偏読老人の読書ノート

すぐ忘れるので、忘れても良いようにメモ代わりのブログです。
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金輪際

「金輪際」(車谷長吉)は、「地の下には三つの輪があって、この世を支えているという。その無限の底を金輪際という。世を厭い人を呪う生を送ってきた私の人生に、棘のように突き刺さり、今なお己れを狂わせる記憶の数々…。人間の生の無限の底にうごめく情念を描ききって慄然とさせる七篇を収録した傑作短篇集」。車谷という作家は「私小説」しか書かないのだと思っていたら、そうでないものも書いていたことを知った。そうすると...

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「金輪際」(車谷長吉)は、「地の下には三つの輪があって、この世を支えているという。その無限の底を金輪際という。世を厭い人を呪う生を送ってきた私の人生に、棘のように突き刺さり、今なお己れを狂わせる記憶の数々…。人間の生の無限の底にうごめく情念を描ききって慄然とさせる七篇を収録した傑作短篇集」。

車谷という作家は「私小説」しか書かないのだと思っていたら、そうでないものも書いていたことを知った。そうすると不思議なもので、私小説「風」の小説を書く作家さんのような気がしてきて、ついつい騙されそうになる。これだから車谷さんは油断ができない。

「静かな家」は、先輩の高所恐怖症に関する噂話から始まって、小学生のころの、背中合わせ隣り合った豚小屋のような家にそれぞれ住む男女の同級生との思い出を描いたもの。多分自分の体験を描いたものなのだろうと思われるが、そう思わせるように、わざと先輩の話を落語の「マクラ」のように使ったのかもしれない。

「金輪際」も小学生時代の転校生澤田君の思い出を描いたもの。こちらの「マクラ」は佛教用語についての解説だ。

人としてこの世に生まれたことは、恐ろしいことである。人はこの現世にある限り、はてしなく「業」を重ね、「救いのない世界を生きていくのである。いや「業」によって発生する「因果応報」の果ては、この世にはとどまらず、あの世においても未来永劫、はてしなく続いていくのである。それが、人がこの世に生まれたということであった。>

「白黒忌」は、会社帰りによく寄った酒場に勤めていた演劇女優との、淡い思い出を描いたもの。タイトルの「白黒忌」は、奔放な演劇女優が出演したポルノ映画のタイトルが「看護婦白黒日記」にちなんでいる。

「花椿」は、遅い結婚式を挙げ、隠岐へ新婚旅行に出かけた先の連絡船で出会った老女が語った、老女と戦死した婚約者との悲恋物語を描いた作品。出征してゆく婚約者への餞として洗面器にそっと椿の花を浮かべて置き、その気遣いに婚約者は「有難う」とお礼を言うのだが…。

<「椿の花というのは首落ち花と言うんだな」「そう言えば、人の首がぽたんと落ちるように、花が丸ごと落ちるな」>

自分があの日洗面器に椿の花を浮かべなかったら、もしかして婚約者は死ななかったのではないかと、悔やむ老女の心が愛らしい。

「ある平凡」は、家庭環境の違う女性との恋愛の末、一緒になることが出来ずに故郷へ帰った「房雄」は、その女性と十三年ぶりの再会をはたすが…。恋愛中も、そして再会をはたしたときも、結局分かり合えることのなかった男女のすれ違いを描いたよく「ある恋愛」物語。

「児玉まで」は、微妙な三角関係を描いた恋愛物語。著者の分身とも思える主人公の寄るべない生き様が、孤独の深さを感じさせる。

「変」は、小説というよりエッセイと呼んだ方が良いような「実録小説」。笑ったのは、「漂流物」が芥川賞候補となり、落選したくだりだ。

<一回目の投票では、私の「漂流物」は過半数に達していたのに、併し「漂流物」の如き妖刀のような殺人小説は、阪神淡路大震災やオウム真理教事件で世の中が打ちひしがれている時には、芥川賞にふさわしくない、という理由で落とされたのだった。>

そして、著者はこの選考委員九人(日野啓三、河野多恵子、黒井千次、三浦哲郎、大江健三郎、丸谷才一、大庭みな子、古井由吉、田久保英夫)の人形を作り、金づちと五寸釘を持って、旧駒込村の鎮守の森・天祖神社に出かける。

「私は公孫樹の巨木に人形を当てると、その心臓に五寸釘を突き立て、金づちで打ちこんだ。金づちが首の頭を打つ音が深夜の森に木霊した。一枚終わるとまた次と、『死ねッ』『天誅ッ』と心に念じながら、打ちこんでいった」

なるほど、タイトル通り「変」だ。

赤目四十八瀧心中未遂

「赤目四十八瀧心中未遂」(車谷長吉)は、「阪神電車出屋敷駅近くの、プリキの雨樋がさび付いた町で、焼き鳥屋で使うモツ肉や鳥肉の串刺しをして」糊口をしのいでいた「私」の日常を描いた物語。焼き鳥屋の女将「セイ子ねえさん」、毎日焼き鳥の材料を置き、できた串を持っていく無口で無愛想な「さいちゃん」。すぐ下に住む刺青の彫師「彫眉」と一緒に住む美人のアヤ子と彫眉の息子晋平。やがて「私」はアヤ子に惹かれていくのだ...

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「赤目四十八瀧心中未遂」(車谷長吉)は、「阪神電車出屋敷駅近くの、プリキの雨樋がさび付いた町で、焼き鳥屋で使うモツ肉や鳥肉の串刺しをして」糊口をしのいでいた「私」の日常を描いた物語。焼き鳥屋の女将「セイ子ねえさん」、毎日焼き鳥の材料を置き、できた串を持っていく無口で無愛想な「さいちゃん」。すぐ下に住む刺青の彫師「彫眉」と一緒に住む美人のアヤ子と彫眉の息子晋平。やがて「私」はアヤ子に惹かれていくのだが…。

心の奥のひだをなぞるように造形した登場人物ひとりひとりが活き活きと描かれていて、それぞれの孤独の深さが、胸に迫る。

本作は直木賞受賞作。選考委員のうち、私が好きな作家の選評は…。

<「どういう世界にあっても人間が生きねばならない物悲しい呟きに似た呻吟が、行間から低音の旋律となって私に纏いつき、狂おしいほど私を昂揚させまた痛めつけた。」「彫眉の女であったアヤ子が主人公に惚れ、心中未遂現場まで連れて行った気持も納得させられる。」(黒岩重吾)

「小説は、ことばで人間を、そしてその人間と他の人間との関係を映し出す仕事だが、その完璧な見本がここにある。」「心中未遂は、いったん「死」を通って「生」へ再生する儀式である。その儀式を終えたアヤちゃんが、「たとえそこが地獄でも生きねばならぬ」と思い定める結末に、人間という存在に寄せる作者の深い愛を読んで、思わず涙がこぼれた。」(井上ひさし)>

黒岩さんの「昂揚させ」という気分は了解できるが、「心中未遂現場まで連れて行った気持ち」は若干「?」だった。井上さんの「人間と言う存在に寄せる作者の深い愛」というのは同感だ。それだけ今まで深く傷ついて来た人なのだろうと、思う。そうでなければ、これだけの深い孤独に裏打ちされた優しさは描けないのではないか、とも。

名人 志ん生、そして志ん朝

「名人 志ん生、そして志ん朝」(小林信彦)は、タイトル通り古今亭志ん生、志ん朝親子について書いたものを中心にまとめた、著者の落語に対する姿勢を語ったいわば落語評論集。実は私はこの小林信彦という人があまり好きではない。その割に横山やすしを描いた「天才伝説」、渥美清を描いた「おかしな男」を面白く読んではいるのだが。池波正太郎、山口瞳などにも共通して言えるのだが、生粋の江戸っ子というのは、どこか「田舎者...

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「名人 志ん生、そして志ん朝」(小林信彦)は、タイトル通り古今亭志ん生、志ん朝親子について書いたものを中心にまとめた、著者の落語に対する姿勢を語ったいわば落語評論集。実は私はこの小林信彦という人があまり好きではない。その割に横山やすしを描いた「天才伝説」、渥美清を描いた「おかしな男」を面白く読んではいるのだが。池波正太郎、山口瞳などにも共通して言えるのだが、生粋の江戸っ子というのは、どこか「田舎者」を軽んじるところがあって(私が田舎者といういことが多分に影響しているのだろうが)、鼻白むことがあるからだ。関西人であれば、「なんや、関東者かい、しょうもない」と鼻で嗤ってすますのだろうが、人間馴れしていない道産子の私は、ただただ萎縮するのみだ。

古典落語は江戸弁で成り立っているという氏の言い分は、私にも了解できる。話上手な人は、言葉の言い回しがなめらかで、間の取り方も絶妙だ。特に落語は何人もの人を演じ分けることが必要になってくるので、通り一遍では途中で飽きられてしまう。

まだ私の家にテレビが無かった頃の娯楽と言えばラジオだった。夜、布団の中で熱心に聴いていたのは、落語、講談、浪曲だ。だが、私は小学校の低学年で、「芸」の巧拙や、有名無名と関係なく、ただ「お話」として聴いていただけなので、演者の名前も覚えていない。それでも東京にいた頃は、年に数度新宿の末広亭に行った。当時は「どうもすみません」の林家三平さんや、テレビで顔をみることのある芸人さんの「本物」を観るのが目的だったような気がする。だから、本書で書かれているような「芸」について考えもしなかった。ただ、「笑いたい」から観にいっていたに過ぎない。だが、本書を読んで、落語を読んでみようという気になったのは、私にとっては収穫だった。「芸」を観ることはできないが、「物語」の結構を知ることはできる。そして、自分なりに「演じ」てみるのも楽しいかもしれない、などと思っているのだが。

噓かまことか。

 「不思議の国のアリス」の著者ルイス・キャロル。本名はチャールズ・ラットウィジ・ドッジソン。彼は教会学校の数学教師で、六十六年の生涯のあいだ五十四年間を、学校から一歩も外へ出ず、一生独身で(多分童貞のままで)終わった、退屈で偏屈な男だったと言われている。  「彼はあらゆる手紙にナンバーを記し、死の前日まで書いていた最後の手紙のナンバーは九万八千七百二十一番だった。 彼は、自著の出版社に、自分の...

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 「不思議の国のアリス」の著者ルイス・キャロル。本名はチャールズ・ラットウィジ・ドッジソン。彼は教会学校の数学教師で、六十六年の生涯のあいだ五十四年間を、学校から一歩も外へ出ず、一生独身で(多分童貞のままで)終わった、退屈で偏屈な男だったと言われている。 

 「彼はあらゆる手紙にナンバーを記し、死の前日まで書いていた最後の手紙のナンバーは九万八千七百二十一番だった。 彼は、自著の出版社に、自分のところへ送る小包のひもをどう結ぶべきかを図入りで書き送り、届くとその一平方センチあたりの線の数量を顕微鏡で確認した」(種村季弘)

 こうした病的で小心な教師と、風刺とウィットに富む詩人ルイス・キャロルが同一人物であった、ということと同時に、一人の男が「二つの人生」を完璧に共存させていたことをうれしく思うと書いたのは寺山修司だが、私は、本当の自分はどっちなのだろうと、毎朝顔を洗った後で鏡を見ながら彼は考えていたに違いないと思うのだが。そう、どちらが嘘でどちらが本当の自分なのか、自分でもよく分からなくなっていたのではないか、と。まるでこの詩のように。 

「嘘のバラード」(長田弘) 

本当のことをいうよ、

そういって嘘をついた。

嘘じゃない、

本当みたいな嘘だった。

ほんとの嘘だ。

口に出したら、

ただの嘘さ、

どんな本当も。

ほんとは嘘だ。

まことは嘘からでて

嘘にかえる。

ほんとだってば。

その嘘、ほんと?

ほんとは嘘だ。

嘘は嘘、

嘘じゃない。

ほんとに嘘だ。

嘘なんかいわない。

ほんとさ。

本当でも嘘でもないことを

ぼくはいうのだ。

年末年始はアンソロジーを読んで(3)

「大江戸犯科帳」(多岐川恭「四人の勇者」 松本清張「怖妻の棺」 白石一郎「足音が聞こえてきた」 浜尾四郎「殺された天一坊」 古川薫「萩城下贋札殺人事件」 天藤真「真説・赤城山」 永井路子「卯三次のウ」 戸板康二「上総楼の兎」 新田次郎「河童火事」 結城昌冶「森の石松が殺された夜」 連城三紀彦「菊の塵」)は、「時代推理小説名作選」と副題にあるように、時代ミステリー小説のアンソロジーで、このうち、白石...

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「大江戸犯科帳」(多岐川恭「四人の勇者」 松本清張「怖妻の棺」 白石一郎「足音が聞こえてきた」 浜尾四郎「殺された天一坊」 古川薫「萩城下贋札殺人事件」 天藤真「真説・赤城山」 永井路子「卯三次のウ」 戸板康二「上総楼の兎」 新田次郎「河童火事」 結城昌冶「森の石松が殺された夜」 連城三紀彦「菊の塵」)は、「時代推理小説名作選」と副題にあるように、時代ミステリー小説のアンソロジーで、このうち、白石一郎と連城三紀彦の二編は既読だった。本格ミステリーと言って良いのは「四人の勇者」。

「『四人の勇者』は犯人当て懸賞の小説で、発表した時は問題編だけだったが、上梓にさいして解決の部分をつけ、完成した。この小説の文体は、横光利一『日輪』のバロディである」(著者)。果たして、この懸賞を受け取った人がいたのだろうか? 

「怖妻の棺」は、三百石の旗本の婿養子となった恐妻家の男が、妾のところで心臓発作を起こし、呼ばれた医者は死亡を宣告する。慌てた友人は跡目相続などの段取りに走り回り、帰ってみると、死んだはずの男は生き返っていて…。

「足音が聞こえてきた」は、著者の初期の作品で、ラストの「足音」が、恐怖感を抱かせる。初めて書いたミステリーだと著者は言うが、ミステリー小説が好きでよく読んだと語っている通り、よくできたミステリーだ。

「殺された天一坊」は、太宰治の「駆け込み訴え」を想起させる文体で、時の名奉行大岡越前の苦悩を描いた作品。発表された年次から推測すると、太宰は本作を念頭において書いたのかもしれない。

「萩城下贋札殺人事件」は、藩札を偽造した犯人を追う下級武士で構成される盗賊改方の活躍を描いた作品。

「真説・赤城山」は、国定忠治=悪、子分の板割の朝太郎・日光の円蔵=正という図式で、国定忠治とその子分たちとの葛藤を描いた作品。

「卯三次のウ」は、商家のお家騒動を背景に、下ッ引の卯三次の淡い恋を描いた作品。

「上総楼の兎」は、「動いた」という評判がたった兎の彫り物を彫った職人が、殺人事件に巻き込まれる顛末を描いた作品。ラストのオチはまるで落語のオチのよう。

「河童火事」は、「遠野物語」の火事を予見する「芳公馬鹿」に想を得た作品。なかなか良くできたミステリーで、最後まで犯人が分からない「本格推理小説」。分かってしまえば「なあんだ」と思うが、伏線の張り方も著者には失礼だが「玄人」好みだ。

「森の石松が殺された夜」は、石松暗殺の異説譚。都鳥三兄弟(吉兵衛、常吉、梅吉)に惨殺されたという通説を覆す展開で、無理があるかなあ、と思いながらもそれなりに説得力ある描き方で楽しめる。

「菊の塵」は、最初読んだときもそうだが、自死した妻の人物設定が出来過ぎていて、あまりにも作り話めいて感心しなかった。ま、そういう「出来過ぎた」人物でなければ、こういう事件は起きなかったのだろうが。