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記事 24件
  • 本日20:00から放送!宇野常寛の〈木曜解放区 〉 2019.6.28

    2019-06-28 07:30  
    本日20:00からは、宇野常寛の〈木曜解放区 〉

    20:00から、宇野常寛の〈木曜解放区 〉生放送です!〈木曜解放区〉は、評論家の宇野常寛が政治からサブカルチャーまで、既存のメディアでは物足りない、欲張りな視聴者のために思う存分語り尽くす番組です。今夜の放送もお見逃しなく!
    ★★今夜のラインナップ★★メールテーマ「奇跡の出来事」今週の1本「さらざんまい」アシナビコーナー「井本光俊、世界を語る」and more…今夜の放送もお見逃しなく!
    ▼放送情報放送日時:本日6月28日(金)20:00〜21:30☆☆放送URLはこちら☆☆
    ▼出演者
    ナビゲーター:宇野常寛アシスタントナビ:井本光俊(編集者)
    ▼ハッシュタグ
    Twitterのハッシュタグは「#木曜解放区」です。
    ▼おたより募集中!
    番組では、皆さんからのおたよりを募集しています。番組へのご意見・ご感想、宇野に聞いてみたいこと、お悩み相談
  • 宇野常寛 匿名の風景に浮かび上がる不器用な"顔立ち"――なぜ写真家・小野啓は思春期の生徒を追ったのか(PLANETSアーカイブス)

    2019-06-28 07:00  

    今朝のPLANETSアーカイブスは、宇野常寛が写真家・小野啓さんの写真集『NEW TEXT』に寄稿した文章をお届けします。10代の少年少女たちのポートレイトを撮りためた作品から見える、カメラフレームを通じた切断的な関係性による目論見とは――?(初出:NEW TEXT 小野啓 写真集) ※この記事は2014年1月23日に配信された記事の再配信です。
    ▲小野啓 『NEW TEXT』
     小野啓の写真、とくに本書に収められたようなティーンのポートレイトを目にしたときに感じるどうしようもないみっともなさと、同時に込み上げてくるたまらない愛しさについてここでは考えてみたいと思う。小野が写した少年少女たちの「顔」たちは、みんなどこか不器用で、ナイーブで、しかしその不器用さとナイーブさに自分では気付いていない。一見、自分は図太く、ふてぶてしく生きているよ、という顔をした少年少女の小憎らしい笑顔も、小野のカメラを通すと狭く貧しい世界を我が物顔で歩いている生意気で、そして可愛らしいパフォーマンスに見えてしまう。「応募者すべてを撮影する」というルールを自ら定めている小野の作品群は、思春期の少年少女が不可避に醸し出す不格好さを切り取ることになる。自らのカメラが写してしまうものについて、小野は彼が定めたもうひとつのルール――「笑顔を写さない」から考えても極めて自覚的だと思われる。その結果、僕ら中途半端に歳をとってしまった人間たちは、その不器用さや狭さにかつての(いや、もしかしたら今の)自分の姿を発見して苛立ち、痛みを覚え、そして愛さずにはいられなくなるのだ。  
     
     もう10年ほどまえ、地方都市の「風景」の画一化が問題化されたことがあった。中央の大資本がロードサイドの大型店舗というかたちで地方の進出し、その風景を北は北海道から南は九州まで画一化していく――そう、現代は場所から、風景から「意味」が失われはじめた時代だとも言える。 
     本書に収められた小野の写真たちからは(おそらくは意図的に)匿名的な風景が選ばれている。これらの写真はいずれも「どこでもない場所」であり、同時に「どこにでもある」場所である。理由は明白だ。思春期という時間は風景を見ることを拒絶するからだ(少なくとも小野はそう感じているのだろう)。そこがいかなる歴史を持ち、伝統をもち、自然と対峙してきたかは彼らの世界の狭さによって無意味化されてしまう。 
     そして「学校」という彼らの生活を規定する舞台装置は、同時にこの社会においてもっとも強く「風景」をキャンセルする装置でもある。(その意味においてはこの時期語られていた地方の風景の画一化とは社会の「教室化」「学校化」とも言える。) 
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  • 脚本家・井上敏樹エッセイ『男と×××』第49回「男と食 20」【毎月末配信】

    2019-06-27 07:00  

    平成仮面ライダーシリーズなどでおなじみ、脚本家・井上敏樹先生のエッセイ『男と×××』。ビールの一気飲みはできないが、鮎と鮑の一気食いならできるという敏樹先生。鮎料理の逸品を食べにでかけた銀座の店で遭遇した、とある美女のエピソードに思いを馳せます。
    男 と 食  20      井上敏樹 
    さて、別にいい子ぶるわけではないが、私は金で女を買う事が出来ないタイプの男であり、また、ジョッキの生ビールの一気飲みが出来ない。何も関係がないではないか、と言われそうだが、このふたつの事柄は私の中でイメージが一致している。まず、私は見ず知らずの女性と性的関係を結ぶのが恐ろしい。相手がどんな闇を抱えているか分からない。行為の最中、怪人に変身したら、どうやって戦えばいいのか。また、こういった心配を一切無視してデリヘルとかで女性を部屋に呼んだとしたら、私は大層気を使うであろう。派遣の女性が不快にならぬよう、普段は足の踏み場もない部屋の掃除をする。シーツを替える。新しいタオルを用意する。お茶をいれる。ケーキも出そう。全く面倒この上ない。
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  • 與那覇潤 平成史ーーぼくらの昨日の世界 第5回 喪われた歴史:1996-97(前編)

    2019-06-26 07:00  

    今朝のメルマガは、與那覇潤さんの「平成史ーーぼくらの昨日の世界」の第5回をお届けします。1996年、日本の戦後史を象徴する3人の歴史家(丸山真男、高坂正堯、司馬遼太郎)が逝去。以降「歴史の摩耗」は止めどなく進行します。今回は「歴史」が生きていた最後の時期――自社さ連立政権時代を振り返ります。
    「戦後の神々」の黄昏
     後世にも歴史学という営みが続くなら、平成9年(1997年)は「右傾化の原点」と記されるかもしれません。同年1月、西尾幹二会長・藤岡信勝副会長の体制で「新しい歴史教科書をつくる会」が発足(創立の記者会見は前年末)。5月には既存の保守系二団体が合同して「日本会議」が結成されます。また96年10月の最初の小選挙区制での衆院選に自民党(橋本龍太郎総裁)が勝利して以降、社民党と新党さきがけは閣外協力に転じていましたが、新進党からの引きぬきにより97年9月に自民党は衆院で単独過半数を回復、社さ両党の存在感が消えました(翌年に正式に連立解消)。
     しかし一歩ひいた目で眺めると、「つくる会」とその批判者が繰りひろげた論争にもかかわらず、この平成ゼロ年代の末期は歴史が摩耗していく――「過去からの積み重ね」が社会的な共通感覚をやしなう文脈として、もはや機能しなくなる時代の先触れだったように思えます。その象徴がいずれも1996年に起こった、3人の「歴史家」の逝去でしょう。すなわち東大法学部に日本政治思想史の講座を開いた丸山眞男(享年82歳)、京大で独自の国際政治学をうちたてた高坂正堯(62歳)、小説のみならず紀行文や史論でも知られた歴史作家の司馬遼太郎(72歳)です。
     戦後の前半期、思想史家としての本店のほかに「夜店」として数々の政治評論をものし、60年安保の運動も指導した丸山は「戦後民主主義の教祖」のイメージが強く、かえって生の肉声が知られていないところがあります。近年活字化された録音テープを基に、平成初頭の彼の発言を聞くと、そうした先入見とは違った意外な姿が見えてきます。
    「マスコミはひどいですよ、『社会主義の滅亡』とか『没落』とかね。……第一に理念と現実との単純な区別がない。これは戦後民主主義〔の場合〕と同じです。現実の日本の政治のことを戦後民主主義と言っているわけだ。どこまで戦後民主主義の理念というものが現実の政治の中で実現されているのか、現実政治を測る基準として、戦後民主主義で測っているのか、というと、そうじゃないわけです」[1](1991年11月)
     これ自体は「教祖」らしい発言です。戦後民主主義というとき、たんに実態として戦後、いかなる政治が展開されたかを追うだけでは意味がない。そうではなく価値の尺度――言語化された理念として、むしろ批判的に現実と対峙してきた思想の営みこそを「戦後民主主義」と呼ばねばならない。しかし重要なのは、当時盛んに言われた「社会主義の滅亡」に対しても、同じ態度が必要だと丸山が主張している点です。眼前に崩壊しつつあったソビエト連邦の現実とは異なる、理念としての社会主義をみなければ意味がないというわけですね。
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  • 【全文無料公開】サードプレイスとして地方を考える 奥能登の農村×NPO法人ZESDA

    2019-06-25 07:00  

    全国でも稀有な「地方創生」の成功例として注目を集める石川県・奥能登の「春蘭の里」。その復活劇の裏には、NPO法人ZESDA(東京のプロボノ集団・パラレルキャリアで活動中)との連携がありました。 グローカリゼーションによる地方創生を掲げるNPO法人ZESDAが開催した石川県・奥能登の「春蘭の里」PRイベントに、宇野常寛が登壇しました。昨年PLANETS編集部も取材旅行でお邪魔した同地の「地方創生」について、美味しいお食事とともに改めて考えました。今回はこちらのイベントレポートをお届けします!
    【関連記事】 奥能登の知られざる魅力を満喫! 奇跡の地方創成モデル「春蘭の里」訪問記 前編 | 後編今、本当に「地方」を「創生」する条件とは?(NPO法人ZESDA主催「山菜の、知られざる魅力」イベントレポート)
    プロローグ
    2019年4月某日、都内のとあるビルの3F。宇野常寛とPLANETS編集部
  • 宇野常寛 NewsX vol.35 ゲスト:松谷創一郎 「なぜJ-POPはK-POPに勝てないのか」【毎週月曜配信】

    2019-06-24 07:00  

    宇野常寛が火曜日のキャスターを担当する番組「NewsX」(dTVチャンネルにて放送中)の書き起こしをお届けします。5月21日に放送されたテーマは「なぜJ-POPはK−POPに勝てないのか」。ライター/リサーチャーの松谷創一郎さんをゲストに迎え、近年のK-POPの人気の要因を分析しながら、J-POP、特に2010年代前半に隆盛した日本のアイドルカルチャーが、なぜK-POPに勝てなかったのかについて考えます。(構成:佐藤雄)
    NewsX vol.35 「なぜJ-POPはK−POPに勝てないのか」 2019年5月21日放送 ゲスト:松谷創一郎(ライター/リサーチャー) アシスタント:得能絵理子
    宇野常寛の担当する「NewsX」火曜日は毎週22:00より、dTVチャンネルで生放送中です。 番組公式ページ dTVチャンネルで視聴するための詳細はこちら。 なお、弊社オンラインサロン「PLANETS CLUB」では、放送後1週間後にアーカイブ動画を会員限定でアップしています。
    J-POPとK-POPの世界地図
    得能 火曜NewsX、今日のゲストはライター・リサーチャーの松谷創一郎さんです。松谷さんと宇野さんはどのようにお知り合いになられたんですか?
    宇野 10年程前から僕がプロデュースしている媒体で書いてもらっています。昔は映画関係の原稿をお願いすることが多かった。それと今日のテーマのように音楽や芸能関係で出てもらっています。松谷さんが『ギャルと不思議ちゃん論』という本を出した時に対談したりといった付き合いがあります。10年程一緒に仕事をしていて、僕がすごく信頼している書き手の1人です。
    得能 今日は「なぜJ-POPはK-POPに勝てないのか」というテーマになっております。
    宇野 仕事でよくアジアに行くんですが、お店に入るとほぼK-POPがかかっています。
    松谷 アジアというと例えばどの国ですか?
    宇野 香港や台湾、シンガポールです。K-POPがかかっていたことを日本に帰ってきて話すと年上の人から、90年代にはそういった所ではJ-POPがかかってたという話を聞きます。現状を目の当たりにすると、少なくとも対アジアの戦略においてはK-POPがJ-POPを圧倒していると思わざるを得ない。一方でこの国はクールジャパンの掛け声の下にJ-POPやアイドル、そして日本食やアニメといったソフトパワーで世界に存在感を示しそうとしている。けれどもそれが完全に空回っている事も周知の事実。クールジャパンという言葉をポジティブに使うことが非常に難しい状態になってしまった。そういった現状を踏まえた上で「なぜJ-POPはK-POPに勝てないのか」というテーマで松谷さんのお話を聞いてみたいと思います。
    得能 1つ目のテーマは「J-POP対K-POPの現状」です。
    宇野 今回は「なぜJ-POPはK-POPに勝てないのか」というテーマにしました。最初のセクションではそもそも何をもって勝ち負けが決まるのか、というところから話を始めて、J-POPとK-POPの比較を行ってみたいと思います。
    松谷 「J-POP」という言葉ができる前の比較軸は洋楽と邦楽でした。邦楽は常に洋楽に劣ったものと認識されていました。この時の「海外」はイコール欧米で、音楽に限らず日本と海外を比較した時に、日本側には常に欧米コンプレックスがあった。その前提で洋楽と邦楽を比較しています。「洋楽」というのも基本はイギリスとアメリカで、一部フランスなどです。90年代後半にJ-POPがものすごく盛り上がったんです。98年が日本の音楽産業のピークでもあり、浜崎あゆみさん、椎名林檎さん、宇多田ヒカルさんが活躍していた時期であり、安室奈美恵さんが産休に入っていた頃です。ここからJ-POPは落ちていきます。最盛期から今までの間で20年ほど経っています。その間に出てきたのが洋楽でもJ-POPでもない第三項、K-POPだったわけです。韓国がどんどんカッコ良いものになっていった。これをまだ皆さんきちんと整理できていないと思います。洋楽と邦楽の対立軸の外に第三項が出てきてしまった。これは一体何なのかを考えるべき時期が今まさに来ている。今回のテーマのように「勝ち負け」の話をすること自体も、そういった対立構造が読み取れるということだと思います。昔の洋楽以上にK-POPの存在感が大きくなったということです。
    宇野 日本の音楽市場は基本的にドメスティックなJ-POPで満ち足りていて、一部の音楽ファンのために洋楽が意識されている状況がずっと続いていました。そこに第三項が入って来る余地はなかった。なぜその余地が生まれていったんですか?
    松谷 K-POPの歌手たちが日本に向けたローカライズをしてきたんです。
    宇野 戦略的に攻めて来たということだよね。
    松谷 具体的に何をしたかと言うと、ひとつは日本語で歌うこと──つまりローカライズです。BoA、東方神起、KARA、少女時代という順番でした韓国で作ってる音楽に日本語の歌詞を乗せる。一般の視聴者から見れば日本語で洋楽を歌ってる感じがしたわけです。BoAや東方神起はJ-POPにかなり寄っていましたが、2010年頃に少女時代が来たときは完全に洋楽寄りでした。それがすごく新鮮に感じられました。
    宇野 韓国の音楽産業が日本の一億人の市場をターゲッティングして攻めてくるまで日本はK-POPという存在を意識していなかった。
    松谷 ほぼ意識してなかったんですけど、一部の人が知ってはいたんです。知るきっかけはやはりYouTubeでした。K-POPのひとつの特徴を挙げると、YouTubeにフル尺のミュージックビデオを、しかも高画質で配信することをかなり早い段階からやっていました。YouTubeのサービスが開始したのは2006年で、本格化したのは2000年代後半からです。そこにK-POPは上手くアジャストしてきた。しかしJ-POPはいまだにフル尺をだすことをできていません。
    宇野 韓国が外国に出ないといけないのは国内市場が小さいという要因があると思います。人口は日本の半分以下ですよね?
    松谷 音楽に限らず韓国は外需をすごく求めてる国だという点に注意が必要です。これは輸出入の額をGDPで割った数値である貿易依存度を見れば明らかです。依存度が高ければ高いほど外需に期待をしていることになります。この数値が韓国は68%になります。日本は何%だと思いますか? 比較としてシンガポールも何%か当ててみてください。
    宇野 シンガポールはかなり高いよね?
    松谷 シンガポールは218%になります。
    得能 日本は30%前後ですかね?
    松谷 得能さん、近いです。日本は27%です。この数値が意味するのは、日本のマーケットが非常に大きいということです。音楽に限らず経済全分野的に内需が大きい。韓国のマーケットが小さくて外に出ていかなければいけないこと自体はその通りなんですが、そもそも海外に出ていくのが当たり前という気運が国にあるんですね。すごくシンプルに考えてGDP世界2位の中国と3位の日本に挟まれている国です。出て行かない理由なんてないですよね。
    宇野 目の前に巨大市場が2つありますからね。特に日本の場合はコンテンツ産業が内需だけで回っていて、それだけで食えてしまう。
    「K-POPとJ-POPはビジネスモデルが違うから単純に比較できない」は正しいか
    松谷 日本はまだ内需だけで「食えてしまう」と言えますよね。
    宇野 さらに言えば、20年前は完全にバブルだったわけです。K-POPのマネタイズの仕組みはかなり違っている気がします。日本の中で「CDが売れなくなって、フェスが伸びている」と頻繁に言われますが、それでもCDがすごく売れている国ですよね。
    松谷 逆に言うとCDがこれほど売れるのは日本だけです。世界的に今ものすごく伸びているのはSpotifyやApple Musicのような定額のストリーミングサービスです。YouTubeも含んでいいと思いますが、ストリーミングサービスで音楽を発表するのが今は主流になっています。そんな中、日本ではCDやDVDといったパッケージの売上は、2017年では音楽産業全体の72%になります。次に割合が高いのがドイツで、43%ですね。韓国もまだパッケージの割合が高い方で37%になります。アメリカは15%程度です(参照:日本レコード協会「THE RECORD」No.703、2018年6月号)
    宇野 世界的に音楽は配信で聴かれている。配信を通して好きになった曲をライブで聴いたり、コレクターズアイテムとしてのCDを購入してもらってお金を集める仕組みが完成されている。日本だけが未だに30年程前からのビジネスモデルを抜け出せていない。
    松谷 過去の体制にアジャストし過ぎていて、インターネット時代の音楽マーケットに向けて変化できていない。変わろうとする気運は徐々に見られていて、例えばジャニーズJrのSixTONESというグループがYouTubeにミュージックビデオを出していますが、やはり遅すぎる。それに対して韓国は世界で一番インターネットへのアジャストが進んでいる国です。そこから、たとえば2014年にシンガーのPSYが「江南スタイル」で世界的なブレイクもすることも生じましたした。
    宇野 音楽関係の人に、こういった話をするとK-POPとJ-POPではそもそも相手にしている市場が違っていて、ビジネスモデルも異なるから一概に比べられないと言う人がたくさん居る。だからこそ起きていることは深刻だと思う。そもそも違うゲームをプレイしてしまっているからこそ、決定的に負けている。
    松谷 今の日本でやっているゲームがこれ以降に続いていくのかと問い詰めたいですよね。インターネットはなくなりませんから。
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  • 2作目のハリウッド版ゴジラは「日本的怪獣映画」をどう再解釈したのか? ――切通理作と宇野常寛が語る映画『GODZILLA/ゴジラ』 (PLANETSアーカイブス)

    2019-06-21 07:00  

    今朝のPLANETSアーカイブスは、映画『GODZILLA/ゴジラ』をめぐる切通理作さんとの対談をお届けします。これまで「特撮」についての数多の評論を世に問うてきた2人の批評家は、ハリウッドによるこの2度目のリメイク作をどう観たのでしょうか――?(構成:佐藤大志) ※初出:『サイゾー』2014年10月号 ※この記事は2015年10月24日に配信された記事の再配信です。
    切通 今回の『GODZILLA』、面白かったです。本作では、人間の目線の切り取り方がメインになっていて、ずっとゴジラが小出しにされているんですよね。従来の怪獣映画だと、出現の予兆は尻尾だけ映したりして小出しにするけれど、一度登場してしまうとあとはひたすら前面に映され続けていました。それが今回は、ゴジラは登場した後も霧の向こうやビルの陰にいて、少しずつしか見せない。一番すごいと思ったのは、ハワイでゴジラとムートー【1】が戦い始めたら場面が変わって、アメリカ本土の主人公の家庭で奥さんが子どもに「テレビを消しなさい」なんて言ってるのが映されるところ。今はCGでどんな場面も作れてしまいますよね。だからはっきり言って、ゴジラとムートーの戦いをずっとやっていても飽きてしまう。それが本作では、2者が戦い始めて「おっ」と思っている間に画面が変わって、それからまた、建物や空の隙間から戦いが垣間見える、という繰り返しにすることで解消されている。そうしたON/OFFの効いた見せ方は新鮮な感じがしました。これはギャレス・エドワーズ監督の前作『モンスターズ/地球外生命体』【2】でも用いられていた手法だったので、その監督を抜擢してゴジラでこの撮り方をするというのは正解だったと思います。
    それから、ラストシーンもよかったですね。海にゴジラが去っていって、その背中を見送った途端にあっさり映画が終わる。僕は平成ゴジラ【3】の、海の底で死んだと思われたゴジラが最後の最後で「ヤツはまだ生きていた!」と終わるエンディングには「またか」と思っていたので「これだよ!」と。
     

    【1】ムートー
    本作の敵怪獣。見た目は昆虫に似ている。フィリピンの炭鉱で発見された化石に繭の状態で寄生しており、一匹は日本へ、一匹は卵の状態でアメリカ本土に保管される。日本にやってきた雄は雀路羅市の原発を破壊し、そこで研究機関・モナークの管理のもと隔離されていた。目覚めた二匹は、生殖のためにアメリカ西海岸を目指す。
    【2】『モンスターズ/地球外生命体』
    監督・脚本/ギャレス・エドワーズ 公開/11年
    地球外生命体のサンプルを積んだ探査機がメキシコ上空で大破してから数年後、近辺に謎の生物が多数発生。危険地帯となったメキシコに、カメラマンがスクープを狙って乗り込む。
    【3】平成ゴジラ
    後述の84年版『ゴジラ』から『ゴジラVSデストロイア』までの7作を指す。

     
    宇野 僕は実際に観るまで、正直に言うとあまり期待していなかったんですね。だけど観てみたら意外とよかった。脚本はもう少し整理できたと思うし、手放しでは絶賛できないですが、全体としてはそれなりに満足している。
    今回の『GODZILLA』は、初代『ゴジラ』【4】でも84年版『ゴジラ』【5】でもなく、「VSシリーズ」【6】のリメイクになっていて、それが正解だった気がします。
    怪獣映画のルーツにはハリウッドで生まれたキング・コングがあるけれど、日本の怪獣はそこから隔世遺伝的に派生して、ほぼ別物になってしまっている。だからアメリカで再びゴジラを撮ろうとしたら、「怪獣とはなんなのか」を問い直す映画にならざるを得ない。
    日本において怪獣は、当初は戦争の比喩として誕生した。ゴジラは原爆や水爆といった国民国家の軍事力の比喩だったし、それが街を襲うのは空襲の比喩だった。戦後日本では直接的に戦争映画を描けなかったので、怪獣というファンタジーの存在を投入することでイマジネーションを進化させていったのが特撮映画だったわけです。それが70年代には戦争の記憶が薄れ社会が複雑化して、その比喩が説得力を持たなくなり、怪獣なのに正義の味方になってしまったり公害の比喩になったりと迷走してしまった。その後、90年代に、当時のリアリティを取り入れる形でゴジラを作り直そうとしてVSシリーズが作られ、そのコンセプトをより徹底させたものとして「平成ガメラ」【7】が生まれた。善でも悪でもなく、敵となる怪獣がやってきたら地球の生態系を守るために戦う「地球の白血球」的存在としてガメラを描こうとしたのだけど、さまざまな理由からスタッフはコンセプトを徹底できなかった。象徴的なのは『ガメラ2 レギオン襲来』のラストですね。瀕死のガメラが子どもたちの祈りによって復活し、結局ヒーローになってしまう。当時のスタッフは、そうしないと怪獣映画をまとめられなかったんだと思うんですね。物語的なカタルシスを、そうしないと作れなかった。だから90年代は日本の怪獣映画にとって、怪獣をシステムとして描こうとして失敗していった時期だった。
    そして本作では、ラストシーンで、去ってゆくゴジラを見て「神だ」と言うわけです。今作のゴジラは自然界のバランスを壊すムートーと戦うために現れて、自然の摂理そのもの=神として描かれている。これは日本人にはできない言い切りで、アメリカ人が怪獣というものを真正面から受け止めると、「神」という結論にならざるを得ないんだな、と思いました。だからこそ、ラストでただ去っていくゴジラを見て、VSシリーズを下敷きにした意味がよくわかった。一周回ってベタな設定になっているとは思うけれど、非常に説得力があった。システムとしての怪獣ではなく、「神」としての怪獣王としてゴジラを捉えることで、平成ガメラシリーズの罠を回避しているわけです。まあ、映画全体のつくりは、特に脚本がざっくりしすぎていて、全体的な完成度を考えると、VSシリーズはともかく、平成ガメラを超えたとはちょっと言い難いような気もしますが……。
     

    【4】『ゴジラ』
    1954年に公開された第一作目。日本の怪獣映画の始祖。海底に潜む太古の怪獣が水爆実験によって目を覚まし、東京を襲撃するという設定。今回の『GODZILLA』で渡辺謙が演じた芹沢猪四郎博士の名は、この作品のキーマン・芹沢大助博士の苗字と、監督・本多猪四郎の名前から付けられている。
    【5】84年版『ゴジラ』
    84年公開、ゴジラシリーズ16作目。54年版から時間軸が繋がっており、ゴジラは人類の敵として描かれる。
    【6】「VSシリーズ」
    89年『ゴジラVSビオランテ』を皮切りに、キングギドラ(91年)、モスラ(92年)、メカゴジラ(93年)、スペースゴジラ(94年)、デストロイアとゴジラが戦う一連シリーズ。
    【7】「平成ガメラ」
    『ガメラ 大怪獣空中決戦』(95年)、『ガメラ2 レギオン襲来』(96年)、『ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒』(99年)の3部作。すべて金子修介監督、樋口真嗣特技監督、伊藤和典脚本。

     
    切通 僕は今作は、今までのすべてのゴジラシリーズを肯定していると思いましたね。初代から『ゴジラ対メガロ』、あるいは84年版『ゴジラ』まで、どれに繋がってもおかしくない。誕生の理由は大きく異なるけれど【8】、それ以外、実はゴジラという存在そのものはベールに包まれていていじってないんです。ムートーは放射能を食べているし、雌雄があって生殖もするけれど、ゴジラは何を食べているか、オスかメスかもわからない。人間に攻撃されるとムートーは反撃するけど、ゴジラは意に介さない。「スターさん」なんだな、と。
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  • 池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝 第三章 ビーダマン(2)「炎の魔神」がビー玉に宿した魂

    2019-06-20 09:00  

    デザイナーの池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生ーー世紀末ボーイズトイ列伝』。『スーパービーダマン』シリーズは、シリーズを重ねるごとにビーダマンに人格が付与され、『爆外伝』において完全なキャラクターとなりますが、同時に、物語からは人間が撤退します。そしてビーダマンは、鎧と人と機械の中間的存在から、それらの境界が完全に融解した存在へと深化します。
    『爆球連発!!スーパービーダマン』(以下『スーパービーダマン』)において、道具と人格の両義性を持つビーダマンというキャラクターは銃器のデザインと結びつき、不屈のフィジカルによって倫理を貫徹しようとするタマゴと、「軍人」あるいは「殺し屋」を彷彿とさせる20世紀的な男性の美学の体現者であるガンマというふたりのヒーローを生み出した。そしてその物語を通じて、ビー玉を発射する一種の銃器であるビーダマンがはらむ暴力を、倫理によって治める展開が描かれることになった。
    実はタマゴが得意とした「締め打ち」は、現実世界のビーダマンの玩具において大きな問題を引き起こしている。主人公であるタマゴの機体「フェニックス」シリーズは、パワーを重視しているという設定もあり、ビー玉発射の威力を増す方針で開発されていった。しかし硬く重いガラスでできたビー玉がプレイヤーの無茶な締め打ちによって撃ち出されることで威力が増し、競技中にプレイヤーが怪我をする事態が続出することになった。しかしビー玉の速度を限定することは、ただでさえ数少ないカスタマイズのパラメータを減らすことに繋がり、プレイバリューを大きく損なうことになる。そのため以降のビーダマンはパワーをどのように制御していくかを設計段階で考慮する必要に迫られ、締め打ちを構造上不可能にしたり、地面に設置しなければ発射できないような一種のセーフティを組み込むことで安全性を向上する工夫を余儀なくされていく。劇中で人間に向けてビー玉を撃つマダラがタマゴによって諌められるという物語は、相当に切実なものであったことは付記しておきたい。
    「人」の形をした「道具」
    『スーパービーダマン』において興味深いのは、ビーダマンに人格や魂を感じさせる描写がほとんどない点だ。初期にこそ、タマゴにとってビーダマンが「友達」であるという発言があるし、仮想空間内でビーダマンと一体化するというイベントも存在するのだが、ビーダマンに魂のようなものを感じる描写は基本的にはないといっていい。
    このことは『爆走兄弟レッツ&ゴー!!』(以下『レッツ&ゴー』)において、豪がマグナムに魂を見出し、マグナムが豪の叫びに応えることと対照的だ。ミニ四駆とビーダマンは、自動車と銃というアメリカ的な表象を象った同時代のカスタムホビー玩具という非常に似た位置づけながら、この点において決定的に異なっている。それぞれの作品で描かれる美学も異なったものになったのはそれゆえだ。
    このことは、デザインという観点から見れば、実に奇妙に思える。というのも、ミニ四駆が自動車という乗り物をベースにそのデザインを発展させたのに対して、ビーダマンは自律的に行動するロボットであったボンバーマンのデザインを基礎としている。あくまで「乗り物である」ということにこだわり機能的には必要ないコックピットにこだわったミニ四駆がむしろ魂を宿し、目があり瞳がある人型ロボットの形をデザインに残したビーダマンの方がプレイヤーの道具に徹した、という事実は、デザインとそこに宿る想像力が逆転しているように見えるからだ。
    この興味深い逆転は、ミニ四駆とビーダマンの、玩具としての性質の違いに根ざしている。ミニ四駆はいったん手を離してしまえば、直接操作することができないところに大きな特徴がある。ミニ四駆が魂の器たりえたのは、この直接的には操作できないという性質によるものであることはすでに論じたとおりである。一方、ビーダマンはあくまでプレイヤーが直接ビーダマンを操作し、トリガーを引いてビー玉を発射する。そこにはミニ四駆にあるような間接性が入り込む余地はなく、すべての結果はプレイヤーの操作と直接結びつき、身体の延長となる。ミニ四駆が「魂を持った乗り物」としての想像力を宿し、ビーダマンが「軍人」の美学にこだわったのは、そのインターフェースデザインによる必然といっていいだろう。
    後に『スーパービーダマン』の系譜は、威力を減衰させて直接打ち合う対戦形式を採用した2002年〜2005年の「バトルビーダマン」、タワーを破壊する間接競技へと切り替えグリップとトリガーを設けてより銃器に近いデザインとなった2005年〜2007年の「クラッシュビーダマン」へと受け継がれていく。やがて2011年〜2013年の「クロスファイト ビーダマン」では、キャラクター性を全面に押し出し基本的にすべてのビーダマンが人格を持ち会話する設定を取り入れた。これはスーパービーダマンの系譜が宿した想像力からは例外的と言えるもので、おそらくは他の玩具シリーズなどからさまざまな影響を受けている点で大変興味深いが、逆に言えばスーパービーダマンは顔を持ったそのデザインにもかかわらず、魂を持つまでに実に誕生から10年以上の歳月がかかったと考えることもできるだろう。
    「爆外伝」が描いたボンバーマンしかいない世界
    ボンバーマンというキャラクターが持つ両義性のうち、機械であるという点は競技に注力したスーパービーダマンの系譜において強調されていった。一方、人格を持つ点について拡張し、フィギュアとして発展していったのが、もうひとつのビーダマンの系譜「爆外伝」シリーズだ。
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  • 草野絵美 ニューレトロフューチャー 第2回 検閲と複数の正義(1)

    2019-06-19 07:00  

    アーティストの草野絵美さんが自らが取り組むアート作品の制作過程をレポートする連載「ニューレトロフューチャー」。第2回目となる今回は、検閲と正義にまつわる作品の制作レポートです。アーティストの不祥事によって過去の作品が抹消される風潮に違和感を覚えた草野さん。生前のみならず没後も疑惑の絶えない、とあるアーティストにフォーカスします。
    「虚実と検閲、複数の正義」結論が出ないことを題材にしたい
     目まぐるしく発展する現代社会において、結論を出すことが難しい議題はたくさんあります。自分に身近な議題もあれば、縁遠いと感じる議題もありますが、せっかくアート作品に落とし込むなら、様々な角度から議論を生むものが良いと私は思っています。
     今回は、その中でも、私が最近最も想いを巡らされた題材に触れたいと思います。それは「虚実と検閲、複数の正義」についてです。この題材を、アート作品に昇華するために、プロセスを3回に分けてこの連載で綴っていこうと思います。
    虚実と検閲のことが頭から離れなくなったキッカケ
    今年3月、ピエール瀧氏がコカイン所持で逮捕されたとき、彼が所属する音楽ユニット『電気グルーヴ』の作品があらゆる音楽配信サービスから姿を消しました。
    わたしはこの現象に、世界一有名なディストピア小説、オーウェルの『1984年』に登場する『vaporized(蒸発)』という設定を彷彿とさせるような恐怖を感じました。『1984年』の世界では、人には「死」という概念がなく、政府に逆らったものは生きた痕跡を消され、その人のことについて最初からいなかったように扱われるのです。
    ストリーミングサービスが普及してから起こった事件ということもあり、報道の直前までSpotifyで普通に聞いていたニューアルバムにエラーメッセージが表示されるなど、あまりにダイレクトに私の生活にも影を落とし、動揺を隠せませんでした。
    ドラッグ所持や使用を擁護するつもりは当然ありませんが、その時は「なにも素晴らしい作品をすべて回収しなくても……」と気の毒に思い、「作品と作家は切り離すべき」という種のツイートをしました。その発言は多くの人に賛同いただきニュースにも取り上げられました。
    しかし、その後、モデル女性を搾取してきたことが明るみに出た写真家のアラーキーこと荒木経惟氏が、『SLY』という女性向けファッションブランドとコラボレーションをするというニュースを見た時、「彼を使うくらいなら他の写真家にチャンスを与えようよ」と思ったのも、「今後このブランドを買うのは辞めよう」と思ったのも、事実です。これは、先のピエール瀧氏に対して抱いた私の心情とは矛盾した感覚……なのでしょうか。
    罪状、作品そのものの良し悪し(好き嫌い)、巻き込まれた人々の存在、作品への思い入れの有無、自分が許せるかどうか、社会が許すかどうかなど、様々な因子から、思想を導き出しているつもりでも、「私が許せるかどうか」すら、事実とも虚構とも分からない情報に影響を受けた産物でしかないのです。
    『ネバーランドにさよなら』からくる二重の悲しみ
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  • 【インタビュー】本多重人 空をつなぐことで見えて来る社会とは?

    2019-06-18 07:00  

    今日のメルマガは、株式会社OpenSky代表の本多重人さんのインタビューをお届けします。個人や企業が航空機を自由に使えるようになる産業、通称GA(general aviation)に取り組まれている本多さん。日本の空路を「開く」ことで可能になる未来についてお伺いしました。(取材:石堂実花・宇野常寛 構成:鈴木靖子)
    ジブリの見すぎでパイロットに……?
    ――本多さんは僕(宇野)がモデレーターを務めた東京都のイベント「ミライのワクワクトークセッション」で登壇されて、そしてその事業の話が面白くてこうして改めてインタビューをお願いしているわけですが、まずは、本多さんご自身の活動からお伺いできますか。
    本多 私は今、株式会社OpenSkyというスタートアップの経営をしております。もともとは私の個人的な活動からスタートしたんですが、「誰でも空を自由に使えるようにする」ことをビジョンに掲げ、そんな世界を目指しています。
    ――もともとはパイロットで、曲技飛行をされていたんですよね。空に興味を持ち、パイロットを目指した理由は何だったんですか。
    本多 それはですね、幼稚園くらいのときから飛びたかったんですよ。なぜかはよくわからないんですが、多分、ジブリの見すぎ(笑)。『紅の豚』、『風の谷のナウシカ』、『天空の城ラピュタ』あたりですね。
    ――まだ、ちゃんと空を飛んでいた頃の宮崎駿ですね。
    本多 あとは『マクロス』とかの影響ですね。
    ――『マクロスF』とかですか? 『超時空要塞マクロス』は本多さんの世代じゃないような気もしますが……?
    本多 いえ、一番最初の『超時空要塞マクロス』をビデオとかで観たんです。それで、「飛びたい!」って。あと、小さいときから流線型の形になぜか惹かれて。空とは関係ないんですが、動物だとイルカが好きでした。この感性がどこからきたのかはわからないですけど。
    ――ただのパイロットではなく、曲技飛行を目指されたのはどうしてですか?
    本多 同じ場所へ同じ経路を使って同じように飛ぶということに、興味をそそられなかったんです。中学生のとき、自由に飛べる仕事はないか探していて、ネットでスカイスポーツの曲技飛行を見つけたんです。でも、どうやったらその世界に入れるかわからなくて。悶々としながら、とりあえず地元の航空工学科のある東北大学に進学しました。
    ――大学時代にグライダーの免許を取得し、18歳のときにアリゾナでパイロット免許を取ったわけですよね。そして、曲技飛行で世界の競技会に参加するまでになった。優勝経験もありますよね。
    ▲大学時代の本多さん
    本多 僕が優勝したのは全仏選手権です。海外の選手も参加しますが、曲技飛行というと実質的にフランスが世界一なんですよ。
    ――ジェラート職人がイタリアで優勝するみたいなことですね。日本では曲技飛行の競技人口はそれほど多くはないですよね。
    本多 多くないですね。曲技飛行は専用機が必要で、その専用機も日本には数えるほどしかありません。しかも個人の持ち物なので、基本的には他の人には貸さない。だから、海外に行くしかないんです。私も大学に行きながら、年に何回か海外に行って練習して大会に出て、日本に帰ってお金を貯めて、また海外で散財する……という感じでした。
    ――それは、学生でも集められる金額なんですか?
    本多 可能ですよ。僕は年間、200万円から300万円くらい使ってました。それを6年程やったので……計算したくはないですけど。 あと、曲技飛行は基本的に最初は二人、教官(インストラクター)と同乗で練習して、ある程度うまくなったら一人で飛んで、それを地上からコーチングしてもらうんです。そのコーチをできる人が日本にはいない。うまくなるためには、やっぱり海外で練習するしかないんです。
    ――専用機がない、教官がいないなど、日本には足りないものが多そうですね。ほかに、海外と日本の違いはありますか?
    本多 曲技飛行についてはそのくらいですが、もっと大きな航空産業自体の話をすると、ギャップとして感じたのは、日本人は空を特別視しすぎているということ。海外ではパイロットの免許を持っている方もたくさんいるし、車と同じような感覚で使っています。たとえば僕と同じ日にフライトスクールに入ったおばちゃんは、子育てが終わって時間ができたから、免許を取りにきたんだそうです。
    ――そのおばちゃんは、飛行機をどのように使うんでしょうか?
    本多 車と同じです。通勤に使ったり、家族や友達を乗せてランチに行くとか。距離にして500キロくらい、東京〜京都間くらいは飛行機で移動するのも普通です。EUや北米、南米では日常的に空を使いますし、南アフリカやオーストラリア、ニュージーランドもすごいですよ。
    日本の空はブルーオーシャン
    ーーでは、OpenSkyの事業の概要について教えていただけますか。
    本多 私たちがやっているのは、小型機からビジネスジェットくらいまでの飛行機やヘリを個人や企業が自由に使う産業です。これはゼネラル・アビエーション(General Aviation)、略してGAと言うんですが、まだまだアジアでは未成熟なんです。 今後、エアラインもGAも、間違いなく空の中心はアジアにシフトします。その中で、日本というのは特にユニークなマーケットなんですよ。GDPも大きいし、人口も多い。メルカトル図法の世界地図の特性から、「アメリカやヨーロッパと比較して国土が狭いから無理なんじゃないか?」と思われがちですが、実は日本の国土ってけっこう広いんです。それに富裕層の数も多い。GAが発展する土壌と条件が完全に揃っているのに、まだ使っていない唯一の先進国なんです。 さらにいい条件が、日本の航空法の中身がスカスカなこと。大きな航空会社しか想定されてないので、GA産業についての法律がほぼ白紙なんです。つまり、海外よりもっといい法律を作っていける可能性がある。日本の空はすごいブルーオーシャン。先進国の中で唯一のフロンティアです。海外と同水準のサービスを提供すれば、少なくとも海外先進国と同じ水準までは伸びると見ています。
    ーーそんな状況だとは、まったく知りませんでした……! 具体的には、これからどんなサービスを提供していくのでしょうか?
    本多 事業の内容は大きく3つ。ひとつがホンダジェットをはじめとした、ビジネスジェットの運航サポート事業。これは完全に富裕層向けです。 ふたつ目はプロペラ機や小さい小型機の貸出事業。こちらはパイロットの教育をメインに、一般の方向けにも貸出す予定です。 そして、簡易飛行場の設置です。日本はとにかく交通インフラが弱い。空港は少ないし、定期便のための施設ばかり。特に関東圏って、非常に空が使いづらいんです。東京にアクセスするのにGAが自由に使える飛行場は実質ゼロ。こんなにアクセスの悪い大都市、国際都市はなかなかありません。なので、関東圏、千葉県と神奈川の2か所に新しい飛行場を作りたいと考えています。

    ――OpenSkyさんがやられているような「空の移動」を広げる事業で、先行しているサービスには、例えばどんなものがありますか?
    本多 私が注目しているのが、ビジネスジェットの運行では老舗のNetJets Inc.という会社です。ウォーレン・バフェットのバークシャー・ハサウェイ(Berkshire Hathaway Inc.)の傘下に入っている企業なんですが、ここが始めたビジネスモデルがとても革新的なんです。 それは何かというと、航空機1機を最小単位16分割で販売するんです。航空機を利用したい人は航空機を利用したい日数にあわせてシェアを購入して、同じように2機目、3機目も分割して販売する。その一部分を買うと、他の飛行機も全部使えるという契約です。 飛行機って、整備や故障でダウンすることが多く、1機だけだと使えない日っていうのがどうしてもでてきます。複数台を所有して管理し、すべて使えるとなると利用者の利便性があがるし、イニシャルコストも安くなる。このプログラムも日本で提供したいと考えています。
    ――つまり、Uberみたいなシェアリング・プラットフォームのようなものでしょうか。
    本多 そうですね。これが面白いのは、運送事業ではないということなんです。運送事業にしてしまうと制約が多く、コストも高くなる。でも、このプログラムはあくまで買った個人がオーナーであって、運行の責任もオーナーにある。ただし、そのぶん利便性が高い。コストも抑えられて、使えるシーンが増えるんです。私たちも運送事業の会社になるわけではなくて、航空機とパイロットの準備、手配、維持管理など面倒で難しいことをオーナーの代わりに行う、あくまでマネージメントの会社なんです。
    ――言うなれば、20世紀型の規制産業としての運輸行政の外側をハッキングしようという試みなわけですね。日本でこうした事業を展開するにあたり、足りないものは何ですか?
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