景行天皇の九州遠征
前回は景行(けいこう)天皇の時代のこととして伝えられているヤマトタケルの事績のうち、信用できるのは東国遠征ぐらいで、『古事記』が伝える出雲(いずも)遠征が、実際は崇神(すじん)天皇の時代のことでタケルとは関係がなく、いわゆる熊襲(くまそ)征伐も史実とは思えないことをのべた。
とくに熊襲征伐は記紀ともに記してはいるが、宴会の最中にコンパニオンまがいの女装でクマソタケルを刺し殺すなど、荒唐無稽な物語で史実とは思われない。
ではヤマト政権の勢力が九州に及んだのは、いかなる経緯であったのか。『日本書紀』はそれを景行天皇みずからの遠征によるという。それによれば、天皇は豊前(ぶぜん)に上陸し、そこから東海岸を南下して豊後から日向(ひゅうが)に至り、そこから西に転じて肥後(ひご)に入って、島原半島の高来(たかく)や阿蘇(あそ)にも寄った後、最終的には筑後(ちくご)の的(いくは。現在の生葉の地域)に達したという。
『日本書紀』はその後の足取りを記さないが、『肥前国風土記』の彼杵(そのき)郡の条に、クマソを誅滅したあと凱旋して豊前国宇佐(うさ)の海浜の行宮(かりみや)にいたというから、生葉から豊前の宇佐に移動したとみてよいだろう。つまり、天皇は福岡平野に出ることのないまま、筑後川に沿って移動したのであって、九州の北部に進出することはなかったのである。
この景行天皇の遠征は『古事記』にはみられないから、『古事記』の編纂から『日本書紀』編纂の間に、書紀編者によって造作されたという見方も考えられる。しかし、ここで注目すべきなのが、九州の風土記にも景行天皇の遠征が記されていることである。
現存の豊後国と肥前国の風土記は『日本書紀』編纂後の天平(てんぴょう)年間の成立と思われるので、風土記の記事は『日本書紀』の記載を踏まえたものとみることもできようが、『日本書紀』と同様の伝承が、わずか十数年で現地で伝説化されるようになるとは考えがたい。また風土記の編纂者が『日本書紀』にもとづいて述作したとすれば、それは古老の伝承を採用せよという風土記編纂の主旨に背いたものとなってしまい、これも想定しがたいのである。
そのようにみれば、景行の遠征が九州で語り伝えられていたことは明らかであり、すでに坂本太郎が指摘しているように、現存の風土記と『日本書紀』の記事は兄弟関係にあるとみるべきであろう。『日本書紀』に景行天皇の遠征が記されているのは、ヤマトタケルの記事と同じように、地方での伝承を参考にしたからだと思われる。そして、このような伝承が残っていることからみて、景行天皇自身が出向いたかはともかくとしても、景行天皇の時代に、九州の東部から南西部にかけてが、ヤマト政権の軍事行動の結果、その支配下に組み込まれたのは確かだと思う。中央ではその事実が、ヤマトタケルの物語となって伝えられるようになってしまったのであろう。
前回で触れたように『日本書紀』の記述は地方での伝承も踏まえて書かれたものらしく、そこにヤマトタケルが陸奥の竹水門で蝦夷を征服したと記していることからみても、タケルは陸奥まで行っていた可能性はたかい。つまり景行天皇の時代には、九州の北部を除く日本列島の主要な地域がほぼヤマト政権の支配下にはいったとみられるわけである。では、それらの地域をヤマト政権はどのように支配したのか。
それについて『日本書紀』によれば、景行天皇の子供80人のうち、ヤマトタケルとワカタラシヒコ(のちの成務(せいむ)天皇)、そしてワカタケルの同母弟のイホキイリヒコ以外の70人余りは国郡に封じたという。実数かどうかはともかくとしても、このような、王族を地方に派遣して現地を治めさせるという王族分封の方法が、ヤマト政権の地方支配の基本方針であったとみてよいと考える。そして、それをもとに次の成務天皇の時代に整備されたのが、国・県(あがた)制であった。
『古事記』には、大国・小国の国造(くにのみやつこ)と大県・小県の県主(あがたぬし)を定めたとあり、『日本書紀』では、「国郡に長を立て、県邑に首(おびと)を置く」とか「諸国に令して、国郡に造長(みやつこのおさ)を立て、県邑に稲置(いなぎ)を置く」とみえる。いずれも、この時に国・県が設定されたといっている。国造制の成立については、5世紀や6世紀に引き下げる考えが有力だが、かなり広範囲の地域を支配下に入れたヤマト政権が、その統治組織を整えなかったとみるほうが不自然であって、私はこの伝えを尊重したいと思う。
実年代は明確にはできないが、4世紀の前半ごろとみて大きな間違いはないだろう。とすれば、この時期に列島各地で造営された古墳は、当然、国や県と関連したものとして考察されねばならない。
仲哀天皇の九州遠征
さて、成務天皇の時代になっても、ヤマト政権の支配地としては九州北部だけが残されていた。とすれば当然、その地域の征服がその後のヤマト政権の課題であったはずである。それに取り組んだのが、ヤマトタケルの息子にあたる仲哀(ちゅうあい)天皇であった。
『日本書紀』によれば、仲哀天皇は紀(き)の川河口付近から船出して九州に向かい、后の息長帯姫(おきながたらしひめ)、つまり神功(じんぐう)皇后は敦賀(つるが)から同じく九州に遠征したという。この時に、遠賀川(おんががわ)河口部の岡(おか)県主の祖や、かつての伊都(いと)国王の後裔と思われる五十迹手(いとで)などは、仲哀天皇に降伏したという。
ちなみに、開化天皇の子、ヒコイマス王の曾孫にあたる息長宿禰王の娘であるオキナガタラシヒメが、後世の皇后に相当する大后(おおきさき)であったとは思えない。塚口義信氏も指摘されるように、それには景行の孫娘の大中姫(おおなかつひめ)のほうが有力で、彼女の産んだ忍熊(おしくま)王、香坂(かごさか)王が仲哀の正当な後継者であって、かれらが景行天皇末年から王宮があったと思われる高穴穂宮(たかあなほのみや)の留守をまもったのであろう。
つまり、神功皇后を伴った仲哀天皇のこのたびの遠征は、まことに俗っぽい例えで恐縮だが、社長が若い愛人をつれて重要な商談に赴いたようなものだというのが、あたらずといえども遠からずといったところだと思う。そして愛人がその出先で社長の子を出産し、あろうことか社長が急死してしまう。ところが愛人は社長がやり残した仕事をまとめたのみならず、同行していた副社長と組んで会社乗っ取りをはかり、息子が成長するまで実際に会社を切り回したのである。
やや筆がすべったが、以下、仲哀天皇と神功皇后の事績について、考えていきたい。まず問題となるのが、神功皇后には有名な三韓征伐の伝説があって、『古事記』と『日本書紀』ともにそれを記している。それによれば、九州に上陸した仲哀天皇は神功皇后を巫女として神の託宣を聞くが、それに従わずに急死し、あとを継いだ神功皇后が神の教えに従って朝鮮半島に出兵して、新羅(しらぎ)を攻撃し、属国としたという。その後、帰国したあと、九州で皇子を出産、仲哀の皇子のオシクマ王、カゴサカ王を倒して政権を掌握、皇子は成人して皇位についた。応神(おうじん)天皇である。一連の物語のその内容は、海の魚が皇后の船を背負って海を渡ったとか、船を運んだ波が新羅の国の半ばに達したとか、荒唐無稽を極めていて、史実とみる人は少ない。では、まったくそれらは信用できないのであろうか。
『日本書紀』は神功皇后紀の冒頭に仲哀の急死から朝鮮出兵、さらにオシクマ王との戦いなどを記すが、そのあと神功皇后46年から同52年にかけて一連の百済(くだら)との外交記事をのせる。神功皇后の三韓出兵には懐疑的な研究者も、こちらについてはなんらかの史実をみようとする人も多い。
『日本書紀』の紀年では神功皇后46年は西暦246年のこととなるが、これは神功皇后を『魏志』倭人伝の倭の女王、卑弥呼(ひみこ)に相当すると『日本書紀』編者が判断したことにもとづく年代で、実際は120年下って366年のことと考えられている。これは、当時の年代は60通りの干支で表されており、60年ごとに同じ干支が回ってくるので、神功紀にみえる百済王の名前などからみて、干支ふた回り下げると実際の年代になるというわけである。以下はその修正年代に従って考えてゆくこととする。
さて、『日本書紀』によれば、神功46年(366)、斯摩宿禰(しまのすくね)を新羅に隣接する卓淳(とくじゅん)国(現在の昌原とされる)に遣わしたが、卓淳国王から、「甲子年(364年に相当)の7月に百済から使者が来て日本に行く道をたずねた。知らないと答えたら、もし日本の使いが来ることがあれば知らせてほしい」と頼んで帰国したという話を聞いた。そこで斯摩宿禰は百済に使者を派遣したところ、百済の肖古王(しょうこおう)は使者に五色の絹や角弓矢、鉄鋌(てつてい。板状の鉄資源)を与え、宝蔵を開いて見せ、これらを献上しようといったという。使者はその旨を斯摩宿禰に報告し、宿禰は卓淳から帰国したという。おそらく、その時に百済王から贈られた絹や弓矢そして鉄をもたらしたのだろう。
翌年の47年(367)4月に百済と新羅の使者がともにやって来たが、百済の貢物は新羅よりも劣っていた。それは新羅が百済の物を奪ったからだと判明し、千熊長彦(ちくまながひこ)を新羅に派遣して問責したという。
ここで重要なのが、この時の百済からの使者の渡来を記したところで、皇后と太子が「先の王の所望せる国の人、今来朝す。痛ましきかな、天皇に逮(およば)ざることを」と述べていたとあることである。このことは、百済からの使者を先の王、つまり仲哀天皇が望んでいたということであって、366年に斯摩宿禰が百済と接触したという情報をもたらした時には、まだ天皇は生きており、その後百済から使者が渡来した時にはすでに死亡していたということである。
このようにみれば、仲哀天皇の亡くなった年代は366ないし367年ということとなる。そして、ヤマト政権と百済との交渉は、『日本書紀』が神功46年以降のこととしているが、実際は仲哀天皇在世中の出来事であったこともわかるのである。
そして、さらに重要なのは、仲哀が遠征中に九州で亡くなっていることからみて、百済から使いが来た時は仲哀天皇が率いるヤマト政権軍が九州に進駐している時であったことがわかる。このことからみて、『日本書紀』は仲哀天皇の死後40数年後のこととしているが、実際は仲哀の生前に、すでに卓淳国に使いを送り、百済と最初の通交をはじめていたことは明らかとなる。天皇が九州遠征以前から半島諸国との通交を考えていたとは、新羅など半島の国を知らなかったという『古事記』などにみえる仲哀天皇の態度からみて考えられないので、朝鮮半島南部の国々との接触は仲哀天皇一行が九州に来てからのことと思われる。つまりは、九州勢力の追討に有利になるための戦略だったとみてよいのではなかろうか。
じつは私が記紀、とくに『日本書紀』を積極的に用いて、古代国家成立史を考えようと思ったのは、この記事の意味するものに気がついたのがきっかけであった。ここからヤマト政権が九州を最終的に服属させた時期が明白になり、ここを定点として史料を比較・検討すれば、ヤマト政権の統一事業のあり方や、九州、朝鮮諸国との関係、神功・応神朝の政治史、さらには邪馬台国問題などが、かなり具体的に明らかになると思ったのである。
ヤマト政権と百済
では、なぜ仲哀天皇は百済からの使者を待ち望んでいたのだろうか。それはおそらく、百済からもたらされるはずの品物を手に入れたかったからであろう。366年の接触のときに斯摩宿禰の使者に対して百済王が与えたのは、絹と弓矢、鉄材であった。それらはいわばサンプルであり、引き続いてさらに多くの物を、百済はヤマト政権に贈ろうというのである。ここで注目されるのは、このサンプルに武器(弓矢)と鉄が含まれていることである。この時、九州遠征中の仲哀天皇にとって、百済が武器と鉄資源を供給してくれるとすれば、それほどうれしいことはあるまい。
そして翌367年に、仲哀の没後とはいえ、ヤマト政権軍は百済からのいわば軍事援助を受けることに成功したわけである。『日本書紀』は仲哀天皇の没後に、神功皇后が筑前の夜須(やす)で羽白熊鷲(はじろくまわし)、筑後の山門(やまと)で田油津媛(たぶらつひめ)を討ったという。これが最後までヤマト政権に抵抗した勢力であって、私はそれを邪馬台国の末裔だと考えているわけだが、このように神功が九州平定に成功したのは、百済からの援助のおかげだったとも私は推測しているのである。
とすれば、次はその見返りとして百済がヤマト政権に軍事援助を求めて来ることは十分にありうるであろう。というより、百済がヤマト政権に接近し、物的援助を申し出たのも、じつはヤマト政権の軍事力を百済の半島経営に利用しようとしたからだったと私は思う。それが『日本書紀』が神功49年(369)に記す朝鮮半島への出兵にほかならない。
この出兵は、卓淳に集まって新羅を攻撃し、卓淳や加羅(から)など加羅地域の七国を平定し、さらに兵を西にめぐらして古奚津(こけいのつ)に至り、済州(チェジュ)島ともいわれる枕弥多礼(とむたれ)に攻め込んでその地を百済に与えた。そのとき百済王と王子が兵を率いてやって来て、半島西南部の比利(ひり)・辟中(へちゅう)・布弥支(ほむき)・半古(はんこ)の四邑が自然に降伏したという。
この出兵の目的は加羅地方にいた新羅の勢力を駆逐することであり、まず卓淳に集まっていることからみて、それは卓淳国あたりの要請だったろう。さらに半島南西部に兵をすすめたのも、平定した地域を百済に与えたことからみて、百済の要請をうけてのものと思われる。そして、これがのちの神功皇后の三韓遠征の伝説とは、この朝鮮半島への出兵がもととなっていると私は考える。ヤマト政権にとっては最初の外征であり、しかもそれ以降も続く百済や加羅諸国との関係の原点となった遠征だったからである。
神功皇后政権の成立
以上をまとめれば、次のようになるだろう。まず景行天皇の時代に九州の東部から南部にかけての地域がヤマト政権の支配下にはいった。しかし朝鮮諸国と交渉のある九州北部にはヤマト政権の支配は及ばなかった。おそらく、軍事的に敗北したと思われる。
そのような状況のまま、ヤマト政権は地方支配の機構を整備し、ついに仲哀天皇の時代になって、北部九州への軍事行動に出た。その時、玄海灘沿岸の諸国はヤマト政権に服属したが、有明海沿岸の地域はそれに抵抗し、おそらく仲哀天皇は戦いに敗北して亡くなった。
仲哀は生前に朝鮮半島の国々と交渉を始めていたが、その死の直後になって百済から使者が来て、おそらく武器や鉄資源をヤマト政権軍に供給したのであろう。百済の援助を得て有明海沿岸地域を平定したヤマト政権は今度は百済の求めに応じて朝鮮半島に出兵することとなった。その結果、百済は半島南西部にその領土を広げることができたのである。
それを受けて両国は同盟関係を結び、百済は毎年、ヤマト政権に物品を供給することとなったのである。『日本書紀』が百済の調と記すのがそれである。その最大の物が鉄資源であったろうことは想像にかたくない。この時の同盟締結の記念として百済から倭国に贈られたのが石上神宮の七支刀であろう。
ところで、このように考えてくると、朝鮮半島への出兵などの一連の出来事は、実際は九州での仲哀天皇の死に直結するもので、九州のオキナガタラシヒメによって、近江の政府の関知しないところでおこなわれていたということになる。つまり九州でオキナガタラシヒメとその配下は、中央政府を無視して事実上の倭国政府としてふるまっているのである。
しかも、オキナガタラシヒメには仲哀との間にできた男子もあった。高穴穂宮の留守政府が警戒するのはもっともであろう。はたして、瀬戸内海を凱旋してくるオキナガタラシヒメと武内宿禰の一行と近江の中央政府とのあいだで内乱が勃発する。この戦いについては記紀ともに伝説化した記載しかないが、明石海峡の封鎖に失敗し、難波と紀の川河口部への上陸をゆるしてしまった中央政府の敗北で終わったらしい。このようにして成立したのがオキナガタラシヒメつまり神功皇后の政権であったわけである。
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