なかなか忘れられない歌がある。石川啄木のこんな短歌だ。
<鏡とり能ふかぎりのさまざまの顔をしてみぬ 泣き飽きし時>
仕事に行き詰まったときや困ったことがあって、しかもそれが四六時中頭の中を占領しているような時がある。そんな時、朝起きて顔を洗う前に鏡を覗くと、そこにべそをかいている自分を見出しこの歌を口ずさんだものだ。「泣き飽きし」というより、たいてい自分の不甲斐なさに腹をたてていたのだが。
さて、社会的不適応者の代表格である石川啄木は、借金王ともいえるぐらい、あちこちから金を借り歩くという随分綱渡りのような生活をしていたらしいのだが、そのおかげで、借金の返済日になると数多くの歌を詠んだらしい。元々小説家志望で短歌は余技ぐらいにしか考えていなかったらしく、借金の言い訳に疲れ果て、黙々と短歌を詠んだのだという説もある。まだ自分が何者かであり、何者にもなりうる存在だという根拠のない自信と、これまた、自分はこの世の中に存在することすら意味のない存在ではないかという怯えに似た不安の間を日々刻々と揺れ動いていたころ、もしかしたら、私のような才能のない者でも借金取りに追われて逃れようのない状況に陥ったら、文学的創造の芽がにょきにょきと芽生え良い詩が書けるかもしれないと思ったら、貧乏なんかちっとも怖くないという気になったことがある。と、いうのはウソである。貧乏ほど怖いものはない。お金がないことの辛さを思い出すと、今でも身震いする。貧乏でさえなければ、詩なんていつでも捨てられる。それに短歌だって創れないことなど「たいした」ことではない。かつてカール・マルクスは「経済学・哲学草稿」の中で、いみじくも「現代の神は金である」と喝破したが、拝金主義者と罵られようが、銭ゲバと後ろ指さされようが「現代の神」を信仰することは悪ではない。「金が仇の世の中ならば、どうか仇に巡り合いたい」と願うのが正常な神経というものだ。ま、そう思っているうちはお金持ちになれないのだろうけれど。さてと、啄木の歌に寄せて、名文をものしようと思ったのだがどうもうまくいかないようだ。仕方がないので啄木のこの歌でしめくくることにする。
<たんたらたらたんたらたらと雨滴が痛むあたまにひびくかなしさ>