「飆風」
「飆風」(車谷長吉)は三つの短編に講演(「小説作法」を収録したもの。
「桃の木一ケ」は、母親のモノローグで一家の歴史が語られるが、言葉「関西弁」のせいかユーモラスで、それが余計に哀しみを増す。桃の木一ケは「百万円の束」を指す。
「密告」は高校時代からの友人との交流と、恋のさやあてを著者の「告白的衝動によって真実を描く濃密な描写」で描いてゆく。だが、決して暗くはなく、かえってユーモラスに感じられるのは、著者がちゃんと主人公と距離を置いて描いているからに相違ない。
「飆風」は、著者が強迫神経症にかかり、必死にもがくさまを自分から、そして奥さん(詩人の高橋順子)からみてどうだったかを描いているが、ここは奥さんの詩が絶妙な効果をあげていて、読ませる。
「小説作法」は、小説を書く事が自分の魂の救済だという著者の「作家宣言」ともいえる内容。しかしこういうのを読むと、小説家という人たちの「業の深さ」を想わずにはいられない。
<小説は、小説を書く事によって、まず一番に作者自らが傷つかなければなりません。血を流さなければなりません。世の中には、まず一番に自分を安全地帯に隔離しておいて、小説を書こうとする手合いがいますが、そういう人にはよい小説は書けません。まず一番に自分を安全地帯に確保しておいて、他人の醜聞(スキャンダル)を覗き込みたいというのは、週刊誌の読者ですが、そういう読者と同じ精神では、すぐれた書き手にはなれません。自分は血を流したくないけれど、併し名声だけは欲しいという人がいます。最低の人です。私は自分の骨身に沁みたことを、自分の骨身に沁みた言葉だけで、書いてきました。いつ命を失ってもよい、そういう精神で小説を書いてきました。人間としてこの世に生まれてくることは罪であり、従って罰としてしなければならないことがたくさんあります。小説を書く事も、結婚をすることもその罰の一つなのです>
もちろん、ここで言われている「最低の人」の一人が私であるのだけれど。でもおもしろいんだよなあ、他人の生活の覗き見るのって。