[書評]超常現象の科学 なぜ人は幽霊が見えるのか(リチャード・ワイズマン)
「超常現象」という言葉を聞いただけで眉をしかめ、身を引く人もいるだろう。占い、幽霊、超能力者、念力、体外離脱、霊媒……ちょっとご勘弁な話題である。なぜなら、そんなものは存在しないからだ。
本書「超常現象の科学 なぜ人は幽霊が見えるのか」(参照)の著者リチャード・ワイズマンもそういう一人だった。彼はずっとこう考えていた――超常現象はパーティの話題としては受け取るが事実無根――と。ではなぜ彼が超常現象をテーマにした本を書いたのか。科学的世界観を普及させたかったのか。偽科学批判をしたかったのか。必ずしもそうではない。
超常現象の科学 なぜ人は幽霊が見えるのか |
超常現象が存在するかどうかという科学議論については「超常現象を科学にした男――J.B.ラインの挑戦」(参照)など別書にまかせるとして、超常現象があったと経験する人が存在することは確かである。多くの人が超常現象を信じてしまうという現象は確実に存在する。そのほうが興味深い。調べていくと人間の脳の問題でもあることがわかる。本書は「超常現象」を受け止める人間の脳の不思議を扱った書籍である。
別の言い方をすると、人が、占い、幽霊、超能力者、念力、体外離脱、霊媒といった超常現象を信じてしまうのは、その人の科学リテラシーが低いからだ(もちろん低いのだが)と責め立てるより、そう信じてしまう心理的理由、あるいは脳機能的な理由を明らかにしたほうが、社会的にも有益だとわかる。「水に向かってきれいな心で語りかけるときれいな氷の結晶ができる」と信じている人に、「そんなことは科学的にありえないし、信じているのは科学を理解しない愚かな人なのだ」と主張するより、本書「第7章 予知能力の真偽」で解き明かされているように、信じたい物を人は見てしまうという脳の仕組みを理解し、その理解から奇妙な信念を持つ人を共感したうえで、場合によっては脳の仕組みにそってその信念を解くように接したほうがいいだろう。
それを広義の狂信性の解体というなら、本書「第6章 マインドコントロール」には特に有益な知見に溢れている。この章を読みながら私は、そこにオウム真理教への言及がないにもかかわらず、日本で起きたオウム真理教事件について、理系の青年たちがなぜあの奇妙な、超常現象を主張する宗教に没入していったのかという理解を深めることができた。あの時代に本書があれば日本社会もかなり防御的だっただろうとも思った。あの事件から15年以上が経過し、日本社会にまた奇妙なカルトの芽が見えつつある現在、本書はこうした脱・超常現象心理の視点からより多くの人に読まれるといいのではないか。
堅苦しい社会的価値の話を抜きにしても、本書は愉快な本である。例えば、「第1章 占い師のバケの皮をはぐ」はその見出し通り、占い師のバケの皮をはぐ事例が詳細に語られているのだが、その過程は逆に即席占い師になるための要点とも読める。パーティとかその他の場で、ちょっとした占い師になるためのエッセンスがぎゅっとまとめられているのだ。この章だけで占い師の秘伝書といった趣がある。
同様に「第3章 念力のトリック」を読めば、スプーン曲げができるようになる。ちょっとやってみたくもなる。受けること間違いなし。いやいや、そのネタでバカ受けできるのはもはや40代後半以降かもしれない。1972年、ユリ・ゲラーがテレビのワイドショーでスプーン曲げを実演し、これを見た少年たちが”超能力に目覚めて”全国でスプーンを曲げ出したものだ。あの騒ぎの顛末を知っているからこそ愉快なネタになる。
いや、ちょっと待て。現在の若い人が、目の前で、曲がれ曲がれと言うやスプーンが曲がるといった現象を見ると、ころっと信じてしまうことはないだろうか。世の中は、本書を楽しんで読めるだけの知性を持つ人ばかりではない。
昔のことを思い出して「第4章 霊媒師のからくり」を読むと別の懸念もよぎる。本書は翻訳書なのでシンプルに「ウィジャボード」の使い方として説明しているが、私の読み落としでなければ本書に注記されてなかったようだが、これは日本でいう「こっくりさん」である。40代後半以降なら知っているだろう。「こっくりさん」で集団ヒステリー事件が起きたことがあった(参照)。大人がパーティーゲームの余興でやるならいいが、中学生以下が不用意に行うと場合によっては危険な集団心理状態に陥りかねない。
潜在的な危険性をいうなら「第2章 幽体離脱の真実」も同様かもしれない。幽体離脱体験が心理学的に十分説明が付くことは村上宣寛著「心理学で何がわかるか」(参照)にも記されているように心理学に関心ある人には熟知でもある。またこの現象のベースとなる、疑似身体感覚の応用は重篤な脳梗塞から奇跡的な回復をした栗本慎一郎の、氏自身の考案のリハビリ手法(参照)にも描かれている。問題は同章に幽体離脱体験を導く簡素な手法が書かれていることだ。本書には言及はないがこの手法は、実際に幽体離脱があった主張したロバート・モンロー著「体外への旅」(参照)の手法とかなり類似している(おそらくモンローの書籍からこの分野の研究が開始されたためだろう)。モンローの書籍の反応を思うと、人によっては超常現象体験を起こす可能性がある。
本書はこの手法について、「実験を恐れないこと――いつでも簡単に自分の体に戻れることをお忘れなく。体外離脱のこつを覚えたら、あなたは思うがまま世界中を飛び回ることができる――想像力が続くかぎり、温室効果ガスをまき散らす心配もなしに」と軽妙に語っている。だが、モンローの体験談を読むと、これには人の生活を変容させかねない恐怖が伴うことが推測される。
ここで奇妙な逆説を思う。モンローはその恐怖と体験の意味を深化させ、晩年には実質的な体外離脱を否定し、体験の意味合いについて思考するようになった(参照)。むしろそれはワイズマンの元来の意図に近い。
幽体離脱体験と限らず、なぜこのようなこと――超常現象ではなく、超常現象の意味受容――が、人の心に起きるのだろうか。それはもちろん本書でワイズマンが主張するように、人間の脳がそのようにできているからなのだが、ではもう一歩進めて、なぜ人間の脳はそのようにできているのか。そう問うなら、各人の実存の了解過程に関与しているからもしれないという疑念が起きる。
現象学者フッサールは、人間が生きている世界は数値計量化される物理学的な世界ではなく、質感を伴った経験によって生きられる世界だとして、これを生世界(Lebenswelt)とした。人間の脳は生世界を生み出す装置でもあり、その装置には、日常的な体験から、死を先駆してまで生きる意味(あるいは死の意味)として超常現象体験を待機する仕組みも備わっているのかもしれない。
ワイズマンは脳が幻想を生み出すプロセスで、ベンジャミン・リベットによる脳と意識のギャップについても言及し、脳が意識に先んじて動くことを示している。本書には、これを詳しく示した、リベット著「マインド・タイム 脳と意識の時間」(参照)の参照はないようだったが、この主張の含意は大きい。
ワイズマンはリベットの実験から、人間の脳が意識に先行する事象ついて、無意識の役割が大きいと了解しているが、その意味合いについて、つまり超常現象体験受容の意味構造についての思索の深化はしていない。だが、意識に先行して幻想を生み出す脳の仕組みは、人間経験の意味受容に先見的な枠組みがあることも意味している。もしかすると、死の恐怖というのは、超常現象体験によって乗り越えるための仕組みの部分なのかもしれない。
リベットの実験、つまり本書でも述べられているように超常現象的な知覚は意識や知識に先行して発生する。現象学がその方法論で示したように、事後検証や他者の検証を含まない直接的な個人経験においては、通常現象と超常現象といった差違はなく、同じく所与の経験となる。
このことは、超常現象体験が体験者自身によって否定される契機も要請するだろう。多くの人はカルト的な生活をまっとうすることはできない。では、その否定契機はどのように到来するのか。一般的には「科学的にありえない」という知識によるのだが、おそらくその知識は脳において宗教信仰と同型だろう(参照)。
現実の私たちの生活では、超常現象体験は、科学によるとされる信念・通念で否定されるよりも、個人の内奥に留まる傾向がある。多数の人は、超常現象体験をしてもそれを他者との開示にそれほど積極的ではない。おそらく私たちの個人体験の認識は、他者を含めた事後検証に対して、他者への信頼も保有するという、ある種の社会機能で抑制されているのだろう。別の言い方をすれば、超常現象体験という非日常性の認識の裂け目が個人に生じても、その人は、その体験と他者と信頼し共存していく社会との宥和を計る。
そう考えるなら、超常現象体験が社会に広まったり、それを元にしたカルトが発生する時代は、他者への信頼の揺らぐ時代でもあることがわかる。であればなおさらのこと、超常現象といったものへの否定は、いわゆる頭ごなしの科学教育より、人が他者と信頼を形成していく仕組みが重要になる。
本書は、超常現象を頭ごなしに否定したりちゃかしたりする書籍として読まれるより、人間の脳はそういうものなんだよといったん受容し、多様な信念を持つ他者への許容と共存のための道具として読まれるほうがいいだろう。
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コメント
細かいことですが、栗本さんの名前は真一郎→慎一郎かとおもいます。
投稿: | 2012.02.13 09:28
ご指摘ありがとうございます。訂正しました。
投稿: finalvent | 2012.02.13 17:41
今日、「なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか 」という本を書店で見かけて少し気になったのですが、この本も気になりますね。
投稿: K | 2012.02.13 21:43