[書評]オーランドー(ヴァージニア・ウルフ)
人生いつか読む気でいてなんとなく読みそびれた本がいくつかあるが、ヴァージニア・ウルフの「オーランドー」(参照)もその一つだった。
私がウルフに関心を持ったのは神谷美恵子への関心からの派生だ。神谷美恵子についてはいろいろ複雑な思いがある。私が青春時代、みすずから神谷美恵子著作集が刊行されたことも影響を強くした。私はそれを全部読んだ。次々と刊行される著作集には月報のような冊子があり、そのなかで夫の神谷宣郎が美恵子には著作からはわりえないものがありますという奇妙な告白のようなコラムを書いていたのだが、それは今も痛みのように心に残る。
この「神谷美恵子著作集4」(参照)が「ヴァジニア・ウルフ研究」である。彼女はヴァージニア・ウルフの研究者でもあり、精神医学者として、そしてある意味で彼女も特殊な女性としてウルフの精神のある何かを見つめていた。そしてその視座のなかに、フーコーの「臨床医学の誕生」(参照)や「精神疾患と心理学」(参照)もあった。フーコーとウルフを繋ぐことで見えてくるぞっとする何か、また、神谷がさらに繋ぎうる現在の悲劇の二人の女性のことは時折考える。それらを「めぐりあう時間たち」(参照)のように繋いでみたいようにも思う。そしてそれらを繋ぐ私はブログ空間のなかに永遠に綴じ込まれて「自省録」(参照)を書くのである。と、どうやら「オーランドー」にあてられたようだ。
オーランドー 杉山洋子訳 |
物語「オーランドー」の主人公、オーランドーは、一六世紀、テューダー朝末期のイングランドに生まれる。貴族でありエリザベス一世お気に入りの美少年でもある。そして、ロシア皇女とスラップスティックな恋の破綻と、詩人としての挫折を経てトルコ駐在大使となるも、三十歳のある日、七日間の昏睡の後、女性に生まれ変わる。相貌は変わらずだが、肉体は女体となった。特に違和感もなく。もちろん、読者としては違和感ありまくりというのが普通の感想であろうし、この変身譚は、そ・そ・ら・れる。
そして彼女オーランドーはジプシー(訳語ママ)と共に暮らし、イングランドに戻り、十八世紀のロンドン社交界の話題のレディとなる……ちょっと待ったぁ、オーランドは何歳だ?
三十を少し越えたばかりである。世間的に奇妙なのはその間、彼というか彼女、オーランドーは数百年を生きているということだ。それでは数が合わないではないかというのなら、オーランドーは人の世の十年に一つ歳を取るのだと考えるとよいだろう。って言われてもねなので、映画「オルランド」(参照)では、エリザベス女王による王は「決して老いてはならぬ」と永遠の若さと命を保つ仕命を与えられたといったストーリーを加え、よりファンタジー風味にしてある。
オーランドー ある伝記 川本静子訳 |
支離滅裂でしょ?
この物語はしかし、少なからず文学的な嗜好を持つ女性を、敢えて言うのだが、病的に魅了するところがある。その魅了のポイントは男性から女性への変身であり、その両性具有性にある種のフェミニズム的な依拠の感覚を求めてしまうからだ(あるいはもっと純粋に、ヤ・オ・イと言っていいかもしれない)。この訳書の解説をしている小谷真理もそうしたありがちな視点を起点においたせいか、映画「オルランド」との対比においてこう述べている。
(前略)映画版の打ち出す新解釈を鑑賞し、あらためて原作を再読してみて気づいたのは、ウルフの両性具有が最初から雌雄の完全性を備え時に応じてどちらかを使い分けるといった古典的なものではなく、時代の状況に応じて性が変化せざるを得ない点に着目していることであった。
ウルフ研究者の多くが、オーランドーまたはウルフの視点に無前提に立ち、そしてフェミニズムの文脈に流し込む傾向があるようだが、小谷がここで指摘しているように、時代がオーランドーの性を変化させたと考えたほうがよく、この変化はたった一度のものであり、オーランドーとよばれる個人の性の意識ではなく、時代がそのように個人の性に反映してスキャンダラスに描ける……まさにそのような物語装置としてオーランドーが設定されているのだ。
これはオーランドーが三百六十歳ということからも必然的に導かれるものだ。オーランドーとは、本書の挿絵写真からもわかるように、ウルフの同性愛対象であるヴィタ・サックヴィル家の家系の人々の総体であり、その家系の最後の悲劇的でもある残照としてのヴィタなのだ。
オーランドーは、凡庸に描けば、サックヴィル家の人々であり、そしてその現代の女性ヴィタにその祖先を収斂させる仕掛けとして性転換がある。
オーランドーは、そしてサックヴィル家を越えて、集合的な意識でもある。
(前略)オーランドーはほっと安堵の溜息を洩らし、煙草に火をつけて一、二分黙々とふかした。そして、呼んでもいいかもしれないな、とでもいうようにおそるおそる「オーランドー」と、呼んでみたのである。なぜといって、心の中で(仮に)七十六種類もの時間が同時に時を刻んでいるとすれば、人間精神にはあれやこれや――やれやれ――いったいどれほどさまざまな人間が宿っていることになるのだろう? 二千と五十二人だという説もある。だからひとりきりになったとたんに、オーランドー?(という名の人なら)と呼んでみるのはごくあたり前のこと、つまり、さあ、来てちょうだい! 私は今のこの自分に飽きてしまっったの。別の自分になりたい、というわけだ。われわれの友人がまるで別人になることがあるのも、このためである。とはいっても、そうやすやすと変身ができるわけでもなくて、オーランドーのように(都会から田園にやって来たのだがからきっと別の自分を必要したのだろうが)オーランドー?と呼んでみても、求めるオーランドーは来ないかもしれない。
人がその人を包む逃れられない、選択不可能な時代というものを意識するとき、その時代の歴史根底は無数の人(死者)となって私を構成しはじめる。私はそのそれぞれにおいて、死者をよみがえらせ、変身する。肉体を得る。
現代という時代においてその歴史を抱え込んだ意識存在が、肉体的、つまり性的な変身の臨界において女性になっている、という点にオーランドーの主題がある。
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さらに文学というオタ的なものにならざるを得なかったのは、現代的にいえば、「オーランドー」はコミケな作品だったこともある。同人誌である。この作品の序文にずらずらと名前が挙げられている当時のパンクなイカレた知識人が愉しむための文学的な冗談として閉じられて作成された作品であり、現代の携帯電話のチェーンメール的な趣向でもあった。そしてこのチェーンメールのなかにこっそりケインズが潜んでいることも注意してよいだろう。
ここでヴィタに触れざるを得ないのだが、この部分についてはいわゆる地道な文学研究が進められているので割愛したい。三十六歳はヴィタの年齢である。ウルフは十歳年上だった。
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コメント
ウルフが知り得たあらゆる古典の
(プレジャリズムぎりぎりの)
パロディかと思っています。
投稿: Sasha | 2007.03.09 19:38
確かボルへスの評論集『異端審問』(晶文社 1982/01)だったか……何分、当の参照本を紛失してしまったので、あやふやな記憶を手掛かりとしたコメントなので恐縮としてしまうのですが、
ジョン・ロックの「時間論」に併せて、天地創造から天地創造以前(古代)は逆算して創造されたという実際の神学者による奇説が論じられていた章があったのを、今回のエントリを読んで思い出しました(何でも後者の論旨は、だからアダム創造よりの家系譜から計算された約6000年前の向こう、起源以前の化石があっても天地創造の時期は矛盾しないのだとか。凄く強引ですが、なんとも……)。
私は「その人」の再現であるという欲求は、誰某の前の自負の為に起き上がるのか……。目下私には、悪い冗談をぶつける相手さえいない寂しさ。
投稿: 夢応の鯉魚 | 2007.03.15 12:49