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掛け算の順序の話 7/17/09追記あり
さつき様ショックもかなり癒え、碧猫さんからは「ブログにぺんぺん草が生えている!、ボウフラも湧いている!」と指摘される今日この頃、久々にエントリを挙げることにしました。
north-poleさんの「百丁森の一軒家・別館:驚愕」に書かれてあった「何だか水伝擁護派と批判派の論争のようだ。」に興味を持って訪れたブログ「積分定数」(ブログ主のハンドル名も積分定数さんとおっしゃるようだ)のエントリ「かけ算の順序を考える」を拝見して。
当初は「積分定数さん」のコメント欄にお邪魔しようとも思ったが上記のような事情もありぺんぺん草消しにエントリにすることにしました。
ことは、(小学校二年生ぐらいの)掛け算の順序のことである。
なにやらあちこちで色いろな意見がだされているようなのだが、
http://www.inter-edu.com/forum/read.php?903,1013957,page=1
http://ultramarutti.blog26.fc2.com/?no=595
http://anothertrack.hp.infoseek.co.jp/others/0028.htm
http://anothertrack.hp.infoseek.co.jp/others/0029.htm
http://www.eonet.ne.jp/~mnzbo645/kakekakerare.htm
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2004/0607/002209.htm?o=0&p=0
ようするに例えば、
みかんが3個ずつ4枚のお皿に盛ってあります。みかんは何個あるでしょう。
というような問題に対して、小学校の先生が求める解答は式を含めて:
3(個)X 4 =12(個)
であり、式を逆順に、
4 x 3 =12(個)
と書くと、
「掛けられる数と掛ける数」というコンセプトを理解してないと判断されて、「不正解」とされるというのである。
で、積分定数さんのところのコメント欄には「お市」さんという「掛け算の順序重要論」の方が訪れていらしてこのようなことをおっしゃっている。
これがお市さんの一番最初の御発言。
コレに対して積分定数さんのお答え。
上記のお市さんのコメントが「順序重視論」のロジックの典型であるように思われ、実際小学校の先生たちもこの考え方(プロセス重視)で「順序重視擁護」にまわるようである。
実際、自分の息子に勉強を教えるようになってみると、教える側が「プロセスを示せ」と言いたくなることはよーくわかった(自分が教わる側の時は「式を省くな」とか言われるのが面倒で本当に嫌だった。)
私は「プロセス重視」がわからなくもないのだが、「掛け算の順序が教師側が考える正解と違っていたら不正解」はおかしいという立場であり、基本的に順序は問題でないと考えるものである、現在は。
だが、私も数年前までは「お市さん」側の人間で合ったかも知れない。
まず、私は現在「米国在住」の人間であり、息子は「米国の教育」を受けている。
で、私の息子が「掛け算」を学校で習う前に、私は彼に軽く「掛け算」を教えたわけである。
つまり、私が小学校で習った時のように「3 x 4 は3が四つあるということである」と。
この場合は 3 が掛けられる数であり、4が掛ける数であると。
現在小学生でない私は、それらの説明が必ずしも「正確」ではなくある意味「ミスリード」でもあることもわかっているつもりであるが、実際六才の子供に掛け算について説明するとなるとどうしてもその説明になってしまう。
で、息子は素直に私の言うように理解したのである。
しかし、私が驚愕したのは、息子が学校で掛け算を習い、
3x4=12を足し算に直せ
という問題に対してわたしが教えたとおりに(3が四つあると解釈して)
3+3+3+3=12
と式にして、ペケを貰って来た時である!
私は教師に文句を言いに行った。
文句のポイントは2つ:
1.「不正解」はおかしいだろう。
2. 3x4の意味は「3が四つ」だろう。だから4+4+4であるよりは、息子が立てた3+3+3+3の方がむしろ正しいはずである。
しかし、彼女(教師の回答は)
1. プロセス重視のため、学校側が認識している掛け算を足し算に変換する方法(あるいは順序)通りに式を立てなければ「不正解」にしている。
そしてこれは「学校内の合意事項」、もっと大きな括りでは「公立学校システム全体の合意」みたいなところもある、と。
2.そして学校側の認識とは「3x4とはthree times four と読み、その意味は「three 4s(三つの4)」という意味である。
ここに至って、私は日米で「掛け算の順序」のあり方が逆順であることを知った。
だから、米国では「掛ける数と掛けられる数」のあとさきが日本とは逆なのである。
「掛ける数、掛けられる数」のコンセプト(あるいはその順序)が世界共通であることを信じて疑っていなかった私は本当に驚いた。
しかも、「日本流」に式を立てると「不正解」とされてしまうのである。
これはある意味、日本と全く同じ状況(逆が正しいという違いを除いて)なわけだ。
教育側が「プロセスを重視」し、3x4 を足し算に変換するときは、
教師の立てる式:4+4+4=12
と違うと「不正解」としてしまう。
考えて見れば納得がいくのだが、3x4 を口語でどう読むかというと
「three times four」が一般的なわけだ。
そしてそれの意味するところは、「四が三回」あるいは「四の三倍」であるから。
3x4の読み方には他にも「3 multiplied by 4」があるわけだが、これは恐らく意味的に日本語の「3に4を掛ける」と同値だと思われるが、滅多に(口語では)使われることがない。
ほとんどの場合 three times four と読まれ、よって3x4に対する一般認識は日本と逆で、「4の三倍」(あるいは three 4s=4が三つ)であると言っていいだろう。
(これについては出来る限りのアメリカ人に当たって聞いてみた。その限りにおいては正しいという感触を得たが、データとしては充分ではない。が、学校で上記のように教えていることは間違いないと言って良いと思う、少なくとも日本で3x4は3が四つであると教えている程度には)
さて、私はこう理解することによってどうして米国ではそのように教えるのかは理解できたし、私が「日本流」に拘るのは少なくとも米国に住む以上は意味がないことはわかった。
だが、「不正解」がおかしいという考えは変わることはなかった。
今回この「掛け算の順序」について積分定数さんのところや上掲のリンクの議論を読んでみて、なんともデジャヴーな気分なわけだが、印象として「順序重視論」の方々の意見や考え方は、私がアメリカの教師と話した時の感触と正直良く似ている。
あまり良い表現ではないかもしれないけれど、
「官僚っぽいな」と。
おそらく、現場で教えていらっしゃる先生方には「拘る理由」があるのだろう。
同一では有り得ない生徒の理解力を判断し、個別に最良な指導をするのに必要なことなのかも知れない。
しかし、「不正解」である、と、一刀両断するのはどうなんだろうか?
そしてまた、日本流の「掛け算の順序」がどうも全くの「日本のローカルルール」に過ぎない以上はそれを「絶対に正しいもの」として生徒に叩き込むのも疑問に思う。
(と同様に、米国で米国ローカルルールに沿った解答でなければ「不正解」も実に変だ)
特に「数学(まぁ、今は「算数」の話をしているわけだけれども)」という「世界共通普遍言語」の入り口のところで「ローカルルール」を教え込むのはどうも違うのではないか?
日本で教えている「順序」に「普遍性」が無い以上は、お市さんのおっしゃる「3x4と4x3は別物である」は、「掛ける数、掛けられる数(をどう定義するか)」に「普遍性」がなさそうだから、「別物」は無理なのではないか?
以上、議論を拡散させることになるのを少々恐れつつ、書いてみました。
おまけ:
今月号の雑誌「ニュートン」(2009年8月号)を読んでいたら面白い問題があったのでご紹介いたします。
ちょっとしたクイズとしてぜひ考えてみてください。
・ある家族には子供が2人いる。そのうち1人は男の子であることがわかった。このとき、もう1人も男の子である確率は?
正解がわかったかたも「答え」は書いていただいて構いませんが、「どうしてか」は後の楽しみにおいておいてください。
追記:7/17/09
書き忘れていたことがありました。
「日本ルール」(と思われる)「掛けられる数が先の逆順」って、考えてみれば我々も平気で付き合っていることがあると思うんです。
即ち、未知数 X ,Y, a,b,などが複数ある場合我々はなんの抵抗もなく、
2X とか、3Yとか、5aとか書くわけですね。
これは恐らく国際ルールで決まっていることだと思うのですけど、
例えば3Yってのは 3 x Yの演算子を省略して書いているわけですが、例の「掛け算の順序」にしたがうならば、Y3でないとおかしい(この場合Yが掛けられる数ですよね?)と文句を言うべきではないでしょうか。
north-poleさんの「百丁森の一軒家・別館:驚愕」に書かれてあった「何だか水伝擁護派と批判派の論争のようだ。」に興味を持って訪れたブログ「積分定数」(ブログ主のハンドル名も積分定数さんとおっしゃるようだ)のエントリ「かけ算の順序を考える」を拝見して。
当初は「積分定数さん」のコメント欄にお邪魔しようとも思ったが上記のような事情もありぺんぺん草消しにエントリにすることにしました。
ことは、(小学校二年生ぐらいの)掛け算の順序のことである。
なにやらあちこちで色いろな意見がだされているようなのだが、
http://www.inter-edu.com/forum/read.php?903,1013957,page=1
http://ultramarutti.blog26.fc2.com/?no=595
http://anothertrack.hp.infoseek.co.jp/others/0028.htm
http://anothertrack.hp.infoseek.co.jp/others/0029.htm
http://www.eonet.ne.jp/~mnzbo645/kakekakerare.htm
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2004/0607/002209.htm?o=0&p=0
ようするに例えば、
みかんが3個ずつ4枚のお皿に盛ってあります。みかんは何個あるでしょう。
というような問題に対して、小学校の先生が求める解答は式を含めて:
3(個)X 4 =12(個)
であり、式を逆順に、
4 x 3 =12(個)
と書くと、
「掛けられる数と掛ける数」というコンセプトを理解してないと判断されて、「不正解」とされるというのである。
で、積分定数さんのところのコメント欄には「お市」さんという「掛け算の順序重要論」の方が訪れていらしてこのようなことをおっしゃっている。
5×4と4×5は答えは同じでも考え方が違うという点で、まったく別のものですよね、小学校の時に習ったと思います。
お市
2009/07/10 02:30
これがお市さんの一番最初の御発言。
コレに対して積分定数さんのお答え。
小学校のかけ算の最初の導入では、そうかもしれませんが、交換しても答えが同じになると習います。私自身は「全く別の物」と習った記憶がありません。
■■■
■■■
この様に理解すれば、2×3と3×2が「同じ」とわかります。
3+2と2+3
÷0.5と×2
-(-3)と+3
など、これらは答えは同じですが、全く別のものでしょうか?同じものでしょうか?
積分定数
2009/07/10 03:06
答えが同じでも、考え方が違うという意味で全く別のものです。答えにたどり着く過程(考え方)を重視しているか軽視しているかの違いではないですか?
積分定数さんは軽視されますか?
お市
2009/07/10 13:12
上記のお市さんのコメントが「順序重視論」のロジックの典型であるように思われ、実際小学校の先生たちもこの考え方(プロセス重視)で「順序重視擁護」にまわるようである。
実際、自分の息子に勉強を教えるようになってみると、教える側が「プロセスを示せ」と言いたくなることはよーくわかった(自分が教わる側の時は「式を省くな」とか言われるのが面倒で本当に嫌だった。)
私は「プロセス重視」がわからなくもないのだが、「掛け算の順序が教師側が考える正解と違っていたら不正解」はおかしいという立場であり、基本的に順序は問題でないと考えるものである、現在は。
だが、私も数年前までは「お市さん」側の人間で合ったかも知れない。
まず、私は現在「米国在住」の人間であり、息子は「米国の教育」を受けている。
で、私の息子が「掛け算」を学校で習う前に、私は彼に軽く「掛け算」を教えたわけである。
つまり、私が小学校で習った時のように「3 x 4 は3が四つあるということである」と。
この場合は 3 が掛けられる数であり、4が掛ける数であると。
現在小学生でない私は、それらの説明が必ずしも「正確」ではなくある意味「ミスリード」でもあることもわかっているつもりであるが、実際六才の子供に掛け算について説明するとなるとどうしてもその説明になってしまう。
で、息子は素直に私の言うように理解したのである。
しかし、私が驚愕したのは、息子が学校で掛け算を習い、
3x4=12を足し算に直せ
という問題に対してわたしが教えたとおりに(3が四つあると解釈して)
3+3+3+3=12
と式にして、ペケを貰って来た時である!
私は教師に文句を言いに行った。
文句のポイントは2つ:
1.「不正解」はおかしいだろう。
2. 3x4の意味は「3が四つ」だろう。だから4+4+4であるよりは、息子が立てた3+3+3+3の方がむしろ正しいはずである。
しかし、彼女(教師の回答は)
1. プロセス重視のため、学校側が認識している掛け算を足し算に変換する方法(あるいは順序)通りに式を立てなければ「不正解」にしている。
そしてこれは「学校内の合意事項」、もっと大きな括りでは「公立学校システム全体の合意」みたいなところもある、と。
2.そして学校側の認識とは「3x4とはthree times four と読み、その意味は「three 4s(三つの4)」という意味である。
ここに至って、私は日米で「掛け算の順序」のあり方が逆順であることを知った。
だから、米国では「掛ける数と掛けられる数」のあとさきが日本とは逆なのである。
「掛ける数、掛けられる数」のコンセプト(あるいはその順序)が世界共通であることを信じて疑っていなかった私は本当に驚いた。
しかも、「日本流」に式を立てると「不正解」とされてしまうのである。
これはある意味、日本と全く同じ状況(逆が正しいという違いを除いて)なわけだ。
教育側が「プロセスを重視」し、3x4 を足し算に変換するときは、
教師の立てる式:4+4+4=12
と違うと「不正解」としてしまう。
考えて見れば納得がいくのだが、3x4 を口語でどう読むかというと
「three times four」が一般的なわけだ。
そしてそれの意味するところは、「四が三回」あるいは「四の三倍」であるから。
3x4の読み方には他にも「3 multiplied by 4」があるわけだが、これは恐らく意味的に日本語の「3に4を掛ける」と同値だと思われるが、滅多に(口語では)使われることがない。
ほとんどの場合 three times four と読まれ、よって3x4に対する一般認識は日本と逆で、「4の三倍」(あるいは three 4s=4が三つ)であると言っていいだろう。
(これについては出来る限りのアメリカ人に当たって聞いてみた。その限りにおいては正しいという感触を得たが、データとしては充分ではない。が、学校で上記のように教えていることは間違いないと言って良いと思う、少なくとも日本で3x4は3が四つであると教えている程度には)
さて、私はこう理解することによってどうして米国ではそのように教えるのかは理解できたし、私が「日本流」に拘るのは少なくとも米国に住む以上は意味がないことはわかった。
だが、「不正解」がおかしいという考えは変わることはなかった。
今回この「掛け算の順序」について積分定数さんのところや上掲のリンクの議論を読んでみて、なんともデジャヴーな気分なわけだが、印象として「順序重視論」の方々の意見や考え方は、私がアメリカの教師と話した時の感触と正直良く似ている。
あまり良い表現ではないかもしれないけれど、
「官僚っぽいな」と。
おそらく、現場で教えていらっしゃる先生方には「拘る理由」があるのだろう。
同一では有り得ない生徒の理解力を判断し、個別に最良な指導をするのに必要なことなのかも知れない。
しかし、「不正解」である、と、一刀両断するのはどうなんだろうか?
そしてまた、日本流の「掛け算の順序」がどうも全くの「日本のローカルルール」に過ぎない以上はそれを「絶対に正しいもの」として生徒に叩き込むのも疑問に思う。
(と同様に、米国で米国ローカルルールに沿った解答でなければ「不正解」も実に変だ)
特に「数学(まぁ、今は「算数」の話をしているわけだけれども)」という「世界共通普遍言語」の入り口のところで「ローカルルール」を教え込むのはどうも違うのではないか?
日本で教えている「順序」に「普遍性」が無い以上は、お市さんのおっしゃる「3x4と4x3は別物である」は、「掛ける数、掛けられる数(をどう定義するか)」に「普遍性」がなさそうだから、「別物」は無理なのではないか?
以上、議論を拡散させることになるのを少々恐れつつ、書いてみました。
おまけ:
今月号の雑誌「ニュートン」(2009年8月号)を読んでいたら面白い問題があったのでご紹介いたします。
ちょっとしたクイズとしてぜひ考えてみてください。
・ある家族には子供が2人いる。そのうち1人は男の子であることがわかった。このとき、もう1人も男の子である確率は?
正解がわかったかたも「答え」は書いていただいて構いませんが、「どうしてか」は後の楽しみにおいておいてください。
追記:7/17/09
書き忘れていたことがありました。
「日本ルール」(と思われる)「掛けられる数が先の逆順」って、考えてみれば我々も平気で付き合っていることがあると思うんです。
即ち、未知数 X ,Y, a,b,などが複数ある場合我々はなんの抵抗もなく、
2X とか、3Yとか、5aとか書くわけですね。
これは恐らく国際ルールで決まっていることだと思うのですけど、
例えば3Yってのは 3 x Yの演算子を省略して書いているわけですが、例の「掛け算の順序」にしたがうならば、Y3でないとおかしい(この場合Yが掛けられる数ですよね?)と文句を言うべきではないでしょうか。
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Comments
祝・ぺんぺん草除去^^
No title
貴重な情報ありがとうございました。「アメリカでは逆だけど、順序にうるさく言わない」という認識でしたが、アメリカでもあるのですね。日本の場合、小学校高学年まで続くのですが、そのあたりは違うかもしれないですね。
http://homepage3.nifty.com/iromono/diary/200212B.html
>ところで前に10か月だけアメリカに住んでいたことがあって、その時娘はアメリカの小学校と、日本人向けの日本語補習学校(土曜のみ)の両方に通っていたが、その日本語補習学校の方では「アメリカの学校では8×2と2×8はどっちでもいいが、日本の学校では順番を間違えるとバツになるから注意しましょう」と教えられた。その時はそんなばかな、と思っていたが、全国一斉のテストでこんな問題が出ているところを見ると、ほんまに注意が必要だ。
この点に関しては、わしは断固アメリカを支持する(^^;)。
http://homepage3.nifty.com/iromono/diary/200212B.html
>ところで前に10か月だけアメリカに住んでいたことがあって、その時娘はアメリカの小学校と、日本人向けの日本語補習学校(土曜のみ)の両方に通っていたが、その日本語補習学校の方では「アメリカの学校では8×2と2×8はどっちでもいいが、日本の学校では順番を間違えるとバツになるから注意しましょう」と教えられた。その時はそんなばかな、と思っていたが、全国一斉のテストでこんな問題が出ているところを見ると、ほんまに注意が必要だ。
この点に関しては、わしは断固アメリカを支持する(^^;)。
過程っていうけど
すいません、わたし、かけ算の「順序」にこだわることが、いったい何のどういう「過程」を重視しているのか、さっぱりわからないんですが。
ミカンが3つ、皿4個、なら3×4(日本的)
皿4枚にミカン3つずつ、なら4×3(同上)
どっちの発想も当然ありうるんじゃないかと思うのですが・・・・
あと、超!!!!文系のつれあいも、この「順序」論には「???」なんですがね・・・・(ていうかそりゃ当然×だとか言われたら信頼が揺らいだと思う)
ミカンが3つ、皿4個、なら3×4(日本的)
皿4枚にミカン3つずつ、なら4×3(同上)
どっちの発想も当然ありうるんじゃないかと思うのですが・・・・
あと、超!!!!文系のつれあいも、この「順序」論には「???」なんですがね・・・・(ていうかそりゃ当然×だとか言われたら信頼が揺らいだと思う)
No title
>・ある家族には子供が2人いる。そのうち1人は男の子であることがわかった。このとき、もう1人も男の子である確率は?
つまり、「あなたの所のお子さまは、少なくとも1人は男の子ですか?」と質問して、「はいそうです」と答えた、という状況でよろしいでしょうか?
「2人のうちのたまたま1人の性別を知る機会があって、その子は、男の子だった」という状況だと、確率が違ってきますが。
つまり、「あなたの所のお子さまは、少なくとも1人は男の子ですか?」と質問して、「はいそうです」と答えた、という状況でよろしいでしょうか?
「2人のうちのたまたま1人の性別を知る機会があって、その子は、男の子だった」という状況だと、確率が違ってきますが。
祝、ぼうふら退治
教育現場でかけ算の順番に拘っているというのは、初めてしりました。
「みかんが3個ずつ4枚のお皿」で、4×3がペケだという理由がどうにも理解できません。
そんな、おバカな私なので、もう一人が男の子である確率も、50%以外に思いつきません。
「みかんが3個ずつ4枚のお皿」で、4×3がペケだという理由がどうにも理解できません。
そんな、おバカな私なので、もう一人が男の子である確率も、50%以外に思いつきません。
「どっちでも良い」と「どうでも良い」は違う
こんにちは。
お市さんはたぶん「かけ算、逆でも良いよ」=「とにかく答えが合ってりゃ良い(ただの偶然でも)」と捉えていらっしゃるのではないかと思います。
4皿×3個だってアリだと私も思います。
「いくつ分(4皿)」を先に書くのだってプロセスとして間違いじゃないですよね。「1つあたりいくつ」を先に書くのはただの(日本における)慣習じゃないかなと。
…というか日本における慣習というのも怪しくて、市販の請求書用紙などを見ると、左から「品名 数量 単価 金額」…という順序だったりしますよ。これで行くと、「みかん 4箱×3,000円=12,000円」という計算をやることになるんですが。
お市さんはたぶん「かけ算、逆でも良いよ」=「とにかく答えが合ってりゃ良い(ただの偶然でも)」と捉えていらっしゃるのではないかと思います。
4皿×3個だってアリだと私も思います。
「いくつ分(4皿)」を先に書くのだってプロセスとして間違いじゃないですよね。「1つあたりいくつ」を先に書くのはただの(日本における)慣習じゃないかなと。
…というか日本における慣習というのも怪しくて、市販の請求書用紙などを見ると、左から「品名 数量 単価 金額」…という順序だったりしますよ。これで行くと、「みかん 4箱×3,000円=12,000円」という計算をやることになるんですが。
足し算だとどうなるのでしょう
息子は今、足し算(10まで)と引き算(10まで)を習っていますが、足し算の場合も順序が逆だと間違いになってしまうのでしょうか。
大抵、「リンゴが4個あります。あと2個買ってくると何個になりますか?」ってな問題ですから、4(個)+2(個)=6(個)としないと間違いなのでしょう。でも、買ってきた2個に元からある4個を足したと考えれば、2(個)+4(個)=6(個)もありのような気もします。
私もnagonaguさんと同じく、五七は七五に変換しています。(仲間がいらっしゃったのでホットしています。ちなみに八六も六八の方が・・・)
大抵、「リンゴが4個あります。あと2個買ってくると何個になりますか?」ってな問題ですから、4(個)+2(個)=6(個)としないと間違いなのでしょう。でも、買ってきた2個に元からある4個を足したと考えれば、2(個)+4(個)=6(個)もありのような気もします。
私もnagonaguさんと同じく、五七は七五に変換しています。(仲間がいらっしゃったのでホットしています。ちなみに八六も六八の方が・・・)
誤解と理解
みなさん、私の考え方について少しずつ誤解されているようですが、私に文才がないのでそれを全部説明することは難しいようです。
>「かけ算、逆でも良いよ」=「とにかく答えが合ってりゃ良い(ただの偶然でも)」と捉えていらっしゃるのではないかと思います。
↑とは考えておりません。そこはご理解願います。
私がこだわっていたのは、文章問題を数式に直す際のごく最初の式に限ってのことだったようです。
数式にしてしまえば、機械的に処理することはできます。
そこには(かけ算の順序は前後入れ替えても同じ)も含まれております。
>「かけ算、逆でも良いよ」=「とにかく答えが合ってりゃ良い(ただの偶然でも)」と捉えていらっしゃるのではないかと思います。
↑とは考えておりません。そこはご理解願います。
私がこだわっていたのは、文章問題を数式に直す際のごく最初の式に限ってのことだったようです。
数式にしてしまえば、機械的に処理することはできます。
そこには(かけ算の順序は前後入れ替えても同じ)も含まれております。
nagonaguさん
コメントありがとうございました。
今回はブランクがなんと50日!
新記録かもしれません。
質問:
「沖縄でも九九の覚え方は同じなんですかぁ?」
(なんか独自の九九があって欲しいと思っているわたくし。那覇と宮古で違ってたりするともっとたのし~)
今回はブランクがなんと50日!
新記録かもしれません。
質問:
「沖縄でも九九の覚え方は同じなんですかぁ?」
(なんか独自の九九があって欲しいと思っているわたくし。那覇と宮古で違ってたりするともっとたのし~)
積分定数さん
ようこそいらっしゃいませ。
コメントをありがとうございました。
なんかしょうもない言及ですみません。
私自身は日米で「取り方」が逆だっていうのに本当に驚かされたものですから、もう3年前の話ですが良く覚えていたんんです。
アメリカ人に聞きまくって、あちこちで「どうでもんいいぢゃんそんなこと」って顔をされたものです。
私けっこう「聞き魔」で一緒に働いているアメリカ人に閉口されている部分があるのでした(笑)
(例えば、なんで州外に出ないInterstate Freewayってのがあるんだ、とか。ハワイのInterstate Freewayは海底トンネルかなんかでつながっとるのか、おら~!!とか言うと、アメリカ人結構知らないんですよ。今では「資金の話」だってことがわかりましたが)
そうそう、確かそちらのエントリのブクマコメでみたのですけど、消費税を計算する時に(それに限らず、なにかの何パーセントみたいなときに)
「1.05 x 値段」は確かに少々気持ち悪く感じるかも知れません。
>「2人のうちのたまたま1人の性別を知る機会があって、その子は、男の子だった」という状況だと、確率が違ってきますが。
へ?
「2人のうち1人が男であること」を偶然知るのと親に聞いて知るので確率変わるのですか????
私が「変わる」と認識しているのは、例えば「上の子は男であるとき、もう1人が男である確率は?」の変更なんですが・・・・
コメントをありがとうございました。
なんかしょうもない言及ですみません。
私自身は日米で「取り方」が逆だっていうのに本当に驚かされたものですから、もう3年前の話ですが良く覚えていたんんです。
アメリカ人に聞きまくって、あちこちで「どうでもんいいぢゃんそんなこと」って顔をされたものです。
私けっこう「聞き魔」で一緒に働いているアメリカ人に閉口されている部分があるのでした(笑)
(例えば、なんで州外に出ないInterstate Freewayってのがあるんだ、とか。ハワイのInterstate Freewayは海底トンネルかなんかでつながっとるのか、おら~!!とか言うと、アメリカ人結構知らないんですよ。今では「資金の話」だってことがわかりましたが)
そうそう、確かそちらのエントリのブクマコメでみたのですけど、消費税を計算する時に(それに限らず、なにかの何パーセントみたいなときに)
「1.05 x 値段」は確かに少々気持ち悪く感じるかも知れません。
>「2人のうちのたまたま1人の性別を知る機会があって、その子は、男の子だった」という状況だと、確率が違ってきますが。
へ?
「2人のうち1人が男であること」を偶然知るのと親に聞いて知るので確率変わるのですか????
私が「変わる」と認識しているのは、例えば「上の子は男であるとき、もう1人が男である確率は?」の変更なんですが・・・・
north-poleさん
コメントありがとうございました。
>ミカンが3つ、皿4個、なら3×4(日本的)
皿4枚にミカン3つずつ、なら4×3(同上)
どっちの発想も当然ありうるんじゃないかと思うのですが・・・・
これは多分ですね、二年生で習う文章題の答えが(掛け算使用のものでは)「ミカンの個数」以外まずありえないからじゃないかと思うんです。
皿の数を求める場合はどうしても「割り算」になっちゃいますよね?
で、「求める単位(この場合は個数)」を含むっちゅうか、使用してる方の数字を先にもってきなさい、みたいなところがあるんじゃないでしょうかね?(あくまで推測ですけど)
だから、「長さ10cmのテープが5枚」とかの場合、掛け算で求めるのはcmの方だから10を先にもってこい、なんではないかと。
>ミカンが3つ、皿4個、なら3×4(日本的)
皿4枚にミカン3つずつ、なら4×3(同上)
どっちの発想も当然ありうるんじゃないかと思うのですが・・・・
これは多分ですね、二年生で習う文章題の答えが(掛け算使用のものでは)「ミカンの個数」以外まずありえないからじゃないかと思うんです。
皿の数を求める場合はどうしても「割り算」になっちゃいますよね?
で、「求める単位(この場合は個数)」を含むっちゅうか、使用してる方の数字を先にもってきなさい、みたいなところがあるんじゃないでしょうかね?(あくまで推測ですけど)
だから、「長さ10cmのテープが5枚」とかの場合、掛け算で求めるのはcmの方だから10を先にもってこい、なんではないかと。
さつきさま
いらっしゃいませ。
コメントありがとうございます。
>50%以外に思いつきません。
なんという可愛い方なのでしょう。(例えウソでも♪)
世の中にはあっさりと正答をだしてしまう憎憎しくも可愛くない人が多いというのに。
ところで、約一年の長きにわたり、気持ちの悪い思いをさせてしまいまして大変に申し訳ありませんでした(笑)
私の方はさつきさまを逆恨みしたりしておりませんし、だいぢょぶですので、ご安心くださいませ。
今後ともよろしくおねがいいたします。
え”~、う”らんだりしてお”りませんとも ~~~~(m-_-)m ウラメシヤァ
コメントありがとうございます。
>50%以外に思いつきません。
なんという可愛い方なのでしょう。(例えウソでも♪)
世の中にはあっさりと正答をだしてしまう憎憎しくも可愛くない人が多いというのに。
ところで、約一年の長きにわたり、気持ちの悪い思いをさせてしまいまして大変に申し訳ありませんでした(笑)
私の方はさつきさまを逆恨みしたりしておりませんし、だいぢょぶですので、ご安心くださいませ。
今後ともよろしくおねがいいたします。
え”~、う”らんだりしてお”りませんとも ~~~~(m-_-)m ウラメシヤァ
kirikoさん
ごぶさたです。
コメントありがとうございました。
>「1つあたりいくつ」を先に書くのはただの(日本における)慣習じゃないかなと。
私がそれが世界スタンダードだと実は思っていたわけですけど、どうも「日本ルール」っぽいですね。
>市販の請求書用紙などを見ると、左から「品名 数量 単価 金額」…という順序だったりしますよ
なるほど逆順ですね。
実は、(日本ルールと)逆順は我々実はおなじみなんですよね。
書こうと思ってたのですが、エントリに書き忘れたので追記しました。
コメントありがとうございました。
>「1つあたりいくつ」を先に書くのはただの(日本における)慣習じゃないかなと。
私がそれが世界スタンダードだと実は思っていたわけですけど、どうも「日本ルール」っぽいですね。
>市販の請求書用紙などを見ると、左から「品名 数量 単価 金額」…という順序だったりしますよ
なるほど逆順ですね。
実は、(日本ルールと)逆順は我々実はおなじみなんですよね。
書こうと思ってたのですが、エントリに書き忘れたので追記しました。
nobuさん
いらっしゃいませ。
コメントをありがとうございます。
>大抵、「リンゴが4個あります。あと2個買ってくると何個になりますか?」ってな問題ですから、4(個)+2(個)=6(個)としないと間違いなのでしょう。
「プロセス」に拘りに拘るとそう言いたくもなるかもしれませんね。
逆順の2+4は、4個のリンゴが先にあったわけだから先に書けっていいかねませんな。
>五七は七五に変換しています。(仲間がいらっしゃったのでホットしています。ちなみに八六も六八の方が・・・)
これ、私自身は意識したことはありませんでしたけど、どっちが想起しやすいかというと確かに七五>五七はわかるような気もします。ゴロがいいのかな?
しかし、私は「ロクハ」より「ハチロク」の方が言いやすいような・・・・・
コメントをありがとうございます。
>大抵、「リンゴが4個あります。あと2個買ってくると何個になりますか?」ってな問題ですから、4(個)+2(個)=6(個)としないと間違いなのでしょう。
「プロセス」に拘りに拘るとそう言いたくもなるかもしれませんね。
逆順の2+4は、4個のリンゴが先にあったわけだから先に書けっていいかねませんな。
>五七は七五に変換しています。(仲間がいらっしゃったのでホットしています。ちなみに八六も六八の方が・・・)
これ、私自身は意識したことはありませんでしたけど、どっちが想起しやすいかというと確かに七五>五七はわかるような気もします。ゴロがいいのかな?
しかし、私は「ロクハ」より「ハチロク」の方が言いやすいような・・・・・
お市さん
いらっしゃいませ。
コメントをありがとうございました。
>私がこだわっていたのは、文章問題を数式に直す際のごく最初の式に限ってのことだったようです。
数式にしてしまえば、機械的に処理することはできます。
う~ん、やはり私もお市さんの真意をわかっていないようですね・・・・
>ごく最初の式
これの数字の順序の在り方というのは「日本式」があったり、「アメリカ式」があったりするという正解のない世界のようなのですけれど、それでも重要なんでしょうか?
「子供の掛け算に対する理解」は順番に拘ることで本当に深まるのでしょうか?
コメントをありがとうございました。
>私がこだわっていたのは、文章問題を数式に直す際のごく最初の式に限ってのことだったようです。
数式にしてしまえば、機械的に処理することはできます。
う~ん、やはり私もお市さんの真意をわかっていないようですね・・・・
>ごく最初の式
これの数字の順序の在り方というのは「日本式」があったり、「アメリカ式」があったりするという正解のない世界のようなのですけれど、それでも重要なんでしょうか?
「子供の掛け算に対する理解」は順番に拘ることで本当に深まるのでしょうか?
確率の問題
>「2人のうち1人が男であること」を偶然知るのと親に聞いて知るので確率変わるのですか????
偶然でなくてもいいのですが、
(あ) 「上の子の性別は?」と質問して「男」と答えた場合
(い) 「2人のうち、少なくとも1人は男ですか?」と質問して「はい」と答えた場合
両者で、確率が変わります。
偶然でなくてもいいのですが、
(あ) 「上の子の性別は?」と質問して「男」と答えた場合
(い) 「2人のうち、少なくとも1人は男ですか?」と質問して「はい」と答えた場合
両者で、確率が変わります。
数式の文法
いやもちろん、恨まれているなんて思っちゃいませんから、これを機会に「さま」はやめて、「さん」にして下さい(ウハハハ)。
20年ほど前、算数・数学の学力の国際比較で、小学生まではトップレベルなのに、中学、高校と学年が上がるにしたがって成績が落ちてくるのはなぜかということが問題になりまして、その時にマスコミでもいろいろな解釈が披露されました。唯一記憶に残っているのが、数式を含めた数学の文法は、基本的にインド・ヨーロッパ語系のSVO式になっていて、日本語のようなSOV圏の人間にとっては思考順路の相性が悪いというものでした。
1+2=3 を日本語で表現したら
「1と2を足したら3になります」で、数式に日本語文法を採用すると、1・2+3=
と書ける。なのに無理矢理あちらの文法に合わせているということです。
小学校の算数では、文法の足かせは大した障害にならなくて、むしろ日本語の数詞の発音が簡潔で、完全に十進法の体系になっていること、九九が威力を発揮することなどから成績が良い。しかし、数学になると、証明の問題も「なぜならば・・・」など、日本語の本来の語順と違う発想に違和感を感じて、つまずく生徒が出てくるというものでした。
エントリの内容と関係があるでしょうか。
20年ほど前、算数・数学の学力の国際比較で、小学生まではトップレベルなのに、中学、高校と学年が上がるにしたがって成績が落ちてくるのはなぜかということが問題になりまして、その時にマスコミでもいろいろな解釈が披露されました。唯一記憶に残っているのが、数式を含めた数学の文法は、基本的にインド・ヨーロッパ語系のSVO式になっていて、日本語のようなSOV圏の人間にとっては思考順路の相性が悪いというものでした。
1+2=3 を日本語で表現したら
「1と2を足したら3になります」で、数式に日本語文法を採用すると、1・2+3=
と書ける。なのに無理矢理あちらの文法に合わせているということです。
小学校の算数では、文法の足かせは大した障害にならなくて、むしろ日本語の数詞の発音が簡潔で、完全に十進法の体系になっていること、九九が威力を発揮することなどから成績が良い。しかし、数学になると、証明の問題も「なぜならば・・・」など、日本語の本来の語順と違う発想に違和感を感じて、つまずく生徒が出てくるというものでした。
エントリの内容と関係があるでしょうか。
ちょっとそれは。。。
さつきさん、勝手に妄想をたくましくしといて逆恨みされても困りますよね♪ぢゃなくて
ちょっとその解釈は珍解釈というか牽強付会といわざるを得ないと思います。さつきさんはそういえばこんなのがあったよとおっしゃっているだけかと思いますが念のために。
つっこみどころを列挙しますと
>数式を含めた数学の文法
まず「数学の文法」て何?というところ。中学高校までに習うといえば、二次方程式、二次関数、集合論や三角関数だの指数対数、行列や微分積分それらをひっくるめて「数学の文法」と呼べるような「文法」があるのか、あるとしたら定義は何か。仮に定義できたとして
>基本的にインド・ヨーロッパ語系のSVO式になっていて、日本語のようなSOV圏の人間にとっては思考順路の相性が悪い
まず言語がSVOなりSOVであることと「思考順路」が対応していることは証明されているのか。それができたとして、日本だけでなくてほかのSOV言語の地域(たとえばトルコとか朝鮮半島とかその他いろいろ)でも同様の傾向が見られるのか。SVOの地域(たとえば北京)はどうか、VSOの地域(たとえばフィリピン)はどうするのか
>1+2=3 を日本語で表現したら
「1と2を足したら3になります」
普通それは「1足す2は3」ではないか。この=を表現できる「は」が日本語にあるという利点はどうなる。
>小学校の算数では、文法の足かせは大した障害にならなくて
今まで小学校の足し算の話をしていたのでは
>むしろ日本語の数詞の発音が簡潔
たとえば、英語も基本的な数詞の発音はほとんど1ないし2音節。(音節単位で数えるので日本人に言わせれば「ふぁ・い・ぶ」と3つでもfiveは1音節)
>完全に十進法の体系になっていること
11,12の「発音」が十進法の体系にそっていないことが本当に現地の小学生の算数に影響を与えているのか
>証明の問題も「なぜならば・・・」など、日本語の本来の語順と違う発想
証明で最初に出てくるのは「なぜならば」ではなく「よって」であろう。またどんな語順であろうと帰納と演繹の方法は両方必要なので、逆の発想は言語の語順なぞに関わらず必ず必要。
>日本語の本来の語順と違う発想に違和感を感じて
なぜここで急に違和感を感じる
などなど、まだまだ突っ込めそうです。同じ日本語話者の日本人でも数学の得意な人、苦手な人、また論理的思考の得意な人苦手な人などいろいろおりますし、
日本語の一面だけをとらえて「日本語話者はこういう考え方」ともっていくような一般化は普通できないし気をつけなくてはならないところだと思います。
さつきさんには釈迦に説法だと思いますが、その20年前のマスコミ人が誰なのかしりませんけどけっこう適当な話が一般受けすることもあるので書かせていただきました。
ちょっとその解釈は珍解釈というか牽強付会といわざるを得ないと思います。さつきさんはそういえばこんなのがあったよとおっしゃっているだけかと思いますが念のために。
つっこみどころを列挙しますと
>数式を含めた数学の文法
まず「数学の文法」て何?というところ。中学高校までに習うといえば、二次方程式、二次関数、集合論や三角関数だの指数対数、行列や微分積分それらをひっくるめて「数学の文法」と呼べるような「文法」があるのか、あるとしたら定義は何か。仮に定義できたとして
>基本的にインド・ヨーロッパ語系のSVO式になっていて、日本語のようなSOV圏の人間にとっては思考順路の相性が悪い
まず言語がSVOなりSOVであることと「思考順路」が対応していることは証明されているのか。それができたとして、日本だけでなくてほかのSOV言語の地域(たとえばトルコとか朝鮮半島とかその他いろいろ)でも同様の傾向が見られるのか。SVOの地域(たとえば北京)はどうか、VSOの地域(たとえばフィリピン)はどうするのか
>1+2=3 を日本語で表現したら
「1と2を足したら3になります」
普通それは「1足す2は3」ではないか。この=を表現できる「は」が日本語にあるという利点はどうなる。
>小学校の算数では、文法の足かせは大した障害にならなくて
今まで小学校の足し算の話をしていたのでは
>むしろ日本語の数詞の発音が簡潔
たとえば、英語も基本的な数詞の発音はほとんど1ないし2音節。(音節単位で数えるので日本人に言わせれば「ふぁ・い・ぶ」と3つでもfiveは1音節)
>完全に十進法の体系になっていること
11,12の「発音」が十進法の体系にそっていないことが本当に現地の小学生の算数に影響を与えているのか
>証明の問題も「なぜならば・・・」など、日本語の本来の語順と違う発想
証明で最初に出てくるのは「なぜならば」ではなく「よって」であろう。またどんな語順であろうと帰納と演繹の方法は両方必要なので、逆の発想は言語の語順なぞに関わらず必ず必要。
>日本語の本来の語順と違う発想に違和感を感じて
なぜここで急に違和感を感じる
などなど、まだまだ突っ込めそうです。同じ日本語話者の日本人でも数学の得意な人、苦手な人、また論理的思考の得意な人苦手な人などいろいろおりますし、
日本語の一面だけをとらえて「日本語話者はこういう考え方」ともっていくような一般化は普通できないし気をつけなくてはならないところだと思います。
さつきさんには釈迦に説法だと思いますが、その20年前のマスコミ人が誰なのかしりませんけどけっこう適当な話が一般受けすることもあるので書かせていただきました。
とらこさん
とらこさん、
言語については素人ながら、ちょっと面白い説だと思っているので、食い下がりたいところですが、時間がないので、1点だけ。
> 普通それは「1足す2は3」ではないか。この=を表現できる「は」が日本語にあるという利点はどうなる。
では「1足す2」とはなんのことでしょう。この「足す」は単に、「+」を「足す」と読ませただけです。英語では “one plus two” でそのままですが、本来の日本語は「1に2を加える」ではないでしょうか?
1+2=3 という数式を、日本の学校で、「1足す2は3」と読ませるのは、単に数式の読みを教えているだけです。その意味を、物を加えるという具体的な意味に即して紐解くなら、「=」の意味は単なる「は」ではなくて、英語と同じく「は~に等しい」「は~に等しくなる」のことだと教えねはなりません。つまり、 1+2=3 を「1足す2は3」と読ませるようになったのは、西洋式の数式が導入された後だと考えられないでしょうか?
他にもいろいろ反論があいますが、また、後ほど。
言語については素人ながら、ちょっと面白い説だと思っているので、食い下がりたいところですが、時間がないので、1点だけ。
> 普通それは「1足す2は3」ではないか。この=を表現できる「は」が日本語にあるという利点はどうなる。
では「1足す2」とはなんのことでしょう。この「足す」は単に、「+」を「足す」と読ませただけです。英語では “one plus two” でそのままですが、本来の日本語は「1に2を加える」ではないでしょうか?
1+2=3 という数式を、日本の学校で、「1足す2は3」と読ませるのは、単に数式の読みを教えているだけです。その意味を、物を加えるという具体的な意味に即して紐解くなら、「=」の意味は単なる「は」ではなくて、英語と同じく「は~に等しい」「は~に等しくなる」のことだと教えねはなりません。つまり、 1+2=3 を「1足す2は3」と読ませるようになったのは、西洋式の数式が導入された後だと考えられないでしょうか?
他にもいろいろ反論があいますが、また、後ほど。
店のレジでは
今までの経験では、先に個数を入力するタイプと後にするタイプの両方がありました。順序を間違えるとその日の売上げ個数がものすごい数になって困ったことになります。
TB送ったのですが
>ちょちょんまげさん
エントリを書いたのですがTBが通ってないのでURL書きます。
http://ryuseisya.cocolog-nifty.com/hakata/2009/07/post-4279.html
ちょちょんまげさんのお話も使わせていただいております。m(_ _)m
エントリを書いたのですがTBが通ってないのでURL書きます。
http://ryuseisya.cocolog-nifty.com/hakata/2009/07/post-4279.html
ちょちょんまげさんのお話も使わせていただいております。m(_ _)m
さつきさん
さつきさん
>>1+2=3 を日本語で表現したら
「1と2を足したら3になります」
>普通それは「1足す2は3」ではないか。
と申しましたのは、この数式は日本語でもなんら違和感なく表現できるという一例です。日本で足し算の原型が「○○に××を加えると▲▲に等しくなる」であったとしても、そのことは「○○に××を加えたもの『は』▲▲である」ともいえるわけです。
=にあたるものが必ずその文の「動詞」でなければならないなら、動詞が文末にくる日本語よりは、SVOの言語のほうが=が文末にくることはないだけ「数学の文法」に近いように見えるかもしれませんが、言語の文法や表現力というものは、当然のことながら語順によってのみ決まるものではありません。英語では動詞で表現している事柄を日本語では助詞などの組み合わせで表現することもありえます。
語順を問題にするなら、「は」とか「に」「を」とかを持たない言語と持つ言語の差異についても考えるべきであり、また印欧の主言語の古い形をとどめている古代ギリシャ語やラテン語、サンスクリット等ではたとえば英語より語順ははるかに自由であること等も考慮すべきです。
>1+2=3 を「1足す2は3」と読ませるようになったのは、西洋式の数式が導入された後だと考えられないでしょうか?
考えられますが、仮にそうだとしても、同様のことは英語が今のように語順にうるさくなったのは、数式が導入された後だとも考えられるわけです。
=を「なります」に見立てることは可能でしょう。しかし同様に「は」に見立てることも可能でありそのことによって簡潔な日本語で表現でき、必ずしも「無理やりあちらの文法に合わせている」と考える必要はないということです。
繰り返しますが、日本語のさまざまな性質の中からごく一部を取り出して、それを「日本語話者の一般的な思考方法」にまで一般化するのは危険です。仮にそれでうまく説明できる事柄があったとしても、それなら同様の性質をもつ他の言語ではどうなのかなどを今度は実証的に示す必要があります。
言語が思考に影響を与える、あるいは思考を決定づけるという説は、サピア・ウォーフの仮説に見られるとおり言語学の世界でもまともに研究対象として研究され続けていることです。面白い話ですし、認知心理学だとか他の研究分野にも私の知らない知見があるのかも知れませんが、いずれにしても実証的にデータを出して検証するところまでいかなくては思いつきにすぎないといわざるをえません。
そして、ちまたにあふれる日本語と日本人の思考を結びつけたたくさんの俗説は、残念ながら現在までの言語学の知見などは無視した思いつきにすぎないものが多いです。さつきさんのご紹介の説も実のところその一つであると私は思います。
>>1+2=3 を日本語で表現したら
「1と2を足したら3になります」
>普通それは「1足す2は3」ではないか。
と申しましたのは、この数式は日本語でもなんら違和感なく表現できるという一例です。日本で足し算の原型が「○○に××を加えると▲▲に等しくなる」であったとしても、そのことは「○○に××を加えたもの『は』▲▲である」ともいえるわけです。
=にあたるものが必ずその文の「動詞」でなければならないなら、動詞が文末にくる日本語よりは、SVOの言語のほうが=が文末にくることはないだけ「数学の文法」に近いように見えるかもしれませんが、言語の文法や表現力というものは、当然のことながら語順によってのみ決まるものではありません。英語では動詞で表現している事柄を日本語では助詞などの組み合わせで表現することもありえます。
語順を問題にするなら、「は」とか「に」「を」とかを持たない言語と持つ言語の差異についても考えるべきであり、また印欧の主言語の古い形をとどめている古代ギリシャ語やラテン語、サンスクリット等ではたとえば英語より語順ははるかに自由であること等も考慮すべきです。
>1+2=3 を「1足す2は3」と読ませるようになったのは、西洋式の数式が導入された後だと考えられないでしょうか?
考えられますが、仮にそうだとしても、同様のことは英語が今のように語順にうるさくなったのは、数式が導入された後だとも考えられるわけです。
=を「なります」に見立てることは可能でしょう。しかし同様に「は」に見立てることも可能でありそのことによって簡潔な日本語で表現でき、必ずしも「無理やりあちらの文法に合わせている」と考える必要はないということです。
繰り返しますが、日本語のさまざまな性質の中からごく一部を取り出して、それを「日本語話者の一般的な思考方法」にまで一般化するのは危険です。仮にそれでうまく説明できる事柄があったとしても、それなら同様の性質をもつ他の言語ではどうなのかなどを今度は実証的に示す必要があります。
言語が思考に影響を与える、あるいは思考を決定づけるという説は、サピア・ウォーフの仮説に見られるとおり言語学の世界でもまともに研究対象として研究され続けていることです。面白い話ですし、認知心理学だとか他の研究分野にも私の知らない知見があるのかも知れませんが、いずれにしても実証的にデータを出して検証するところまでいかなくては思いつきにすぎないといわざるをえません。
そして、ちまたにあふれる日本語と日本人の思考を結びつけたたくさんの俗説は、残念ながら現在までの言語学の知見などは無視した思いつきにすぎないものが多いです。さつきさんのご紹介の説も実のところその一つであると私は思います。
とらこさん
> =を「なります」に見立てることは可能でしょう。しかし同様に「は」に見立てることも可能であり・・・
「1足す2は3」を体言止めの文体として読むということでしょうか?
体言止めは、用言が省略されていて、それを省略しても自明である場合に用いられると思うのですが、どうでしょう。
数学では、「・・は3」で切った時、「3である」のか「3でない」のかをはっきりさせることに意味があって、1足す2は3に決まっているだろうというのは、なしです。それを説明するのが数式ですから。
次の数式を日本語でどう読むか、または、この数式を初めて学ぶ生徒にどう教えるかを考えれば、わかると思います。
a+b≠c
英語ではこの語順のまま自然に表現できますが、日本語ではこの語順のままでは表現できないでしょう?
もちろん、私はこの説が正しいと信じているのではありません。現状では証拠に乏しいことも理解しているつもりです。でも、実証されていないことは、間違いということではないのですし、むしろ、科学は証拠がないからこそ、それを研究対象とします。要は、検討に値する魅力的な仮説であるかどうかということです。
私が読んだ英語論文の書き方の参考書は、どれも、文章の書き方と同時に、論文全体の論理の展開の仕方を指南しています。近頃は日本人も学習しましたが、英語圏の研究者の論理の展開の仕方は日本人と違っているという一般的な認識があって、かつては、我々にとって、英語で書く時の理路というものは学習すべき対象だったのです。
おっしゃるとおり、言語の可塑性は日本語に限ったことでもないでしょう。そして、数式の文法が日本語の文法と違っていたところで、プログラミング言語がそうであるように、その作法を一旦習得すれば理解する上での障害はなくなるでしょう。しかしそれは、バイリンガルになるということです。数学が苦手な人というのは、結局、バイリンガルになれなかったという事であるとすれば、馴染みのない文法に起因して、とっかかりのところでもたついたのが尾を引いたとしても不思議ではありません。という訳で、検証に値する説ではないかなと思った次第です。
参考までに、
http://blogs.yahoo.co.jp/satsuki_327/29030326.html
「1足す2は3」を体言止めの文体として読むということでしょうか?
体言止めは、用言が省略されていて、それを省略しても自明である場合に用いられると思うのですが、どうでしょう。
数学では、「・・は3」で切った時、「3である」のか「3でない」のかをはっきりさせることに意味があって、1足す2は3に決まっているだろうというのは、なしです。それを説明するのが数式ですから。
次の数式を日本語でどう読むか、または、この数式を初めて学ぶ生徒にどう教えるかを考えれば、わかると思います。
a+b≠c
英語ではこの語順のまま自然に表現できますが、日本語ではこの語順のままでは表現できないでしょう?
もちろん、私はこの説が正しいと信じているのではありません。現状では証拠に乏しいことも理解しているつもりです。でも、実証されていないことは、間違いということではないのですし、むしろ、科学は証拠がないからこそ、それを研究対象とします。要は、検討に値する魅力的な仮説であるかどうかということです。
私が読んだ英語論文の書き方の参考書は、どれも、文章の書き方と同時に、論文全体の論理の展開の仕方を指南しています。近頃は日本人も学習しましたが、英語圏の研究者の論理の展開の仕方は日本人と違っているという一般的な認識があって、かつては、我々にとって、英語で書く時の理路というものは学習すべき対象だったのです。
おっしゃるとおり、言語の可塑性は日本語に限ったことでもないでしょう。そして、数式の文法が日本語の文法と違っていたところで、プログラミング言語がそうであるように、その作法を一旦習得すれば理解する上での障害はなくなるでしょう。しかしそれは、バイリンガルになるということです。数学が苦手な人というのは、結局、バイリンガルになれなかったという事であるとすれば、馴染みのない文法に起因して、とっかかりのところでもたついたのが尾を引いたとしても不思議ではありません。という訳で、検証に値する説ではないかなと思った次第です。
参考までに、
http://blogs.yahoo.co.jp/satsuki_327/29030326.html
さつきさん
> > =を「なります」に見立てることは可能でしょう。しかし同様に「は」に見立てることも可能であり・・・
> 「1足す2は3」を体言止めの文体として読むということでしょうか?
>体言止めは、用言が省略されていて、それを省略しても自明である場合に用いられると思うのですが、どうでしょう。
形は確かに体言止めですが、その考えだと依然として=を「なります」に見立てていることになります。「春はあけぼの」「車は左人は右」「私は左翼」というとき、なるほどいずれも用言が省略されていると考えることは可能ですが、なくても意味がわかりますよね。必ずVが必要という考えで日本語を分析する必要はないということです。なお日本語の用言はご存知のように動詞のほかに形容詞や形容動詞を含みます。日本語では形容詞もV(ここでは述語)になれますが英語ではなれない。SVOといっても、各言語によってSにあたるものVにあたるものがどのように分類されているかは異なります。その差異を考慮しないで単純に比較することには無理があります。(考慮した上で丁寧に比較することは勿論可能です。)
で、この場合「は」に見立てるというのは、「は」だけで自然な日本語として「~は~である」まで含意できるでしょう、ということです。
>a+b≠c
英語ではこの語順のまま自然に表現できますが、日本語ではこの語順のままでは表現できないでしょう?
これはそうですね。否定詞は必ず日本語では後ろに来る。そして=の場合のように他の日本語で適切に代替することは難しそうです。しかしだからといってこれを「数学の文法」が「日本語の文法」より「印欧語の文法」に近いとみなすのが過剰な一般化だと申しております。
繰り返しますが、語順をうんぬんするなら語形変化や接辞がどうなっているかを同時に検討しないわけにはいきません。血液型のなかでABOだけをことさらに取り上げることに説得力がないようなものです。(そして、もしかして関連があっても必ずしもおかしくはないという点も同じです。)
>実証されていないことは、間違いということではないのですし、むしろ、科学は証拠がないからこそ、それを研究対象とします。要は、検討に値する魅力的な仮説であるかどうかということです。
そのとおりです。そして、私はご紹介の仮説は検討に値する魅力的な仮説ではないと考えています。前提がアクロバットすぎるからです。定義がわからない「数学の文法」、語順だけを重視し他の要因を考慮していない「日本語の文法」「英語の文法」そして仮にそれがある程度前提として使えるところまで精査できたとして、今度はその言語の話者の思考とどこまで関連付けられるか。逆に言えば、こういうところを厳密に検証して研究を進めるならば、魅力的な仮説足りうる可能性はあるかもしれません。しかし現在のところはご紹介の説は思いつきの域を出ないものだと思います。
>かつては、我々にとって、英語で書く時の理路というものは学習すべき対象だったのです。
これは今でもそうです。私自身、最近海外で英語で論文を書きそれを学んだので間違いありません。で断言しますが、これはあくまで「論文を書く書き方」の問題です。英語そのものの構造とは無関係です。さつきさんも「書くときの理路」とおっしゃっているとおりです。いわばお作法です。これは当然、母語話者でも学習しないと身につかないものです。英語話者が自然にそれをやるように見えるのは小学生のころから教えられているからで、実際会話においては英語の母語話者でも決して論文を書くような話し方はしないのはご存知のとおりです。
>数学が苦手な人というのは、結局、バイリンガルになれなかったという事であるとすれば、馴染みのない文法に起因して、とっかかりのところでもたついたのが尾を引いたとしても不思議ではありません。
私もバイリンガルになれなかった一人ですね。ともあれ「数学の文法」を抽象的に想定して、数学が苦手な人がどこでもたつくのか、それはどのように一般化できるのかを研究するのは面白いと思いますし、たとえば、たとえばですよ、英語で論文を書くやり方を学ぶときに多くの日本人が躓く箇所と照らし合わせてみて何か共通点があるのではないかと考えるのも面白いかもしれません。もし本気でこのようなことをやろうと思うなら、膨大なデータを必要とする実証研究になるかと思いますが。
きちんとデータを取り、考えられる要素を必要に応じて考慮し、定義すべきものは定義した上での考察であれば文句はありません。私も現在のところ実証できないからといって可能性までも否定はいたしません。
しかし、繰り返しになりますが、ご紹介の説は、他にも考えられる要素はごまんとある中で語順にのみ着目して日本語文法を想定してしまうこと、同様に英語(印欧語といっても語順の自由な古代語ではなく、また「主語」が表現されないことの多いほかの言語でもなく)文法を想定してしまうこと、「数学の文法」の定義が不明なこと、そしてそれらとその話者の思考方法を直接に結び付けてしまうこと、性質の似通った他言語との比較研究もないことなどの点から、説として検討する体をなしていないと考えます。
ご紹介のエントリ、興味深く拝見しました。私の関心はもっぱら自然言語に向いておりまして私の立場ではさつきさんが
>ある種の概念のつくる完結した体系の存在をアプリオリとし
とおっしゃるようには言語を完結した体系とはみなしておりませんが、数学を広い意味で「言語」と考えるのは首肯できると思います。
> 「1足す2は3」を体言止めの文体として読むということでしょうか?
>体言止めは、用言が省略されていて、それを省略しても自明である場合に用いられると思うのですが、どうでしょう。
形は確かに体言止めですが、その考えだと依然として=を「なります」に見立てていることになります。「春はあけぼの」「車は左人は右」「私は左翼」というとき、なるほどいずれも用言が省略されていると考えることは可能ですが、なくても意味がわかりますよね。必ずVが必要という考えで日本語を分析する必要はないということです。なお日本語の用言はご存知のように動詞のほかに形容詞や形容動詞を含みます。日本語では形容詞もV(ここでは述語)になれますが英語ではなれない。SVOといっても、各言語によってSにあたるものVにあたるものがどのように分類されているかは異なります。その差異を考慮しないで単純に比較することには無理があります。(考慮した上で丁寧に比較することは勿論可能です。)
で、この場合「は」に見立てるというのは、「は」だけで自然な日本語として「~は~である」まで含意できるでしょう、ということです。
>a+b≠c
英語ではこの語順のまま自然に表現できますが、日本語ではこの語順のままでは表現できないでしょう?
これはそうですね。否定詞は必ず日本語では後ろに来る。そして=の場合のように他の日本語で適切に代替することは難しそうです。しかしだからといってこれを「数学の文法」が「日本語の文法」より「印欧語の文法」に近いとみなすのが過剰な一般化だと申しております。
繰り返しますが、語順をうんぬんするなら語形変化や接辞がどうなっているかを同時に検討しないわけにはいきません。血液型のなかでABOだけをことさらに取り上げることに説得力がないようなものです。(そして、もしかして関連があっても必ずしもおかしくはないという点も同じです。)
>実証されていないことは、間違いということではないのですし、むしろ、科学は証拠がないからこそ、それを研究対象とします。要は、検討に値する魅力的な仮説であるかどうかということです。
そのとおりです。そして、私はご紹介の仮説は検討に値する魅力的な仮説ではないと考えています。前提がアクロバットすぎるからです。定義がわからない「数学の文法」、語順だけを重視し他の要因を考慮していない「日本語の文法」「英語の文法」そして仮にそれがある程度前提として使えるところまで精査できたとして、今度はその言語の話者の思考とどこまで関連付けられるか。逆に言えば、こういうところを厳密に検証して研究を進めるならば、魅力的な仮説足りうる可能性はあるかもしれません。しかし現在のところはご紹介の説は思いつきの域を出ないものだと思います。
>かつては、我々にとって、英語で書く時の理路というものは学習すべき対象だったのです。
これは今でもそうです。私自身、最近海外で英語で論文を書きそれを学んだので間違いありません。で断言しますが、これはあくまで「論文を書く書き方」の問題です。英語そのものの構造とは無関係です。さつきさんも「書くときの理路」とおっしゃっているとおりです。いわばお作法です。これは当然、母語話者でも学習しないと身につかないものです。英語話者が自然にそれをやるように見えるのは小学生のころから教えられているからで、実際会話においては英語の母語話者でも決して論文を書くような話し方はしないのはご存知のとおりです。
>数学が苦手な人というのは、結局、バイリンガルになれなかったという事であるとすれば、馴染みのない文法に起因して、とっかかりのところでもたついたのが尾を引いたとしても不思議ではありません。
私もバイリンガルになれなかった一人ですね。ともあれ「数学の文法」を抽象的に想定して、数学が苦手な人がどこでもたつくのか、それはどのように一般化できるのかを研究するのは面白いと思いますし、たとえば、たとえばですよ、英語で論文を書くやり方を学ぶときに多くの日本人が躓く箇所と照らし合わせてみて何か共通点があるのではないかと考えるのも面白いかもしれません。もし本気でこのようなことをやろうと思うなら、膨大なデータを必要とする実証研究になるかと思いますが。
きちんとデータを取り、考えられる要素を必要に応じて考慮し、定義すべきものは定義した上での考察であれば文句はありません。私も現在のところ実証できないからといって可能性までも否定はいたしません。
しかし、繰り返しになりますが、ご紹介の説は、他にも考えられる要素はごまんとある中で語順にのみ着目して日本語文法を想定してしまうこと、同様に英語(印欧語といっても語順の自由な古代語ではなく、また「主語」が表現されないことの多いほかの言語でもなく)文法を想定してしまうこと、「数学の文法」の定義が不明なこと、そしてそれらとその話者の思考方法を直接に結び付けてしまうこと、性質の似通った他言語との比較研究もないことなどの点から、説として検討する体をなしていないと考えます。
ご紹介のエントリ、興味深く拝見しました。私の関心はもっぱら自然言語に向いておりまして私の立場ではさつきさんが
>ある種の概念のつくる完結した体系の存在をアプリオリとし
とおっしゃるようには言語を完結した体系とはみなしておりませんが、数学を広い意味で「言語」と考えるのは首肯できると思います。
とらこさん
とらこさん
>「数学の文法」が「日本語の文法」より「印欧語の文法」に近いとみなすのが過剰な一般化だ・・・
過剰な一般化というのであれば、例外があまりに多いことを示す必要があるでしょう。私のみるところ、数式がSVO の語順になっていることについて、例外はほとんどありません。そのことを示すために、一番例外に近い 1+1=3 に拘っているのですが・・・
>「春はあけぼの」「車は左人は右」「私は左翼」というとき、なるほどいずれも用言が省略されていると考えることは可能ですが、なくても意味がわかりますよね。
私がわざわざ次のように書いたことの意味が理解していただけなかったようです。
>数学では、「・・は3」で切った時、「3である」のか「3でない」のかをはっきりさせることに意味があって、1足す2は3に決まっているだろうというのは、なしです。それを説明するのが数式ですから。
例えば a>b の数式を、中学校の教師は「aは大なりb」 と読みます。
初めて不等号を習う生徒でも、そう読まれただけで意味を理解する者も居るでしょう。 数式の「>」の形からaの方が大きいと直感的にわかるからです。しかし、数式を示さずに、「aは大なりb」と喋っただけでは、なんのことか理解できない者が居るであろうことは容易に想像されます。一方、英語で読めば、英語を母語とする生徒には誤解の余地なく伝わる筈です。
「aは大なりb」 は、漢文の読み方なんです。だから、教師は、「これは aは大なりb と読みます。これは、b より a の方が大きいという意味です」と解説を加えねばなりません。「b より a の方が大きい」が、日常的に使用される普通の日本語です。
とらこさんは家庭教師の経験はありませんか? こんなところでつまづく生徒に出会ったことはありませんか? 英語圏の生徒であればつまずく必要もないところでつまずくのです。
つまり、1+2=3 も a+b≠c も a>b も同じ文法で書かれているとすれば、それは、日常使用される日本語とは違って、明らかに印欧系の文法に即しています。
SVOとSOVという概念理解が過剰な一般化に基づいていて、無意味な区別であるとおっしゃるなら、言語学の素人である私には返す言葉もありません。
それから、英語論文の書き方のところで私が言いたかったことは、「日本語で書く時と英語で書く時は理路が違う」ということです。日本語で書くのは読者が日本人であることを意識しますので、日本人にすんなりと理解されやすような理路にもって行きます。英語で書くときは、ネイティブの理路を学び、それに合わせます。具体的には、日本語で書く時は、頭から論証的に書いて最後に結論を書く、英語で書くときは、結論を先に書いて、その後に論証するというスタイル。becauseの使い方の違いですね。本来、どちらが合理的かという点で優劣はない筈です。
数学の証明の問題の解法は「英語式」の作法で学びます。大部分の者にとっては、教えられたら分かる作法ですからそれで不満はないのでしょう。しかし、理路が違うというところでひっかかる生徒もいるのです。
(ちなみに、今、同業者の友人達と、若い人に日本語の論文を書かせる運動を、かげでコソコソやっています。)
この問題は、ちょちょんまげさんのエントリー本文に書かれている、日米で、掛算の掛ける数と掛けられる数のコンセプトが全く逆になっているということにも関係しているのかなと、ふと思って、気軽に書いたのですが、とらこさんのご指摘で、私自身の理解も深まりました。とらこさんには最後にもう一言頂戴したいのですが、私の意見はこれを最後にして、続きは、もしかしたら自身のブログに書くかもしれません。
なお、ちょちょんまげさんが冒頭にリンクされた、north-poleさんの元エントリーに、別件で短いコメントを書きました。遠山啓のことです。
>「数学の文法」が「日本語の文法」より「印欧語の文法」に近いとみなすのが過剰な一般化だ・・・
過剰な一般化というのであれば、例外があまりに多いことを示す必要があるでしょう。私のみるところ、数式がSVO の語順になっていることについて、例外はほとんどありません。そのことを示すために、一番例外に近い 1+1=3 に拘っているのですが・・・
>「春はあけぼの」「車は左人は右」「私は左翼」というとき、なるほどいずれも用言が省略されていると考えることは可能ですが、なくても意味がわかりますよね。
私がわざわざ次のように書いたことの意味が理解していただけなかったようです。
>数学では、「・・は3」で切った時、「3である」のか「3でない」のかをはっきりさせることに意味があって、1足す2は3に決まっているだろうというのは、なしです。それを説明するのが数式ですから。
例えば a>b の数式を、中学校の教師は「aは大なりb」 と読みます。
初めて不等号を習う生徒でも、そう読まれただけで意味を理解する者も居るでしょう。 数式の「>」の形からaの方が大きいと直感的にわかるからです。しかし、数式を示さずに、「aは大なりb」と喋っただけでは、なんのことか理解できない者が居るであろうことは容易に想像されます。一方、英語で読めば、英語を母語とする生徒には誤解の余地なく伝わる筈です。
「aは大なりb」 は、漢文の読み方なんです。だから、教師は、「これは aは大なりb と読みます。これは、b より a の方が大きいという意味です」と解説を加えねばなりません。「b より a の方が大きい」が、日常的に使用される普通の日本語です。
とらこさんは家庭教師の経験はありませんか? こんなところでつまづく生徒に出会ったことはありませんか? 英語圏の生徒であればつまずく必要もないところでつまずくのです。
つまり、1+2=3 も a+b≠c も a>b も同じ文法で書かれているとすれば、それは、日常使用される日本語とは違って、明らかに印欧系の文法に即しています。
SVOとSOVという概念理解が過剰な一般化に基づいていて、無意味な区別であるとおっしゃるなら、言語学の素人である私には返す言葉もありません。
それから、英語論文の書き方のところで私が言いたかったことは、「日本語で書く時と英語で書く時は理路が違う」ということです。日本語で書くのは読者が日本人であることを意識しますので、日本人にすんなりと理解されやすような理路にもって行きます。英語で書くときは、ネイティブの理路を学び、それに合わせます。具体的には、日本語で書く時は、頭から論証的に書いて最後に結論を書く、英語で書くときは、結論を先に書いて、その後に論証するというスタイル。becauseの使い方の違いですね。本来、どちらが合理的かという点で優劣はない筈です。
数学の証明の問題の解法は「英語式」の作法で学びます。大部分の者にとっては、教えられたら分かる作法ですからそれで不満はないのでしょう。しかし、理路が違うというところでひっかかる生徒もいるのです。
(ちなみに、今、同業者の友人達と、若い人に日本語の論文を書かせる運動を、かげでコソコソやっています。)
この問題は、ちょちょんまげさんのエントリー本文に書かれている、日米で、掛算の掛ける数と掛けられる数のコンセプトが全く逆になっているということにも関係しているのかなと、ふと思って、気軽に書いたのですが、とらこさんのご指摘で、私自身の理解も深まりました。とらこさんには最後にもう一言頂戴したいのですが、私の意見はこれを最後にして、続きは、もしかしたら自身のブログに書くかもしれません。
なお、ちょちょんまげさんが冒頭にリンクされた、north-poleさんの元エントリーに、別件で短いコメントを書きました。遠山啓のことです。
さつきさん
そうですね。元エントリの話題に集中したい方もいらっしゃるでしょうし、もしも続きがあるならさつきさんのところででもということで、この議論でこの場をお借りするのはこれ限りにいたしましょう。
では、さつきさんのご意見について最後の私見を述べます。
まず、「過剰な一般化」についてです。
>数式がSVO の語順になっていることについて、例外はほとんどありません。
その点は認めても構いませんが、その一事をもって「数学」の「文法」と呼ぶのが過剰だと言っております。さつきさんが「数学の文法」とおっしゃったのは数式をどう読むかという語順についてのみの話だったのですか?疑問形にすると答えを求めるようになって続きが必要になるので言い直します。「数式をどう読むかという点についてはSVOに見立てる方が説明しやすい」ということがいえるとして、それを「数学(数式ではなく)の文法(言語で使われているような意味合いで)」とはいえない、と私は思います。
ひるがえって、日本語なり英語の「文法」について述べるならば、「語順」というのはそれらの性質のごく一部であり他の性質との関連において初めて他言語との比較が可能になるものです。
「1に2を加える」というとき、「に」や「を」が持っている情報によって、日本語話者は英語におけるVのあとに来ているものがOだという情報(つまり語順)を抽象化しています。またロシア語のような言語では、語順でもなく、「に」や「を」のような接辞によってでもなく、2や1が格変化を起こすことによって2や1のこの文における働きを示すわけです。
ですので、ある情報を言語化する過程において、語順のほかに、その言語の語形態や、文法的な性質を規定する要素をどこに置くか等々言語によって表現方法はさまざまに異なります。語順だけを比較しても意味がないのです。ましてそれのみを指して文法と呼ぶことは過剰な一般化といわざるを得ません。
>1足す2は3に決まっているだろうというのは、なしです。
さつきさんは「1たす2は3」という意味の中に私がいった「1たす2は3」が「1たす2は3であるを含意する」のはなし、とおっしゃっているんですね。
仮に=を「は」で「である」まで含意していると見立てることが可能だとしても、同様に≠を表現できるような言い方が思い当たらないので、確かにこれはむしろ統一的に記述できる「である」「でない」に見立てた方がよさげです。しかし、現に「は」が「である」まで含意するのはごく普通の日本語であって、この数式をそのように(「は」がであるまでを含意すると)解釈することは可能であり、だからこそ「は」という日本語が当てられているわけです。
ともあれ、=を「は」(~であるまで含意して)と読めるというのは日本語でも違和感がないという例を出したまでで、情報を表現する順番という点に関して数式が日本語の順番よりSVO言語の順番に近いという点を認めてもよいのは上述のとおりです。それを「数学」の「文法」と呼ぶこと、日本語や英語の「文法」と単純に比較することに無理があるというのが私の主張です。
それから、日本語話者が日本語の語順どおりに情報を処理しているとは限りません。これは私も暗い分野の話ですがスティーブン・ピンカーの「言語を生み出す本能」(NHK出版)に言語と思考では思考が先、という実験についての話がありました。この辺はもっと新しい知見がでている筈だと思いますので、この情報は古くて申し訳ありませんがピンカーは一般向けにも言語に関する面白い本をいっぱい出していますので、お勧めです。話がそれましたが、いいたいことは、ある言語の語順が一般化できたとして、それをそのまま話者の思考と直結させることはできないということです。言語は情報処理のツールの一つにすぎません。(この辺についてはさつきさんの方が詳しそうですが)
>つまり、1+2=3 も a+b≠c も a>b も同じ文法で書かれているとすれば、それは、日常使用される日本語とは違って、明らかに印欧系の文法に即しています。
数式をどう読むかの読みやすさについて順番の点に限定すれば、日本語より英語の方が読みやすいであろう、というところまでを同意したとしても「明らかに印欧系の文法に即しています」とまではいえません。英語だって昔は語順はもっと自由だったのです。名詞や動詞が変化したり活用したりする言語も印欧語には多く、それらをまとめて「印欧語の文法」とまとめるのも無理があります。そして、もしその点が仮に躓きの原因になっているなら、SVO以外の言語について一般的にそれが言える必要がありますがそのような統計は見たことがありません。
>SVOとSOVという概念理解が過剰な一般化に基づいていて、
いいえ、そうは申しておりません。その概念自体は有効で今も使われております。ただ使うに際しては何をSにVにOに分類するかを、その言語の「文法」(日本語でいえば形容詞とか助詞とかの分類とか)に即してではなく、ある程度汎言語的に考えて注意して使う必要はあると思います。
それから「理路が違う」という点、さつきさんが「理路」とおっしゃっているものを私は「お作法」と表現しましたが、私がこのいささか無粋な言い方で何がいいたいかといえば、それは「後から作られたルールであって言語に内在する性質ではない」ということです。さつきさんも「書き方」とおっしゃっているとおり、あくまであれは「書き方」のルールにすぎず、英語という言語の性質によって導き出されるものではないということです。
日本語話者が英語を学ぶときに躓きやすい点があるように、日本語話者が数学を学ぶときに躓きやすい点が仮にあったとしてもおかしくないでしょう。私はもとよりそれを否定するものではありません。そういうことをやるなら、一つ一つ厳密にデータを検証し、対象を精査し、必要なあらゆるファクターを考慮し統計やらなんやらの方法を駆使して、さらに言語学やら教育学やらの知見も参照した上でやって初めて、出てきたものが検討に価するのだと思っています。たとえば応用言語学の分野では現にそういうことをやっています。これは他の科学的な知見と同様に、過去の膨大な知見の積み重ねです。
ということで私のこだわっている点もほぼおわかりいただけたのではないでしょうか。勿論言葉が足りない点もあるでしょうし、また続きがあるようでしたらさつきさんのところでもうちででも、ぼちぼち議論させていただければと思います。しかしまとめてやるのは少々疲れてきました。続きがあるにしても少し休憩をいただければ幸いです。あ、勿論さつきさんがエントリを上げられるのは、いつでも拝見いたします。
お疲れ様でした。おつきあいありがとうございました。
ちょちょんまげさん、長々と失礼致しました。本来の話題はどこ?と思われた皆様も失礼致しました。
では、さつきさんのご意見について最後の私見を述べます。
まず、「過剰な一般化」についてです。
>数式がSVO の語順になっていることについて、例外はほとんどありません。
その点は認めても構いませんが、その一事をもって「数学」の「文法」と呼ぶのが過剰だと言っております。さつきさんが「数学の文法」とおっしゃったのは数式をどう読むかという語順についてのみの話だったのですか?疑問形にすると答えを求めるようになって続きが必要になるので言い直します。「数式をどう読むかという点についてはSVOに見立てる方が説明しやすい」ということがいえるとして、それを「数学(数式ではなく)の文法(言語で使われているような意味合いで)」とはいえない、と私は思います。
ひるがえって、日本語なり英語の「文法」について述べるならば、「語順」というのはそれらの性質のごく一部であり他の性質との関連において初めて他言語との比較が可能になるものです。
「1に2を加える」というとき、「に」や「を」が持っている情報によって、日本語話者は英語におけるVのあとに来ているものがOだという情報(つまり語順)を抽象化しています。またロシア語のような言語では、語順でもなく、「に」や「を」のような接辞によってでもなく、2や1が格変化を起こすことによって2や1のこの文における働きを示すわけです。
ですので、ある情報を言語化する過程において、語順のほかに、その言語の語形態や、文法的な性質を規定する要素をどこに置くか等々言語によって表現方法はさまざまに異なります。語順だけを比較しても意味がないのです。ましてそれのみを指して文法と呼ぶことは過剰な一般化といわざるを得ません。
>1足す2は3に決まっているだろうというのは、なしです。
さつきさんは「1たす2は3」という意味の中に私がいった「1たす2は3」が「1たす2は3であるを含意する」のはなし、とおっしゃっているんですね。
仮に=を「は」で「である」まで含意していると見立てることが可能だとしても、同様に≠を表現できるような言い方が思い当たらないので、確かにこれはむしろ統一的に記述できる「である」「でない」に見立てた方がよさげです。しかし、現に「は」が「である」まで含意するのはごく普通の日本語であって、この数式をそのように(「は」がであるまでを含意すると)解釈することは可能であり、だからこそ「は」という日本語が当てられているわけです。
ともあれ、=を「は」(~であるまで含意して)と読めるというのは日本語でも違和感がないという例を出したまでで、情報を表現する順番という点に関して数式が日本語の順番よりSVO言語の順番に近いという点を認めてもよいのは上述のとおりです。それを「数学」の「文法」と呼ぶこと、日本語や英語の「文法」と単純に比較することに無理があるというのが私の主張です。
それから、日本語話者が日本語の語順どおりに情報を処理しているとは限りません。これは私も暗い分野の話ですがスティーブン・ピンカーの「言語を生み出す本能」(NHK出版)に言語と思考では思考が先、という実験についての話がありました。この辺はもっと新しい知見がでている筈だと思いますので、この情報は古くて申し訳ありませんがピンカーは一般向けにも言語に関する面白い本をいっぱい出していますので、お勧めです。話がそれましたが、いいたいことは、ある言語の語順が一般化できたとして、それをそのまま話者の思考と直結させることはできないということです。言語は情報処理のツールの一つにすぎません。(この辺についてはさつきさんの方が詳しそうですが)
>つまり、1+2=3 も a+b≠c も a>b も同じ文法で書かれているとすれば、それは、日常使用される日本語とは違って、明らかに印欧系の文法に即しています。
数式をどう読むかの読みやすさについて順番の点に限定すれば、日本語より英語の方が読みやすいであろう、というところまでを同意したとしても「明らかに印欧系の文法に即しています」とまではいえません。英語だって昔は語順はもっと自由だったのです。名詞や動詞が変化したり活用したりする言語も印欧語には多く、それらをまとめて「印欧語の文法」とまとめるのも無理があります。そして、もしその点が仮に躓きの原因になっているなら、SVO以外の言語について一般的にそれが言える必要がありますがそのような統計は見たことがありません。
>SVOとSOVという概念理解が過剰な一般化に基づいていて、
いいえ、そうは申しておりません。その概念自体は有効で今も使われております。ただ使うに際しては何をSにVにOに分類するかを、その言語の「文法」(日本語でいえば形容詞とか助詞とかの分類とか)に即してではなく、ある程度汎言語的に考えて注意して使う必要はあると思います。
それから「理路が違う」という点、さつきさんが「理路」とおっしゃっているものを私は「お作法」と表現しましたが、私がこのいささか無粋な言い方で何がいいたいかといえば、それは「後から作られたルールであって言語に内在する性質ではない」ということです。さつきさんも「書き方」とおっしゃっているとおり、あくまであれは「書き方」のルールにすぎず、英語という言語の性質によって導き出されるものではないということです。
日本語話者が英語を学ぶときに躓きやすい点があるように、日本語話者が数学を学ぶときに躓きやすい点が仮にあったとしてもおかしくないでしょう。私はもとよりそれを否定するものではありません。そういうことをやるなら、一つ一つ厳密にデータを検証し、対象を精査し、必要なあらゆるファクターを考慮し統計やらなんやらの方法を駆使して、さらに言語学やら教育学やらの知見も参照した上でやって初めて、出てきたものが検討に価するのだと思っています。たとえば応用言語学の分野では現にそういうことをやっています。これは他の科学的な知見と同様に、過去の膨大な知見の積み重ねです。
ということで私のこだわっている点もほぼおわかりいただけたのではないでしょうか。勿論言葉が足りない点もあるでしょうし、また続きがあるようでしたらさつきさんのところでもうちででも、ぼちぼち議論させていただければと思います。しかしまとめてやるのは少々疲れてきました。続きがあるにしても少し休憩をいただければ幸いです。あ、勿論さつきさんがエントリを上げられるのは、いつでも拝見いたします。
お疲れ様でした。おつきあいありがとうございました。
ちょちょんまげさん、長々と失礼致しました。本来の話題はどこ?と思われた皆様も失礼致しました。
私もエントリーを挙げさせていただきました
こんにちは。
こちらでは初めてですので「初めまして」。
さて、
エントリー、すごく興味深く拝見しました。
コメント欄も参考になり、改めて算数の意味を考え直したものです、、、
私もコメントを、と思いながら長くなり、エントリーを挙げさせて頂きました。
また、お時間がございましたら、私の方もご覧いただけると嬉しく思います。
http://ts.way-nifty.com/makura/2009/07/post-4df6.html
また、いろいろお教えくださいね。
では。
こちらでは初めてですので「初めまして」。
さて、
エントリー、すごく興味深く拝見しました。
コメント欄も参考になり、改めて算数の意味を考え直したものです、、、
私もコメントを、と思いながら長くなり、エントリーを挙げさせて頂きました。
また、お時間がございましたら、私の方もご覧いただけると嬉しく思います。
http://ts.way-nifty.com/makura/2009/07/post-4df6.html
また、いろいろお教えくださいね。
では。
とらこさん
いやぁ、迫力のある議論でごんした。
読みでがありました。
ときに、ご意見を伺いたいのですが、我々が何か「思考」を立てる時には必ず「言語含み」というか「言語そのもの」で組み立てているように思えるのですけど(反射的に「ヤバイ」、とか「気に入らない」とか感じてる場合は違うのかな?)、何が言いたいかというとほとんど「思考=言語」ぐらいに思えてしまうのですけどいかがでしょう?
それから、これは日本語を習っている台湾人の義理の甥っ子に聞かれて答えに窮したのですが、「学校に行く」と「学校へ行く」の「に」と「へ」はどう違うのですか?
読みでがありました。
ときに、ご意見を伺いたいのですが、我々が何か「思考」を立てる時には必ず「言語含み」というか「言語そのもの」で組み立てているように思えるのですけど(反射的に「ヤバイ」、とか「気に入らない」とか感じてる場合は違うのかな?)、何が言いたいかというとほとんど「思考=言語」ぐらいに思えてしまうのですけどいかがでしょう?
それから、これは日本語を習っている台湾人の義理の甥っ子に聞かれて答えに窮したのですが、「学校に行く」と「学校へ行く」の「に」と「へ」はどう違うのですか?
さつきさん
ちゅうことで、ご要望にお答えして「さま」→「さん」ということで(笑)
お疲れさまでした。
「とらこ・ザ言語学おたく」の急所を踏んづけるとなかなかやっかいなことになりますので、お気をつけください。
他の例では「日本語では(あるいは日本人は)青と緑がごっちゃになってる(している)のではないか」などという「地雷」がございます。
一度「でも、青信号って言うぢゃないですか」とか御発言になってみてくださいませ。
>九九が威力を発揮することなどから
これなんですけどね、実は私も九九は威力があると思っていたんです。
で、息子には日本語の九九を覚えさせようとしたんですが(言えることは言えるのですが)実際には英語(の九九)でやっています。
そして、スピード的に日本語の九九より劣るとは思えません。
また、ツレアイが台湾人なんですけど、中国語九九もほぼ日本の物と変わらないですね。
お疲れさまでした。
「とらこ・ザ言語学おたく」の急所を踏んづけるとなかなかやっかいなことになりますので、お気をつけください。
他の例では「日本語では(あるいは日本人は)青と緑がごっちゃになってる(している)のではないか」などという「地雷」がございます。
一度「でも、青信号って言うぢゃないですか」とか御発言になってみてくださいませ。
>九九が威力を発揮することなどから
これなんですけどね、実は私も九九は威力があると思っていたんです。
で、息子には日本語の九九を覚えさせようとしたんですが(言えることは言えるのですが)実際には英語(の九九)でやっています。
そして、スピード的に日本語の九九より劣るとは思えません。
また、ツレアイが台湾人なんですけど、中国語九九もほぼ日本の物と変わらないですね。
せとともこさん
いらっしゃいませ。
コメントをありがとうございました。
アキラ氏のところでは、私がアキラ氏とやり合いになってしまいまして、せとさんとのお話がやや中途半端になってしまい残念でした。
で、実はお答えするチャンスを失してしまい、気持ちの悪い思いが残るご質問が残っていますので、こちらで回答させていただきたく存知ます。
アキラ氏のブログより引用:
さてさて、本能行動と本能はまったく別のものであると認識していらっしゃるあなたから、
昨日頂いた初めてのコメント(Posted by ちょちょんまげ at 2009年03月24日 23:24)
では、~~~本能行動」という言葉は生きているようですね。~~とありましたが、
本能行動も死語だと思われていたのでしょうか?2009年03月24日 23:24までは、、、、
?????
Posted by せとともこ at 2009年03月25日 18:25
引用ここまで:
私の、
~~~本能行動」という言葉は生きているようですね。~~
という発言は「本能」という言葉を廃する方向に持っていきながら(そのように見える)、なぜ「本能行動」という言葉のなかに「本能」を残すのかなという疑問から来ています。
「本能」という言葉が社会的に少々誤解を含んだ意味合いで理解されるようになったから「廃す」方向に持っていっているのであろうと考えておりましたので、どうせだったら「本能行動」も一新しちゃえばいいのにと思っていたわけです。
まぁ、それだけの話なんですけどね。
掛け算の件につきましてはご紹介いただいたエントリーにお邪魔してコメントを残させていただきたく考えています。
コメントをありがとうございました。
アキラ氏のところでは、私がアキラ氏とやり合いになってしまいまして、せとさんとのお話がやや中途半端になってしまい残念でした。
で、実はお答えするチャンスを失してしまい、気持ちの悪い思いが残るご質問が残っていますので、こちらで回答させていただきたく存知ます。
アキラ氏のブログより引用:
さてさて、本能行動と本能はまったく別のものであると認識していらっしゃるあなたから、
昨日頂いた初めてのコメント(Posted by ちょちょんまげ at 2009年03月24日 23:24)
では、~~~本能行動」という言葉は生きているようですね。~~とありましたが、
本能行動も死語だと思われていたのでしょうか?2009年03月24日 23:24までは、、、、
?????
Posted by せとともこ at 2009年03月25日 18:25
引用ここまで:
私の、
~~~本能行動」という言葉は生きているようですね。~~
という発言は「本能」という言葉を廃する方向に持っていきながら(そのように見える)、なぜ「本能行動」という言葉のなかに「本能」を残すのかなという疑問から来ています。
「本能」という言葉が社会的に少々誤解を含んだ意味合いで理解されるようになったから「廃す」方向に持っていっているのであろうと考えておりましたので、どうせだったら「本能行動」も一新しちゃえばいいのにと思っていたわけです。
まぁ、それだけの話なんですけどね。
掛け算の件につきましてはご紹介いただいたエントリーにお邪魔してコメントを残させていただきたく考えています。
角度を変えてみましょうか
こんちは!おひさしぶりです。
興味深いエントリだったので、私もちょいとかきまぜ隊…。
大半の方が「掛け算の順序入れ替えはOK!」と主張されているようですし、私もそう思います。
しかし敢えて、「プロセス重視=順序入れ替えは×」の思考様式を取り入れるなら、たとえば力学の計算を私は思い浮かべます。
→運動量(P)=重さ(m)×速さ(v)
上記において、重さが1で速さが3の物体の運動量を考えることも、重さが3で速さが1の物体の運動量を考えることも、答えはまったく同じになります。
しかし、重さが1で速さが3の物体の運動量は?という設問に対して、速さ(1)×重さ(3)=運動量(3)と答えてしまった場合はどうでしょう。
言うまでもなく、私たちはどっちにしてもそれが正解だということを「知っている」のですが…一体それはどのようにして証明できるのでしょう。
乗算の交換則によって1*3も3*1も同じ3が答えになるからOKなのだ、という回答は、数学的にはOKであっても、科学(力学)的にはなんの根拠もないもの、となりかねないのではないでしょうか。
さらに、上記の「速さ(v)」とは移動距離を時間で割ったものです。この速さをさらに時間で割れば「加速度(v/t)」を得ることができ、加速度をaとすると、
F=ma
の公式が出来上がります。
もちろんこれはF=amと書いても、F/m=aと書いてもOKなのですが、「果たして本当にそうなるのか?」という懐疑の心を持ち、それぞれの項の意味をきちんと把握できなければ、単に「計算をしているだけ」になり、「力学を理解した」ことにはならないのではないだろうか、などと考えたのでした。
興味深いエントリだったので、私もちょいとかきまぜ隊…。
大半の方が「掛け算の順序入れ替えはOK!」と主張されているようですし、私もそう思います。
しかし敢えて、「プロセス重視=順序入れ替えは×」の思考様式を取り入れるなら、たとえば力学の計算を私は思い浮かべます。
→運動量(P)=重さ(m)×速さ(v)
上記において、重さが1で速さが3の物体の運動量を考えることも、重さが3で速さが1の物体の運動量を考えることも、答えはまったく同じになります。
しかし、重さが1で速さが3の物体の運動量は?という設問に対して、速さ(1)×重さ(3)=運動量(3)と答えてしまった場合はどうでしょう。
言うまでもなく、私たちはどっちにしてもそれが正解だということを「知っている」のですが…一体それはどのようにして証明できるのでしょう。
乗算の交換則によって1*3も3*1も同じ3が答えになるからOKなのだ、という回答は、数学的にはOKであっても、科学(力学)的にはなんの根拠もないもの、となりかねないのではないでしょうか。
さらに、上記の「速さ(v)」とは移動距離を時間で割ったものです。この速さをさらに時間で割れば「加速度(v/t)」を得ることができ、加速度をaとすると、
F=ma
の公式が出来上がります。
もちろんこれはF=amと書いても、F/m=aと書いてもOKなのですが、「果たして本当にそうなるのか?」という懐疑の心を持ち、それぞれの項の意味をきちんと把握できなければ、単に「計算をしているだけ」になり、「力学を理解した」ことにはならないのではないだろうか、などと考えたのでした。
ちょちょんまげさん
ご質問の2点は二つとも、即答は難しい、私もよくわかっていない問題です。1つ目については認知心理学か関連分野の、2つめについては日本語学か日本語教育学の専門家のご意見を聞きたいところです。というお断りをした上で、
まず1つ目ですが
>我々が何か「思考」を立てる時には必ず「言語含み」というか「言語そのもの」で組み立てているように思えるのですけど(反射的に「ヤバイ」、とか「気に入らない」とか感じてる場合は違うのかな?)、何が言いたいかというとほとんど「思考=言語」ぐらいに思えてしまうのですけどいかがでしょう?
直感的にはそうですよね。私もそう思います。だからピンカーの本でそうじゃないという意味の実験結果が挙げられていたのを印象的に覚えております。
ただ、たとえばa=bとa≠bの違いを私たちは瞬間的に見分けますよね。それって頭の中に「~ではない」という「ない」の部分が出てくるより早く感じませんか。つまり「ない」が言語化されて出てくる時点で既に「否定の現象」の意味は処理されてしまっていて、言語はそれを後付けで表現しているのではないか。
前述のとおり、私もこの分野には疎く、↑こう書いたのも「こういう可能性もありませんか」という素人考えです。しかし少なくとも思考は言語表現の順番どおりに進行しているとは言い切れないだろうと思います。もしかしたら既になんらかの新しい知見が出ているかもしれませんが、不勉強ですみません。
2つめですが
>「学校に行く」と「学校へ行く」の「に」と「へ」はどう違うのですか?
これは面白いんですよね。一般的にはこんな感じで日本語学習者には教えられているようです。
http://www.alc.co.jp/jpn/teacher/soudan/029.html
考え方としてはですね、たとえば「東京へ行く」「東京に行く」ならなんかどっちでも同じような気がするけど、同じような気がしない、片方はいえるけど片方はいえない、これによって意味が変わってしまうような例はないかを探します。たとえば
お嫁に行く vs お嫁へ行く
斜めに行く vs 斜めへ行く
京都に寄る vs 京都へ寄る
どうもこの2つは同じではなさそうだと思われる例を出してみて、それから何か一般化できることがあるのかどうかを考えるわけですが、細かいところになると日本語学者でも説が分かれますし、また同じ日本語母語話者でも、人によって「これは言える、これはダメ」とかの判断もしばしば異なります。
一般に日本語を教えるときには、上記のような日本語教育サイトや外国人向けの日本語のテキストを参考に、そこで言っていることを自分でいろいろ例文を出してみて確かめるという感じでやっていくのがいいかと思いますが、スパーとクリアカットな答えというのは出すのが難しいと思います。「大体こう説明されているみたい」という辺りで手を打っておくのが現実的かつ有効な手段かと思います。
どうも頼りない話ばかりですみません。がこんなところでひとつ。。。
まず1つ目ですが
>我々が何か「思考」を立てる時には必ず「言語含み」というか「言語そのもの」で組み立てているように思えるのですけど(反射的に「ヤバイ」、とか「気に入らない」とか感じてる場合は違うのかな?)、何が言いたいかというとほとんど「思考=言語」ぐらいに思えてしまうのですけどいかがでしょう?
直感的にはそうですよね。私もそう思います。だからピンカーの本でそうじゃないという意味の実験結果が挙げられていたのを印象的に覚えております。
ただ、たとえばa=bとa≠bの違いを私たちは瞬間的に見分けますよね。それって頭の中に「~ではない」という「ない」の部分が出てくるより早く感じませんか。つまり「ない」が言語化されて出てくる時点で既に「否定の現象」の意味は処理されてしまっていて、言語はそれを後付けで表現しているのではないか。
前述のとおり、私もこの分野には疎く、↑こう書いたのも「こういう可能性もありませんか」という素人考えです。しかし少なくとも思考は言語表現の順番どおりに進行しているとは言い切れないだろうと思います。もしかしたら既になんらかの新しい知見が出ているかもしれませんが、不勉強ですみません。
2つめですが
>「学校に行く」と「学校へ行く」の「に」と「へ」はどう違うのですか?
これは面白いんですよね。一般的にはこんな感じで日本語学習者には教えられているようです。
http://www.alc.co.jp/jpn/teacher/soudan/029.html
考え方としてはですね、たとえば「東京へ行く」「東京に行く」ならなんかどっちでも同じような気がするけど、同じような気がしない、片方はいえるけど片方はいえない、これによって意味が変わってしまうような例はないかを探します。たとえば
お嫁に行く vs お嫁へ行く
斜めに行く vs 斜めへ行く
京都に寄る vs 京都へ寄る
どうもこの2つは同じではなさそうだと思われる例を出してみて、それから何か一般化できることがあるのかどうかを考えるわけですが、細かいところになると日本語学者でも説が分かれますし、また同じ日本語母語話者でも、人によって「これは言える、これはダメ」とかの判断もしばしば異なります。
一般に日本語を教えるときには、上記のような日本語教育サイトや外国人向けの日本語のテキストを参考に、そこで言っていることを自分でいろいろ例文を出してみて確かめるという感じでやっていくのがいいかと思いますが、スパーとクリアカットな答えというのは出すのが難しいと思います。「大体こう説明されているみたい」という辺りで手を打っておくのが現実的かつ有効な手段かと思います。
どうも頼りない話ばかりですみません。がこんなところでひとつ。。。
No title
>乗算の交換則によって1*3も3*1も同じ3が答えになるからOKなのだ、という回答は、数学的にはOKであっても、科学(力学)的にはなんの根拠もないもの、となりかねないのではないでしょうか。
でも、質量×速度という値が、意味を持つから運動量が定義されているのですよね。
質量1と速度3 質量3と速度1 これらは「何か」が等しい。具体的には、静止したある物体にぶつけてそのあとその物体と一体となった場合の速度は、前者も後者も等しい。
つまり、運動量という物差しで見たら「同じ」。
かけ算の順序を持ち出さなくても、
「形が違っても、面積が同じ」とか、「材質が違っても、質量は同じ」など、
「全く同じというわけではないが、ある物差しで測れば同じ」ということは、よくありがちだと思う。
でも、質量×速度という値が、意味を持つから運動量が定義されているのですよね。
質量1と速度3 質量3と速度1 これらは「何か」が等しい。具体的には、静止したある物体にぶつけてそのあとその物体と一体となった場合の速度は、前者も後者も等しい。
つまり、運動量という物差しで見たら「同じ」。
かけ算の順序を持ち出さなくても、
「形が違っても、面積が同じ」とか、「材質が違っても、質量は同じ」など、
「全く同じというわけではないが、ある物差しで測れば同じ」ということは、よくありがちだと思う。
ちょちょんまげさん
>ほとんど「思考=言語」ぐらいに思えてしまうのですけどいかがでしょう?
関係することで、私のブログに記事を書きました。
http://blogs.yahoo.co.jp/satsuki_327/33623676.html
ちなみに、掛け算の順序については、せとともこさんのブログ記事の説明で、私自身は納得です。
関係することで、私のブログに記事を書きました。
http://blogs.yahoo.co.jp/satsuki_327/33623676.html
ちなみに、掛け算の順序については、せとともこさんのブログ記事の説明で、私自身は納得です。
No title
>
これの数字の順序の在り方というのは「日本式」があったり、「アメリカ式」があったりするという正解のない世界のようなのですけれど、それでも重要なんでしょうか?
「子供の掛け算に対する理解」は順番に拘ることで本当に深まるのでしょうか
お返事をいただいておきながら、ずいぶん間があいてしまって申し訳ありません。
まず、日本式、アメリカ式とあるようですが、ここは日本なので日本式で考えるのが一番かと。
文章問題に限ってのことですが、文章を読み理解し、それを式にして書くという行為は「国語(読解)」
その式を解いていくのは「算数(計算)」
このように考えますので、
式を起こす際の「かけ算の順序」はやはり統一していた方がいいように思います。
その方が日本人の頭にイメージとして受け入れられやすい、と思うからです。
子供達も混乱しないでしょう。
漢字の書き順が定められているように、ルールとしてあった方がいいと思います。
その次の段階、計算していく時にはひっくり返してもいいと思いますが。
算数の真実と国語の現実の差、そんな感じです。
これの数字の順序の在り方というのは「日本式」があったり、「アメリカ式」があったりするという正解のない世界のようなのですけれど、それでも重要なんでしょうか?
「子供の掛け算に対する理解」は順番に拘ることで本当に深まるのでしょうか
お返事をいただいておきながら、ずいぶん間があいてしまって申し訳ありません。
まず、日本式、アメリカ式とあるようですが、ここは日本なので日本式で考えるのが一番かと。
文章問題に限ってのことですが、文章を読み理解し、それを式にして書くという行為は「国語(読解)」
その式を解いていくのは「算数(計算)」
このように考えますので、
式を起こす際の「かけ算の順序」はやはり統一していた方がいいように思います。
その方が日本人の頭にイメージとして受け入れられやすい、と思うからです。
子供達も混乱しないでしょう。
漢字の書き順が定められているように、ルールとしてあった方がいいと思います。
その次の段階、計算していく時にはひっくり返してもいいと思いますが。
算数の真実と国語の現実の差、そんな感じです。
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No title
3個のりんごがある。とも、りんごが3個ある、のどちらの表現も可能でしょう。
「3つの4がある」をそのままの順で数式化したら間違い、もしくは、「4が3つある」に変換した上で、4×3と記述しなさいというのも、変な話ですね。
正解なんて、一通りでない、ということ教えた方がいいな。
「3つの4がある」をそのままの順で数式化したら間違い、もしくは、「4が3つある」に変換した上で、4×3と記述しなさいというのも、変な話ですね。
正解なんて、一通りでない、ということ教えた方がいいな。
Re: No title
カギコメさま。
「7の君」、もしかして「数字遊び」のことをおっしゃっているのですか?
気になるので教えてください(笑)
「7の君」、もしかして「数字遊び」のことをおっしゃっているのですか?
気になるので教えてください(笑)
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NANさん
レス遅れてごめんなさい。
コメントをありがとうございました。
同意です。
もともと私の「順番はどうでもいいぢゃんか」は、積分定数さんのような「美学」や「数学の本質からして」に基づいたような高度なものではなく、「逆順で書いたらペケはひどいんぢゃないか」ぐらいの話なので、NANさんがおっしゃるように「式の意味は理解すべき、そして指導もそれを目的としてされるべきである」という部分には全く異論がありません。
コメントをありがとうございました。
同意です。
もともと私の「順番はどうでもいいぢゃんか」は、積分定数さんのような「美学」や「数学の本質からして」に基づいたような高度なものではなく、「逆順で書いたらペケはひどいんぢゃないか」ぐらいの話なので、NANさんがおっしゃるように「式の意味は理解すべき、そして指導もそれを目的としてされるべきである」という部分には全く異論がありません。
積分定数さん
コメントをありがとうございました。
せとともこさんの所のお話も拝読させていただきました。
恐らく「教条的」になっている教師も多いのでしょうが、現場の気持ちとして「頼むから教えた通りとりあえず書いておいてよ」というのはわからなくもないです、私は。
まぁ、つまづく生徒がいなければ(私なんか躓いてばかりでしたので、躓く子供の気持ちはわかる)、「便宜的」も「方便」も必要なく「本質」のみで進められるわけで。
私なんぞ、数学と「実の世界」が必ずしも対応しないことを理解したのは高校生ぐらいだったのではないかと思います。
せとともこさんの所のお話も拝読させていただきました。
恐らく「教条的」になっている教師も多いのでしょうが、現場の気持ちとして「頼むから教えた通りとりあえず書いておいてよ」というのはわからなくもないです、私は。
まぁ、つまづく生徒がいなければ(私なんか躓いてばかりでしたので、躓く子供の気持ちはわかる)、「便宜的」も「方便」も必要なく「本質」のみで進められるわけで。
私なんぞ、数学と「実の世界」が必ずしも対応しないことを理解したのは高校生ぐらいだったのではないかと思います。
とらこさん
ご教授ありがとうございました。
>お嫁に行く vs お嫁へ行く
なるほど、違うものですね。
小柳ルミ子も「あなたぁのまぁちぃへぇ、およめーにいくーのー」と歌っていますしね。
縛られに行く VS 縛られへ行く
この例はいかがでせう?
「思考即言語」のお話はこれから少し勉強してみますぅ。
>お嫁に行く vs お嫁へ行く
なるほど、違うものですね。
小柳ルミ子も「あなたぁのまぁちぃへぇ、およめーにいくーのー」と歌っていますしね。
縛られに行く VS 縛られへ行く
この例はいかがでせう?
「思考即言語」のお話はこれから少し勉強してみますぅ。
さつきさん
コメントありがとうございました。
脳と言語お話は、貴ブログの方にコメントさせていただきました。
>掛け算の順序については、せとともこさんのブログ記事の説明で、私自身は納得です。
これはどのように納得なさったのかお聞かせ願えませんか?
脳と言語お話は、貴ブログの方にコメントさせていただきました。
>掛け算の順序については、せとともこさんのブログ記事の説明で、私自身は納得です。
これはどのように納得なさったのかお聞かせ願えませんか?
お市さん
う~ん、どうなんだろうなぁ。
私には、「理解の話」と「順序の話」は別のように思えるのです。
むしろ「順序」は教える側の便宜として使われているような。
で、「ルール化」できるほどの正当性があるようには思えないのですけれど。
私には、「理解の話」と「順序の話」は別のように思えるのです。
むしろ「順序」は教える側の便宜として使われているような。
で、「ルール化」できるほどの正当性があるようには思えないのですけれど。
ちょちょんまげさん
どうでもいいことですが、小柳ルミ子が歌ったのは「あなた~のし~ま~へ お嫁に行~く~の」です。まちへ行ってはあの歌が成り立ちません。
>縛られに行く VS 縛られへ行く
この例はいかがでせう?
前者は「見に行く」「食べに行く」など動詞の連用形に続く「に」と同じものですね。そうすると「東京」のような名詞に続く場合とはまた違った働きも考えられるのでここで問題にしている例に出すと少しややこしくなってしまうかもしれません。
しかし同じ「に」であることには違いなく、このような場合「へ」との交換は一般にできなさそうだな、と考察できるわけです。
>「思考即言語」のお話はこれから少し勉強してみますぅ
また何かわかったら教えてください。
>縛られに行く VS 縛られへ行く
この例はいかがでせう?
前者は「見に行く」「食べに行く」など動詞の連用形に続く「に」と同じものですね。そうすると「東京」のような名詞に続く場合とはまた違った働きも考えられるのでここで問題にしている例に出すと少しややこしくなってしまうかもしれません。
しかし同じ「に」であることには違いなく、このような場合「へ」との交換は一般にできなさそうだな、と考察できるわけです。
>「思考即言語」のお話はこれから少し勉強してみますぅ
また何かわかったら教えてください。
バベルー17
言語と思考という話を聞くと、反射的にこのタイトルを思い出してしまう私。
あー、でも内容忘れたなぁ。もう一回読み直さないと。って家に残っているかどうか……
ところで確率の話。
二人のうちどちらか片方が男の子であることが分かった場合。
もう一人が男の子である確率は1/3
上の子が男の子であるということが分かった場合は1/2
かな?
あー、でも内容忘れたなぁ。もう一回読み直さないと。って家に残っているかどうか……
ところで確率の話。
二人のうちどちらか片方が男の子であることが分かった場合。
もう一人が男の子である確率は1/3
上の子が男の子であるということが分かった場合は1/2
かな?
No title
掛け算の順序をどう納得したかということですが、予めお断りしておきますと、私の立場は積分定数さんと全く同じです。
納得したのは、教える側が、理解の遅い子に、こうすれば納得してもらえると色々試行錯誤した結果として、それが効果的であるらしいという点です。
もちろん「1あたりの数×いくつ分=全体の数」でも「いくつ分×1あたりの数=全体の数」でもどちらでも良い訳ですが、1あたりの数を先に書きなさいと教えたら、ちゃんとそれを先に書いているかどうかでチェックできるだけである、という事ですね。
ただ、積分定数さんの問いかけとしてはこちらの方がより重要だと思いますが、遠山啓は、彼の著作集の『水道方式とはなにか』(太郎次郎社1980)の中の「かけ算の新しい定義」のところで、かけ算を累加で説明してはならない理由にふれて、次のように書いています。
「どのウサギも耳を2本ずつ持っていますが、“3匹分のウサギの耳の数”として2×3を定義する。つまり、×3の3は “3匹分”という意味です。こういう定義をしますと、6という答えがともかくも出てきます。しかし、その時に、子どもはかならずしも2+2+2とは考えません。(途中略)3+3でやっている子どももいます。子どもにきくと、左の耳だけでは3本、右の耳が3本だから、3+3でやっている子どももいます。(途中略)要するに、どの考え方でもいいのです。」
(もっとすごい解法をする子どももいる訳ですが、それも省略)
「4人にみかん3個ずつ」の例で言うと、「お皿の左端と真ん中と右端の3カ所分に置くみかんがそれぞれ4個ずつある」と考える子どもがいたとして、それを間違いだとする根拠は何か、ということですね。そのことが、積分定数さんのおっしゃる「対称性」の意味だと思います。
この問題についての明快な回答はまだなかったように思いますが、積分定数さん、どうでしょう。
納得したのは、教える側が、理解の遅い子に、こうすれば納得してもらえると色々試行錯誤した結果として、それが効果的であるらしいという点です。
もちろん「1あたりの数×いくつ分=全体の数」でも「いくつ分×1あたりの数=全体の数」でもどちらでも良い訳ですが、1あたりの数を先に書きなさいと教えたら、ちゃんとそれを先に書いているかどうかでチェックできるだけである、という事ですね。
ただ、積分定数さんの問いかけとしてはこちらの方がより重要だと思いますが、遠山啓は、彼の著作集の『水道方式とはなにか』(太郎次郎社1980)の中の「かけ算の新しい定義」のところで、かけ算を累加で説明してはならない理由にふれて、次のように書いています。
「どのウサギも耳を2本ずつ持っていますが、“3匹分のウサギの耳の数”として2×3を定義する。つまり、×3の3は “3匹分”という意味です。こういう定義をしますと、6という答えがともかくも出てきます。しかし、その時に、子どもはかならずしも2+2+2とは考えません。(途中略)3+3でやっている子どももいます。子どもにきくと、左の耳だけでは3本、右の耳が3本だから、3+3でやっている子どももいます。(途中略)要するに、どの考え方でもいいのです。」
(もっとすごい解法をする子どももいる訳ですが、それも省略)
「4人にみかん3個ずつ」の例で言うと、「お皿の左端と真ん中と右端の3カ所分に置くみかんがそれぞれ4個ずつある」と考える子どもがいたとして、それを間違いだとする根拠は何か、ということですね。そのことが、積分定数さんのおっしゃる「対称性」の意味だと思います。
この問題についての明快な回答はまだなかったように思いますが、積分定数さん、どうでしょう。
No title
「かけ算の順序」を強要することで、きわめて奇妙な事態になっていると思います。それに対して、「躓く子には順序による指導が有効だ」という意見があるわけです。
私自身は小学生に掛け算を教えた経験はなく、有効かそうでないの判断は出来ないので、
「躓く子には順序が有効と言うことは否定しない。(肯定もしない)。
とした上で、
「理解してしまった子には順序は無意味、6年生にまで強要する必要性がわからない」
というと、
「出来ない子を出来るようにするために、出来る子は多少のことは我慢すればいい。出来る子にとって無意味でも、出来ない子には有効なのだから。」
となる。
「出来る子重視」vs「出来ない子を救う」という様相になってしまうと、順序論争の核心からずれてしまうことになると思う。
私としては、「最初の掛け算の導入部分を除いて、基本的にかけ算の順序は有害無益」という立場ですが、これを正当化する十分な材料はない。
だから、まずは「少なくとも、理解してしまった子に対しては無意味。高学年の児童には無意味」と言う具合に
「本当は全部でそうだと思うけど、まずはこの部分に関して陣地を確保して、やがて解放区を徐々に広げて」という戦術だったのですが、うまくいかなかったようです。
>そのことが、積分定数さんのおっしゃる「対称性」の意味だと思います。
まさにその通りで、個数のみならず、速さと時間などでも、(1つあたり)と(いくつ分)を明確に決定することは出来ない。
「4×3と3×4は答えが同じでも意味が全く違う」などというのは、表面しか見ていないからであって、深く追求すれば、「計算結果が等しい」というレベルではなく、両者は全く同じであることが理解できる。
この境地にまで行くと、一方の順序を強要することは数学に対する冒涜にも思える。
ただし、何せ小学生に掛け算を教えた経験がないので、現実に教えている人が「順序はこういう点で有効なんだ」と言われれば、その事実をまずは認めるしかない。
>この問題についての明快な回答はまだなかったように思いますが、積分定数さん、どうでしょう。
この点以外にも私の問いかけへの明確な回答がないようにも思えるのですが、
現実に小学生に算数を教えている人と、数学を高度に抽象化された美しい世界のように捉えている私との違いであるのかな、と思っています。
ただ気になるのは、
「躓く子には順序は有効。理解できる子には順序は不要だけど、強要されてもそれはそれで対応できる」
というが、
「順序を強要する結果、躓いてしまう子」はいないのだろうか?
理解力がない子が一生懸命考えて、4人に3こずつ蜜柑を配る具体的情景を思い浮かべ、「各自に1個ずつ、・・・で、4が3つだ。確かこれは、4×3とするんだな」と考えて、4×3にする。
こういうことは絶対にないのだろうか?
「3×4でも4×3でもどっちでも本質的に同じだ」とわかる子は理解力のある子で、理解力のある子にバツを付けたところで大した問題はない
と仮定しても、
理解力のない子が、正しい理解に基づいて4×3とした場合に、
それにバツを付けることで、その子が算数を好きになったり理解を深めるとは、とても思えない。
私自身は小学生に掛け算を教えた経験はなく、有効かそうでないの判断は出来ないので、
「躓く子には順序が有効と言うことは否定しない。(肯定もしない)。
とした上で、
「理解してしまった子には順序は無意味、6年生にまで強要する必要性がわからない」
というと、
「出来ない子を出来るようにするために、出来る子は多少のことは我慢すればいい。出来る子にとって無意味でも、出来ない子には有効なのだから。」
となる。
「出来る子重視」vs「出来ない子を救う」という様相になってしまうと、順序論争の核心からずれてしまうことになると思う。
私としては、「最初の掛け算の導入部分を除いて、基本的にかけ算の順序は有害無益」という立場ですが、これを正当化する十分な材料はない。
だから、まずは「少なくとも、理解してしまった子に対しては無意味。高学年の児童には無意味」と言う具合に
「本当は全部でそうだと思うけど、まずはこの部分に関して陣地を確保して、やがて解放区を徐々に広げて」という戦術だったのですが、うまくいかなかったようです。
>そのことが、積分定数さんのおっしゃる「対称性」の意味だと思います。
まさにその通りで、個数のみならず、速さと時間などでも、(1つあたり)と(いくつ分)を明確に決定することは出来ない。
「4×3と3×4は答えが同じでも意味が全く違う」などというのは、表面しか見ていないからであって、深く追求すれば、「計算結果が等しい」というレベルではなく、両者は全く同じであることが理解できる。
この境地にまで行くと、一方の順序を強要することは数学に対する冒涜にも思える。
ただし、何せ小学生に掛け算を教えた経験がないので、現実に教えている人が「順序はこういう点で有効なんだ」と言われれば、その事実をまずは認めるしかない。
>この問題についての明快な回答はまだなかったように思いますが、積分定数さん、どうでしょう。
この点以外にも私の問いかけへの明確な回答がないようにも思えるのですが、
現実に小学生に算数を教えている人と、数学を高度に抽象化された美しい世界のように捉えている私との違いであるのかな、と思っています。
ただ気になるのは、
「躓く子には順序は有効。理解できる子には順序は不要だけど、強要されてもそれはそれで対応できる」
というが、
「順序を強要する結果、躓いてしまう子」はいないのだろうか?
理解力がない子が一生懸命考えて、4人に3こずつ蜜柑を配る具体的情景を思い浮かべ、「各自に1個ずつ、・・・で、4が3つだ。確かこれは、4×3とするんだな」と考えて、4×3にする。
こういうことは絶対にないのだろうか?
「3×4でも4×3でもどっちでも本質的に同じだ」とわかる子は理解力のある子で、理解力のある子にバツを付けたところで大した問題はない
と仮定しても、
理解力のない子が、正しい理解に基づいて4×3とした場合に、
それにバツを付けることで、その子が算数を好きになったり理解を深めるとは、とても思えない。
遠山啓の回答
積分定数さん、レスありがとうございます。
この問題についての明快な解答は遠山啓によって与えられていると思っています。
そのことにふれて、せとともこさんのところへコメントを書きました。
この問題についての明快な解答は遠山啓によって与えられていると思っています。
そのことにふれて、せとともこさんのところへコメントを書きました。
うちゃさん
ごぶさたです。
コメントをありがとうございました。
「バベルー17」って読んだことのない小説です。
うちゃさんご推薦の本は面白いので、ぜひ読んでみたいのですが、どうも見る限り絶版ですね。
こっちのブックオフにあるかどうかはどうにも怪しいですが、とりあえずさがしてみます。
確率の問題の件:大正解どす。(うちゃさんには簡単すぎやね)
コメントをありがとうございました。
「バベルー17」って読んだことのない小説です。
うちゃさんご推薦の本は面白いので、ぜひ読んでみたいのですが、どうも見る限り絶版ですね。
こっちのブックオフにあるかどうかはどうにも怪しいですが、とりあえずさがしてみます。
確率の問題の件:大正解どす。(うちゃさんには簡単すぎやね)
さつきさん 積分定数さん
まとめレス失礼いたします。
ご説明ありがとうございました。
>さつきさん
なるほど、やはり「便宜」として了解なさったということでよろしいでしょうか。
さすが科学者のさつきさんと専門家?の積分定数さんのお話は高度で面白い。
>積分定数さん
私の問題意識は単に「ペケはひどい」ということだけなので(笑)、積分定数さんのお話について行ききれないところがあって大変悔しい思いをさせていただいております。
この話題に限らず、またぜひコメントをお寄せください。
よろしくお願い申し上げます。
ご説明ありがとうございました。
>さつきさん
なるほど、やはり「便宜」として了解なさったということでよろしいでしょうか。
さすが科学者のさつきさんと専門家?の積分定数さんのお話は高度で面白い。
>積分定数さん
私の問題意識は単に「ペケはひどい」ということだけなので(笑)、積分定数さんのお話について行ききれないところがあって大変悔しい思いをさせていただいております。
この話題に限らず、またぜひコメントをお寄せください。
よろしくお願い申し上げます。
No title
対称性とか美しさとかは、この間あらためて考える中でわかってきたことです。わたしも最初は、「えっ、それでバツなの?」という素朴な驚きがきっかけでした。
確率の問題
といえば、こんなのも思い出しました。
三つの箱の中に一つだけ当たりが入っていて、残りの二つは空です。
どれか選んでください、と言われたので一つを選びました。
そうしたら、相手はあなたが選んでいない二つの箱のうち、空箱を一つ選んで開けて見せてくれました。
さて、あなたはもう一回箱を選べます。残った二つのうち、最初に選んだ方と、選ばなかった方、どちらの方が当たりの確率が高いでしょうか?
三つの箱の中に一つだけ当たりが入っていて、残りの二つは空です。
どれか選んでください、と言われたので一つを選びました。
そうしたら、相手はあなたが選んでいない二つの箱のうち、空箱を一つ選んで開けて見せてくれました。
さて、あなたはもう一回箱を選べます。残った二つのうち、最初に選んだ方と、選ばなかった方、どちらの方が当たりの確率が高いでしょうか?
バツをつけたあと
>積分定数さん
>「順序を強要する結果、躓いてしまう子」はいないのだろうか? <
バツをつけたあと、どう指導しているのでしょうね? ネットに挙がった「逆にしてバツつけられた」事例、その後教師に説明されて納得した、とは聞かないんですよね。バツにされた子が果たして理解できてない子だったかどうか、も不明です。
>「順序を強要する結果、躓いてしまう子」はいないのだろうか? <
バツをつけたあと、どう指導しているのでしょうね? ネットに挙がった「逆にしてバツつけられた」事例、その後教師に説明されて納得した、とは聞かないんですよね。バツにされた子が果たして理解できてない子だったかどうか、も不明です。
>バツをつけたあと
一般論として、バツを付けることの教育的効果がある場合もあるとは思うのです。
例えば、本人は理解していてそれが採点する側もわかっているが、字が雑でbと6が判別できない(実際多い)生徒がいたときに、
「両者を他人が見ても区別できるように、かき分けろ」と何度指導しても直らない場合に、心を鬼にしてバツを付けることで、この部分を尚させる、
というようなことです。
かけ算の順序でバツにするのは、どんな意味があるのだろうか?順序も(1つあたり)、(いくつ分)も、数学的には全く無意味でむしろ有害無益な存在である。
そして、抽象的視点からみたら、3×4と4×3は同じである。
「そのような抽象思考の出来る児童jは構わないのだが、そうではない多くの児童には、何がいくつ分か、と考えさせるために順序の指導が不可欠」
と言われる。
しかし、教員自身が
■(いくつ分)×(1つ分)にしてはいけない、というルールがある
■前半の単位=答えの単位というルールがある
などと勘違いして、順序を「正しく」lかかせる事自体を目的にする教え方もある。
そうであれば、順序の指導が有効とされる、理解力のない生徒が、「バツを付けられないために、問題文をよく見て、何が1つ分で何がいくつ分かをよく見極めよう」となるだろうか?
これまたバツを付けられないこと自体が目的となって
「前半の単位=後半の単位」だとか、「問題文に『ずつ』とあったら、1つ分で前の来る。」だとか、
結局、些末なテクニックを身につけるだけな気もする。
「理解できている子と出来ていない子を判断する材料」ならまだしも、
「バツを付けることで、理解していない子、考えない子が、考えて理解するようになる」とはとても思えない。
塾の生徒には、小学校時代、順序をうるさく言われた/言われなかったの両方のケースがあるようだが、
私から見る限り、そのことによる差異は特に感じない。
私の塾の生徒だけではあまりに事例が少なすぎるが、順序を指導した場合としなかった場合で、追跡調査した場合に、数学の理解で何らかの差が生じるものだろうか?
大いに疑問である。
例えば、本人は理解していてそれが採点する側もわかっているが、字が雑でbと6が判別できない(実際多い)生徒がいたときに、
「両者を他人が見ても区別できるように、かき分けろ」と何度指導しても直らない場合に、心を鬼にしてバツを付けることで、この部分を尚させる、
というようなことです。
かけ算の順序でバツにするのは、どんな意味があるのだろうか?順序も(1つあたり)、(いくつ分)も、数学的には全く無意味でむしろ有害無益な存在である。
そして、抽象的視点からみたら、3×4と4×3は同じである。
「そのような抽象思考の出来る児童jは構わないのだが、そうではない多くの児童には、何がいくつ分か、と考えさせるために順序の指導が不可欠」
と言われる。
しかし、教員自身が
■(いくつ分)×(1つ分)にしてはいけない、というルールがある
■前半の単位=答えの単位というルールがある
などと勘違いして、順序を「正しく」lかかせる事自体を目的にする教え方もある。
そうであれば、順序の指導が有効とされる、理解力のない生徒が、「バツを付けられないために、問題文をよく見て、何が1つ分で何がいくつ分かをよく見極めよう」となるだろうか?
これまたバツを付けられないこと自体が目的となって
「前半の単位=後半の単位」だとか、「問題文に『ずつ』とあったら、1つ分で前の来る。」だとか、
結局、些末なテクニックを身につけるだけな気もする。
「理解できている子と出来ていない子を判断する材料」ならまだしも、
「バツを付けることで、理解していない子、考えない子が、考えて理解するようになる」とはとても思えない。
塾の生徒には、小学校時代、順序をうるさく言われた/言われなかったの両方のケースがあるようだが、
私から見る限り、そのことによる差異は特に感じない。
私の塾の生徒だけではあまりに事例が少なすぎるが、順序を指導した場合としなかった場合で、追跡調査した場合に、数学の理解で何らかの差が生じるものだろうか?
大いに疑問である。
遠山啓の考え
「かけ算の順番」について、遠山啓がどう考えていたか、私のブログに3回シリーズの記事を書きました。
もともと、遠山自身が、「かけ算の順番」は奥の深い問題だと書いていて、一筋縄ではいかないことがわかっていましたので、書くかどうか迷ったのですが、とりあえず彼の考えについての誤解だけは正したいというのが動機です。
http://blogs.yahoo.co.jp/satsuki_327/33805606.html
http://blogs.yahoo.co.jp/satsuki_327/33821691.html
http://blogs.yahoo.co.jp/satsuki_327/33829641.html
>とらこさん、
ヨーロッパ言語の数詞の数え方が十進法になっていない件、
遠山の『量とは何か I』の中に書いてあるのですが、ヨーロッパのいくつかの国では、戦後、このことを深刻に考えた数学者達を中心に、数詞の数え方を根本から転換しようとの試みがなされたそうです。結果、大人たちに受け入れられずに失敗したそうですが、一番の当事者達が深刻な問題と受け止めていたことは確かだと思います。
もともと、遠山自身が、「かけ算の順番」は奥の深い問題だと書いていて、一筋縄ではいかないことがわかっていましたので、書くかどうか迷ったのですが、とりあえず彼の考えについての誤解だけは正したいというのが動機です。
http://blogs.yahoo.co.jp/satsuki_327/33805606.html
http://blogs.yahoo.co.jp/satsuki_327/33821691.html
http://blogs.yahoo.co.jp/satsuki_327/33829641.html
>とらこさん、
ヨーロッパ言語の数詞の数え方が十進法になっていない件、
遠山の『量とは何か I』の中に書いてあるのですが、ヨーロッパのいくつかの国では、戦後、このことを深刻に考えた数学者達を中心に、数詞の数え方を根本から転換しようとの試みがなされたそうです。結果、大人たちに受け入れられずに失敗したそうですが、一番の当事者達が深刻な問題と受け止めていたことは確かだと思います。
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3 x 4の英語での読み方
アメリカの大学院に留学したことがありますが、"3 x 4"はthree by fourと読んでいました。three times fourは少なくとも講義ではほとんど聞きませんでした。高等教育までの、どこかの学年で入れ替わるのでしょうね。
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かけ算の順番についてツラツラと考えました
いつものように、いろんなサイトをROMしていたら東海林さだおがいいなぁのブログ主
ネタ切れに付き、かけ算の順序について
最近かけ算の順序にこだわる教師が多いそうです。あちこちでこんな問題が起きているようです。リンク先から相談内容を引用してみます。「ピーマンを9袋買いました。どの袋にもピ...
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プロセス重視っていうけど、なんか悪しき形式主義のような気がするな。