萱野国家論の補足


2006/12/21(木) 17:52:34 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-299.html

以前、萱野稔人『カネと暴力の系譜学』(河出書房新社、2006年)を読み、思うところがあったので、萱野の前著『国家とはなにか』(以文社、2005年)をパラパラと読み返していた。そして、何か書けそうかなと思って途中まで書いたのだが、結局上手くまとまらなかった。結論に到達せず、そのままだとただの書き散らしなのだが、消すのも忍びなく処理に困ったので、結局中途のまま提出することにした。


野国家論が取り逃がしかねない部分を(「想像の共同体」的意味ではない)国家の共同体的側面に求めることができるかな、と思ったのだが、まぁ萱野もその面を見ていないわけではないかもなぁ、と思い始めてしまったので、その時点でこの話は放棄した。とはいえ、これから国家について考えたいという人にはいくばくかの役に立つかもしれないので。


ちなみに、『系譜学』は、前著の主要な論旨がコンパクトにまとまめられているので、前著を未読で、お金と時間を節約したい人は、この本を読めばひとまず十分だろう。逆に、前著を熟読した人はあまり読む必要は無いかもしれない。『国家とはなにか』は国家について考えたいならば必読の良書なので、時間と意欲のある人は様々な古典および稲葉振一郎『「資本」論』(ちくま新書、2005年)と併せて是非読むべき(なぜ稲葉本も読むべきなのかはそのうち解る)。




まず萱野の国家論の概要を確認しておこう。彼はまず、「国家とは、ある一定の領域の内部で(中略)正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である」というマックス・ウェーバーによる定義に依拠する(傍点略、マックス・ヴェーバー『職業としての政治』(脇圭平訳、岩波文庫、1980年)9頁、前掲『国家』12頁以下、前掲『系譜学』19-20頁)。その上で、一般的な社会契約論的な考え、つまり人々の同意や信約によって国家が生み出されたといった考えは、全くのデタラメだと喝破する(『国家』101頁以下、『系譜学』66頁以下)。


そこでの萱野の主張の要点はこういうことだ。すなわち、国家とは人々の同意に先行して存在したのであり、国家と国民との間に信約が結ばれたとしても、それは強者が弱者に対して暴力の威嚇を以て結ばせた約定にすぎない。国家は強制的に税を徴収する代わりに国民を保護するが、そうした一連の行為は、みかじめ料と引き替えにトラブル処理を請け負うヤクザ組織と基本的に同型である。異なるのは、国家が国家以外の主体による暴力をより強大な暴力を用いて取り締まることによって、自己の暴力だけが正当である(合法的である)と自己規定する点のみと言ってよい。


萱野の主張が意義深いのは、昨今の国民国家批判論の多くが「国民nation=想像の共同体」論(ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』増補版(白石さや・白石隆訳、NTT出版、1997年))などに依拠しながら、「国家とは幻想/虚構/フィクションにすぎない」といった論法で議論を進める傾向にあったことに対して、重大な反省を迫っている点である(『国家』第四章)。そうした構築主義的態度や、「国家とはこうあるべき」といった前のめりな規範的態度がともに取り逃がしてしまう問題、すなわち国家が用いる物理的かつ具体的な暴力の問題を再び国家論に召喚した点に、萱野の功績がある。


この功績についての賞賛を私は惜しまない。しかしながら、萱野の国家論が取り逃がしている問題も他方で存在しているような気がする。萱野が十分に目を配っていないポイントはどこか。一つはヒュームであり、もう一つは国家の共同体的側面である。


萱野の文章を引きつつ考えていこう。例えば彼は、「住民のあいだの合意や信約がなりたつのは、かれらを超えた強制力を背景としてのみ」であり、「その強制力が設立されることの根拠として、住民のあいだの合意や信約を想定することはできないのである」と述べている(『国家』110頁)。つまり社会契約論は循環論法だから間違っているという批判である。ヒュームもまた社会契約論を退けた。ただし、ヒュームは合意の前提が強制力=国家でなければならないとは必ずしも考えず、いわゆるconventionによって合意が可能になるのだと考えた。conventionとは自他の利害認識から自生的に形成される慣習的秩序のことであり、稲葉によれば「特に誰が決めたというのでもなく、明文化・公式化されてもいないにもかかわらず、人々に共有され、日々行われることを通じて維持されている慣行、およびそうした慣行を作り上げ、伝播させるメカニズム」のことである(稲葉前掲書59頁)。


ヒュームは、社会道徳や同意・契約はこのconventionを前提にして成り立っているとする(デイヴィド・ヒューム『人性論(四)』(大槻春彦訳、岩波文庫、1952年)主に60頁以下)。つまりヒュームによれば、人々が自他の利害認識を日常的行動そのものによって相互に伝達および察知し合うことによって、社会道徳および道徳感覚が形成されるのである。この考えを採るなら、各人にとってそれが利益になると考えられる限り、強制力=国家が介在しなくとも合意は成り立つことになる。したがって、強制力=国家/法が存在しなければ合意も存在しないと直ちに考える必要は無く、法以前の道徳の介在による合意の成立はある程度の規模までの社会では十分可能であるとみなせる。ところが、萱野はこうした法以前の道徳をあまり考慮していない。


同じことを別の角度から見てみよう。萱野は、「所有権はつねに「国家以外のエージェントが住民の富を奪うことはできない」というかたちで設定される」ので「国家以前にはけっして所有の観念は成立しない」と言い切ってしまっている(傍点略、『国家』120頁、同趣旨は『系譜学』160-163頁)。ここでの「所有」とは国家が保護する法的な「所有権」を指しており、これを萱野は「たんなる物理的な占有」と区別している(同、121頁)。ここには法的保護以前に人々の道徳感覚によって正当とみなされる「所有」、つまり道徳的所有権の観念は出て来ない(所有と占有について厳密に考えるには本来、①単なる事実的占有、②道徳的所有権/道徳的に正当と考えられている占有、③占有権=法的に保護される事実的占有、④法的所有権、の四段階程度には区別して考えなければいけない)。だが、そうした道徳的な所有秩序こそ、conventionによって法=国家以前に成立する第一の合意だとヒュームが考えていたものである。法的所有権秩序とは異なる道徳的所有権の感覚を人々が表明することは今でも日常的にあるので、道徳的所有権についての考察をスキップして無秩序状態から法的秩序状態へと直接移行するかのような議論に私は説得力を感じない。


とは言うものの、ここまでの議論を読む限りでは、相互の利害認識や強制力を伴わない道徳などでは違反者を取り締まることも所有権を実効的に保護することもできないではないか、と反論したくなるかもしれない。だが、conventionの議論は別にナイーブでもなんでもない。まず、人々の利害認識に基づいて形成され定着した道徳に違反した者には、明確な刑罰でないにせよ、それ相応の社会的サンクションが与えられるだろうから、道徳(合意、所有権秩序)への違反に対する抑止力が全く無いわけではない。むしろそれは狭い範囲の社会共同体内では十分すぎるほどの抑止力になるだろう。


それから、そもそも道徳の成立過程としてのconventionに権力や暴力の要素が含まれていないと考える必要は無い(と言うより考えるべきでない)。conventionを成り立たせる人々の利害認識には、それこそ「殺されるよりは従った方がマシだ」といった類の、暴力の存在が関係している利害認識も含まれる。conventionにおける権力という要素をどう考えるのかについてヒューム自身の立場は今ひとつ判然としないが、その理論構成からすれば、conventionの前提となる利害の内に権力要素が関わる利害を含めてよいはずである。つまり、法=国家が存在する以前における道徳秩序といえども、現実の権力関係を反映しているのであり、そうした権力関係を前提とした利害認識の相互了解(convention)を通して道徳秩序が形成されてくるのである(例えばジェンダーを想起すればわかりよいかもしれない)。


だが、もちろん国家無き状態がいつまでも続くわけではない。萱野が言うように、特定の暴力集団が侵略と支配によって暴力を背景とした信約を取り付け、国家を形成していくだろう。それはホッブズの「獲得によるコモンウェルス」論によって説明されるが、同じようなことはヒュームも社会契約論を批判する文脈で述べている。何より、国家が暴力によって被征服民を「服従かそれとも死か」という二択に追い込んで同意を取り付ける過程は、権力関係と利害認識に基づいて秩序が形成されていくconventionの過程と基本的に同型である。つまり、稲葉もやや曖昧な形で示唆しているように、「獲得によるコモンウェルス」的な考え方とconvention論は両立するのであり、実際ヒュームの中では両立していたのだろう。そして、この両説の接合こそ、国家の成り立ちと性格をもっともよく説明する。


野国家論に不足している第二の点に移ろう。


国家が「住民によって設立された」という理解や、「国家を共同体がもつ政治機構とみなす考え」においては、国家が同意に先行して行使してきた暴力の問題(あるいは今現在行使されている暴力の問題)が見逃されてしまうという萱野の指摘は、確かにもっともである(『国家』137頁)。「国民」は想像上のフィクションかもしれないが、「国家」は「フィジカルな運動体」として現に存在しているという指摘も、基本的に正しい(同、139‐140頁)。だが、私が危惧するのは、国家が持つ物理的暴力主体としての性格ばかりを強調することで、国家が持つ共同体としての性格が軽視されてしまうことである。暴力の独占主体としての国家が行使する垂直的暴力に気を払いすぎると、共同体としての国家=国民が行使する水平的暴力を見逃しかねない。


互いに顔見知りであることが不可能な規模の共同体としての「国民」という観念は、確かに想像上のフィクションであろう。だが、国家そのものは、実在する共同体である。・・・




共同体としての国家については、その内改めて少し考えてみることにする。その時は、萱野とは一旦切り離して、かつての「共同性の政治学」の続編としてまとめるつもり。約束はできないが。


カネと暴力の系譜学 (シリーズ・道徳の系譜)

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『国家とはなにか』

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「資本」論―取引する身体/取引される身体 (ちくま新書)

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定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険2期4)

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デイヴィド・ヒューム 人性論〈4〉―第3篇 道徳に就いて (岩波文庫)

デイヴィド・ヒューム 人性論〈4〉―第3篇 道徳に就いて (岩波文庫)

コメント

通りすがりの者です。
萱野氏はどうも、民の感情とか、コミュニティの温かさ、といった体験がないのではないでしょうかね。
あるいは、個人的な体験として、国家=権力者=がふるう暴力を、身近に感じてきたとか。
そうとでも考えなければ、ここまで国家=暴力装置、と割り切った論考はできないと感じました。
国家はもっと多面的なものだと思います。まあ、多面体から自分のお気に入りの一個を任意に解剖して、さぞ真理を発見したかのように論じてみせるのが学者だとすれば、かれは次世代の有望な学者なのでしょう。
しかし原始的な国家の成立を論じるのであれば、文化人類学とか少なくともギリシャローマの国家論あたりの視点も抑えていただけると、僕のような一般読者には説得力があると思いました。それがいきなりマックスウエーバーですからね。
いきなり矮小な、近現代の知という前提にたって論じられても射程短いじゃん、と思ってしまいました。世の中ではいくらかもてはやす向きもあるようですが、しょせんは学者向けの本だったんですかねー
2007/01/02(火) 01:39:17 | URL | ころころ #- [ 編集]


はじめまして。コメントありがとうございます。


国家がより多面的な性格をもっているということは仰るとおりだと思いますが、一人が一つの本でできることには限りがありますから、暴力装置としての国家を鮮やかに描き出したというだけでも現時点での萱野の功績がかなり大きいことは確かでしょう。


文化人類学的視点はともかく、ギリシャ・ローマ時代の国家が萱野の視野に入っていないわけではないと思うのですが、どうでしょう。ウェーバーホッブズを用いたからといって考察の対象が近代国家だけに限られるわけではないのでは?所有は当然そういった昔からあるわけですし。


あと、個人的印象ですが、萱野の本はコテコテの学者にはむしろ受けが悪そうな気がします。どちらかというと学問世界に引きこもるより政治的色彩が強い哲学・思想系の人たちの愛読書になっているでしょう。まぁ確かにそれも「一般」とは程遠いのでしょうが。
2007/01/02(火) 21:37:33 | URL | きはむ #- [ 編集]


 わざわざお返事ありがとうございます。
 うろ覚えなので思い出したいのですが、暴力装置としての国家を論じた思想家はかつていたような…フランスあたりに。デリダフーコーサルトルあたりでしたっけ?萱野氏の論は、それらを日本に輸入・適用したのかな?と思ってしまうのですが。そういう意味でデジャビュ感がありまして。ま、読んでないので、最初から何も言う資格ないわけですが、「国家とは多面的なものであるが、私はこう見る」という前提が最初のほうのどこかにあるのならば、問題ないと思う、という意味での指摘です。著作のなかで、そうした前提なしに暴力装置である、と言い切ってしまっているのだとしたら、ちょっとバランス悪いな、というか、よく言えばもったいないなと。
 例えば中越地震で、国家は暴力装置自衛隊や警察〜を動員してコミュニティの再生・維持に努めたわけですよね。国家にも、運営する人々や局面によっては温かいものを感じる。表層的な意味での福祉とかも。
 

 それから、ウエーバー・ホッブスの定義を用いているという時点で、出発点が近代における意味での国家に限られてしまう、という印象を持つ、という意味で言いました。あくまで印象論なので、ウエーバーやホッブスに詳しいわけではありません。2人が、古代の国家論も包摂したような論考をしているのであれば問題ないのですが。
 でもここまで言うと自分でも何だか難癖つけてるだけだよな、という気がしてきます(笑)。


 とにかく、氏の著作を読まないと話になりませんよね。
でも、学者に求められる一般社会からの要請として、難解なことを難解に語るのではなく、難解なことを平易に説明し得てこそ、支持と理解が深まるのだと思います。
 そうした視点で書いてもらえれば、かれも大衆性と影響力を確固たるものにできると思うのですが。
 失礼いたしました。
2007/01/04(木) 02:31:44 | URL | ころころ #- [ 編集]


萱野は、まさにフーコーをはじめとしたフランス現代思想の直接的な影響下にある思想家です。彼が国家の暴力装置としての側面を強調したのは、上に書いたような「国家とは想像上のフィクションにすぎない」といった近年流行の国民国家批判の仕方に対する戒めという意味が大きかったからでしょう。近代の虚構性を暴いただけで悦に入っているポストモダン左翼に喝を入れて大文字の政治を取り戻そうとした、とでも言いましょうか。『国家とは何か』でわざわざ一章を割いて方法論について論じているところからも、それがわかります(第四章)。


フランス現代思想の文脈で国家の温かな側面や福祉などについて論じるとすれば、おそらくフーコーの「生‐権力」、相手を「生かす」権力という概念を用いて説明できると思います。『国家とは何か』でも「生‐権力」という言葉は使わなくても似たようなことは書いていたような気もします(うろ覚えなので申し訳ないですが)。ですから、萱野的な国家論が国家のそうした側面を全く見ていないわけではないと思いますよ。もちろん、国家の温かな側面は暴力や権力の視点からだけでは説明できない、といった批判はなお有り得るでしょう。


大衆性というか、一般的な影響力はどうなんでしょうねぇ。難しいところですが、私自身は萱野の著作はこの系統にしては比較的平易だと思います。それ程思想書哲学書の類に親しんでいなくても読めるのではないかな。


ともあれ、『国家とは何か』が良い本であることは確かであると思いますので、是非お読み下さい。
2007/01/04(木) 10:38:12 | URL | きはむ #- [ 編集]