施設全部育ちの孤独の頑張りを知っているだけに今自分達に出来る事をしていきたい
#自立とはきちんと相談できる(固有)の相手がいてこそ
1人で頑張る限界と方向性
路上で生きてた(下宿のおじさんからの性的な問題を避ける為)頃、知らないおじさんから諭された事がある。「素直にうちにかえんな」
そのおじさんのあまりの剣幕に、帰る宛てもないのに帰るフリをして、大分歩いて植え込みにもぐった事がある。帰る家がない施設育ちの事を説明しても理解してもらえないタイプの人がいる・・・とその頃に知った。
確かに施設全部育ちは自分には誰も居ないで生きて来た過去を否定できない為、家族や絆を持とうとはなかなか出来ない人が多い、自分自身振り返ってみても、無いモノをねだってみた所で得られる筈もなく、1人で生きる事を自分で決めたかのような勘違いをしていた。
施設育ちは誰にも相談できない事が問題になるけれど、固有の相手がいない為、たとえ口下手で語れなくても気付いてくれる人がいないという問題もある。自分の問題なんて、自分で判ってる人なんて実はいない。
でもそれは1人で生きる道を選んだ来たのではなく、1人で生きるしか無い道を歩かされたに過ぎない。親から捨てられ施設からも措置解除で捨てられ、たった一つの就職口に失敗すれば明日は路上。若いので生活保護も受けられず、やる気が無いと叩かれ、世間知らずのお人よしなので、騙され続け・・・。
でも、その失敗さえも分かち合う家族もいない。大失敗をたしなめてくれる人が居るなんて幸せな事だと思う。施設全部育ちの頑張り方は、単に我を張っているようなものであり、自分を弱いと認める事に恐怖を感じている張り詰めた糸だ。
施設の中に兄弟がいても・・・
ある施設出身者の話を聞いた。その人は兄弟が居たけれど、大舎制の施設の中で生活する棟が全く違うので、入所から退園まで、血を分けた兄弟であるにも関わらず一緒に育つ事は無く、大人になっても連絡1つ取り合わないそうだ。大勢の子ども達の一人に過ぎず、誰が自分の兄弟かも判らず、バラバラで育つなんて事は当たり前だったそうだ。100人規模の施設ならば、当たり前にある事だ。
でも方や、里親さんの話を聞くと、里親さんの実子と里子は固定された家庭の中で共に育つうちに自然に兄弟の感覚が身についてゆくと聞いた。わたしはびっくりした、施設では兄弟が兄弟として育たず、里親家庭では他人同士が特別な感情を持つなんて・・・。
わたしは卒園後、福祉から「あなたのたった一人の親を面倒見れないなんて非道だわ」と言われた。親をみるかどうかという選択を迫られた時、実感が全く無い事を素直に打ち明けたが、とうてい受け入れられなかった・・・。でも今思う事は、特別な親という思いがあれば、誰が止めても親を放っておく事は出来ないと今は感じるようになった。それを教えてくれたのは姑と夫なのだけど・・・。
本来は特別感はエゴではない
誰かにとっての特別な自分を意識する事はけしてエゴではない筈。なのに、わたし達は施設という特殊な集団生活の場で平等に生きなければならなかった為、自分が一度も誰の特別な子どもとして生きた事がないにも関わらず、常に集団の中で、出すぎた態度を取らないように生活していた。
生まれてから一度も「私の大事なあなた」と言われた事がない事を軽く考えすぎている周囲の大人達の配慮の無い態度によって、1人の道を、さも自分で選んで生きてきたかのように考えてしまっている。それは自分が不幸なだけでなく自分に子供が生まれた時、たった一人の親として自分を求めてくる幼い命に、どう対応していいか分からない事に繋がると思う。
わたしは絆づくりを通して、誰かの特別な自分を意識して生きる為の道と、今まで通り1人で生きる道の岐路に立っているように思う。里親制度を勉強するようになって不思議な事に、わたし自身里子になった事はないのに、心が乱れると同時に癒されていくようにも感じる・・・。
だからわたしは、自分自身が里親になれなくても、里子として育てられた事が無いとしても、この魅力に満ちた世界観をもう少し勉強したいと思っている。そしてきっと勉強の成果は、このブログ記事に反映されていくと思う。
見たくない世界は知らねばいけない世界
里親家庭を見たくないわたしは、一般家庭を見たくないわたしに繋がってしまう。家庭生活というもの全てから背を向ける事になる。施設で育つ事を肯定するわたしは、自分の子を施設に入れる事をいとわないだろう。
わたしは施設を出ても1人で頑張って生きて来たというハリボテのような心意気で、自分の子どもを捨てるだろう。だから、わたしは里親制度を応援する、里親さんを応援する、自分が結果的に子どもも居ないし、もしかしたら結婚生活を維持できるかも分からない中で、わたしが出来る事を、今、どうしてもやりたい。
正しさの為というより、欲しかったけれど、得られなかったと後で気付いたモノを、今捨てられてる子へ・・・。Mariaとわたしは、いつもそういう話をしてる。マクドナルドでアメリカン飲みながら、2人で夢見てる。
だから頑張る、この頑張りの方向性はきっと孤独だった過去のわたし達を救ってくれると思うから。
| 養護施設を出てからの問題 | 11時47分 | comments:17 | trackbacks:0 | TOP↑
あの・・・カナンさん
カナンさん・・・
一番言いたい事を通す、そして理由を後で付ける。
そして周りが何となく納得させられる。
もしかしたらけっこう自己が主張できてたんじゃないか
って思ったんです。
今は大人なんです。
このブログ、こう見えても「元・施設内マイノリティの自己主張ブログ」です。子ども時代を否定せざるを得ないので、こうして書いています。施設時代を肯定するのならブログを開設してない。
わたしは自分の過去を整理して、子ども時代の育った環境に意義を唱えているので、どうしても主張的になるし・・・。あなた視点で、わたしの今のその様子を分析し、もしかしたら、子供時代には自己主張できていたのではないか?と思うのは、短絡すぎると思う。
でも同時に、自己主張できているように見えるのなら、わたしも、だんだん施設時代の考え、洗脳から脱却できつつあるのかと・・・そう捉えます。
カナンさん、子ども時代の人で、あなたと関わり続けてくれた大人、誰か1人で良いからすぐに思い浮かべられますか?
わたしは、誰も・・・まるで群像です。
| Lei | 2009/12/15 08:27 | URL | ≫ EDIT