読むことについて

『ジョナサンと宇宙クジラ』『ミニ・ミステリ100』を買って、喫茶店で読んでいた。

「九月は三十日あった」を読んだ。こんな話だ。

男が、古道具店で見つけた家庭教師ロボットを買って、家に帰った。この時代、増えすぎた人口に対応するため、教育をはじめとするほとんどのサービスにはテレビが使われている。教育サービスはシリアルフレークの企業が提供している。男は、フェイストゥフェイスで教育を受けたことのある最後の世代だ。それから後の時代、テレビ教育企業がネガティブキャンペーンを行ったこともあって、実体を持った教師への風当たりは強い。顔をしかめる妻と息子をなだめながら、男はロボットのスイッチを入れる。古き良き時代のロボットは、男の記憶にある、ほんものの先生のように働くが…。

あとは、まぁ、それなり。なんということはないが、わたしはおっさんなので、こういう話でも簡単に涙腺が緩む。

しかし、その感覚が、ほぼ生理的欲求に近いものだということを、わたしは理解している。その生理的欲求を満たすために、本を買ったということも。

「ヤング(この短編集の著者)はいいなぁ…」というのは、こういう話を読んで出てくる一つの感想ではあるけど、そこには「****<AV女優の名前>はいいなぁ…」と言っているのと同じ、救われなさもある。

そんな暇つぶしは、もうそろそろ、やめるべきなのだろうか、と思ったりする。これは先日も書いた。

しかし、ほのぼのする、泣ける、といった、安っぽいカタルシスを除外したあとでも、わたしが他人の組み立てた言葉で想像し、考えることができた、という事実は残る。そしてその想像や思考の枠組みを、わたしの経験として使うことができる可能性も残る。

ほとんど何を読んでも、わたしのどこかが、すこしずつ書き換わる。それが重要なのだ。読んでいる話の帰結は、それとは別のところにある。読んでいる時間=書かれたものを解読して自分の中にかんがえを復元している時間、だけが、読むという経験だ。その経験は、「よかった」「悪かった」「まさかそんなオチとは」という判断を下す前に、すでに起きているものなのだ。

その経験を信じないなら、読む意味なんてない。信じたくなければ、「感動した本」「人生を変えた本」「良質のエントリィ」「有益な記事」だけ探していればいい。