今回はTPP(環太平洋経済連携協定)への交渉参加問題に触れざるを得ない雲行きだ。
私の考えは、いまだに定まっていない。
その一方で、〆切は、既に目前にある。
かように、私自身の状況(考えがあやふやなのに〆切が来ている状況)は、野田総理が直面している事態(党の議論が紛糾する中で訪米前に態度を決定せねばならない事態)と、なんだかとても良く似ている。
今回は、迷っている時の結論の出し方について考えてみることにする。
悪くすると、結論を提示できなかった場合のフォローの仕方について、ということになるかもしれない。
自分ながら確たる結論を持っていないにもかかわらず原稿を書かねばならないケースは、私のようなタイプの書き手にとって、珍しい出来事ではない。日常茶飯事と言っても良い。
〆切は毎週やってくる。が、私の頭脳は、週に一個ずつ結論を提示できるだけの生産性を備えていない。
結果、当欄のテキストは、毎回、行きつ戻りつを繰り返しながら、旗幟鮮明な言説を打ち出せぬまま、狸の落ち葉みたいな読後感を提供するにとどまっている。
それでも、ウェブ上の原稿が優柔不断だからといって、国民生活に壊滅的な被害が及ぶわけではない。
コラムニストは、結論発行業者ではない。むしろ、迷妄と雑念を業とする者だ。であるからして、結論にたどりつけなかった経緯を率直に書いて、それが芸風として成立しているのなら、とりあえずはOKということになる。甘い稼業だ。
政治家の場合、そうは行かない。
二枚目の俳優なら、迷っている横顔に味があるぐらいな解釈も可能だろうし、思い惑うパティシエや思案に暮れるバーテンダーなんかも、それはそれで魅力的かもしれない。でも、職業的な政治家にとって、遅疑逡巡は致命的な失策だ。なんとなれば、彼らのなりわいは、決断を代行するところにあるからだ。
その意味で、政治家はサッカー選手に似ている。
ペナルティエリアにおいて、不決断は誤った決断よりも悪い。
パスとシュートのいずれが正しいのかは、神のみぞ知るところで、つまり、誰にもわからない。
が、最悪の決断だけは常にはっきりしている。それは、決断しないこと、すなわち、パスを出すべきなのかシュートを撃つべきなのか迷っているうちに囲まれてボールを奪われる事態だ。枠を外したシュートであれ、届かないパスであれ、逡巡の結果としての無意味なボール保持よりは数段マシなのだ。
ゆえに、野田総理は決断せねばならない。
たいへんな重責だ。
先日来、首相は、「国益」という言葉を繰り返している。
11月9日の日経新聞は、次のように伝えている。
《首相は記者団に「交渉に参加するということは、しっかりと国益を実現するために自分たちがイニシアチブをとりながら、対応することだ」とTPP交渉参加に意欲を示した。交渉参加後の途中離脱については「離脱うんぬんではなく国益を実現するために全力を尽くす」と否定的だった。》
立派な覚悟だと思う。
しかしながら、今回のケースにおける「国益」は、単純なタームではない。
交渉への参加が国益にかなっているのかどうか、判明するのは、おそらくずっと先の話だ。
現状ではっきりしているのは、交渉参加(および加盟)によって利益を得る者と、損害を被る者が出ることだ。ということはつまり、「国益」は、これから先しばらくの間、分裂した形で表現されるわけだ。
TPPは、少なくとも短期的には、農業全般に被害を及ぼし、輸出産業には追い風をもたらす。だからこそ、議論は「国益」という大きな枠組についてではなく、区々たる業界の、それぞれの利害をめぐって白熱している。
結局、領土の拡大や、戦争における勝利といったような、「全国民にとっての利益」という意味での「国益」は、当件に関しては、とりあえず目に見える形では存在しないわけで、TPPは、禍福吉凶の両面を各方面にもたらす、評価の難しい課題として、われわれの前に立ちはだかっているのである。
国益を担う主語が小さくなれば、ある程度景色は見える。
輸出産業にとって福音であり、農業にとって脅威である点は、現時点でもほぼわかっている。医療にとって、あるいは、著作権者や司法や行政サービスや派遣労働者にとってポジティブな話なのかどうかについては、議論が分かれている。が、それでも、「国益」と大きく構えられるよりは、ずっとわかりやすい。
むずかしいのは、いずれの意見を汲み、どんな人々の立場を尊重し、どの方面に煮え湯を呑んで貰い、誰を切り捨てるのが、長い目で見た場合の国益であるのかを見極めることだ。これは、結果が出てみないとわからない。
「自動車やITみたいな日本の基幹産業が、TPP不参加によって韓国企業に遅れを取るようなことになったら、それこそその被害は、全産業、全国民に及ぶことになる。だとすれば、結論は明らかじゃないか」
「基幹産業は、多少のハンデがあってもやっていけるだろ? 過去にだって、ひどい円高やらリーマン・ショックやらをくぐり抜けてきたんだし。でも、農業は、関税による保護を失ったら完全に壊滅だ。ってことは、ひとまず基礎体力のある産業が我慢すべきだってことにならないか?」
「でも、実際のところ、専業の農業従事者なんて、微々たる数なわけでさ」
「微々たる人口なら滅亡しても構わないと?」
「いや、仮に誰かが衰退しないといけないのなら、なるべく経済的にインパクトの小さい人たちに衰退してもらうのがお国のためだということだよ」
「でもさ。経済的なインパクトのデカいグローバルな輸出産業は、結局のところ、多国籍企業なわけで、だとすると、彼らの利益がそのまま日本の国益であるとは言い切れないんじゃないか?」
「そうは言っても、彼らの活力が日本経済の活力なのは事実で、それが衰退したら、お前の大好きなドメスティックな国粋企業も軒並み討ち死にだぞ」
「そりゃ、強欲な国際金融資本や無国籍なグローバル企業の拝金主義者にとって、市場は広大でシンプルでのっぺらぼうな方が都合が良いんだろうけど、オレら低所得層にしてみれば、アジアやアフリカの労働力と就職機会を競う事態はそんなに素敵な未来じゃないぜ」
「っていうか、国益をどうこうする以前に、アメリカの言いなりっていうのが気に食わないわけだが」
「だよな。どうせTPPなんてアメリカがうちの国を食い物にするための踏み絵なんだろうから」
「そんなわけないだろ。考えてもみろよ。どうしてGDP世界第三位の国を落魄させることがアメリカの利益になるんだ? どっちに転んだって世界経済は一蓮托生なんだぞ」
【初割・2カ月無料】お申し込みで…
- 専門記者によるオリジナルコンテンツが読み放題
- 著名経営者や有識者による動画、ウェビナーが見放題
- 日経ビジネス最新号12年分のバックナンバーが読み放題