれはひどいなというのはある。けっこうあると言ってもいい。どのあたりが、「さすがにこれはひどいな」になるか、というのは、徒党というのか、グループ的に攻撃してくる場合だ。実際には、数名程度が匿名でやっているだけだと思うが。
 他面、攻撃されるたびに、僕なんかたいした存在じゃないんだよとも思う。僕を攻撃してくる人は、逆の意味で僕というブロガーに幻想をもっていると思う。僕は自分でもバカだなあ自分と思っているし、たいしたこと述べているとも思っていない。なんの社会的な権力もない。ただ反省するのは、ブログを始めたころはまだ45歳というか、今振り返ると、すっげー若かったので、愚かさに若気の至りもあったなとは思う。しかし、それ自体が自分の愚かさなんでしかたないかとも今では思う。今でも愚かではあるし。
 ブログを再開してぼそぼそと自分が思うことをブログで述べると、まあ、予想通り攻撃される。攻撃というまでもないが、嫌なことを言われる。そうしたひとつに、あれ?これはなんだろというのもある。僕がこのブログで政府から金をもらっているというのだ。ないよ。僕くらい自由にものを言うブロガーはないんだよと言いたくもなるが、自明なことをわざとらに言うのも傲慢かもしれない。ブログでアフィリエイトで少し稼がせてもらっているのはあるけど(これは素直に感謝しています)、言論誘導みたいなことでお金を貰うということはない。
 これは自分にしてみれば笑い話でもあるけど、不快な話でもある。その微妙のあたりで、ふと思ったのは、こうした誤解も含めて、暴言を投げかけている人は、自覚はないだろうけど、僕に対して、キリスト教的な意味でだけど「罪(負債)」を負ってるのだから、僕が許してあげればいいんじゃないかということだ。
 僕は自身がクリスチャンなのかよくわからない人になってしまったが、目覚めるとき、主の祈りを捧げるようにしている。キリスト教とか他の宗教でもよく祈るという人が多いものだが、僕が聖書で知ったイエス・キリストは、人の祈ることなんか神が全部知っているのだから、これだけ祈ればいいっしょということで、主の祈りを授けてくれた。

天にいますわれらの父よ、 御名があがめられますように。
御国がきますように。
み心が天に行われるとおり、 地にも行われますように。
私たちの日ごとの食物を、 今日もお与えください。
私たちに負債のある者を許しましたように、 わたしたちの負債をも許しください。
私たちを試みに会わせないで、 悪しき者からお救いください。

 これに「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです」のように付け足す人もいるし、教会だとそういうおまけがついていることが多いみたいだが、不要だと思う。「アーメン」は、「そうあれ」ということなんで、意味的には「だよねー」と同じ。これも気持ちの問題でなくてもいいでしょと思う。
 主の祈りを日本語で読んで変だなと思うのは、「負債」というあたりだろう。僕は若いとき、この解明にけっこう取り組んだことがある。主の祈りにはもうひとつ聖書にバージョン(ルカの)があって、そっちでは「罪」となっている。で、若い頃の僕の結論は、「負債」と「罪」は違うということ。そっから、「原罪」も、なにそれ?みたいに思っていた。今はそうでもないが。
 「負債」というのは、洋ドラによく出て来る、「これでお前に借りができたな」「これで借りは返したぜ」のあれに近い。
 話を戻すと、「このブローガーは政権から金をもらっている」とか嘘こいた人は、気がつかないけど、嘘こいたことで僕に借りができている。言った本人はそう思ってもいないだろうけど、もし神がいるなら、ご存知。そして、もし神がいるなら、この手の負債は、僕がちゃらにしてげることだよ、と主の祈りは言っていることになる。
 社会を維持していくためには、なんでも許せばいいというものではない。できるだけ社会を公平に維持していくには、許してはいけないことある。「こいつなんかぶっ殺せ」みたいな暴言は恐怖を与えるし、実際の脅迫かどうかはわかりにくいので、きちんと許すべきではない。
 ただ、許せることもある。無理して、信仰者のフリして許そうとなんかしなくてもいいと思うし、そもそも神なんかいないなら、こうした話は意味もないけど。
 でも、もし、神がいるなら、つまり、神というのがそういう存在としているなら(進化論に対立するすげー創造者みたいなんじゃなくね)、人はできるだけ許すことが求められているのではないかとは思う。というか、それが主の祈りの一つの重要性だろう。他にも重要なことが含まれているけど。
 どうでもいいけど、フランス語の場合をおまけ。

Notre Père, qui es aux cieux,
que ton nom soit sanctifié,
que ton règne vienne,
que ta volonté soit faite sur la terre comme au ciel.
Donne-nous aujourd’hui notre pain de ce jour.
Pardonne-nous nos offenses,
comme nous pardonnons aussi à ceux qui nous ont offensés.
Et ne nous laisse pas entrer en tentation
mais délivre-nous du Mal.

 フランス語の主の祈りが原典のギリシア語に近いかといと、特段にそうだとはいえないだろう。それと、主の祈りはギリシア語で聖書に残されたが、イエス・キリストはこれをアラム語で教えたものだろう。若い頃の私はそのアラム語の響きが何かということに興味をもったし、そうした興味をもってか、以前触れたシンシア・ ブジョー(Cynthia Bourgeault)などもアラム語で主の祈りを唱える話をしていた。まあ、何語で唱えてもそれで特段の意味あるというものでもないだろう。

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