西郷家の座敷と縁側


 今回は「明治6年(1873)の政変」で下野した西郷が東京を離れ、鹿児島に帰った明治6年11月から「佐賀の乱」などを経、私学校が設立された同7年6月ころまでの物語である。

 鹿児島士族たちは西郷の後を追って軍隊や警察の職を投げ出して、続々と鹿児島に帰って来る。そして彼らは西郷に、東京に戻り、大久保利通らの政権を倒してくれなどと頼む。あるいは「佐賀の乱」で敗走した江藤新平も訪ねて来て、西郷に政府打倒を求めるも断られ、「西郷隆盛には失望した」と言い捨てて去る(江藤はのちに刑死)。ちなみにドラマでは江藤が西郷を訪ねたのは鹿児島の自宅になっていたが、史実では山川鰻温泉だった。

 どうも、ドラマは西郷家の座敷と縁側を中心に鹿児島側の歴史が動いているようで、このあたりのスケール感はあまりにも貧相である。不平士族が充満し、鹿児島じゅうに不穏な空気が漂っていると言われても、なんか視覚的にピンと来ない。ホームドラマの雰囲気なのである。


 かんじんのドラマの西郷には、戦意は無い。大久保がどんな国を作るのかを、鹿児島で見ていると言う。

 一方、絶大な権力を持つ内務卿に就任した大久保も、木戸孝允や伊藤博文から詰め寄られるや、「西郷が立つことは断じて無い」と言い切る。

 だが視聴者は、この後、「西南戦争」が勃発することを知っている。ドラマでも描かれていたが、鹿児島に帰った西郷は教育と農業に力を注ぎ、私学校と賞典学校(幼年学校)を設立した。


 ドラマでは、煮え切らない西郷に反発していた桐野利秋(中村半次郎)が覆面をして私学校の軍事訓練の場に現れ、刀で小銃を真っ二つに切って見せ、協力を申し出た。そして白兵戦における刀の優位を説いていたが、いくら「人斬り半次郎」とは言え、あんなに奇麗に小銃が切れるものだろうか。


 西南戦争の激戦地である田原坂(熊本市)などでは、両軍の銃弾が空中で衝突した「行き合い弾」が発掘されるようだが、刀でスッパリ切られた小銃が戦場に散らばっていたという話は聞かない。


 今後は、私学校の可愛い生徒たちが暴発し、西郷が不本意ながら戦争に巻き込まれてしまうような展開になるのだろう。ドラマの西郷は平和主義者だから、それはそれで良いのだが、ここに来て徹頭徹尾「士族」の視点だけになってしまったのは惜しまれる。あれだけ「民が、民が」と言っていたのだから、民の視点をもっと入れていれば、もっと重厚なドラマになったであろう。

 

赤坂喰違事件


 ドラマでは右大臣岩倉具視が刺客に襲われたと、大騒ぎしながら閣議の場に転がり込んで来たが、あれは明治7年1月14日午後8時ころに起きた岩倉暗殺未遂事件である。

 馬車に乗り赤坂仮御所を出、表霞が関の自宅まで帰ろうとした岩倉は、喰違見附(現在の千代田区紀尾井町6)で数名の刺客に襲われた。岩倉は眉下と左腰に軽傷を負ったが、濠に滑り落ちたため刺客に発見されず、命拾いした(この時の刀痕がある岩倉の衣服が、京都市左京区の岩倉旧宅に保存されている)。


 事件が明治天皇・皇后に与えた影響は大きく、なんと宮内省が東京府と神奈川県に、犯人捜査を厳命した(無論、越権行為である。明治のはじめとは、そんな時代であった)。


 ドラマでは取り乱した岩倉が「土佐の奴らに襲われた」と叫んでいたが、ただちに「土佐人」が犯人であると、分かったわけではない。

 史実では現場に残されていた下駄が糸口となり、1月17日に犯人が捕らえられている。襲ったのは武市熊吉ら9名の土佐の士族で、大半が陸軍関係者だった。武市らは熱烈な征韓論の支持者だったから、岩倉を恨み暗殺を企んだのであった。


 ドラマでは描かれなかったが、捕らえられた武市らは激しい拷問を受けて取り調べられ、9名全員除族の上、伝馬町獄で斬に処された(昭和62年の日本テレビ年末大型時代劇『田原坂』では、武市の斬首シーンがあった)。右大臣のかすり傷と、土佐士族9名の命が同等に扱われるのだから、これもまた大変な時代であった。

 9名の遺骸は裸にされ、俵詰めにされて、同志の手により新宿牛込岩戸町の宝泉寺に運ばれ、埋葬され、木製の墓標が建てられた。


 武市らの賊名が消えたのは、日清戦争講和後の明治28年のことである。明治43年、宝泉寺は現在の中野区上高田に移ったが、そのさい9名の名を刻んだ、立派な合葬墓が建てられた(芸能人の葬儀などでよくワイドショーに出て来る寺でもある)。

 合葬墓建立に尽力したのは、土佐出身の子爵谷干城ら。谷は熊本鎮台司令長官として「西南戦争」では西郷軍相手に籠城して戦い、のち農商務大臣などを務めた人物である。

<了>

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