今月末に官邸前のデモを見に行くつもりでいるのだが、その前に感想を述べておきたい。
なぜ、自分の目で見る前に原稿を書くのか、疑問に思う人もだろう。
が、私としては、ナマで見た景色に動かされる前に、現状で考えていることを書き留めておきたいのだ。
デモのような集団行動は、巨大な心理的圧力を備えている。
当然と言えば当然だ。
人が集まることの効果の大きさを知っているからこそ、人々はデモを企画するのだし、規制する側も、デモのもたらす影響力の底しれなさを恐れるからこそ、その拡大を阻止せんとしている。
包囲されることになる霞が関の関係者も同じだ。
彼らとて、人の波の影響から無縁ではいられない。
数万の人間の渦を目の前にして、霞が関の人々は、おそらく、日常の判断とは別の感慨を抱くことになる。で、その感慨は、彼らの考えを少しずつ動かすはずなのだ。
結局、ひとつの場所に集まった人々は、集まったというその事実を通じて、ものの考え方の前提に当たる部分を変更して行く。
と、集まった人間たちの思考は、結果として、ひとつの実体を獲得するに至るのである。
私自身も、実際にデモの中を歩いたら、数万人規模の人間の群れが醸し出す圧力に影響を受けるはずだ。どっちに転ぶのか(つまり、昂揚感を感じるのか疎外感を感じるのか)は、歩いてみないとわからないが、いずれにしろ、私は傍観者としての視点を失うだろう。
【注】「大飯原発再稼働に反対する首相官邸前抗議」は「行進」ではありません。主催者からの注意はこちら
そんなわけなので、ここでは、デモの輪の中に入る私が、デモの当事者(反対派であれ賛成派であれ)になってしまう前に、現状の状態で考えているあれこれを書いておくことにする。あの時のオレは、何も知らなかったとかなんとか、あとで笑うことになるかもしれないが、そこはそれだ。何も知らなかった時に考えていたことは、それはそれで価値を持っている。というよりも、もしかしたら、われわれの判断は、経験に毒される前の方が、純粋であるのかもしれない。
私は、今回の一連のデモを、感心して眺めている。
単純な話、こんな時代に万を数える人間を集めただけでも立派だと思っている。
なにより、毎週頭数を増やしながら、一人の負傷者も出していない点が素晴らしい。
逮捕者もゼロ。これも驚異的だ。
器物損壊や略奪の噂も聞こえてこない。
小競り合いや熱中症の話も皆無。
ゴミのポイ捨て映像がネットにアップされることさえない。
なんというお行儀の良さだろうか。
三百人規模の高校生の修学旅行だって、もうすこしカオスな部分を残している。高校生がそれだけ集まれば、配られた弁当の人参を路上に廃棄する生徒が、少なくとも五人や六人はあらわれる。進学校でも底辺校でもこの比率はそんなに変わらない。
それが、官邸前に集結した数万人の老若男女は、特に目立った悪さをすることなくコースを無事歩き通している。しかも、時間通りに粛々と解散した後には、ほとんどまったくゴミを残していない。こんな見事なデモがどこの世界にあるだろうか。
おそらく、国際標準と照らし合わせて、これほど無害なデモはほかの国では見られないはずだ。
「ニポン人はイワシのように整然と動く」
「見ろ、人が少しもゴミのようじゃない」
素晴らしい。われわれは自分たちの民度の高さを誇って良いはずだ。
さてしかし、一連のデモにおける参加者お行儀の良さについて、主に年配の人々が違和感を表明していることもまた事実ではある。
彼らは不思議がっている。
「なぜジグザグに行進しない」
「信じられない。おとなしすぎる」
「葬列かよ」
「気迫とか覚悟とか闘志とかがまったく感じられない」
「目的が曖昧だ」
「リスクを冒していない」
言わんとしているところは、わかる。
70年安保やその前後の大学紛争をくぐり抜けてきた世代は、官邸前の集団を、「デモ」とは認めない。
彼らは、「包囲せず」「破壊せず」「投石せず」、あくまでも整然と歩いている。そして、「居座らず」「座り込まず」「居残らず」に、スケジュール通りに、粛々と解散している。安保世代の人たちからすれば、こんなものはデモではない。
しかも、行進のコース取りは、原則警察の指示通りで、のみならず、解散を呼びかける時には、デモ主催者が警察にハンドマイクを借りているというではないか。
「警察主催かよ」
「でなくても、警察と共催ぐらいだわな」
「なぜ闘わない」
逮捕覚悟でデモに繰り出していた人々の目には、警察の人々とのコラボレーションを得ながら繰り広げられているこの度の一連のデモは、あまりにも迫力を欠いた行動として映っていることだろう。
私自身は、七十年安保には乗り遅れた世代だ。大学紛争とも無縁だった。
が、先行する時代のデモの雰囲気を多少は知っている。以下、私が瞥見した「昔のデモ」について書き残しておく。
最初に目撃したのは、「王子野戦病院反対闘争」だ。
調べてみると、闘争が活発化したのは1968年の3月で、翌69年には米軍が病院の閉鎖を発表している。ということは、闘争は約一年間、散発的に続いていたことになる。なるほど。
で、その折の、警官と学生側の衝突の一部を、私は目撃しているのだ。
1968年の3月、私は小学校5年生で、ちょうど同じ北区の堀船というところにある英語塾に通い始めた頃だった。
私は、当時はまだ廃止されていなかった27系統(赤羽~三ノ輪間)の都電に乗って、家の前の停留所(「岩渕二丁目」だったと思う)から、「梶原」という駅までの区間を通っていた。ちなみに運賃は子供15円だった。
その都電の中から、デモの様子を見ている。
記憶では、私が乗っていた車両は、デモ隊と機動隊が衝突している現場から500メートルほど離れた王子二丁目あたりで30分ほど立ち往生していた。周囲は見物の群衆で身動きがとれない状態だった。
投石や放火の現場を見たわけではなかったが、群衆のアタマ越しに、ゲバ棒を持った学生の一群と、盾を構えた機動隊の姿を瞥見することができた。
で、私は、この景色を見て以来、完全に学生側のファンになった。
不思議ななりゆきだ。
それまで、親や教師の受け売りで、学生運動に対しては、「けしからん」「親のスネをかじっていながら何を勝手なことを」ぐらいに思っていたのだが、実物の反代々木系の学生を見て、なんというのか、そのムードに魅了されたわけだ。
これは、言葉では説明しにくい感覚だ。
集まって密集しながらヘルメットとタオルで顔を覆い、ガチャガチャと音を立てている学生の方が、ジュラルミンの盾の後ろに身を隠している重装備の機動隊よりも、絵柄として、断然、魅力的に見えたということかもしれない。
とにかく、私の目から見て、学生たちの幾分悲劇性を帯びた隊列の様相は、著しく魅力的に見えたのである。
結局、英語塾に通う間、学生のデモを見たのはその折の一度だけだったが、デモの残骸(剥がれた敷石や、ガラス片や、地面に残った焦げ跡)は、何回か目撃した。で、そういうデモの焼け跡に触れる度に、私は、非常に心躍る気分を味わったのである。
人が集まるというのは、そういうことだ。
思想だとか政治的理念とは別に、景色や音や集まっている人間の興奮を通じて、われわれは群衆のエネルギーに魅了されるのである。
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