政治学の根本問題
この記事は「共同性の政治学」「続・共同性の政治学」「闘争・想像力・事実性」「倫理つれづれ話」を素材として加筆・修正を施したものです。
共同性と立場可換性
世界には自分と他人しか居ない。それならば、「私があなたと居る理由」は何なのか。「私がこの集団の一員である理由」は何なのか。別に、あなたでなくてもいいのではないか。この集団でなくてもいいのではないか。私が「他でもないあなた」と行動を共にし、「他でもないこの集団」の一員として振る舞っている、その理由は何か。この「共同性」に「正当な理由」なんてあるんだろうか。「無い」なんて答えはやりきれない。だから、人は理由を欲しがる。「われわれ」が「われわれ」である「正当な理由」を。
社会学の根本問題が社会秩序にまつわる問題だとすれば、政治学の根本問題は、共同体/共同性にまつわる問題である。なぜなら、「政治」とは、まず「われわれ」の範囲を暴力的に区切るところからはじまるからである。私たちはこの世界の中に、様々な範囲での「われわれ」を区切る境界線を何重にも引いている。最初に引かれるのは、道徳が適用されるべき共同体の範囲である。これは、現在の世界においては、概ね人間の範囲と重なる。私たちが人間だけをメンバーとして道徳的共同体を立ち上げる時、非人間的存在の全ては、その共同体から暴力的に排除される。論理的には、それこそが最初に現れる政治的契機である。その後に、国家その他の共同体の範囲が画定されていき、様々な政治が立ち現れてくることになる。
ある共同体のメンバーとして誰/何を選ぶかは、究極的に正当な根拠がない恣意的な決定という意味で、政治的な決断でしかない。政治的な決断であるということは、理論上は、境界線はどこにでも引かれ得るということである。境界線は、どこにでも引かれ得るのにもかかわらず、どこか特定の場所に引かれる。その時、境界線の内側から外側に対して、排除の暴力が発動する。それが、最も中核的な意味での政治、「友・敵関係」としての政治が現れる瞬間である。それ以後、境界線の内側に立っている者たち、すなわち当該共同体のメンバーは、ある一定の権利を承認されることになる。この権利は、共同体のメンバーとしての地位身分に由来する権利である。
権利は、事実的な権力を持たない者にも分与される、間接的な権力である。それは、個々のメンバー間に存在する事実的な権力格差を乗り越えて、権利保有者の利益に供するために常に行使することができる権力である。それは当該共同体のメンバーとしての地位身分に由来するので、共同体のメンバーである限り、基本的に、どんな状況下においても常に頼りにすることができる。こうした権利の性質は、立場可換性と強く結びついている。ここでの立場可換性とは、自己と他者がお互いに立場を入れ替えたとしても、それ程不自由なく暮らしていくことができるということである。ある共同体のメンバー間で立場可換性が確保されているということは、あるメンバーが他のどのメンバーと立場を入れ替えても、それなりに生きていくことができるということである。権利は、こうした立場可換性を保障する。例えば人権は、人間が人間である限り、誰がどの立場に生まれたとしても保障されるべき最低限の権利を内容とすることで、人類という道徳的共同体内での立場可換性を確保している。
国家の共同性
けれども、立場可換性は、共同体の内部で確保されるべき条件であって、共同性の「正当な理由」そのものではない。厳密に考えれば、ある共同体の範囲について「正当な」理由など存在しないことははっきりしている。共同体は、恣意的に設立されるからこそ共同体なのであって、「正当な」、すなわち非政治的な共同体はあらゆる存在を包含した世界の全体でしかありえないが、そのような包括的すぎる共同体はもはや共同体としての機能を果たしていない。共同体とは、「われわれ」の範囲を区切るものなのである。「われわれ」がこの「われわれ」であって、決してその外部者を含まないこと自体に、すなわち共同体の政治性そのものにこそ、共同体が共同体である「理由」が宿っているのである。この意味での「正当な理由」、つまり共同性の中身であり、「われわれ」が共有する何かとは、何であるのか。これが当初の問いの意味であった。
道徳的共同体について見れば、「われわれ」が「われわれ」である理由は分かり易い。人間という同じ種であるから、という理由は、ひどくくだらないが、分かり易さでは群を抜いている。対照的に、これが国家となると、ひどく分かりにくくなる。
国家の共同性の中身について、いわゆる「憲法パトリオティズム」という考え方によって説明されることがある。つまり、ある国家の国民は、その国家の憲法が定めるところの政治的理念や政治体制そのものを支持しているという一点で共同性を有しているのである、といった具合である。だが、信念体系や政治体制そのものへの支持だけが、私たちが同じ国家共同体に属する理由であるのならば、私たちは自らが支持する憲法を目当てにして、もっと積極的に帰属国家を移って行くはずである。私たちは何故、より「正当な理由」を求めて共同体を転々とすることをしないのか。それは一つには、帰属する共同体を積極的に乗り換えるほど、私たちは共同性を重視していないからであり、二つには、やはり信念体系や政治体制以外の様々な面で共同性の実感が少なからずあるからであろう。それが何であるかは、今一つ判然としないのであるが。
現実の国家は、理念が異なる様々な人々がたまたま同じ共同体内部に居合わせただけであって、互いに「われわれ」としての共同性実感はそれほど強くないことが多い。だが、国家に特徴的な性質は、そうした共同性実感が希薄な人々を、強制力を媒介として、相互に助け合うようなシステムに参加させることができるということである。顔の見える範囲であるような共同体内部では、共同性実感が強く、友愛に基づいて相互扶助が行われる。これに対して、より広範囲の領域にわたるために共同性実感がより希薄である国家では、非人称の連帯が強制的に媒介されるのである。
国家が媒介する非人称の連帯のメリットはまず、人称的な関係(世話する者と世話される者)につきまとう依存・従属の関係が廃棄されるという点にある。「国家の世話になる」人びとは、特定の誰かの世話になっているわけではないがゆえに、(少なくとも権利上は)誰かへの遠慮のゆえに声を呑み込む必要はない。非人称の連帯は、その連帯の果実を享受する人びとをなおも政治的存在者として処遇することができる。さらに、この非人称の連帯は、自発的な連帯ではなく強制的な連帯であるというメリットをもっている。ある人がどれほどの嫌われ者であろうと、また「世間」から見てどれほど「異常」な振舞いをしていようと、その人は生きるための資源を権利として請求することができる。この強制的連帯は、自発的なネットワーキングが排除する人びとをもカヴァーすることができる。社会国家が、非人称の強制的連帯のシステムとして形成されたことの意義は忘れられるべきではないだろう。*1
とはえい、やはり人間同士の物事は機械性だけでは成り立たないわけで、共同性実感を全く無視した国家などは現存しない。それが幻想であっても、何らかの共同性が語られ、感じられなくては、国家は立ち行かない。したがって、私たちは国家にまつわる共同性の幻想から完全に解放されることはないだろう。「われわれ」が「われわれ」であるための「正当な理由」は、私たちが相互に助け合うことに疑問が生じないために、どうしても必要なのである。
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