[書評]脳の中にいる天才(茂木健一郎編・竹内薫訳)
「脳の中にいる天才」(参照)は、脳科学、心理学、人類学などの第一人者らによって学際的な視点から人間の創造性ついて語った講演録を翻訳・編集した書籍である。
脳の中にいる天才 |
講演では「創造性と脳」というテーマの下、7つの講演があり、本書に収録されている。以下専門分野については同書には言及がない場合は私の判断で補った。
- アラン・スナイダー(Allan Snyder:神経生理学)
- 1章 脳の中にいる天才
- エルンスト・ペッペル(Ernst Pöppel:心理学)
- 2章 脳の不思議な3秒ルール」
- 北野宏明(システムバイオロジー)
- 3章 アキレス腱と創造性
- フィリップ・ロシャ(Philippe Rochat:心理学)
- 4章 赤ちゃんは創造的か?
- 正高信男(比較行動学)
- 5章 ベイビー・トーク
- 茂木健一郎(脳科学)
- 6章 ジキル博士とハイド氏とクオリア
- ルック・スティールス(Luc Steels:コンピューター科学)
- 7章 天才は孤独ではない
講演の個別テーマは、講演者のポジションによって扱う角度によって当然ながら異なるが、講演者が後になるほど、全体のテーマに配慮し、議論に重層性が出てくる。特に茂木氏の講演にそれが顕著になる。
講演内容のレベルだが、学会報告とは異なり、一般向けを対象にしているのでそれほど難しいことはない。竹内氏の目の入った翻訳も読みやすい。また講演録にはそれぞれ、竹内氏の起草しただろうコンサイスな解説も付加されていて理解の補助になる。講演の時間は1時間くらいだったのではないだろうか。あまり深い問題にまでは触れていない。2004年の講演ということもあり、内容的には若干最先端研究からずれている印象もあるが、ミラーニューロンなどの話は一般的には昨年あたりから話題となっているとも言えるし、原書も2007年出版でもあるように、現時点で読んでもそう古いといった印象は与えない。
個別には誰が読んでも、アラン・スナイダー氏による「かぶるだけで天才になる帽子」や北野氏による独自の癌治療研究などは面白いだろう。研究の方向性は意外ともいえる。
私個人としては、ペッペル氏が指摘する、「今」という時間意識の問題が、大森荘蔵哲学の「今」と重なる部分があり、哲学的な時間論から見ても示唆深かった。
意外といっては失礼だが、茂木氏の話は一番エキサイティングだった。私は氏のクオリア論を分析哲学的にはナンセンスではないかと思っていたが、脳機能の構造における非局在と反応の時間調整の統一の機能の視点からクオリアを再考すると、なるほど十分に脳機能の問題として重要性があるかもしれないと、ようやく理解できた。
また「極東ブログ:[書評]サブリミナル・インパクト 情動と潜在認知の現代(下條信輔)」(参照)で扱った問題も茂木氏の指摘に重なる部分があり、面白かった。特に、脳内の快楽が報酬となる経済学の基礎に、確率を持ち込む発想が刺激的だった。通常、「神経経済学」として語られることが多いが、茂木氏は次のように的確に指摘していた。
ところで、「神経経済学」は名称としてはおそらく誤っていると思います。というのも、人々が脳科学によってお金を儲けるチャンスがあるかのように聞こえてしまうからです。そうではなく、この分野では、どうすれば脳が確固たる方法で不確定性に対処できるかに関心があるのです。これこそが非常に基本的な問題なのです。
この問題は、既読だがまだ書評を書いていない、ナシーム・ニコラス・タレブ氏による「まぐれ 投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか」(参照)や、「ブラック・スワン 不確実性とリスクの本質」(上巻参照・下巻参照)とも関係する。タレブ氏は行動心理学や神経心理学に目配せをしつつも、確率論側の持つ、本質的な不確定性に人間がそもそも対処しえないか、あるいは対処しようとする傲慢を問題にするが、茂木氏の射程では、こうした不確定性は、現象の側から発生するのではなく、脳機能の対応の相互作用として現れることを示唆している。おそらく、そこに隠された重要性があるように私も考えている。
以下書評の文脈から逸れるが、私個人としてはこの問題、つまり、この不確実性への対処としての脳機能のありかたは、バラス・フレデリック・スキナー(Burrhus Frederic Skinner)氏による古典的な行動分析学の中に、脳やマインドを除去した形ですでに包括されているのではないかと思えてならなかった。スキナー氏は、これを古典的な科学として定式化していったが、しばしば因果論的に理解される「随伴性(contingency)」には、現象としての不確実性と脳機能のマインド・セットの先行性を総括する含みがあるだろう。
本書の講演では、ミラー・ニューロンの研究の影響もあるのだろうが、人間の認知や創造性といったものを、コミュニケーション的な文脈のなかで捉えようとする傾向が見られる。おそらく創造性も、従来個からの創発のように思えたものだが、むしろ人間を含めた環境要因に随伴する現象だとしてよいのではないか。すると、旧来「操作」としてチョムスキー氏などから単純に否定された部分には別の視座が広がるだろう。あえて言えば、下條信輔氏の文脈を借りた表現になるが、コミュニケーションを含む対人的なインタラクションの環境が人の創発のサブリミナルな操作条件を作り出すと言えるだろう。
そこまで延長できるなら、脳というものは我々の意識や創造性をその内部から生み出す箱のようなものではなく、むしろコミュニケーションを含む対人的な環境を、外的要因に見せる随伴性の条件を含めて、世界としてプロジェクト(投射)する仕組みなのだと言えないだろうか。創造性はそこでは、むしろその世界の自己運動の随伴的な現象として扱えるのではないか。
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コメント
脳の中に天才が居ようと凡才愚才が居ようと人それぞれだから別にいいけど、調子に乗って脳開発に勤しみ過ぎると、脳が壊れますよ。廃人になっても知らんぞ。
米作でも畑作でも、土地を酷使しすぎたら作物の品質が劣化しますよ。だから、ただ肥料を与えて見せかけの地力を帳尻合わせするんじゃなく、実際に数カ月~半年単位で土地を休ませることもあるんでね。
人間基準で、理論基準で、理論上間違って無いから基準で張り切り過ぎると、思わぬところで竹箆返しを喰らいますから、開発前には開発後のことをある程度想定して、手に負えそうにないと思ったらそこで予め止めるのも、また知性ってもんだと思いますよ。
歴史的に、嘗て広大な農場だった地域が今では荒れ地か砂漠になっているとか、そういうのは世界のあちこちにありますわな。広大な大河が流れて水量には不足しなくても砂漠化してる地域ってありますわな。メソポタミア&エジプト周辺とか。
そういう事例も、鑑みられたし。
投稿: 野ぐそ | 2009.09.12 10:01
>そこまで延長できるなら、脳というものは我々の意識や創造性をその内部から生み出す箱のようなものではなく、むしろコミュニケーションを含む対人的な環境を、外的要因に見せる随伴性の条件を含めて、世界としてプロジェクト(投射)する仕組みなのだと言えないだろうか。創造性はそこでは、むしろその世界の自己運動の随伴的な現象として扱えるのではないか。
またベルクソンなんだけれど、ベルクソンは、脳とは、「生への専念の機関」と位置づけています。すなわち、生きるうえで必要なことに関心を振り向けるための情報遮断機構が脳であるという考え方。だから、私たちは、脳が意識して操作できる以上の外的環境をたくさん知覚しているということです。また、内面でも信じられないほどたくさんの表象が、つねに、無秩序に連想されているということです。
言語については、ベルクソンも三浦つとむも、社会形成のための道具と捉えているみたいです。社会を形成し、社会に適応し、必要とあれば社会を変革するための道具としての言語という言語観です。社会のあり方が言語に刻印され、その言語を習得することによって社会生活に適応できるようにするのが言語学習の主目的という考え方。
そうなると言語の変革が社会変革の一手法ということだから、私みたいに、ひらがなでルビが振られている妙法蓮華経をひとりでも多くの人に漢文真読(呉音音読)させようとしているようなやつは、当然社会変革家、ある種の革命家ということです。迷惑なやつですね(笑)。
投稿: enneagram | 2009.09.12 10:36
>迷惑なやつですね(笑)。
そうですね(笑)。
投稿: 野くぞ | 2009.09.14 12:56