招待客は超高齢者
嘉永5年(1852)の8月18日、小石川東富坂の旗本大谷木(おおやぎ)邸で、大谷木藤左衛門の米寿(88歳)の祝宴が催された。藤左衛門は4月に二丸留守居を拝命していて現役の幕臣だったが、さすがに極老の身。祝宴はもっぱら孫の醇堂(じゅんどう)がアレンジした。
さて、どのような宴だったろうか。招待客8人を年齢順に挙げれば…。
飯田潤助(青木氏の家臣) 117歳
石崎源八(表御台所人) 113歳
山田伊助(川舟改役手代) 113歳
井上元七郎(林奉行) 99歳
吉見本次郎(西丸御台所頭) 97歳
津田大次郎(二丸御留守居) 96歳
青木半蔵(二丸御留守居) 86歳
筒野藤一郎(末姫君様御用人並)83歳
飯田潤助は、摂津国麻田藩(1万石)の藩士か旗本青木氏の家臣かさだかでないが、117歳とは驚異的な長寿である。石崎源八と山田伊助の113歳もすごい。そのすごさは、ギネス認定の史上最長寿者が122歳のフランス人女性で、存命者ではアメリカ人女性の116歳と聞けばなおさらだ(ちなみに日本人女性の大川ミサヺさんは昨年117歳で亡くなり、非公式だがメキシコに127歳の女性が存命するとか)。
はたしてこれほど高齢の3人が、大谷木藤左衛門の米寿の宴に出席できたのだろうか。いや、そもそも本当に117歳や113歳だったのか。疑ってしまうのは、幕府旗本の場合、当主が17歳未満で亡くなると家が断絶させられるため、その危険を未然に防ぐため年齢を水増する慣行があったからだ。
たとえば長崎奉行や勘定奉行を務めた遠山景晋(ご存じ遠山の金さんこと遠山景元の父親)の場合、実は宝暦14年(1764)に誕生したが、幕府への届では宝暦2年生まれとなっている。実に12歳の水増し。
というわけで、大名や旗本の年齢は眉唾ものがすくなくないが、さすがに20歳も水増しはできなかったろうから、飯田潤助以下3人はやはり100歳前後だったと思われる。
醇堂がでっち上げた架空の高齢者ではないかって? 110歳代の飯田、石崎、山田の3人は陪臣かお目見え以下の幕臣であるため、「武鑑」や幕府の記録に見当たらない。しかし井上元八郎以下の5人については、実在の幕臣であることが確認された。大谷木藤左衛門とあわせて9人の極老者が、藤左衛門の米寿を祝って一堂に会したのである。
醇堂が招待客と祖父のために凝らした趣向は以下のようなものだった。
宴席の床の間には、狩野探幽が描いた「寿星白鹿」の図が掛けられ(寿星は「南極仙翁」とも言い、中国神話中の長寿神)、その左右に志賀随翁、渡辺幸庵という伝説的な長寿者の書が。加えて評判の浮世絵師広重が招かれ、即席画が披露された。
アトラクションは広重の揮毫だけではない。お客はみな耳が遠いので音曲声色(三味線や歌舞伎役者の声帯模写)を演じても面白くないだろうと、醇堂は「シンコザイク」と「アメノトリ」の名人を呼んで実演させたという。
「シンコザイク」は、精白したウルチ米を乾燥させ粉にひいた「シンコ」を餅状にしてさまざまな形をつくる細工。「アメノトリ」は飴細工だろう。名人技ということもあって、そのパフォーマンスを極老の客たちは喜んだ。醇堂は誇らしげに「老人等果して満足せり」(『醇堂叢稿』)記している。
お菓子と鳩杖
醇堂は茶菓子にも繊細な気配りをしている。「杜康家」(酒飲み)でない9人(祖父と客)のために、お菓子に金と手間を惜しまなかったのだ。なにしろこの日のために全国各地に銘菓を注文して取り寄せたというのだから。
茶ノ妻羊羹(甲府から)
墨形落雁(御所落雁とも。加賀から)
越ノ雪(越後から)
ボーロ(佐賀から)
朝鮮飴(熊本から)
薯蕷饅頭(本郷の藤村屋から)
醇堂によれば、「茶ノ妻羊羹」は甲州名産の干し柿でつくる羊羹で、文恭公(11代将軍家斉)が注文して製造させたもの。本郷の藤村屋に注文した薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう。山芋を用いた皮で餡を包んで蒸した饅頭)には、紅色で「米」の字を書かせた。醇堂は江戸の菓子屋で売られているのは蕎麦饅頭がほとんどで、薯蕷饅頭はすくないと自賛している。
薄茶と茶菓のもてなしが済んで、いよいよ晩餐。9人とも酒飲みではないが、まったくの下戸(げこ)でもなかったようで、お酒も供された。ただし盃に注がれたのは、清酒ではなく養老酒と保命酒。どちらも高齢者の宴席にふさわしい健康的で縁起の良い酒だった。
料理は三汁七菜。焼物は「巨大ナル鯛」と海老。料理にも贅を尽くした。
食後のお菓子も趣向が凝らされていた。紅白の鳥子餅といえば祝儀につきもの品だが、求肥(ぎゅうひ)で拵えたそれは、熱湯を注ぐと、白餅は紅餡、紅餅は小倉餡が中から溶け出るようになっていた。すなわち「即席汁粉の一種」で、8人の客にそれぞれ9個ずつお土産に持たせたという。お客の家族たちにも細かい配慮を怠らなかったのだ。
さて、祝宴が終わると。客人はなんといっても高齢者(しかもうち5人は90代後半を過ぎた超高齢者である)だから、当然、駕籠(今ならタクシーかハイヤー)が呼ばれたに違いないと思ったら、さにあらず。「アンポツ」を用意する代わりに、各人に鳩杖が贈呈された。
アンポツは竹製で左右に畳表の垂れを掛けた町駕籠。鳩杖は頭部に鳩の形を刻みつけた杖である。中国で高齢の臣下に下賜され、わが国でも80歳以上に下されたという。いわば極老者向けの代表的な祝いの一品。醇堂は祖父の米寿の祝宴に招待した極老者たちにも、長寿を祝う品を贈ることで、その〝おもてなし〟の気持ちをあらわしたのである。
8人の招待客のほかに、古希(70歳)以上の老人も祝儀に駆けつけたが、『醇堂叢稿』は彼らの名前も年齢も書きとめていない。70代程度の高齢者など珍しくなかったからだろう。
祖父よ、あなたはすごかった
客をもてなすだけでなく、祝儀の品も多数届けられた。「小石川御守殿ノ公主」(将軍家斉の女峯姫。水戸藩主徳川斉脩に嫁ぎ、斉脩没後、峯寿院と称した)からは「紅白羽二重御杉重」と「松花酒」が。松花酒(松の花粉を加えた不老長寿の酒?)は水戸の名産で、比類なき美酒であると醇堂は評している。
祖父の米寿の祝いに峯寿院から貴重な品が贈られたのは、祖父が天保15年(1844)から7年近く「峯姫院様御附御用人」として側に仕えたからだった。天保15年は、米寿を迎えた嘉永5年の8年前。藤左衛門は80歳で、将軍の姫君様の御付御用人という要職に就いたのである。
祖父が水戸藩でどれほど権威があったかは、醇堂が、烈公(徳川斉昭)から中山・山野辺(水戸藩家老)、藤田東湖に至るまで祖父に言葉を返せず、その顔色をうかがっていたと述べていることからもわかる。「その権あまねく一藩に渉りて公儀の附人と尊んて警蹕これを畏敬す」というのである。
権威だけでなく、祖父は80歳の老人に似ず性欲も旺盛だった(と醇堂は回顧している)。「祖翁如キハ妻三人並ヘオキテ輪番ニ交接シ コノ三女死スル後ハ 妾ヲ飼テ 八十歳ノ老ニ衰ヘズ 実ニ及フヘカラザル腎張リ棒ナリ」。
――三人の妻を並べて順番に交わり、三人が亡くなると、妾を置いて(行為に耽った)。80歳でも性欲精力とも衰えず、(孫の私など)とても敵わない性豪だった――とでも訳しておこう。ちなみに「腎張」(じんばり)は淫欲盛んで精力絶倫の意。「腎張棒」は、戸締まりに用いられる「心張棒」に掛けた醇堂の駄洒落だろう。
左遷も気にせぬ九十九歳
ところで今回の〝伝説の幕臣〟は誰か。祖父のために周到な祝宴をアレンジした醇堂の〝おもてなし精神〟は感嘆に値するが、伝説とまでは言えない。祖父の藤左衛門の絶倫ぶりも、「三人並べて順番に」という嗜好が上品さに欠ける。
では、99歳の林奉行井上元七郎は。
井上元七郎、名は胤隆。醇堂によれば、祖父とは幼なじみ(「竹馬友」)で、祝宴の席では給仕に来た醇堂に、「オレの長寿にあやかれ」(意訳)とさかんに自慢していたとか。
勤続60年以上。本丸の広敷用達(ひろしきようたし)在職中に、高齢を称美され「布衣」に昇格するはずだったが、上司の井関下総守(広敷用人。名は親経)の反対で(「井関下総守チヤチヤ容レテ」)ご破算となり、嘉永5年(1852)5月に林奉行に左遷されていた。
養子の義斐はのちに勘定奉行にまで昇進するが、本人が99歳で左遷の憂き目を見たことに違いはない。そんな彼を哀れんで(といっても、はたして本人が悲しんだかどうかは、醇堂に「オレにあやかれ」と吹聴した事実から、たいそうあやしい)、今月の伝説に選びたい。
それにしても99歳で現役の林奉行とは。61歳ですっかり隠居きどりの私から見れば、もはや異類としか言いようがない。
<了>
>洋泉社歴史総合サイト
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