小学校の玄関。ドアにはテロの危険度最高を示す張り紙。地面には「私はシャルリー」のペイントが残されていた

  1月7日水曜日、私は自宅で昼食をとった後、仕事の約束で外に出ようと、アパルトマンを出ると、ドアの締まる音が聞こえたのか、隣人が飛び出して来た。いつになく彼女の顔がシリアスだ。

「ako、今からどこへ行くっていうの? さっき11区で何が起こったか知っている?」

永末アコ
ジャーナリスト/クリエイター
1996年よりパリ在住。フランス人の夫と2人の子どもと共に、パリ左岸のアパルトマンに暮らす。光とオブジェのアーティス トとして、また、フランスのライフスタイルや食文化の情報を発信するライターとして活躍中。2009年には「かわいいだけじゃ暮らせない akoからはじまるパリのABC」(飯塚書店)を出版。2011年にはApp Storeより電子書籍「パリのアン・ドゥ・トワァ」を販売中。

 そう言って私に、ほんの2時間もしない前に起こったシャルリー・エブド新聞社襲撃事件を知らせてくれた。私は外出をとりやめて、着たばかりのコートを脱ぐと、すぐにフィガロ紙のネット版にアクセスをした。

 あの津波が日本の東北地方をのみ込んで行く、上空からの映像を見た時のショックには勝らずとも、ネットの速報記事を読みながら、血が引いていくのを感じた。シャルリー・エブド新聞社は、私が住む13区から自転車でも10分ほどの場所。サイレンの音が嫌に多く聞こえてくることにも気がついた。

 事件を知らせてくれた隣人の若いマダムは小学校の先生だが、出産したばかりで育児休暇をとって家にいる。夫も小学校の先生で、授業が午前のみの水曜日の午後は、普段なら課外活動のスポーツクラブのコーチをするが、その日の課外活動は急遽中止になって、直ぐ家に戻って来ると言う。

「学校に行っている私の子供たちは、どうしているのだろう」。その日は彼らが戻るまで、私は何も手につかなくなった。

 テロは翌8日木曜日にパリ南のモンルージュ、9日にパリ東のポルト・ドゥ・ヴァンセンヌでも起きた。

 東京の山手線内くらいほどしか面積のないパリだから、どこも馴染みのある場所だ。その後3つのテロの犯人が射殺されるまでの3日間、サイレンが絶え間なく街のあちらこちらから聞こえ、ヘリコプターの音が空気を揺らし続けた。

 今でもサイレンの音が聞こえると「またどこかで?」と体が固くなり、時々フィガロ紙のネット版の速報にアクセスしてしまう。

13日の新聞「ディレクトマタン」

 宗教がらみの争いは複雑で根が深く、簡単に終わらない。「家族や友人に何事も起こらないでほしい。平和な日々が戻ってきますように」。数日前まで抱えていたはずの小さな悩みなどすっ飛んで、それが今一番の願いだ。学校に行った子供がその日、無事に帰ってきますようにと願う毎日なんて、悪夢でしかない。

 そして、シャルリー・エブド新聞社襲撃の翌日に、もう一つ、心配をしたことがあった。「これがイスラム教徒への憎しみに発展しないで欲しい」と言うことだ。

 それは戦争に発展するかもしれない、と言う感覚から来る怖さではない。普通にフランスで生活している罪の無い穏やかなイスラム教徒たちに対する、これから起きるであろう差別への恐怖。そして、彼らの心の痛みへのシンパシーだった。

 それは、シャルリー・エブド新聞社襲撃の翌日、小学校から帰って来た息子の言葉から始まった。

 「ヤシン(アルジェリア系フランス人の友達)が今日、泣きそうになって言っていたよ。今頃、ルペン(ジャン=マリー・ル・ペン、フランスの極右政党前党首)が両手をすりすりしてこっそり喜んでいるだろうって、ヤシンのママとパパが言っているのだって」

 そして続けた。「イスラム教徒はフランスでいじめられて、追い出されるかもしれないって」。

 息子と同じサッカークラブにも所属するヤシンは、くりくりした大きな黒い目とくるくるした髪の可愛い男の子だ。会うたびに「ボンジュール、マダム!」と私に笑顔で元気に声をかけてくれる。

 パリでイスラム教徒の家庭に生まれた彼は、給食で豚肉を食べない以外は、 普段の生活で何一つ他の子供達との違いはない。時々見かけるヤシンのママンは、母国の名残の油の多い食生活のせいか、ラマダンのリバウンドか、パリの多くのイスラム教徒の女性に見られるようにふっくらとして、それを隠すようなゆったりとした服を着ている。黒い目はどこか厳しそうだが、おおらかな笑顔をいつもたたえて、礼儀正しいきれいなフランス語を話す。

 そんな、この国に何万といる何の罪もないイスラム教徒たちが、震え始めている…。

 しかしその心配は その翌日、なくなった(と、言えるだろう)。

 シャルリー・エブド新聞社を襲撃したテロリストを追い、市民を守ろうとして射殺された警察官の一人が、イスラム教徒だったことがわかったのだ。

 今「私はシャルリー」に続いて、イスラム教徒やイスラム教徒をファミリーや友人に持つ人々は「私はアメッド」(この殉職したイスラム教徒警官の名で「アメッドの心は死んでいない」の意味)のプラカードを掲げる。そして沢山のフランスに住むイスラム教徒たちが「アメッド 、私たちの未来を守ってくれてありがとう」と心の底から、彼がいる天国に向かって言う。

 アメッドが笑っている写真をメディアで見た。好感度の高い、気さくで頼りがいのありそうな、大きな体の42歳のフランス人男性だった。彼はフランスのイスラム教徒、ひいては世界の罪のないイスラム教徒たちを、死をもって守ったのだ。

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