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脚本家・井上敏樹エッセイ『男と×××』第42回「男と食 13」【毎月末配信】
2018-10-31 07:00
平成仮面ライダーシリーズなどでおなじみ、脚本家・井上敏樹先生のエッセイ『男と×××』。松茸の季節に京都を訪れた敏樹先生。友人と割烹の店で松茸料理を堪能するはずが、不運なことに店の料理にケチをつけるヤクザ風の男と遭遇。二人は険悪な雰囲気になりますが……?
男 と 食 13 井上敏樹
先日、電車の中吊り広告をぼんやり見ていると『熱い地獄』とあった。よくある雑誌の広告である。若干の違和感を覚え、降り際によく見ると『熱い抱擁』が正解である。遠目だったので、『抱擁』を『地獄』と間違えたのだ。私は妙に納得した。『抱擁』と『地獄』は結構似ている。さて、世の中には困った事が色々ある。たとえばリュックを背負ったまま電車に乗る奴。不思議と彼らにはリュックを背負っているという自覚がない。車内が混雑している時など余計なスペースを取られるし、下手に向こうが動けばこっちはリュックが当たってよろめいたりする。困ったものだ。大体、リュックとは両手の自由が必要な時に使うものだ。登山とか戦争とかだ。まあ、人生は登山かもしれぬ。戦争かもしれぬ。百歩譲ってリュックを使うなら、電車に乗る際は網棚に乗せるか胸に抱いていただきたい。また、困ったもの、と言えばレストランで帽子を被ったまま、というのはどうなのだろう。先日は鮨屋のカウンターで帽子を被ったままの若者をみかけた。黒いソフト帽だったが、私的にあんまりあり得ない事だったので、一瞬、帽子形の髪形かと思ってしまった。食事をしながらのサングラスというのも、帽子と同じくらいあり得ない。大体、帽子もサングラスも日光から身を守るために使うものだ。登山とか、戦争とか。
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【対談】三宅陽一郎×中川大地 モンスターが涙を流すとき——ゲームAIの哲学をめぐって(後編)
2018-10-30 07:00
身体論からのボトムアップで「人間」の構築を目論む西洋哲学的AIと、超越的な存在を仮構しようとする東洋哲学的AI。2つのアプローチが融合した先に、虚構のキャラクターが「涙を流す」ような情緒は宿るのか。ゲームAIが可能にする新しい想像力のあり方について語り合いました。(この対談は『人工知能のための哲学塾 東洋哲学篇』刊行記念トークイベントとして、2018年6月28日にジュンク堂書店池袋本店で開催されました)(構成:大内孝子)※本記事の前編はこちら
三宅陽一郎さんの連載「三宅陽一郎 オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき」の記事一覧はこちら
知能を形成する2つの流れをメタAIが補完
中川 三宅さんの「人工知能のための哲学塾 東洋哲学篇」のセミナーにも何回か参加しているんですが、何回目かのときに「東洋哲学は人間の主体の側だけではなくて、それをもう少しメタな視点から見返す視座がある」という話をされていたと思います。
三宅 知能を探求すると、2つの流れがあるんですね。「実世界と一緒に同期して動こうとする流れ」と、もう1つは「周りの環境世界とは別に自分を恒常的に保とうとする内面の流れ」、世界とともにありたいという欲求とむしろ世界を超越したいという人間のもう1つの欲求、この2つがいつも流れているというようなところが知能の本質なのかなと思います。
▲知能の場の形成
実際のゲームAIを作るときも、片方を作った後にもう一方のほうを作らないと、どんどん壊れていくんです。60分の1秒で回さなきゃいけないとか、いろいろな計算途中のスレッドがたまってきて、なんか汚い感じになってしまう。ですが、たとえば人工知能を眠らすように内面の流れだけを流すというようにクリーンアップして、自分の形を整えていくみたいなところがあります。 生物学的に言うと、この2つの流れはアポトーシスとホメオスタシスと言います。自分を変えてまで環境に適応しようとするアポトーシス的な流れ、自分をある一定の形に保とうとするホメオスタシス的な流れ、この2つの力が生物の中で拮抗しているんです。知能を探求していくと、実は生物的な細胞レベルの話になる。知能の中にそういう2つの力が宿っているわけです。
中川 アポトーシスとホメオスタシスと生命科学用語が出てきたので、一応解説しますと、まずホメオスタシスというのは、自己同一性を保つための秩序形成の話です。たとえば、何かものを食べてそれが身体の成分に変換されて……という形で、人間の細胞は入れ替わってるけど構造は変わらない。いわゆる動的平衡を保つ仕組みがホメオスタシスです。一方、全体の秩序形成のために部分的に壊れることをアポトーシスといいます。たとえば、人間が胎児からだんだん赤ん坊に育っていくときに、受精卵の段階からだんだん人間らしく形成されていく。初期は指の間に水かきがあったりするんですが、途中でそういうのがなくなっていく。 トップダウン的にこうなるべきだというふうに一つの秩序を保っていくのがホメオスタシス、それに対して、部分的に壊していくのがアポトーシスという意味ですね。
三宅 極論すると、物理世界からの流れは極めて西洋的(機能的)なもので、物理世界と時間的に同期しながらボトムアップに自分が築かれます。一方、自分を超越した何かがコアにあり、そこに向かって自分自身が保たれているという流れは極めて東洋的です。
中川 三宅さんの本を読むかぎり、環世界からボトムアップ的に自意識みたいなものができていく動きというのは、東洋哲学を導入しなくてもある程度説明できるという印象でした。以前の『人工知能のための哲学塾』(西洋篇)でフィーチャーされていたのは、ユクスキュルが定義した環世界から現象学、メルロ=ポンティの身体論などに至る流れが、デカルト的な自意識の構成原理を補完的に説明していくということだったと思いますが、そのへんの捉え方はいかがですか?
三宅 そうですね。この図でいうと、どちらかというと、身体から出発しているほうが西洋篇で説明したこと、上のほうは東洋的、東洋哲学篇で語っていることです。超越的な何かから出発するというのは、あまり西洋では許されない思考だったりします。自分の存在の起源みたいなものが自分の中にあるみたいな神秘主義的なところなんですが、結局、自分自身を作り出しているものは身体からできるというのと、そんなこともないだろうという話もあって、僕はそこを補完するような理論を探求してきました。 もう1つ東洋哲学篇から図を引用します。井筒俊彦先生の回で書いたものですが、この構造は東洋思想には共通してあって、単にイスラムの神秘主義だけではなくて、実は、いろいろなところに出てきます。
▲上昇過程・下降過程
イスラム哲学では「上昇過程」「下降過程」、仏教では「向上」「向下」、「向上門」「却来門」と言ったり、いろいろな呼び方がされています。そして、この一番上、いろいろな呼び方があるんですが、バルトは「存在の零度」、老子は「道」、イスラムでは「絶対的一者」、華厳教では「空」というように、同じことをいろいろな人が東洋的な存在の起源みたいな不思議な言葉で示しています。 これは西洋の人工知能には絶対に出てきません。これを人工知能に取り入れようとすると、先ほど言ったような、人工知能の存在の起源みたいなものを人工知能の中に組み込まなければいけない。昔の僕が使っていたモデルはどちらかというと「こちらから入ってきて、インフォメーションフローをぐるぐる回して終わり」というような単純なものだったんですが、この東洋思想を入れると、下からの環境世界からの流れ、上からの一なる全からの流れが交差するということになります。やはり、存在の起源というのがないといけないので。自分自身を修復している流れ、超時間的な流れが2つ存在する、そういうことです。
▲エージェントアーキテクチャの2つのフロー -
いつか、空気を読まないために――吉田尚記『なぜ、この人と話をすると楽になるのか』(PLANETSアーカイブス)
2018-10-29 07:00
今朝のPLANETSアーカイブスは、宇野常寛による『なぜ、この人と話をすると楽になるのか』(吉田尚記)論をお届けします。「空気を読めない」といつも怒られている僕たち(?)に対して、その対処法を解説しベストセラーとなった、よっぴーさんの『なぜ楽』。そこに隠された「一番大きなメッセージ」を読み解いていきます初出:『ダ・ヴィンチ』2015年4月号 ※この記事は2015年4月22日に配信した記事の再配信です。
▲吉田尚記『なぜ、この人と話をすると楽になるのか』
ニッポン放送のアナウンサー・吉田尚記と知り合ったのは、一昨年のことだ。僕がニッポン放送の深夜番組(『オールナイトニッポン0』)を担当していたとき同社の偉い人が、僕と気が合いそうな男がいると紹介してくれたのだ。それまで僕と吉田はお互い相手のTwitterのアカウントはフォローしていたが、これといって交流はなかった。向こうがどう思っていたかは知らないが、僕のほうはどこからともなく流れて来た彼のtweetの内容、たしか彼のメディア論というか、ラジオ論のようなものが気になってフォローしたのだと思う。
その後、僕と吉田はニッポン放送で顔を合わせるたびに雑談を交わすようになった。しかし決定的に仲良くなったのは、彼が僕を彼の主宰する対談イベント「#jz2」に呼んでくれたことだと思う。ここで僕と吉田はメディア論、特にラジオ論とソーシャルメディア論で白熱し、有り体に言って意気投合した。そして気がつけば吉田は僕のメールマガジンやインターネット放送の常連出演者(もちろんアナウンサーとしてではなく、いち「論客」としての登場だ)になり、いまでは月に一度は何らかのかたちで議論している。
だからほとんど当たり前のように、吉田が二冊目の本を出版することになったとき僕のところにLINEでゲラが送られて来て、そして当たり前のように販促のコメントを僕が書いて、当たり前のように出版記念イベントに出演することになっていた。
しかし、今回僕が同書『なぜ、この人と話をすると楽になるのか』について取り上げようと思ったのはそれが吉田の本だからではない。この本は同時代の物書きとして、しっかりアンサーしなければならない本だと感じたからだ。
本書の概要を簡易に説明しよう。吉田は同書をどちらかといえばコミュニケーションが苦手な「コミュ障」のための本だと位置づける。吉田はいう。自分は本来まさにその「コミュ障」の典型例であると。しかし自分はうっかりアナウンサーという職業に就いてしまった。そしてその結果、コミュニケーション力を「学習」することになったのだ、と。吉田曰く、同書はコミュニケーションという「ゲーム」の攻略本である。ここでいう「コミュニケーション」とは要するに個人的な会話を通じた社交術のようなものだと思えばいい。
幼少期から「もっと空気を読め」と言われ続けて、そしていまも何かのきっかけで場違いな食事会に呼ばれてしまうたびに気まずい思いをしながら早く帰りたいなと考え続けている僕にとって、同書は仕事を忘れてページをめくることのできる実践本でもあった。
たとえば同書で吉田はコミュニケーション力を、「空気を読む」力を、雑談という視点から説明する。いわゆる「コミュニケーション力の低い」「空気の読めない」(僕のような)人間は「雑談」ができない、いや雑談に興味が持てないのだという。僕らのような人間はつい、日常の何気ない会話にまで目的を求めてしまう。自分の知的関心を満たしてくれる視点や、未知の情報を期待してしまう。もしくはそれらを相手に与える達成感を期待してしまう。しかし、それは、間違いだと吉田は言う。吉田は同書で「コミュニケーションの目的はコミュニケーションである」と断言する。そう、いま僕が挙げたようなコミュニケーションの「目的」は実は人間対人間のコミュニケーションではなくとも得られるものだ(人間対モノ、人間対情報、など)。人間同士のコミュニケーションでなければ得られないもの、それは会話が盛り上がることによって得られる高揚感でしかないのだ。
コミュニケーションは原理的に自己目的化する──この理解は、古くは携帯電話のメール交換、現在においてはLINEなどのアプリケーション上での1対1のコミュニケーションを想定したショートメール交換を想定すれば分かりやすいだろう。こうしたサービス上で繰り広げられるやりとりの何割かは、確実に自己目的化している。「いまから行く」「○○をもってきて」といった目的のあるコミュニケーションと同じくらい、ここでは単に返信してほしい、「既読」をつけてほしいだけのやり取りが交わされているはずだ。ここで人間が求めているのはおそらく「承認」だ。決して積極的な尊敬や愛情ではないだろう。自分の存在をゆるく肯定してくれることの安心感を、ここで人間は求めているのではないか。だからこそ、こうしたコミュニケーションは家族や恋人ではない友人間で行われやすいのではないか。こちらが膨大なコストをかけずとも、小さな承認を返してくれる関係、ローコスト・ローリターンの承認を求める性質を人間は持っているのではないか。
電子メールはこうしたやりとりとその過程を可視化してくれるわけなのだが、考えてみれば日常会話も同様だ。僕たちは会話のきっかけにほぼ無意識のうちに「今日は暑いね」とか、「こんな朝早くにお疲れさま」とか、他愛もない話題を用いている。もちろん、ここで本当に気温の高さを話題にしたい人間はまずいないだろう。ここで人間は、目の前の相手とこれからささやかな承認を交換して、ローコストに小さく気分よくなりたいというサインを送っているのだ。
そして、僕のような「コミュ障」の人間にはこれができない。いや、正確にはこれが不快なのだ。特に関心が強いわけでもない人間と、特に関心が強いわけでもない話題をしてまで、小さく気分よくなんかなりたくない。そんな時間があるなら、家に帰って本を読みたい。ずっとそう思って30年以上生きて来たわけだ。(だから僕はいわゆる「飲みの席」というやつが大嫌いで、そのせいでお酒を飲まなくなったようなものだ。)
しかしそのことで、随分と世の中が生きにくいのもたしかだ。僕が5年しか会社員を続けられず、目処がついた時点でフリーランスに転向してしまったのも、要は自分で能力的な適性がないことを分かっていたからだ。そして僕より3つ年上で、そして会社員をまだ続けている吉田はそんな僕らに、なるべくストレスなく「空気を読む」方法を解説している、というわけだ。
吉田はいう。「コミュニケーションとは目の前の相手と一緒にゴールを目指す協力型のゲームだ」と。そう、コミュニケーションの目的がコミュニケーションでしかないのなら、そのゴールは「楽しく会話すること」それ自体でしかあり得ない。吉田はコミュニケーションが自己目的化する理由を、そしてコミュニケーションが協力型のゲームであることを解説した上で、「空気を読む」方法を伝授する。たとえば「聞き上手であること」がそれだ。コミュニケーションに「目的」が必要だと思っている僕たちはつい、中身のある会話をしなければと考えて、まずは自分から情報を発信してしまう。しかし、これは協力ゲームとしての会話としては悪手でしかない。特定の目的を強力に設定された情報発信ほど、相手に取って打ち返しにくいものはない。もちろん、相手がその話題をしたくて仕方がないと分かっている場合は違う。しかし、ここで問題となっている社交的な「雑談」では逆だ。ここで一番アンパイな配球は、聞き役に回ることだ。「今日は暑いね」といった類いの発言には、これといった中身はない。しかし、この一手が有効なのはこの種の発言が「これからあなたと楽しく、小さくお互い負担にならない程度に時間を共有したい」というメタメッセージを伴っているからだ。従って吉田はタモリのトーク番組におけるゲストへの定番の質問「髪切った?」こそ「神の一手」だと断言する。相手に(ゆるくポジティブな)関心をもっていることを伝えつつ、決して負担にならない程度のゆるいアンサーを、それもかなりの自由度で求める。これこそが、協力型ゲームとしての会話(コミュニケーション)における定石中の「定石」なのだそうだ。
僕はこうした吉田の展開するコミュニケーション論に、基本的に同意する。そして実際にこうやって社交的な「会話」のメカニズムを解説されることによって、コミュ障がこの種の中身のない会話を楽しむことができるようになるケースも多いのではないかと思う。ゲームとして捉えることで、本来楽しめない無目的な会話をテクニカルに攻略する=盛り上げることで(別の意味で)楽しめるようになる。そして、そのことが結果的に「コミュ障」の解消につながる。実際、同書で告白されているように吉田自身がそうだったに違いないのだから。僕自身、ああ、高校生か大学生のころにこの本に出会いたかった、という感想をもったことも、ここに告白しておこう。
その上で、僕は思った。この本は、最後の最後で一番大きなメッセージを意図的に書かなかった本だ、と。もちろん、それは否定的な意味ではない。それはむしろ、吉田が書かないことで読者に伝えようとしたメッセージが、この本を強烈に支えていることを意味するのだ。
同書は徹頭徹尾この社会は「空気を読む」という行為で成り立っていて、そしてその社会の成員である僕たちはこの「空気を読む」ことから逃れられないという前提で書いてある。たしかに僕もそう思う。コミュニケーションは原理的に自己目的化するものでしかないと僕も考える。もっと言ってしまえば、自己目的化したコミュニケーション、つまり関係性それ自体にも価値が宿ると僕も考えている。もしかしたら僕のほうが吉田よりも積極的に、美しい存在があるのではなく美しい関係性があるだけだ、と考えている側の人間であるとすら思う。たぶん、僕と吉田の世界に対する理解はほとんど離れていない。しかし、そこから先のアプローチはまったく違う。
この本で吉田はいわば「どんな箱に行っても空気が読めるようになる」テクニックについて考えている。しかし僕は違う。僕は個人が選べる箱のバリエーションを可能な限り増やすことを考えている。
たとえば僕は「いじめ」問題に対する処方箋はひとつしかないと思っている。それは「クラス」という箱をなくすこと、「クラス」という箱から逃げやすくすることだ。小学校低学年から授業選択制を導入し、児童には今より早い段階で「与えられた箱の空気を読む」訓練ではなく、「自分に合った箱」を探す訓練を積ませる。もちろん、ここには「自分に合わない箱とは距離を取る」訓練も含まれる。オールドタイプの日本人には、そんなことでは忍耐力のない子どもが増えるだけだと思われるかもしれない。しかし、それは考えが浅い。自分に合った箱を探すため、複数のコミュニティに接続しながら試行錯誤していくためには与えられた箱の空気を読むためのものとはまったく異なる忍耐と柔軟で強靭な知性が必要だ。
吉田の分析と主張に、僕は完全に同意する。しかし、いやだからこそ僕はできることならば最初から空気なんか読みたくないと思うのだ。コミュニケーションのためのコミュニケーションに時間とエネルギーを使いたくないと思ってしまう。
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宇野常寛 NewsX vol.4 ゲスト:栗原一貴・濱崎雅弘(消極性研究会)「消極的な人よ、声を上げよ。……いや、上げなくてよい」【毎週金曜配信】
2018-10-26 07:00
宇野常寛が火曜日のキャスターを担当する番組「NewsX」(dTVチャンネル・ひかりTVチャンネル+にて放送中)の書き起こしをお届けします。9月25日に放送された第4回のテーマは「消極的な人よ、声を上げよ。……いや、上げなくてよい」。栗原一貴さんと濱崎雅弘さんをゲストに迎えて、消極的な人々のコミュニケーションを手助けすることで、彼らの秘められたポテンシャルを引き出す「消極性研究会」の活動について掘り下げます。(構成:籔和馬)
NewsX vol.4「消極的な人よ、声を上げよ。……いや、上げなくてよい」2018年9月25日放送ゲスト:栗原一貴・濱崎雅弘(消極性研究会) アシスタント:加藤るみ(タレント) アーカイブ動画はこちら
宇野常寛の担当する「NewsX」火曜日は毎週22:00より、dTVチャンネル、ひかりTVチャンネル+で生放送中です。アーカイブ動画は、「PLANETSチャンネル」「PLANETS CLUB」でも視聴できます。ご入会方法についての詳細は、以下のページをご覧ください。 ・PLANETSチャンネル ・PLANETS CLUB
『消極性デザインが社会を変える。まずは、あなたの生活を変える。』の記事一覧はこちら
消極性研究会との出会い
加藤 NewsX火曜日、今日のゲストは消極性研究会から、栗原一貴さん、濱崎雅弘さんのお二人です。よろしくお願いします。
栗原&濱崎 よろしくお願いします。
加藤 お二人とも本業は研究者なんですよね?
栗原 はい。でも、消極性研究会も本業としてやっている活動で、ユニット名とかじゃないんです(笑)。
宇野 お二人の厳密なご専門はどんな感じなんですか?
栗原 専門は主に情報科学の分野で、コンピューターをどういうふうにデザインしたり、プログラミングしたりすれば、人にとって役に立ったり、面白い応用ができるのかを研究しています。
加藤 お二人が参加している消極性研究会を、これから深掘りしていきたいと思うんですが、宇野さんはどういう経緯でお知り合いになられたんですか?
宇野 僕の友人に簗瀬洋平さんというゲーム作家の人がいるんですよ。簗瀬さんは、僕が作っている雑誌の「PLANETS vol.9」に参加してもらっていて。それがご縁で仲良くなって、僕がクローズドでやっていた勉強会のメンバーになってもらったんですよ。その中で、「実は私、消極性研究会に参加しています」と簗瀬さんに言われて、なんじゃそりゃと思って、くわしく話を聞いたら、めちゃめちゃ面白くて。その頃に、消極性研究会の研究をまとめた本(『消極性デザイン宣言-消極的な人よ、声を上げよ。……いや、上げなくてよい。』が出たんですよ。その本を読んで、本当に面白いなと思い、消極性研究会のみなさんにうちのメールマガジンで連載をしてほしいとラブコールをずっと送っていたんですよ。そのときは、本が出たばかりで事例がまだ溜まっていないから、ちょっと待ってくださいと言われたんですけど。念願叶って、数ヶ月前から、消極性研究会には5人のメンバーがいるんですけど、ローテーションでうちのメールマガジン用に記事を書いてもらっているんですよね。その流れで、「PLANETS vol.10」にも出てもらって、今日も来ていただいたという感じです。
『消極性デザインが社会を変える。まずは、あなたの生活を変える。』過去の配信記事はこちら。
加藤 今日のテーマは「消極的な人よ、声を上げよ。……いや、上げなくてよい。」としました。
宇野 これは先ほど紹介した消極性研究会さんの著書のサブタイトルなんですけど、すごくいいキャッチだと思うんですよね。
栗原 相当悩んでつけましたからね。
宇野 今のコンピューターの力を使うとか、最新の認知科学とか、いろんなものの知見を合わせると、積極的じゃない人でも気持ちよく世の中を暮らすデザインはいっぱいできるんじゃないかという、すごいポジティブな発想に溢れていて、その精神が凝縮されたコピーだと僕は思っているんですよね。
コミュニケーションの現代的困難に向き合う「消極性研究」
加藤 それでは、今日も三つのキーワードでトークしていきたいと思います。まず一つ目が「消極性研究とはなにか」。
宇野 「消極性研究」という言葉は、世界でたぶんみなさんしか使っていない言葉だと思うんです。
栗原&濱崎 (笑)。
宇野 消極性研究とはなにか、ということをストレートにお伺いしたいと思います。
栗原 まず、消極性を、コミュニケーションに対する苦手意識と、あとやる気が出ない、モチベーションが上がらないという、二つの意味で名付けて使っています。昔はやる気があることが当然で、やる気がなければ鍛えるとか教育して直すという感じで、人付き合いがうまい人が世の中でのし上がっていくような、単一リアル社会至上主義みたいなものがあったと思うんですよ。ジャイアンみたいな人が勝つみたいな。 昔はそういう世の中だったけど、今は情報化社会になってきたから、個人が扱わなきゃいけない情報も増えたし、関わらなきゃいけないコミュニティやコミュニケーションがどんどん増えてきたと思うんですよ。だから、自分の時間やコミュニケーションに関わるリソースをちゃんと配分して生活しなければ、すぐに個人が破綻してしまうような世の中になったんじゃないかと思うんですよね。なので、積極的な人、消極的な人と二分して話していましたけど、「実は積極的だと思っていたあなたの中にも消極的な部分、ちょっとぐらいはありませんか?」と言うと、だいたいの人が「あっ」と言うふうに思ってくれると僕は信じていますけどね。
宇野 そもそも説教とか、ああしろという強制とかは、自分にウットリした人がやることだと思うんですよね。本当に世の中を変えようとしたら、仕組みを変えないといけない。説教で世の中を変えられるんだったら、説教がうまい人が死んじゃったら意味ないし、持続しないですよね。だから、最終的には仕組みを変えていかないと、絶対に世の中はうまくいかないと思うんですよ。ただ、今のコミュニケーションとか、人間関係とか、やる気とかは、最近までデザインしようという発想が希薄だったと思うんですよ。それが今、認知科学とか、情報工学とか、いろんな科学の発展によって、デザインできるんじゃないかという段階にきたんだと思うんですよね。だから、消極性研究が自然と生まれてきたんじゃないかなと思うんですね。
栗原 グラフを出していただきたいんですけど。
栗原 圧倒的にコミュニケーションが求められ続けていますけど、「コミュニケーションとは何か」と聞かれたときに、「うーん……?」とみなさんなっていませんかね。コミュ力ってどうするの? 何かを説得する力なの? それとも、共感を得る力なの? というのが、わけがわからないまま、特に学生とかが就活で苦労しているわけですよね。
宇野 このグラフ、絶望的に頭悪いですよね。
一同 (笑)。
宇野 全部同じことを言っていません? 要は、自分におべんちゃらを使ってくれて、なんでも言うことを聞くような使いやすい社畜予備軍の学生が欲しいよ、ということでしょ。
加藤 たしかにコミュ力を鍛えたらいいと言いますけど、どうやって鍛えるんだろうとか思ったりもします。
栗原 個人が関わるコミュニティが多様化してくると、このコミュニティではやる気はあるけど、こっちはそうでもないとか。あれだけ好きな友達だったけど、5分おきにLINEがくると鬱陶しいとか。そういうのはいくらでもあると思うので、個人がどんな対象に、なけなしの積極性を発揮できるかというのは予測不可能なものであると捉えて、世の中を計画したほうがうまくいくんじゃないかと思うんですよね。なので、先ほどおっしゃったように、それは叱咤激励ではなくて、浮き沈みが人間にはあるから、どんな状況になってもやっていけるような仕組みを自分の身の回りからデザインしていきましょうと。それは難しいコンピュータ・プログラミングやモノづくりだけじゃなくて、取り決めや約束事ぐらいでもいいんですけどね。そういうところから始めていきましょうと言っているのが、本の中でも言っている「SHY HACK」しましょうということなんですよね。
加藤 「SHY HACK」とは?
栗原 シャイを懲らしめてその人を改善するんじゃなくて、シャイに向き合って状況や環境を改善するためにはどうすればいいのかということを、ローカルなところから始めていこうというような取り組みを紹介しています。
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本日21:00から放送!宇野常寛の〈木曜解放区 〉 2018.10.25
2018-10-25 07:30本日21:00からは、宇野常寛の〈木曜解放区 〉
21:00から、宇野常寛の〈木曜放区 〉生放送です!〈木曜解放区〉は、評論家の宇野常寛が政治からサブカルチャーまで、既存のメディアでは物足りない、欲張りな視聴者のために思う存分語り尽くす番組です。今夜の放送もお見逃しなく!
★★今夜のラインナップ★★メールテーマ「秋のこと」アシナビコーナー「ハセリョーPicks」and more…今夜の放送もお見逃しなく!
▼放送情報放送日時:本日10月25日(木)21:00〜22:45☆☆放送URLはこちら☆☆
▼出演者
ナビゲーター:宇野常寛アシスタントナビ:長谷川リョー(ライター・編集者)
▼ハッシュタグ
Twitterのハッシュタグは「#木曜解放区」です。
▼おたより募集中!
番組では、皆さんからのおたよりを募集しています。番組へのご意見・ご感想、宇野に聞いてみたいこと、お悩み相談、近況報告まで、 -
【対談】三宅陽一郎×中川大地 モンスターが涙を流すとき——ゲームAIの哲学をめぐって(前編)
2018-10-25 07:00
車の両輪にもたとえられる「ゲームとAI」。実際、現実の社会に実装するにはまだ拙いAIを、今、解き放すことができる世界は(閉じた系ではあるが)ゲームの空間だけとも言えます。AIはゲームをおもしろくするための技術であり、ゲーム空間はある意味AIの実験場。そんな関係性にある"ゲーム"と"AI"、さらにその先にいるプレイヤー(="人間")。――ゲームのモンスターが涙を流すとき、人は駆け寄って、その手を差し伸べるのか? ゲームAIエンジニア・三宅陽一郎さん×評論家・中川大地さんの対談をお届けします。(この対談は『人工知能のための哲学塾 東洋哲学篇』刊行記念トークイベントとして、2018年6月28日にジュンク堂書店池袋本店で開催されました)(構成:大内孝子)
三宅陽一郎さんの連載「三宅陽一郎 オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき」の記事一覧はこちら
人工知能にとってゲームはどういう意味を持つか
三宅 僕は、普段はゲーム会社でゲームの中で動く人工知能を作っています。人工知能を作るときにその足場として哲学があるんですが、人工知能を作るために僕が必要とした哲学を解説したものが2016年の夏に発刊した『人工知能のための哲学塾』で、第二弾として、この4月に東洋哲学を取り上げた『人工知能のための哲学塾 東洋哲学篇』を出しました。今日は、刊行記念トークイベントとして中川大地さんをゲストに、ゲームと人工知能、AIについて、さまざまな確度から議論したいと思います。
中川 僕は評論家をやっておりまして、『現代ゲーム全史 文明の遊戯史観から』という本を出しています。これはその名の通り、基本的にはデジタルゲームの歴史を文明論的な視点から掘り下げた本なんですが、今日はそういった立場からお話しできればと思います。
▲中川大地『現代ゲーム全史 文明の遊戯史観から』
▲三宅陽一郎『人工知能のための哲学塾』『人工知能のための哲学塾 東洋哲学篇』
三宅 人工知能を作っていると人間の業の深さがわかるというのはあります。僕が何をしているかというと、モンスターたちをいかに「堕落」させるかということをやっています。
ゲームの中のモンスターは、生まれたときはただのポリゴンの塊です。欲求も、感覚もない。何も食べない、何も飲まない。プレイヤーを見ても何の反応もしない。世の中に何の執着もない。簡単に言うと、解脱している状態です。それを、いかにこの世界に執着させるかということで、欲望を持たせたり、感覚を持たせたり、プレイヤーを見たら「とりあえず、戦え」と教えてたり、堕落させるのが僕の仕事なんです。そうすると、だんだん生き物っぽく見えてくるわけですね。 この「人工知能にどう煩悩を与えるか」というのは東洋的な視点です。どちらかというと、西洋の人工知能は組み立てて作っていく。東洋はというと、全体の世界の中の一部として知能を作りましょう、と。非常に大雑把に言うと、そういう違いがあります。人工知能は変わった学問で、それぞれの文化的な土壌が出るんです。 西洋的には「神様がいて、人間がいて、人工知能がいる」という縦の序列で考えます。ですから、人工知能は最初から人間とは対立して、かつ、人間の下にいるというのが前提となります。ロボットもそうです。必ずしも人間の姿をしている必要はなくて、社会の中で使役する存在としてあればいい。ところが、東洋的知能観はちょっと違います。ゾウリムシと鹿とaiboとたまごっちと人間はだいたい同じ。生命はみな同じと考えます。
中川 自然の生物も初音ミクとかaiboみたいな人工物も、区別なく捉えていく世界観なんですね。
三宅 それが日本のエンタメを支える土壌でもあって、キャラクターの誕生日にチョコレートを送ってきたり、キャラクターがゲームの中で死んだら涙を流してくれたり、そういうシンパシーが、キャラクターそのものを作る土壌になっています。ですから、キャラクターに頭脳、つまり人工知能を入れるのは、日本が一番恵まれていると言えると思います。
▲西洋的知能観と東洋的知能観
三宅 ゲームAIと一口に言っても3種類あって、キャラクターの頭の中のAI、これはみなさんが直感的に思っている頭脳のことです。そしてナビゲーションAIという地形を解釈するちょっと特殊なAI、メタAI。メタAIはキャラクターを使って、それとはわからないようにプレイヤーを楽しませる。ゲームを神様みたいに上から見ていて、プレイヤーがちょっと詰まっていたら、キャラクターに襲わせて正しい方向に行くよう仕向けたり、あるいはプレイヤーが下手だなと思ったらちょっと手を抜いてあげたり、ゲーム全体を制御するんです。うまくユーザーを楽しませてあげる、映画監督みたいな存在です。
▲ゲームAIの種類
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猪子寿之の〈人類を前に進めたい〉 第32回「色と密度で人間の五感をハックしたい!」
2018-10-24 07:00
チームラボ代表・猪子寿之さんの連載〈人類を前に進めたい〉。今回は、豊洲で開催中の展覧会「チームラボ プラネッツ TOKYO」の展示について猪子さんと語り合いました。この展示では、個々の作品へと深く没入させるためのクオリティにこだわったという猪子さん。作品の強度を生み出すために導入された、人間の五感に訴えかける新基軸のアイディアとは?(構成:飯田樹)
遊び心と体感的な没入がもたらす「チームラボらしさ」
▲東京・豊洲にて開催中の「チームラボ プラネッツ TOKYO」
宇野 「チームラボ プラネッツ TOKYO」(以下「プラネッツ」)、すごくよかったよ。個人的にはお台場の「森ビル デジタルアート ミュージアム:エプソン チームラボ ボーダレス」(以下「ボーダレス」)よりも、こっちの方が好きかもしれない。
猪子 へえ!
宇野 もちろんこの二つは規模も違えば目的もそもそも違う。「ボーダレス」はチームラボがここ数年やってきた屋内でのインスタレーションや空間演出のアートの集大成で、「プラネッツ」は2年前の「DMM.プラネッツ Art by teamLab」(以下「DMM.プラネッツ」)のアップデートで、「ボーダレス」に比べれば小さい。「ボーダレス」は半日かけても回りきれないから2〜3回は行かなきゃって感じだけど、「プラネッツ」は2、3時間あれば全部観れる。でも、後者の方が遊び心があるよね。普通に考えたら「ボーダレス」の方がド本命なんだろうけど、僕は「プラネッツ」の実験性も捨てがたい。
猪子 「プラネッツ」では世界と自分との関係を考え直させるような作品を一個一個作って、とにかく圧倒的なクオリティで没入させるようにしているんだよ。
宇野 いや、本当にそうで。これは「小説トリッパー」(朝日新聞出版)の連載(『汎イメージ論』)でも書いたことだけど、ここ数年のチームラボは「作品と作品」「人間と人間」「人間と作品」という3つの境界を撹乱しようとしている。今回の「プラネッツ」はそのうち、「人間と作品」のところに集中していて、そこに特化しているところが面白い。
俺なんか、そんなに他人と融解したいなんて思ってないし(笑)、批評家だから作品同士を繋げて考えるのは、作品にやってもらわなくても自分でできるからさ。でも、自分でできないのは、自己と世界、この場合は鑑賞者と作品との境界線がなくなって、作品に没入することなんだよ。
猪子 なるほど、おもしろい。
宇野 「ボーダレス」は「作品と作品」「人間と人間」「人間と作品」という3つの境界を全部撹乱しようとしている。なので、一番総合性があるし、完成度は高いんだけど、「人間と作品」の境界線の消滅に特化した「プラネッツ」の方が針が振り切れている。一個一個の作品で、どうなるかわからないけど遠くにボールを投げてみようとしているのは「プラネッツ」の方なんだよね。だから、僕にとっては「プラネッツ」の方が刺激的だった。
たとえば「ボーダレス」は、入り口に猪子さんのメッセージが言葉で掲げてあって、ここから先はチームラボの演出する「境界のない世界」だってことを宣言するんだけど、「プラネッツ」はそんなお行儀のいいことはしないで、いきなり鑑賞者を水の中に入らせるとか(『坂の上にある光の滝』)、クッションの中を弾ませるとか(『やわらかいブラックホール - あなたの身体は空間であり、空間は他者の身体である』)、前回の「DMM.プラネッツ」でやっていたことのパワーアップバージョンなんだけど、「ここから先は完全に別世界ですよ」「警戒心を解いていいんだよ」ってことを問答無用で体感させる。こっちのアプローチの方がチームラボらしいと思う。
▲『坂の上にある光の滝』
▲『やわらかいブラックホール - あなたの身体は空間であり、空間は他者の身体である』
猪子 あのメッセージはね……。「ボーダレス」はあまりにも新しい概念すぎて、関係者内覧会でクレームの嵐だったの。「地図はないのか!」って。だからメッセージを置いて、ここは今までとは概念が違うんだってことを強く示しておかないと、もう苦情だらけだから。
宇野 それ自体がコンセプトだと分かってもらえなかったわけか。普通に迷うし、どこに何があるかも分からないから、特定の作品を観ようとしてもできないしね。「ボーダレス」も、あれはあれですごく良いんだけど、「プラネッツ」では問答無用で、しかも視覚だけじゃなくて触覚に訴えかけて入っていくところに感心した。
だから逆にね、もう問答無用で水の中に放り込む、くらいのほうが逆にいいと思うんんだよ。というか、アートとしてはむしろそれが正しいと思う。この「プラネッツ」は触覚に訴える作品が多いけれど、こうやっても視覚や聴覚以外の触覚や嗅覚といった人間の五感をハックすることで没入感を上げる表現には、まだまだ伸びしろがあると思ったね。
あと、『The Infinite Crystal Universe』(以下、『ユニバース』)は、今までの中でもダントツに完成度が高いと思う。
▲『The Infinite Crystal Universe』
猪子 そりゃそうだよ(笑)。
宇野 作っている本人は「そりゃそうだ」って感想かもしれないけどさ、過去にいろんなバージョンの『ユニバース』を観てきた僕からすると、やっぱり隔世の感があるよね。
以前からずっと言っていることだけど、『ユニバース』って部屋の広さが肝なんだよね。人間の想像力が勝って「この先に壁がある」と思われたら、ああいう空間の中に人間が飲み込まれてしまうような錯覚を起こさなきゃいけないタイプの作品は機能しない。やはり作品への没入感を出すためには、人間に空間を正確に把握「させない」工夫がいる。そのためにはどうしても『ユニバース』には「広さ」がいると思う。あれはまさに規模が質を担保している作品で、あの鏡張りの天井の高さと敷地の広さによって、本当に完成度が高くなっている。猪子さんが表現したかった没入感は、あれぐらいの規模があって初めて成立するんだなと思った。
あと、インタラクションが強化されていたのが地味に大きいんじゃないかな。目の前のインスタレーションの変化のどこからどこまでが自分に反応しているのか分かりづらいという『ユニバース』の弱点が明確に改良されていて、相当完成に近づいていると思うよ。
『人と共に踊る鯉によって描かれる水面のドローイング』(以下、『鯉』)はいつも通りなんだけど、ビジュアルはもうちょっと派手な方がいいと思った。前回の『鯉』の方が分かりやすい。今回の『鯉』は、なんとなく色が薄くなって、ちょっと上品になった気がした。
▲『人と共に踊る鯉によって描かれる水面のドローイング』
猪子 うーん、前回と特に変わっていないはずなんだけどね。解像度や輝度が上がってるから、そのせいかもしれない。あと、水を温かくしているから、気付かない程度に湯気が出ちゃうんだよね。それでぼやけているのかも。すぐ調整しよう。
宇野 唯一そこが気になったかな。
猪子 『冷たい生命』は?
▲『冷たい生命』
宇野 原型の『生命は生命の力で生きている』の方がいいと思った。まあ、裏側のワイヤーフレームが見えていないと『冷たい生命』とは言えないんだけどさ。これは単純な話で、「3DCGであること」自体が何か特別な意味を、はっきり言えば新しい視覚体験の象徴だった時代って、とっくに終わっているように感じちゃうわけね。本当はつい最近のことなんだけどさ。だから、ああいうものを見せられたときに新時代を感じるよりも、単に「普段僕らが見ているものはこう作ってるんだろうな」っていう舞台裏を見せられた気になっちゃうんだよね。「プラネッツ」は没入感を大事にしているわけだから、舞台裏を見せられた感じになるものは置かずに、もっと別のものを置いたほうがよかったかもしれない。贅沢を言うと、あそこに「書」があった方がいいと思った。たとえば『円相』とか。
猪子 なるほどね……面白い。
色のハックと密度のコントロールで没入感をつくる
宇野 今回一番良かったのは『意思を持ち変容する空間、広がる立体的存在 - 自由浮遊、平面化する3色と曖昧な9色』だね。一見、カラフルな球体が鑑賞者に反応していって、空間全体の色と音が変化するというタイプの作品なんだけど、意外といろいろな実験が試みられていて、ものすごく刺激的だった。
特に、色の変化の中で一瞬、目の前の視界が原色に覆われて空間がまるで平面のように見えるという仕掛けが良かった。
▲『意思を持ち変容する空間、広がる立体的存在 - 自由浮遊、平面化する3色と曖昧な9色』
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森田真功 関与するものの論理 村上龍と20-21世紀 第3回『オールド・テロリスト』と『希望の国のエクソダス』をめぐって(2)
2018-10-23 07:00
批評家の森田真功さんが、小説家・村上龍の作品を読み解く『関与するものの論理 村上龍と20-21世紀』。『希望の国のエクソダス』と『オールド・テロリスト』の両作品に登場するジャーナリストの関口は、〈関与の論理〉における決定的な変化を象徴しています。00年代から10年代にかけての、村上龍作品のコミットメントのあり方を問い直します。
日本の戦後史を否定する中学生たち
「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」
これは『希望の国のエクソダス』のクライマックスで、不登校の中学生たちを代表するポンちゃんという少年が、NHKの国会中継を通じて発した言葉だ。言葉の意味はともかく、非常にインパクトがあるし、実際にこの言葉の持つ強さを半ば是としながら『希望の国のエクソダス』の物語は幕を降ろすのである。
ポンちゃんは〈だが、希望がない〉の後に、こう続けていく。〈でも歴史的に考えてみると、それは当たり前だし、戦争のあとの廃墟の時代のように、希望だけがあるという時代よりはましだと思います。九〇年代、ぼくらが育ってきた時代ですが、バブルの反省だけがあって、誰もが自信をなくしていて、それでいて基本的には何も変わらなかった。今、考えてみると、ということですが、ぼくらはそういう大人の社会の優柔不断な考え方ややり方の犠牲になったのではないかと思います〉と。ここには2000年代の初頭に中学生、つまりは未成年であったり子供の立場であったりする彼らを主題に置くことの企図が、ほとんど要約されているといっていい。前のディケイド、90年代までを含めた日本の戦後史あるいは戦後史を築いてきた先行の世代に対する反動であるかのように、中学生たちの国外脱出(エクソダス)は立ち上がってくるのだ。
村上龍のキャリアを振り返ったとき、戦後の日本に向けた痛烈な否定は重要なモチーフであり、度々繰り返されてきたものである。それが『希望の国のエクソダス』では、ポンちゃんの言葉と不登校の中学生たちによる国外脱出とを通じ、具体化されている。新しい世代に古い世代への否定が託されるというのは、物語を見る上でわかりやすい。が、どうして国外脱出が試みられなければならないのか。ポンちゃんの言葉をもう少し追っておきたい。
ぼくは、この国には希望だけがないと言いました。果たして希望が人間にとってどうしても必要なのかどうか。ぼくらにはまだ結論がありません。しかし、この国のシステムに従属している限り、そのことを検証することは不可能です。希望がないということだけが明確な国の内部で、希望が人間になくてはならないものなのかどうかを考えるのは無理だとぼくらは判断しました。
たとえば、ある共同体が誤謬を抱えていると知っているにもかかわらず、その共同体に組することは、誤謬を認めること、誤謬に加担するということでもある。ポンちゃんの言葉は、そうした誤謬への加担を明らかに拒絶している。いうまでもなく、国家は巨大な共同体である。『希望の国のエクソダス』では、大量の中学生が学校や教室を国家の縮小したコピーだと実感している。そして、それが誤謬なき共同体では決してないことを指摘するために不登校が選ばれているのであった。彼らの不登校は、翻って戦後の日本でうやむやにされてきた誤謬からの離脱にまで拡大される。拡大していった結果として国外脱出が試みられていくのだ。
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世界が「木更津」化したあとに――『ごめんね青春!』(PLANETSアーカイブス)
2018-10-22 07:00
今朝のPLANETSアーカイブスは、宇野常寛による『ごめんね青春!』批評です。『木更津キャッツアイ』『あまちゃん』などで時代の空気を絶妙に掴んできたクドカンは、今作ではなぜこれまでのような切れ味を発揮できなかったのか? この10年余りの社会状況・情報環境の変化から考えます。(初出:『ダ・ヴィンチ』2015年3月号(KADOKAWA)) ※この記事は2015年3月13日に配信した記事の再配信です。
クドカンこと宮藤官九朗の最新作『ごめんね青春!』は、主にその低視聴率による「苦戦」で世間に知られる結果になってしまった。しかし、そもそも彼の作品が視聴率的にヒットしたのは東野圭吾原作の『流星の絆』くらいの話で他は良くてもスマッシュヒット、といったところだろう。二度も映画化されたロングセラー『木更津キャッツアイ』も本放送の視聴率はぱっとしなかったし、あの『あまちゃん』でさえも、内容的には凡作としか言いようがない『梅ちゃん先生』に平均視聴率では負けていた。クドカン作品の魅力とは、端的に述べれば広く浅く拡散していくものではなく、深く刺さるタイプのものなのだ。
だから僕は本作をその視聴率的苦戦をもって何か言おうとは思わない。現に僕自身、このドラマを毎週楽しみにしていて、最後まで面白く観ていたのは間違いない。
しかし残念ながらその一方で、僕はこのただ楽しく、面白いドラマに物足りなさを感じていたことも正直に告白しようと思う。もちろん、テレビドラマに楽しく面白い以上の価値は必要ない、という考えもあるだろう。しかし、少なくとも僕はクドカンドラマにそれだけではないものを感じてこれまで追いかけてきたのだ。
今思えば『池袋ウエストゲートパーク』はモラトリアムの「終わりの始まり」の物語だった。長瀬智也演じるマコトが思春期の終わりに、それまで足場にしていた「ジモト」のホモソーシャルの限界に直面する。そして同じ長瀬智也が主演を務めた『タイガー&ドラゴン』はいわゆる「アラサー」になった主人公が、若者のホモソーシャルとは一線を画した大家族的な共同体に軟着陸していく過程を描いていた。そして長瀬が32歳で主演を務めた『うぬぼれ刑事』は、完全に「おじさん」になった主人公がもう一度、大人のホモソーシャルに回帰していくさまを描いていった。要するに、クドカンは自分よりも8つ年下の長瀬智也の肉体を借りて男性の成熟を、歳の取り方を描いてきた作家でもあるのだ。同世代の同性たちからなる若者のホモソーシャルが加齢とともにゆるやかに解体し、やがて(擬似)家族的なものに回収されていく。しかしクドカンの想像力は教科書的な成熟と喪失の物語を選ぶことはなく、やがて男の魂は新しい、大人のホモソーシャルに回収されていったのだ。
クドカンのドラマから僕がいつも感じるのは、部活動的なホモソーシャルだけが人間を、特に男性を支えうるという確信と、その一方でこうしたホモソーシャルの脆弱さに対する悲しみだ。この確信と悲しみの往復運動が、クドカン作品における長瀬智也の演じるキャラクターの変遷をかたちづくり、あるいは『木更津キャッツアイ』シリーズでクドカンが描いてきた儚いユートピアのビジョンに結実していった。
この視点から『木更津キャッツアイ』について振り返るのならば、人間がこうした部活動的なホモソーシャル、同世代の、同性からなる非家族的な友愛の、「仲間」的なコミュニティに支えられたまま(「まっとうな近代人」の感覚からすればモラトリアムを継続したまま)歳をとって死んでいくという人生観を提示し、しかもそれを幸福なものとして描き出したところが衝撃的だったと言える。そして『タイガー&ドラゴン』以降の作品は、クドカン自身がこの『木更津キャッツアイ』で提示したものを自己批評的に展開していったものに他ならない。
思えばクドカンが台頭したゼロ年代は、「仲間主義」と「ホモソーシャル」の台頭した時代だった。90年代的な恋愛至上主義文化の反動から、恋愛やファミリーロマンスでは人間の欠落は埋められないという世界観が支持を集め、まず『ONE PIECE』的な仲間主義が台頭し、そして「日常系」アニメ(『けいおん!』『らき☆すた』)からAKB48、EXILEまでホモソーシャル(では正確にはない。これらのコミュニティには紅/緑一点の異性すらいない。ミソジニー傾向の代わりに、ボーイズ・ラブ的な友愛の関係性が支配している)の中での非生殖的、反家族的な関係性がジャンル越境的に国内ポップカルチャーにおいて支配的になっていった。そう、今思えば『木更津キャッツアイ』はその後10年に起こることを先取りしていた作品だった。
あれから10年余り、世界はある意味すっかり「木更津」化した。
若者向けのポップカルチャーはすっかり木更津キャッツアイ的な「ホモソーシャル2.0」の原理が支配的になった。『木更津キャッツアイ』は企画当初『柏キャッツアイ』であったことが象徴的だが、彼らがジモトを愛する理由は、そこに地縁と血縁があるからではなく、自分たちの「仲間」の思い出が、歴史があるからだ。だから同作に登場した青年たちは自分たちの内輪ネタとサブカルチャーの「小ネタ」で凡庸な郊外都市である木更津を、自分たちにとっての「聖地」に変えていった。
そして今、こうしたコンテンツ依存のジモト愛の喚起、町おこしはむしろ地方自治体の常套手段と言っても過言ではなくなった。2013年に社会現象的ブームを巻き起こし、後世にはおそらくクドカンの代表作として語り継がれるであろう『あまちゃん』の放映時に、舞台となった岩手県三陸地方がこうした「聖地」化によって大きくクローズアップされたことは記憶に新しい。
そう、この10年余りのあいだに、世界はすっかり「木更津」化したのだ。
クドカンの話に戻そう。クドカンの一連の試行錯誤の集大成が『あまちゃん』だったことは間違いない。クドカンはここで、戦後の消費社会史をアイドルというアイテムを用いて総括した。ここでは前述のクドカンがそれまで培ってきた「ジモト」への視線が、戦後社会の精神史を描く上で大きく寄与していたのだが、本作『ごめんね青春!』では『あまちゃん』では扱われなかった男性の成熟とモラトリアムの問題が再浮上することになった。本作のプロデューサーはTBSの磯山晶、『池袋ウエストゲートパーク』にはじまる一連の長瀬智也主演作品や『木更津キャッツアイ』を担当した人物だ。主役を務めるのは長瀬よりも6歳若い錦戸亮。彼が演じる高校教師が、勤務先の男子校と近所の女子校の合併のために尽力しながら、30歳になっても引きずっている青春の日のトラウマに決着をつける、という物語が展開した。
これは言い換えれば、『木更津キャッツアイ』で一度男女を分離した、少なくともロマンチック・ラブ・イデオロギーやファミリー・ロマンス信仰とは異なるかたちの救済を提示したクドカンが、もう一度男女を出会わせようとしたもの、とひとまずは言えるだろう。しかし、残念ながらこのコンセプトは物語前半で空中分解してしまった。
本作では当初激しかった主人公の属する男子校と、合併先の女子校との対立は物語の序盤(第三話)であっさりと解決する。男子生徒嫌いの急先鋒だった黒島結菜演じる女子校側の生徒会長が、自分たちはこれから「男子」と書いて「アリ」と読む、と宣言する。あまり気の利いたセリフ回しではないが、それはまあ、いいだろう。しかし、その後同作はホモソーシャル同士の衝突を正面から描くことはなくなり、端的に言ってただの学園ラブコメになってしまう。もちろん、ただの学園ラブコメであることが悪いわけではない。ただ、この瞬間にどうしてこの複雑な設定が存在するのか、その意味はなくなってしまった。
こうして「再び〈男女〉を出会わせる」というコンセプトを失ってしまった同作は、最終回へ向けて主人公の教師・平助のトラウマの解消、高校時代に犯した罪の告白と清算(彼なりの「青春」への決別)に焦点を移すことになる。そして、最終回で平助は自分が担任していた学年の卒業式に学生服で乱入し、自分の「卒業」を宣言して青春に別れを告げる。思春期の恋が生んだ葛藤にケリをつけて、次のステージに進む。教師をやめ、満島ひかり演じる女子校の教師と結婚し、自分は学校をやめて地元FM局のDJになる。大いに結構だが、ここで提示された「成熟」モデルが、僕にはどうにも魅力的なものには見えなかった。
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宇野常寛 NewsX vol.3 ゲスト:乙武洋匡「いま必要なのは、もっと『遅い』インターネットだ」【毎週金曜配信】
2018-10-19 07:00
宇野常寛が火曜日のキャスターを担当する番組「NewsX」(dTVチャンネル・ひかりTVチャンネル+にて放送中)の書き起こしをお届けします。9月18日に放送された第3回のテーマは「いま必要なのは、もっと『遅い』インターネットだ」。作家の乙武洋匡さんをゲストに迎えて、現在のインターネットが抱えるムラ社会化の問題と、かつての〈自由と平等〉の理念をいかに取り戻すかについて語り合います。(構成:籔和馬)
NewsX vol.3「いま必要なのは、もっと『遅い』インターネットだ」2018年9月18日放送ゲスト:乙武洋匡(作家) アシスタント:加藤るみ(タレント) アーカイブ動画はこちら
宇野常寛の担当する「NewsX」火曜日は毎週22:00より、dTVチャンネル、ひかりTVチャンネル+で生放送中です。アーカイブ動画は、「PLANETSチャンネル」「PLANETS CLUB」でも視聴できます。ご入会方法についての詳細は、以下のページをご覧ください。 ・PLANETSチャンネル ・PLANETS CLUB
「遅いインターネット」計画について考える
加藤 火曜NewsX、今日のゲストは作家の乙武洋匡さんです。乙武さんと宇野さんはこれまで何度も対談をされているそうですが、宇野さん、乙武さんはどんな方ですか?
宇野 乙武さんは、ハンディキャップがあることを逆手にとったしたたかなイメージ戦略と、それを上回る情熱が同居している面白い人なんだよね。ときどき情熱のほうが上回って炎上しているという。
加藤&乙武 (笑)。
乙武 ありがとうございます。
加藤 そして、今日のトークのテーマは「いま必要なのは、もっと『遅い』インターネットだ」としました。宇野さん、こちらは?
宇野 これは後で説明するんだけど、僕が40代をかけて実現しようと思っている、インターネットの使い方をもう一回見直してみようという、そういう運動ですね。PLANETSのVol.10という僕の新しい雑誌で、そのことを特集しているんですよ。明後日、渋谷ストリームで、この本の刊行イベントを乙武さんと、ほかにも前田裕二さんとか箕輪厚介さんを呼んで議論するわけなんだけど。あらためて乙武さんと一対一で、このテーマについて話してみたいと思ったの。なぜかというと、乙武さんは今の間違ったインターネットの最大の被害者だと思っていて、あの件は本当に酷いと憤っているんだけど、このタイミングでもう一回、話したいなと思ってお呼びしました。
乙武 ありがとうございます。
加藤 今日も三つのキーワードでトークしていきます。まず一つ目がこちらになります。キーワード1は「遅いインターネット」。
宇野 その名もズバリで、いきなり本題から入る感じなんだけど。やっぱり今のインターネットって息苦しいですよね。乙武さんは、そのターゲットになっちゃったわけなんだけど。 週刊誌とかワイドショーが週に一回、ちょっと目立ちすぎた人とか失敗した人に対して「こいつはやらかしてしまったから、石を投げていいぞ、叩いていいぞ」という号令をかけると、Twitterユーザーが一斉に石を投げてスッキリする。そして、安心する。自分たちはやらかしていない、まともな側なんだと。マジョリティの側なんだ。自分の人生はこれで肯定されるということで、一斉に石を投げるじゃない。そのことで、インターネットはすごく陰険な場になってしまったし、息苦しい場になってしまった。 本来、インターネットってすごく自由な場のはずだったのね。新聞とかテレビは、インターネットが生まれた頃には既得権益化していて。そこのひと握りのエリートが世の中を動かすとされていた。基本的に商業媒体だし、マジョリティに合わせて話題のレベルからチューニングされていて、マイノリティの意見は全然可視化されないんだけど、インターネットがあればそれが可能なんだと、僕らみんな夢を見ていた。 ところが、2014〜2015年ぐらいになると、むしろインターネットが一番息苦しい場所になっちゃったと思うんだよね。なんでそうなったのかを考えたときに、実は今のインターネットはちょっと速すぎると僕は思うんですよ。ちょっとというか、かなり速すぎる。炎上に参加したりクソリプを飛ばしたりするときに、実際にみんな考えているのかなと。 よく「自分はこの話題に関心がある」とか「この話題に賛成している」とリツイートするじゃない? でも、ほとんどの人はツイートの中身も吟味していないし、リンクがあっても元記事を読んでいないと思うのね。 人間というのは、単に新聞やテレビを受け取る側から、インターネットが普及し誰もが発信者になることで、もっと深く考えるようになるという前提で思考してきた。自分でものを書くようになると、もっと深く多角的にいろんなことを考えて、背景のことも勉強するだろうという前提で動いてきた。 だから、この先にあるのはメディアじゃなくて、プラットフォームなんだと。単に読むだけじゃなくて、読みながら発信する新しい読者を育てなきゃいけないんだとやってきた。でも、誰もが読み手だけじゃなく書き手にもなった結果、むしろ考えなくなった人がほとんど。誰かに石を投げたり、クソリプを送るとき、ほぼ人は考えていない。140字の背景も考えていなければ、元記事も調べてもいないし、下手すれば前後のツイートすら見ていない。 週に一回、生贄を選んで、その炎上だけで回転していく今のインターネットの速度って、僕は速すぎると思うんですよ。 だから、僕はそこに抗って、もう一回メディアに戻ろうと思っているんですね。コメント欄も封じて、できれば「はてなブックマーク」とか、あのあたりを全部ブロックして、今のインターネットのトレンドとかも全部無視して。炎上ネタとか流行りの話題とか全部無視して、5〜10年後も読み継がれるような質の高い記事を、Googleの検索順位の高いところに地道に置いていくという新しいウェブマガジンを作ろうと思っているんだよね。それが「遅いインターネット計画」。 この計画を始めようと言ったときに、僕が信頼している仲間をたくさん呼んで。村本大輔さんとか前田裕二さんを呼んで、座談会を開いて「僕はこんなことを考えているんですが、どう思いますか?」という話をして、そこに乙武さんも来てもらったわけなんです。今日はその話の続きをしたいなと思って、お呼びしました。
加藤 乙武さんは「遅いインターネット」の構想を聞いて、どう感じられましたか?
乙武 僕は普段から宇野さんの言葉選びのセンスみたいなものが大好きなんですよ。
宇野 自分でもすごいと思う。
乙武&加藤 (笑)。
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