水戦争・続き

昨日は米経済学界の淡水学派と海水学派の間に勃発した“戦争”について取り上げたが、今日もその続き。


昨日のエントリで紹介したワルドマンのエントリは、Economist's Viewの1/27エントリで取り上げられたほか、クルーグマンも1/28エントリで触れているので、それなりの反響を呼んだと言えそうだ。
そのクルーグマンのエントリでは、以下の文が興味深かった。

This insularity is asymmetric. Ask a PhD student at Princeton what a real business cycle theorist would say about something, and he or she can do that; ask a student at one of the freshwater schools what a new Keynesian would say, and I doubt that he or she could answer. They’ve been taught that there is one true faith, and have been carefully protected from heresy.

淡水学派と海水学派の間の断絶は非対称的で、海水学派の博士課程の院生はリアル・ビジネス・サイクル(RBC)理論のことを知っているが、淡水学派の院生はニューケインジアン理論のことを知らないだろう、との由。


Economist's Viewは、1/28エントリで、クルーグマンの上記エントリを取り上げた後、自身の8/22エントリを再掲している。そこでは、ブランシャールの「The State of Macro」という論文を紹介しているが、その論文でブランシャールは、合理的期待革命以降のマクロ経済学史を振り返り、今後は淡水学派と海水学派が収斂していくだろう(かつてケインズ経済学と新古典派経済学がサミュエルソンの唱える新古典派総合に収斂したように)、と述べている。
ただ、このブランシャールの楽観的な見方にMark Thomaは(当時は同意したものの)今は同意していない。曰く、今回の危機で傷口が開き、両者間の対立は以前より悪くなった、とのこと。

When I first posted this, I agreed. The two sides seemed to be converging and I thought that was a good development. But the current crisis has reopened old debates, exposed divisions that have never been fully healed, and we seem as far apart as ever.

Thomaはこのエントリを、ルーカスの以下の言葉を引用して締めくくっている。

The task which faces contemporary students of the business cycle is that of sorting through the wreckage, determining what features of that remarkable intellectual event called the Keynesian Revolution can be salvaged and put to good use, and which others must be discarded.

ただし、今回遭難したのはケインズ経済学ではなく古典派の方だ、というのがThomaの見立てである。


これに対しワルドマンがCommenting on Thoma commenting on Blanchard commenting on Lucasという長たらしいタイトルのエントリで反応し、そもそもブランシャールの言うような収斂の動きがあったのかについて疑問を呈している。

Blanchard is likely to see convergence basically to New Keynesian general equilibrium models (like say Blanchard and Kiyotaki which isn't exactly new is it). He, like Mankiw, is a new Keynesian who loves math and favors the rational expectations hypothesis. That is, he will be reconciled with Prescott long before, say, Larry Summers or Brad DeLong.

マンキューやブランシャールのような数学志向が強く合理的期待仮説が好きなニューケインジアンは、ブランシャール=清滝モデルのようなニューケインジアン一般均衡モデルを収斂の証と見るだろうが、果たしてサマーズやデロングも同様に見るだろうか、と問うている。
そして、(昨日の本ブログのエントリのコメント欄でも話題になった)ルーカスについて、ブランシャールは塩水学派の学者と論文を共著するなどして収斂への道を歩んでいると評価したが、ワルドマンはその評価には懐疑的で、次のような皮肉を浴びせている。

Is there any work from Lucas at all that doesn't fall under the heading of lets do math, the harder the better, so long as we don't conclude that it is possible for public intervention to improve on laissez faire ?

(拙訳)数学を使おう、それもより難しい数学を、ただし、公的介入が自由放任の結果を改善できるという結論が出ない限り――という論旨でないルーカスの論文は存在するのかい?


なお、上記のブランシャールの論文や、Angry Bearのこのエントリを読んで、淡水学派と塩水学派の名付け親はロバート・ホールであることを小生は初めて知った。

また、小生は漠然と塩水学派をケインジアン全般を指すものと考えていたのだが、特にニューケインジアンを指すこともブランシャール論文で初めて認識した。だが、そうなると、ニューケインジアンの代表選手とも言えるマンキューが今回の財政刺激論争で淡水学派の側に立ったことは、淡水vs塩水という切り口の限界を示しているような気もする。


あと、一般向けの文章としては、Angry Bearで紹介されていた淡水vså¡©æ°´ã‚’å·¡ã‚‹20年前のNYT記事が面白い(若きクルーグマンのコメントも載っている)。その記事には、当時の大統領選(ブッシュvsデュカキス)の各候補の経済顧問としてボスキンとサマーズの発言が載っており、今回の大統領選と同じ顔ぶれだったことに改めて驚く。


おまけ(“水戦争”の一エピソード):
クルーグマンがファーマを鎧袖一触。