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2010年5月 6日 (木)

きわめてまっとうな赤木智弘氏のつぶやき

5月4日の日経社説に対して、黒川滋さんの「今日も歩く」と本ブログがまたもや見事にかぶってしまいました。

http://kurokawashigeru.air-nifty.com/blog/2010/05/55-07f8.html(日経社説 介護・保育は外国から低賃金労働者を連れてくればいい)

これはもう、条件反射回路が似ているということなんですかねえ(笑)。

それはともかく、このエントリで

>昨日、赤木智弘さんのtwitterでもそういう議論が行われていて興味深かった。
障害者介護の介護士の賃金が高くなるとカネのために福祉をやる人が流れ込んで困る、と赤木氏に議論をふっかけた人に対して、そうやって調達する介護労働は脅迫によって成り立つ、と反論。ほんとうに視点がいい。

と紹介されていたので、ちょっと覗いてみたところ、確かに、赤木氏、極めてまっとうな議論(つぶやき)を展開していました。

http://twitter.com/T_akagi

>介護の仕事が人手不足なのは、職業訓練が足りないからではなく、はしごが途中で折れていることが明白で、一生食べていける仕事ではないとみんな知っているから。介護の待遇を良くするか、社会保障を充実させて、介護でも一生食べていけるようにすればいい

>RT @kan9896: @T_akagi 介護を受けている立場で言うと、現在以上の待遇を介護職に与えたりすると金のためだけに就く人が増えて、安心して任せられなくなると思う。

>介護って「要介護者のため」ではないと思う。RT @kan9896: @T_akagi 個人的な信頼関係の上に成り立っているならば良いのだが、現状では全く意味のない専門性を持った人間が、信頼も何もなくやっている。ここを是正しないと誰のための介護か分からなくなる虞があると思う。

>社会全般のためでしょ。そうじゃなきゃ、介護に関わる人は何のために介護をしているのか。RT @kan9896: @T_akagi では、誰のためなのですか?

>これまでの介護を誰が負担してきたのか。それは主に女性。賃労働を男性に奪われ、無賃労働としての家事労働や介護といったシャドウワークを一方的に押し付けられてきた。そうした介護は決して「愛情」によって支えられているのではなく「脅迫」によって支えられてきた。

>現実問題として、今はまだ「モチベーション」を保っている人だけが介護を担っている。そしてそれは市場原理にしたがい、労働市場として労働者に見捨てられている。同時に、発展途上国の「介護士」を連れてこようという取り組みも進んでいる。

>RT @kan9896: @osugi81 @T_akagi 他の職業と同じように評価すると、今の介護職の人間に今の報酬は到底払えません。看護職と同等以上の知識があるならそういう論も認めますが。

>要介護者があなたのような意識で介護者を見ているとすれば、そのどこに「個人的な信頼関係」が成り立つ余地があるのでしょうか? RT @kan9896: @T_akagi 失業者対策として語られる介護職というのは汚いことをする肉体労働者というイメージではないのですか?

>要介護者があなたのような意識で介護者を見ているならば「個人的な信頼関係」が成り立つ余地などありません。これはあなたの全ての発言に向けた結論です。RT @kan9896: @T_akagi もちろん、私がそういう意識で見ているということではありません。冷静に読んでくださいね。

日本人の労働市場ではそんな低賃金では誰もよろこんで働かないよ、という水準が、「今の介護職の人間に今の報酬は到底払えません」というのですから、それは外国人労働者を連れてこなければ労働供給がもたないのは当たり前でしょう。

ただ、「きわめてまっとう」と言って、「100%」と言わないのは、この直後に

>なんか、ベーシックインカムの必要性を実感した。労働から貨幣を引っ剥がさない限り、こうした見下しはいくらでも発生する。

とつぶやいてしまうところ。逆でしょう。赤木さんの論敵が言っているのは、「金のためだけに就く人が増えて、安心して任せられなくなると」とか「失業者対策として語られる介護職というのは汚いことをする肉体労働者というイメージ」とか、まさに介護労働を労働市場における労務と貨幣の交換という本来あるべき市場労働から引きはがして、なにやらお金と関係のない高邁なる崇高なサービスに仕立て上げようということなのではないですか。ここでベーカムとか言っては負けですよ。

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コメント

「今の介護職の人間に今の報酬は到底払えません。」
お話にならないですよね。
介護職に報酬が払えないなら、せめてご自身は要介護状態や認知症で介護職のお世話にならないようにトレーニングに励めばいいと思います。
実際、現在そういうトレーニングの市場は(グッズもサービスも)拡張しつつありますし。

生活を支えなければいけないということから、逆の意味で金のために介護職につけない、という可能性は考えられてないのですかね?
いま離職していってる人達は、介護がやりたくないというより、生活のために辞めざるを得なくなってるということだと思うのですが…

http://twitter.com/T_akagi/status/22457785202

"「会社への所属が社会保障になってしまった」という問題は、日本を貫く大問題ですな。"

ふむ

【赤木智弘の眼光紙背】「世の中は持ちつ持たれつ」http://blogos.com/article/34755/

” 被支援者は、どうしても一方的に支援されることに対して負い目を感じてしまう。多くのハンデを持ち、様々な支援を受ければ受けるほど、自尊心は失われていく。

”たいていの人は他人から様々な支援を受ければ受けるほど、一方的に他人から善意を受け取り続けることが苦痛に変化していく。それは決してわがままではなく、受け取るだけ受け取ったものが、借金のように心の中にうず高く積まれていき、圧迫感にさいなまれていく。そして、やがて親切にしようとする人を遠ざけてしまう。”

” 最近は偉そうなツラをした連中が「自立」という言葉を使い、「俺は誰からも世話になっていないんだから、お前も他人を頼るな!」などと主張することが多くなった。しかし僕に言わせれば、そんなものは自立でも何でもなく、自分が支えられていることを自覚しない夜郎自大であり、お子ちゃまの屁理屈に過ぎない。

 障害や、賃金の多少によって発生する「格差」は、本来持ちつ持たれつである人々の関係性を、「一方的に与える人」「一方的に受け取る人」に分断してしまう。そして片や「こんなに税金を払っているのにアイツらは楽をして」と憤り、片や「私は受け取る事ばかりで他人に返すことができない」と悲観にくれる。”

” そうした分断を解消するには「自立しろ」、つまり働けとか、税金を払えといった表層的なことを要求するのではなく、障害を持ったり貧しい人達が、どのように社会に対して「持ちつ」の部分を表明できるかということを、共に考えるのが真っ当なのではないだろうか。

 障害者等の社会参加を促すことが重要なのは、決して賃金を稼いで自立しろということではなく、社会参加を通して「持ちつ」の部分を社会に提供し、「持たれつ」である支援を素直に受け取る事ができるようになるからだと、僕は考える。”


萱野・立岩氏あたりの障害者関連の論考を連想します。

それはそれとして、それでもやはり赤木氏は
ベーシックインカム
により自尊心を維持したままの社会保障を
推進するのでしょうか。


赤木さんの論考の根本には
「現在の日本には全員が食べていけるだけの仕事がない」
という認識がありますから
BI論に行くのはロジック的に然りかと。

まずその認識が違うということを
データから紐解いていかないと
批評にならないんじゃないかと思うわけで
まぁ個人的な感想ですけど

>「現在の日本には全員が食べていけるだけの仕事がない」

これは、週40時間労働(=残業なし)が実現してから言うべき話だと思います。人を増やすよりも残業をさせる方が経営者の利益になるという日本の企業風土を変えない限り、いくら仕事があっても行き渡らないと思います。

かつての医療バッシングの際も、かえって医療事故が減っていいとか、金のためではなく自己犠牲の精神で仕事する人材だけが残っていい、などというアフォな主張がありました。待遇をあげることで有能な人材が得やすくなることや、志望者が増えるからこそ適正な人材の選別がしやすくなることには思い至らないようです。現在、介護労働者による虐待が問題になっていますが、これも人材が払底していることの弊害でしょう。発展途上国が警察の腐敗をなくすために給与を引き上げた上で取り締まりを厳しくしたように、ムチだけでは精度管理がはうまくいかないのは明らかです。
こういうことを主張する人たちは、労働者を使い捨てることで低賃金、高サービスを提供しているブラック企業が日本全国に蔓延することが望ましいとでも思っているのでしょうか。自身や家族がブラック企業の犠牲にならないとでも勘違いしているのでしょうか。

赤木氏は、自由主義経済とは結局は弱肉強食と考えているように思われます。スポーツのように、自分が勝てば対戦相手が負ける関係。誰かが豊かになれば、別の誰かが貧しくなくなる関係。彼の言葉を使えば、富裕層や安定労働層は豊かさを維持するために貧困労働層に貧しさを強いている、このように認識しているのでしょう。

彼が偽悪的に演技をするのは、結局は自分も弱肉強食の競争の中で勝ちたいだけであり、富裕層や安定労働層と同じ穴の狢だ、という意識があるためと思われます。自分たちが豊かになれば、別の誰かが貧しくなるのではないか。そういう疑問が頭をよぎるため、道化師のような言動につながるのでしょう。『「丸山眞男」をひっぱたきたい』の結論が戦争による社会の流動化という、明らかに無意味な提案になっているのもこのためです。核兵器が存在する現在において日米同盟がある日本が戦争に巻き込まれた場合、日本の国家崩壊では済まず人類の全文明の消滅があり得ます。社会を流動化するために、その社会の礎である全文明を犠牲にする、これほど馬鹿げた矛盾はありません。彼の演技は、自分の議論が机上でさえ矛盾なく一定の結論を得られないことに対する、一種のブラックユーモアなのでしょう。

私個人の認識としては、ミクロ経済学の純粋交換理論により、自由主義経済は弱肉強食ではなく、交換を通じてお互いの効用を高めあう制度だと考えています。したがって、赤木氏の哲学的な苦悩は杞憂だと感じます。

ただ、それとは別に、赤木氏が満足する社会的幸福というのは将来的には実現できないかもしれない、と危惧しています。実家に帰省した時によく母が昔の話をするのですが、1970年代までのオフィスでは種々の細事が人力で実現されていたことを懐かしそうに語るのです。例えば、出張のための航空チケットの手配では、現在では各人がネットで予約しますが、昔は総務部が取りまとめていたそうです。当時は、電話で予約をしたら紙のチケットを最寄りの旅行代理店に取りに行かなければいけないためです。母の話を総合すると、昔は専門知識を必要とされていない仕事が世の中に溢れていたようでした。

今は違います。専門知識が不要な仕事の多くは、コンピューターやインターネット、ロボットによって自動化されています。専門知識が無い人は、低賃金の職か、職そのものが無いという状況に陥りがちのように見受けられます。さらに技術系のニュースを見ていると、自動化の傾向はますます強まるように思われます。

そう遠くない将来、労働者に求められる知識レベルが上がりすぎて、そのレベルに到達できない人が大量に発生するのではないか。こう危惧するのです。これは奨学金の充実などで解決できないと思われます。確かに、奨学金の充実は個人レベルでは解決になるでしょう。しかし例えば、センター試験の理数系の科目で8割程度を得点できる知性が無いと就業が難しい、という状況になったとしたらどうでしょう。どれほど文教政策を充実させても、全人口の1割ぐらいはこのレベルに到達できないかもしれません。そうなったときでも財政的な無理をすれば、失業者を飢えさせないようにすることは可能でしょうが、現在の生活保護水準を保証するのがせいぜいでしょう。これは、赤木氏が満足する経済レベルとは程遠いでしょう。

もっとも、現在の状況はそこまでではないので、このようなSFじみた話を考える必要は無いかもしれません。しかし、こんな世界も来世紀の話ではなく、今世紀の半ばに出現してもおかしくない、と予感するのです。

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