東京マラソンのスタート直前。快晴で気温も8度と絶好のマラソン日和のはずだった…
東京マラソンのスタート直前。快晴で気温も8度と絶好のマラソン日和のはずだった…

 2月28日(日曜日)の午前9時、私は東京・新宿の都庁前に立っていた。待ちに待った東京マラソンに参加するためだ。出走前にランナー全員で「君が代」を斉唱した時、気分は最高潮に達していた。私はこの日のために、去年の夏から走り込んできたのだ。その練習の成果を示したいと燃えていた。

 今回で10回目を迎える東京マラソンは、3万7000人が参加する日本最大のマラソン大会だ(実際の出走者はフルマラソンが3万6172人、10km走が475人)。昨今のマラソンブームの火付け役ともなっており、抽選倍率は11倍を超える狭き門だ。新宿の都庁をスタートして皇居前を南下し、東京タワー・銀座・浅草などの名所を通りながら東京ビックサイトまでを走る。まさに、ランナーにとっては「晴れの舞台」とも言えるレースだ。

 ただ、私は不安も感じていた。前日の土曜日から胃に違和感を感じており、食欲はほとんどなかった。一般的にランナーは、レース前日からエネルギー源としてカーボ(炭水化物)を多めに摂取しておくことが望ましいとされている。「このまま何も食べないとガス欠になってしまう…」と不安に駆られた。

原因は睡眠不足とアルコール…か?

 体調不良の原因は疲れだったと思う。東京マラソン前の1週間、私は年に数えるほどしかないほど、忙しい日々を過ごしていた。「日経ビジネス」3月7日号の特集でデスクを担当しており、2人の記者とデザイナーの藤田美夏さん、そしてスポーツジャーナリストの西川結城氏などと連日、残業していた。

 今回の特集では、スポーツとビジネスの新しい関係に焦点を当てた。年初からの世界同時株安を思えば、「こんな緊急時に日経ビジネスはスポーツ特集か?」と怪訝に感じる読者もいらっしゃるかもしれない。しかし、特集班としてはむしろ、このような緊迫した状況だからこそ、スポーツが持つ力にフォーカスを当てたかったのだ。

 誤解を恐れずに言えば、日本では長らく、企業にとってスポーツは「庇護」する対象でしかなかった。企業がチームのスポンサーになるのは広告宣伝のためか、地域貢献のためだった。そのチームの戦績がどんなに優れていても本業にプラスになることはまれであり、だからこそ景気が悪くなるとスポンサーから降りる企業が相次いできた。企業を「主」とすれば、スポーツが「従」という関係が、日本では長らく続いてきたのだ。

 だが、スポーツには潜在的なパワーがある。トップアスリートが限界に臨む場は新商品・新技術の最も適した実験場であるし、一度に数万人が集まる特殊な環境は企業にこれまでにない知見を与え得る。あるいは特定の競技はアマチュアリズムに過度に縛られてきた結果、潜在的なビジネスチャンスを生かし切れていないケースも数多くある。

 企業とスポーツがお互いの能力を引き出しあう対等な関係を構築できれば、企業もスポーツも共に競争力を向上できる。それこそが、今回我々が読者の皆さんに伝えたかったことだ。だからこそ、現役のサッカー選手でありながら、世界最大のスポーツビジネス市場である米国に挑戦する本田圭佑氏に注目した。

 火曜日、水曜日、木曜日…。日を重ねるごとに編集作業は佳境に入ってくる。お互いのゲラを読み込み、改善すべき点を議論していると時間はあっという間に過ぎた。興奮した脳みそを落ち着かせるためには、アルコールの力も借りたのも1度や2度ではない(要するに飲みに行ったということですが…)。編集長の厳しいチェックを受け、22ページの特集が何とか「形」にまとまったのは、金曜日の夜遅くだった。

12km付近で早くも歩き出す

写真(左)東京マラソンはレース前日までにゼッケンを東京ビックサイトの特設会場に取りにいく必要がある。(右)会場にはスポンサー企業のブースが多数出展していた。一番広くて、最も気合いが入っていたのはアシックスのブースではないか。東京マラソン限定商品なども販売しており、たくさんの来場者を集めていた。
写真(左)東京マラソンはレース前日までにゼッケンを東京ビックサイトの特設会場に取りにいく必要がある。(右)会場にはスポンサー企業のブースが多数出展していた。一番広くて、最も気合いが入っていたのはアシックスのブースではないか。東京マラソン限定商品なども販売しており、たくさんの来場者を集めていた。

 胃の調子が悪かったので、「出走を取りやめる」という選択肢も頭をよぎった。だが、倍率が高い東京マラソンだけに、次にいつチャンスが巡ってくるか分からない。レース当日の朝、体調はかなり改善した。これなら行けると、私は自己責任で走ることを決めた。

 そして9時10分、スタートを知らせる号砲が鳴り響いた。都庁前を紙吹雪が舞う中、ランナー集団はゆっくりと歩き出す。Eブロックにいた私がスタート地点を通過したのは7分過ぎだった。最初の3kmぐらいは混んでいたので、転ばないように注意しながら走った。

 手元の走行記録を見ると、スタートから11kmぐらいまでは1kmを5分台で走っている。しかし、日比谷公園を過ぎた辺りから胃の痛みが無視できなくなってきて、12km付近で早くも歩き出してしまった。

 足の痛みであれば、ゆっくりと歩いたり、ストレッチをしたりすれば症状が改善することがある。ところが、胃の痛みはなかなか治らない。数分ごとにぶり返す胃の痛みをごまかしながら、歩いたり、走ったりの繰り返しだった。

オールスポーツコミュニティが提供する写真<a href="http://allsports.jp/tokyo_marathon/2016/"  target="_blank">サービス</a>。ランナーの生年月日とゼッケン番号を入力すると写真を閲覧・購入できる(パスワードが必要です)。私の場合、大半の写真で歩いていた。現実(=写真)は残酷だ。これでは「東京マラソン」ではなく「東京ウォーキング」だと改めて落ち込む…
オールスポーツコミュニティが提供する写真サービス。ランナーの生年月日とゼッケン番号を入力すると写真を閲覧・購入できる(パスワードが必要です)。私の場合、大半の写真で歩いていた。現実(=写真)は残酷だ。これでは「東京マラソン」ではなく「東京ウォーキング」だと改めて落ち込む…

 東京マラソンでは数kmごとに救護所があり、医療サービスが受けられる(その他に「ドクター」マークを付けた人が何人も走っていた)。20km付近の救護所に入り、胃のクスリがないかと尋ねた。すると対応してくれたドクターらしき男性には「胃薬なんてここにあるわけないじゃん。痛いならさぁ、リタイアしちゃえば?」と軽い口調で諭された。

 医者としては至極真っ当なアドバイスだと思う。ただ、「ああそうですか」と聞くわけにはいかない事情が私にはあった。東京マラソンに参加することをいろんな人に言ってしまっていたし、この日は友人や会社の同僚なども応援に来てくれていた。そうしたものを背負って走っているランナーの思いも(ちょっとぐらい)尊重してもらいたい…。そんな気持ちで救護所を後にした。

 実は、私には秘策があった。ポケットにコンビニエンスストアやドラッグストアなどで使えるクオカードを持っていたのだ。私の自宅の近くには薬局を併設したコンビニがあり、そこで何度もクスリを買っている。東京マラソンは東京のど真ん中を走るわけだし、必ずやこのクオカードで胃薬をゲットできるはず…と信じていた。

 25km付近だろうか、コース沿いに大手ドラッグストアチェーンの看板を見つけた。たしかこのチェーンならクオカードが使えたはずと思い、藁をもつかむ気持ちで私は店舗に駈け込んだ。

:「急に胃が痛くなってしまったので、クスリを下さい」

店員:「それなら○○○はどうですか?」

:「ではこれで…」

 とクオカードを差し出した瞬間、白衣を着た女性店員は申し訳なさそうに言った。

「神対応」に救ってもらった

店員:「あいにく、当店ではクオカードが使えません…」

 一瞬、気を失いそうになるが、何とか堪えて懇願した。

:「見ての通り、私はマラソンを走っている最中で現金を持っていません。ゼッケン番号を控えてもらってもいいし、携帯電話の番号も教えます。明日必ず払いに来ますから、何とかクスリをわけてくれませんか?」

店員:「あいにく、そういう処理はできません…」

 この店員さんに何の非もない。ただ、その機械的な対応に気持ちが折れそうになった。もう、諦めるしかないのか…。ところが女神はいた。後ろから声をかけてくれる女性が現れたのだ。

女性:「私が払いましょうか?」

 私は信じられなかった。見ず知らずの中年男性(しかも汗だくだ)のために、お金を払ってくれる人がいることを。しかもよく見ると若くて、綺麗な女性じゃないか!女性はクスリを飲むために、常温のミネラルウォーターを店の奥まで取りに行ってくれた。冷たい水だと、胃に刺激を与えてしまうという配慮からだ。

 こんな「神対応」をサラリとやってのける人がいる。そんな神々しい女性にマラソンレース中に出会えた軌跡。その事実に私はただ、驚いていた。

 結局、水代も含めて総額は1280円だった。後日お礼がしたいので、連絡先を教えてくださいと何度もお願いした。ただ、「そんなつもりではないので…」と女性は微笑んだままだった。私は申し訳ない気持ちや、これで痛みから解放されるかもしれないという安堵感から、(いつも以上に)顔はしわくちゃだったに違いない。丁重にお礼を申し上げ、私は店を後にした。

スタートから28kmで浅草雷門を折り返す。クスリを飲んで気力が回復したので、写真を撮る余裕も出てきた。遠くに見えるのは、東京の新名所である東京スカイツリー
スタートから28kmで浅草雷門を折り返す。クスリを飲んで気力が回復したので、写真を撮る余裕も出てきた。遠くに見えるのは、東京の新名所である東京スカイツリー

 コースに戻っても、すぐに走ることはできなかった。痛みが残っていたからではない。気持ちが高ぶって、息が整わなかったからだ。でも、もう立ち止まっていられない。助けてもらったご厚意に応えるためにも、何としても完走しなければならない。たとえ胃の痛みがぶり返したとしても、クスリを飲んだ私には強い気持ちが戻っていた。

 浅草の雷門で江戸通りを折り返し、再び銀座を目指す頃には気力は回復していた。不思議なもので、元気になると顔を上げ、周囲を見渡せるようになった。沿道で応援してくれている人々の顔は皆、笑顔だ。これこそが東京マラソンの凄みと感じた。他の大会に比べて、沿道からの応援は一桁多いと言えるだろう。

 スタートから30kmを超えた辺りからいつものように足も痛んできたが、今回は全くと言っていいほど気にならなかった。

5kmごとの記録は携帯電話で確認できる

 36kmで東京マラソンの最大の難所と言われる佃大橋があるのだが、その直前で編集長から差し入れをもらうこともできた。応援に来てくれていることは知っていたが、私のペースがあまりにも遅いために会うことはできないと諦めていた。

スタートから36km付近にある佃大橋は東京マラソンで最大の難所と言われる。この距離に長い上り坂を持ってくるコース配置が憎らしい…。私の周囲のランナーは皆、歩いていました
スタートから36km付近にある佃大橋は東京マラソンで最大の難所と言われる。この距離に長い上り坂を持ってくるコース配置が憎らしい…。私の周囲のランナーは皆、歩いていました

 だが、東京マラソンには他の大会と同じように「ランナーアップデート」というサービスが提供されている。これはランナーの番号や氏名を入力すると5kmごとのラップタイムや通過時刻が表示されるもの。これを見ればランナーがどこにいるかおおよそ予測できる。だからこそ編集長は、私が通る時刻を先回りして待っていてくれたのだ。走る人だけでなく、応援する人のことも考えて作られた素晴らしいサービスと言える。

 そしてゴール。タイムは5時間55分21秒だった。目標よりも1時間以上もオーバーしてしまったけれど、今日の体調を考えたら完走できただけでも大満足と言える。完走者だけに配られる大会オリジナルタオルを体に巻き、記念メダルを首にかけてもらうと、何とも誇らしい気持ちになった。

いろんなことを乗り越え、やっとゴール。これでフルマラソン歴は5回となった
いろんなことを乗り越え、やっとゴール。これでフルマラソン歴は5回となった

 東京マラソンはたくさんの企業が協賛しているので、完走者にはさまざまなプレゼントが提供された。

 個人的に嬉しかったのは、コニカミノルタの「FINISHER’s REPORT」だ。これは事前にFacebookかTwitterのアカウントを登録しておくと、10kmごとのタイムとゴールしたタイムを印刷して、その場で手渡してくれるサービスだ。SNS(交流サイト)と連携しているので、友人や知人の応援メッセージもリポートに一緒に載る。まさに、記念すべき1日の、世界でたった1枚のリポートとなる。いろいろと苦しいことはあったけれど、形のある記録が残るのは素直に嬉しい。

コニカミノルタの「FINISHER’s REPORT」。記録はグロスタイム(スタートの号砲が鳴ってからその人がゴールするまでの時間)ではなく、ネットタイム(その人がスタートラインを通過してからゴールするまでの正味の時間)で表示している。私はスタートラインを開始から7分ぐらい過ぎて通過しているので、ネットタイムは5時間48分30秒となる。少しでもタイムを良く見せたいランナーの気持ちに配慮したサービスだ
コニカミノルタの「FINISHER’s REPORT」。記録はグロスタイム(スタートの号砲が鳴ってからその人がゴールするまでの時間)ではなく、ネットタイム(その人がスタートラインを通過してからゴールするまでの正味の時間)で表示している。私はスタートラインを開始から7分ぐらい過ぎて通過しているので、ネットタイムは5時間48分30秒となる。少しでもタイムを良く見せたいランナーの気持ちに配慮したサービスだ
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東京マラソンの制限時間をもう少し延ばせないか

 感謝すべきはスポンサー企業だけではない。この日のために1万人以上の方がボランティアとして大会を支えてくれた。沿道からは100万人以上の人が応援してくれた。コース上は交通規制を敷いていたため、都内近郊の方々には、ご不便をおかけしたこともお詫びしなければならない。

 ただ、批判を承知で提案したいことがある。それは東京マラソンの制限時間を、現状の7時間から1時間でも2時間でも延ばしてほしいということだ。目的は「ビジネス」と「スポーツ」の関係をより強化するためだ。

 仮に制限時間を9時間にできれば、スタート時間を30分ずつずらすなどして出走者を格段に増やせる。走る人が増えれば、マラソンに興味を持つ人が広がり、スポンサーも確実に増えるだろう。その結果、300億円とも言われる東京マラソンの経済波及効果はもっと大きくなるのは間違いない。スポーツとビジネスがお互いの強みを引き出す、良い循環をより大きく回すためには制限時間の延長が最も効果的だと思う。

 国内トップ大会である東京マラソンの拡大は、日本におけるランニング文化の定着にも寄与するはずだ。それは国民全体の健康増進にもつながることだ。

 「お金を払ってまで苦しむ(=走る)なんて理解できない」という人もいるだろう。私も2年前に走り始めるまでは全く同じ考えを持っていた。そういう人には、騙されたと思って一度走ってみてもらいたい。

 天下の公道の真ん中を走る快感、数万人からの絶え間ない声援、そして42.195kmを走り終えた達成感、あるいはランニングを通じて知り合った人々との交流…人それぞれ価値観は異なるけれど、きっと走るメリットを感じてもらえるはずだ。この日私が図らずも証明したように、ほとんど歩いていても、6時間ぐらいでフルマラソンは完走できてしまうのだ。

 最後に、途中で助けていただいた女性にもう一度お礼を申し上げたい。あなたのおかげで、私は東京マラソンを完走できました。よっぽどの幸運に恵まれない限り、再びお目にかかることはないでしょう。直接お礼することはできませんが、私もあなたと同じように困っている人を助けます。そして、2人の娘を、見ず知らずの人にも親切にできる人間に育てます。それが今の私にできることです。

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