「日本版GPS」、正確には準天頂衛星システム(QZSS)「みちびき」の本格運用が2018年度から始まる。2017年10月10日、三菱重工業と宇宙航空研究開発機構(JAXA)はみちびきの4号機を打ち上げた。初号機は2010年9月11日に打ち上げられたが、4機体制となったことで本格運用がいよいよ開始される。
みちびきは、人工衛星からの測位信号(電波)を使って位置情報を算出するGNSS(測位衛星システム)の1つ。GNSSでは米国のGPS(全地球測位システム)が最もよく利用されており、代名詞的な存在である。このGPSよりも高精度の位置情報を安定的に提供するみちびきの本格運用には、各産業から大きな期待が寄せられている。スポーツ界も例外ではない。
既にスポーツ分野では、ランニング愛好家がスマートフォン(スマホ)やGPSを内蔵した時計を使って走行データを記録していたり、サッカーやラグビーなどでGPSデバイスを用いた選手のコンディション管理を行ったりしている(*注1)。みちびきの本格運用は、スポーツ界でGNSSを使った新たなソリューションを生み、活用を幅を広げると期待されている。
24時間、天頂付近に見える
みちびきのインパクトを端的に言えば、これまでのGPSのみを使う測位に比べ、「国内ではどこでも、いつでもより精度が高い測位が可能になる」ことだ。GPSの測位誤差は理論上1m以下とされているが、実際には「一般に10m程度、悪い場合は数十m」と言われる。これに対してみちびきでは、多くの場合で“理論値”に近い精度が得られる上、みちびきが配信する「センチメーター級測位補強サービス(CLAS:Centimeter Level Augmentation Service)信号」に対応する受信機を使えば、数cmオーダーの精度での測位が可能である。
GNSSでは、人工衛星が発する電波を受信してそこまでの距離を計算。測位には原理上、最低で4機、安定した計測には8機以上の人工衛星を捉える必要があるとされている。ところが、現状、31機体制のGPSは地球全体に配置されているため、利用できる(受信機から見通せる)人工衛星はどの地点でもおおむね6機程度という。
ビルが多い都市部や山の陰ができる山間部ではさらに条件が厳しくなる。そもそも電波が届かず測定できなかったり、ビルや山などの“障害物”に電波が反射して誤差が生じる「マルチパス」という問題が起こる。反射した電波は受信機に到達するまでの時間に遅れを生じるため、その分距離が「遠い」と計測されて誤差の要因となるのだ。
「準天頂軌道」という、日本、そしてインドネシアやオーストラリアの上空を八の字を描いて飛行するみちびきは、こうしたGPSの課題を改善する。
みちびきはGPSとほぼ同様の信号(補完信号)を送信するため、GPSと一体で利用できる。現在の1機体制では日本の天頂付近に8時間しかいないが、2018年度には24時間見えるようになる。つまり、都市部や山間部であってもたいていの場所で、天頂付近から正確な電波を受信できる。マルチパスの誤差を回避できるのだ。
さらに、日本付近からは仰角20度以上に16時間とどまるため、4機体制であればおおむね3機を測位に利用できる。GPSを6機使える場合、合計して9機体制となり、測位の安定性が増す。
「マルチGNSS」がトレンドに
国内ではみちびきの本格運用が大きなトピックだが、近年、世界各国もGNSSの運用を強化している。ロシアの「GLONASS」、欧州の「Galileo」、中国の「BeiDou」などが運用されており、今後もその数は増える見通しだ。
みちびきを含め、こうした複数のGNSSを同時に活用する「マルチGNSS」は、従来のGPS単独よりも高精度で安定した測位を実現するため、多くの産業界で実用化が進むのは間違いない。
「コース取り」の違いをコーチング
では、みちびきを含むマルチGNSSの活用は、スポーツ界にどのようなインパクトをもたらすのか。実証実験などから見えてきた“可能性”を紹介しよう。
期待できる応用には、(1)マラソンやランニングでの新しいコーチングやトレーニング、(2)トレイルランなど山岳スポーツの安全性の向上、(3)試合や練習での選手のトラッキングを通じた戦略構築への活用、(4)テニスなどで選手ごとのプレースタイルの分析を通じた最適なシューズ選定、などがある。
この分野で多くの知見を蓄積しているのが、内閣府の委託事業「スポーツ分野における宇宙関連新産業・新サービス創出に係わる調査」(2017年3月31日終了)を受託していたアシックスだ。同社は調査の一貫として、みちびき1号機を使ったスポーツトラッキングの実験を複数行った。
例えば、2016年11月20日に開催された神戸マラソンでは、スマートウオッチを用いた「リアルタイムコーチング」の実験をした。
トップレベルのランナーが、みちびきに対応した受信機を背負って走り、後続のランナーに走行軌跡の情報をリアルタイムに送信。スマートウオッチを着けた後続の一般ランナーは、「コース取り」を参考にできるというものだ。
通常のGPSデバイスでは、10m程度の誤差が出るためコース取りのデータを正確に取得できなかった。神戸マラソンの時期はみちびきが天頂付近におり、1m程度の誤差でデータを取得できたという。
レース後に約7.5km地点にある通称「鷹取シケイン」というS字コーナーのコース取りを分析した。2時間50分で走ったトップランナーは直線的にコース取りをして速度が一定だった。一方、5時間30分台のランナーは、カーブの内側に入る意識が強すぎて減速していた。シケインでの走行距離もトップランナーが1.2m短いことも分かった。
「トレイルランでの安全性向上に威力を発揮するかもしれない」。アシックスで測位技術のスポーツ活用などについて研究している、同社スポーツ工学研究所IoT担当マネジャーの坂本賢志氏は、トレイルランでの活用に期待を寄せる。
山の中のコースを駆け抜けるトレイルランは危険なスポーツで、ケガをする選手も多い。例えば、レース本番の前日に試走しても、その後、雨が降ると水たまりができ、それをレース中によけられなくてケガをすることもある。神戸マラソンの実験と同様、みちびき対応の受信機を着けたトップランナーが、コース取りを後続の一般ランナーに知らせるという使い方は“十分あり”と踏んでいる。
「ケガの予防」だけでなく「戦略分析」も
ここ数年、サッカーやラグビーなどの競技でGPSデバイスの活用が広がっている。GPSを使って選手の動きをトラッキングし、そのデータを蓄積してコンディションを管理したり、ケガのリスクを低減したりするのが目的である。
この市場をリードしているのがオーストラリアのCatapult(カタパルト)社で、同社の一部機種は既にマルチGNSSに対応している(GPSとGLONASSに対応、みちびきは非対応)。
ただし、現状では大半のデバイスがGPSのみを使っているため、トラッキングデータをもとにした戦略分析などには使えない。戦略分析には選手の位置関係の把握が重要になるが、GPSレベルの誤差では不十分なのだ。それが、みちびきを含むマルチGNSS対応になれば可能になる、との期待は大きい。
「スポーツ界では今、データを『取る』ことが主眼になっているが、本来はデータを処理し、可視化してコーチが意思決定や戦略分析に使えるようにすることが重要だ。マルチGNSSデバイスの普及は、そうした流れを促す」と、宇宙関連とスポーツ界の事情に詳しい、慶應義塾大学SDM研究科准教授の神武直彦氏は期待する。
慶應義塾体育会蹴球部(ラグビー部)では同氏の研究室のサポートの下、1万円程度で販売されている市販のマルチGNSSデバイス(スポーツ用ではない)で試合中の選手の走行距離や速度、加速度などのデータを取得。プレー速度を上げるために加速度データを活用したり、ディフェンスの状況確認にドローン空撮映像と選手のマルチGNSSのデータを合わせて分析したりしているという。
もちろん、スポーツの戦略分析ではカメラの映像から選手の動きをトラッキングするツールなどが使われているが、みちびきを含むマルチGNSS対応デバイスを使えば、映像からのデータ取得よりも精度が高くなる上、価格も安くなると見ている。
プレースタイルに合ったシューズ選び
こんな応用提案もある。アシックスの坂本氏によると、テニスなどでプレースタイルに合ったシューズ選びの支援に使える可能性があるという。
一般にテニスでは、ベースライン付近でプレーする「ベースライナー」と、サーブを打ったら前に出てネットプレーをする「サーブ&ボレーヤー」というプレースタイルがある。両者で動きの質がかなり異なるため、アシックスではそれぞれに適したシューズを用意している。
同社が提案するのは、シューズの購入を検討している選手にマルチGNSSデバイスを装着してプレースタイルを見極め、最適なシューズを薦めるという使い方だ。実際にみちびき対応のデバイスで実験したところ、分析が可能なレベルだったという。都会にあるテニスコートはビルに囲まれていることも多く、みちびきの本格運用でこうした使い方も可能になると見ている。
テニスに限らず、ポジションごとに動きの特性が異なる競技では、トラッキングデータの蓄積によって、ポジションごとに最適な用具開発という新たな取り組みも生まれるかもしれない。
高性能スマホがみちびき対応
もっとも、マルチGNSSデバイスがスポーツ分野で広く活用されていくためには、現状ではクリアすべき課題もいくつかある。
まず、小型で低消費電力、そして安価なチップを容易に入手できるようになることだ。基本的に測位精度を向上するためには、人工衛星の捕捉数を増やす必要がある。ただし、そのために「チップのチャンネル数を増やすほど、データの処理時間がかかり、電力消費も高まる。つまり、精度と処理時間・消費電力はトレードオフの関係がある」と神武氏は指摘する。
加えて、デバイスの設計にも工夫が求められる。多くの人工衛星の電波を受信するため、アンテナ設計の難易度が高まる。さらに、ラグビーやサッカーなど選手同士がぶつかり合うコンタクトスポーツに応用するには、耐衝撃性や防水性の確保も必要になる。
しかし、明るい兆しは見えている。既に米Apple社の「iPhone 7」やAndroid版のハイエンドのスマホには、みちびきに対応したマルチGNSSチップが搭載されている。
テクノロジーの進化の歴史を振り返ると、量産規模が大きいパソコンやスマホに採用された技術は、短期間に課題が解決され、価格が急速に安くなっていく。マルチGNSS対応チップが、量産規模が大きいスマホで搭載が始まっているという事実は、上記のような高精度な測位技術を活用した新たなスポーツ向けソリューションが誕生する予兆とも言えそうだ。
[スポーツイノベイターズ オンライン 2017年5月31日付の記事を再構成]
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