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  • 「異形なものたち」についての哲学とファッション|下西風澄×藤嶋陽子

    2021-12-01 07:00  

    本日のメルマガは、哲学者・下西風澄さんとファッション研究者・藤嶋陽子さんとの特別対談をお届けします。「ファッション」への期待や身体をめぐる自意識は、現代の情報環境下でどのように機能している(してしまう)のか。自身の身体像に対する等身大の悩みから、数世紀規模でのファッションと身体の移り変わりまで、研究者の視点から語っていただきました。(司会:徳田要太・中川大地、構成:徳田要太)
    「異形なものたち」についての哲学とファッション|下西風澄×藤嶋陽子
    ファッションと実存とのかかわり
    ──現在PLANETSでは「遅いインターネット計画」という運動を1年以上続けており、「速すぎる情報の消費速度と、それを半ば強いるようなSNSのコミュニケーションがデフォルト化した情報社会に対して、どのように自分なりの距離感を図り直すか」という問題提起をし、これまで「書く」「走る」などの切り口からさまざまな発信を行ってきました。
     今回は「着る」ということをテーマに、個人の欲望がネット上の広告やマーケティング戦略に特に利用されがちなファッションについて議論したく、Webマガジン「遅いインターネット」で連載中の「横断者たち」にもご登壇いただいたファッション研究者・藤嶋陽子さんと、ファッションスクールでの非常勤講師の経験もお持ちの哲学者・下西風澄さんとの対談を企画しました。はじめにお二人の簡単な経歴からお伺いできればと思います。
    藤嶋 はい。私はファッション研究を専門としていて、もともとはミュージアム、ファッションショーといった空間メディアが果たしてきた役割の歴史的変遷を研究していました。最近では、下西さんも所属していた佐倉研(東京大学大学院情報学環、佐倉統研究室)の関連から、AIなど先端テクノロジーがファッションのような産業構造にどのような影響を与えるのか、あるいはそのなかでファッションに対する人々の欲望や価値観はどのように変化するのか、といったことも研究として向き合うようになったところです。下西さん、本当にお久しぶりです。
    下西 お久しぶりです。今日はよろしくお願いします。僕も簡単に自己紹介をすると、大学院の博士過程で哲学、特に現象学と言われる分野を中心に研究していました。意識や身体にフォーカスした研究、あるいは認知科学やAIといったサイエンスのほうからの身体へのアプローチも含めた融合領域に関心を持って研究をしていました。そのなかで、そういったテクノロジーは単なる技術的な問題ではなく、歴史の中で思想として紡がれてきたものだということにだんだんと気づき始めました。その後大学院を辞め、今は哲学史や文学史の中で、いま言った人工知能も含め人間の意識や身体がどのように形成されてきたのか、というようなことを執筆しています。
     ファッションはまったく素人なんですが、もともと身体論や意識論といった領域を扱っていたこともあり、エスモード・ジャパンというファッションスクールで非常勤講師をしたり、山縣良和さんらの運営するファッションデザイナーの学校で講師や講評をする機会があったり、ファッションについて語る機会はこれまでにも少しありました。
    ──ありがとうございます。藤嶋さんは文筆家としても活動されていて、特に「見た目の多様性」をめぐる言説について独自の問題提起をされてきたと思います。「ボディポジティブ」のムーブメントを切り口に、一見マイノリティを尊重しているようにみえながらも、そこにはまた別の疎外感も生まれているんだという指摘が非常に興味深かったのですが、具体的にどんなことを扱っていたのか紹介していただいてもよろしいでしょうか? 
    藤嶋 この問題に対しては研究として向きあってきたというよりは、自分自身が当事者として感じたところを出発点に、ご縁があって書きはじめました。6年ほど前、私はダイエット真っただ中で、減量に加えて美容整形を体験したりと、ものすごく容姿に執着していました。その執着というのは、「きれいになりたい」という想いはもちろん前提としてあるのですが、それ以上に、容姿を磨くことにすごく労力をかけてきた自分に対する達成感と、それを認めてほしいという気持ちが強くあったんです。
     こういった体験があって、「ボディポジティブ」のようなプラスサイズなど多様な身体をポジティブに受け止めようといったムーブメントのなかで、自分が置いていかれてしまった気がしました。というのは、私は自分の容姿を変えるために必死の努力をしてきた分だけ、そのままの自分の身体像とうまく向き合うことができ、ポジティブに捉えることができる方たちが前面に出てきたときに、自分がすごく弱い存在であるように感じてしまったんです。かつて私が自分の容姿を受け入れられなかったのは、そうするだけのキャパシティがなかったからなのではないか、自分の醜い執着心だったのではないかと感じるようになってしまって。ボディポジティブのムーブメントは素晴らしいことだと思う一方で、自分の弱さを強く意識してしまいました。
     そういった実体験があって、『現代思想』の特集「フェミニズムの現在」で書かせていただいたのは「容姿を変えることが救済になっている人たちもいるのではないか」「容姿を変えたいという願いそのものは尊重してもいいのではないか」ということです。容姿を磨くことが自分の人生の成功につながった人、それが生きがいになっている人たちもいるなか、「現在の容姿をありのままで受け入れる」と唱えることもある種の分断に繋がっているのではないかとも思いました。たとえばボディポジティブを題材とした歌の中でも、「スキニービッチ」といった言い方をして、容姿にこだわることやモデル体型であることを揶揄するような表現もありました。どちらが美しいのかという問題ではなくて、自分にとっての容姿との付き合い方や受け入れ方、それぞれの塩梅があるといった捉え方をしてもいいのではないかなと感じています。

    下西 そういった問題について僕からは実存主義の観点からお話しすると、「ありのままなんてものは人間にはないんだ」というのがこの思想の出発点なんです。戦後のヨーロッパ、特にフランス・パリから広まった考えで、当時サルトルが言っていたことは「ありのままの本質なんてものはそもそも人間にはないんだから、自分で自分の生き方を選んで引き受けるんだ」というところから始まりました。
     だから、自分の生得的な身体を実存として引き受けて生きられるのであればそれでいいんだけれど、なんらかの外部──資本やメディアによって与えられるものを内在化しようとするのであれば、それは権力や市場の側からみれば、ある種の収奪の対象になっている。たとえば容姿についても「こういう見た目が美しい」という外部から与えられた規範で実存を満たしていても、そのブームが去ってしまう、あるいは部分的にでも否定されてしまうと、そのことを肯定できなくなってしまう。身体イメージに限ったことではないですが、そういうふうに「いかに生きるべきか」といったことの自己決定権を他者に委ねることの問題が、副作用として生じているのではないかと思います。

     また身体という点を深掘るならば、たとえばミシェル・フーコーは人間の身体というのは、常に権力によって形作られ続けてきたというふうに考えました。身体とは生まれつき与えられたものというよりも、いくらでも変容されうるものなんだと。身体はたしかに原初に与えられている。だから僕たちは、布団のなかで身を縮めているときも、世界の果てまで行くときも、あるいは海辺で美しい風景を見ているときも、どんなところにも行けるんだけれど、それはいつでもこの身体と共にでなければならない。身体からは絶対に離れることはできないということで、フーコーは身体を「過酷な場」というふうに言ったわけです。
     しかし一方で、身体というのは、自らの意思で変容可能なものでもある。たとえば谷崎潤一郎が『刺青』という刺青師をテーマにした短編を書いていて、そこで描かれたのは、彫師が身体に「刺青」を掘ることで別の宇宙が刻まれ、その身体は別の場所に行けるんだというようなことです。だから身体というものは、与えられたものであると同時に、そこに別の宇宙を記述して変容していく自由度も持っている。谷崎を引用するフーコーは、場所に規定された身体と、非場所という自由を持った身体の両面を、また権力に規定される身体と、自らの意志で変容可能である身体の両面を見ていたし、おそらくファッションはこのあたりの問いに関わるものであるはずです。
     そういう意味では、身体に何かを装うとか、変容させるとかいうことは、虚構をそこに作り出すことでもあるわけですよね。であるならば「ありのままの自分」がことさらに主張されるというのは、ある意味では虚構の衰退でもあるわけです。寺山修司は「女は化粧をすることによって、虚構によって現実を乗り越えようとしている」と言いましたが、「ありのまま」という考えは、人をこの唯一の現実に束縛することでもあります。そしてこの現実しかないということが逼迫感や閉塞感のようなものを作り出しているのだとすれば、それに対して別の形でそこに虚構をもう一度作り出すことで生き直すことができるのが人間の生き方の自由さでもあるはずで、それはフーコーが処方箋として主張していたことでもあります。「ありのまま」ということが、本当に「もともと与えられた身体」という意味であれば、人間は閉塞するしかないでしょう。だから、そこでいかにして別の宇宙にアクセスする可能性を持つのかという視点がないと、ファッションだけではなく文化というものは衰退していかざるを得ないというふうに思います。

    藤嶋 昔、とある美容整形のCMが「あと1ミリわたしの鼻が高かったら世界は変わるかもしれない」というような表現をしていました。そこでは自分の環境がよりよくなる可能性を与える手段としての容姿があって、あり得たかもしれない別の自分の可能性、いわば下西さんのおっしゃった「虚構」への期待を煽るような形で刷り込んでいるのではないかと感じていました。
     また最近Netflixで視聴した、片付けコンサルタントとして知られるこんまりさんの『Sparking Joy』という番組では、サイズの合わなくなった大量の洋服を片づけられない人が登場するのですが、それは単に「もったいないから」という理由ではなく、「いつかそれが似合う自分になれるかもしれない」という期待からでした。自分の中で思い描いている身体像、自分の可能性を手放したくなくて持ちつづけているのではないかと思いました。最終的には、こんまりさんの導きで大量に服を廃棄することで悩みが解決するんですが、それは自分自身の現状や現実を受け止めるようなプロセスでもあったのではないかと思ったんです。
     つまり、過剰な可能性への期待が自分を苦しめていて、それを手放し現実的な自分を受け入れることが苦しみからの解放となる。でも一方で、「じゃあTシャツとデニムだけでいい」と開き直ったら、自分自身の可能性に感じる喜びや服を買うこと自体の楽しみといったことも手放して、逆に自分の欲望をふさぎ込むことになってしまう。そのバランスが難しいと感じます。
    下西 さきほどサルトルの話をしたとき、自分の実存は自分で選び取るものだと言いましたが、僕はそれを全面的に肯定しているわけでもなくて。つまりこれは、かなり厳しい思想でもあるんです。果たして人間がどれだけ実存を自己決定し、その責任を引き受けられるだけの強い主体でいることに耐えられるかというと、僕は耐えられないと思う。特に、グローバル化やインターネットが常識になった現在では、一方で独立した主体の不可能性が即物的に加速すると同時に、それゆえ逆説的に主体であることの要請が増大して、その矛盾がますます強くなっている時代だと思います。強い主体になりきれない者たちが、過剰な商品や過剰な言説・コミュニケーションに接続することで、本人は一時的には救われます。でも他方で、それを管理する側からすれば、容易に人間の実存が消費のネタになるような状況が生まれている。自分の実存を必ず自分が決めなければならないというような強い意志を持つことは、逆に完成されない自己の傷口と隙間を生むことでもあって、何らかの自分の弱さが突き付けられてその弱さを補うためのものが現れれば簡単に依存してしまうような状況が起こりえます。だから僕たちは、自分で自分のことを完全に決定するというモデルそのものを考え直さなくてはいけない段階にあるのかなと思っています。もちろんそれは簡単なことではないですが、まずはそのことを認めることが最初の一歩になるのではないかと思います。
    ファッションが指し示す「身体」の両義性
    下西 そこで、僕がファッション業界の人たちと話すようになっておもしろみを感じたのが、ファッションというのは服だけの話ではないんだということです。山縣良和さんが話していたのは、日本語には「ファッション」の訳語はないんだけれど、中国だと「時装」すなわち「時の装い」というふうに訳されると。ファッションという言葉の語源は「fasces(ファスケス)」と言って、古代ローマ帝国で斧に木を束ねた権力の象徴物で、「束ねる」という意味を持っていました。そしてファッションと同じく「fasces」を語源として生まれたもう一つの言葉が「fascism(ファシズム)」です。つまりファッションは、一方では自分の固有の身体が持っているものの表現ではあるんだけれど、同時に不可避的に他者たちとの共生に開かれた/巻き込まれたものでもある。山縣さんはそれを「状況の前衛」だというふうにも言いますが、自分の身体はただ一個だけ宇宙の中にぽつんと存在するのではなく、さまざまなものへアクセスし、他者に伝播しながら作られているようなものだという発想が、自分にとっては発見で「なるほどおもしろいな」と思ったんです。    つまり、一人の人間に決められることはものすごく限られているし、一人の人間の個性とか生来的に持っているものなどは、それが接続している環境や文化全体に対してはるかに矮小であると。それをどういうふうに自分とは異質なものとアクセスさせたり混ぜ合わせたりしていくかという相互作用の中にこそ本当の表現が生まれているのであって、むしろ自分で自己決定しなければいけないという考えのほうが幻想であるということです。「ファッション=服」という考え方も、「この私」「この身体」で閉じられていると思い込むからそう考えられてしまうのであって、むしろこの身体を形作る膨大なコンテクストの一部として捉えるという発想もあるわけです。たとえば実際、ネットに自撮りがアップされているとして、それが全身像だったとしてもその人がほかにどんな人とかかわっているかとか、どんな活動をしているかといった全体を見なければその人のことはわからないわけですよね。ファッションはそういう意味で、単に一個の身体を纏う衣服ではなく、その人をとりまくさまざまな関係性や状況をふくんだ総合的な人間像の芸術でもあるわけです。
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