モヤモヤした西郷
今回は明治9年(1876)3月の「廃刀令」あたりから始まり、翌10年2月17日、西郷が政府を「尋問」すると、鹿児島を出立するまでが描かれる。いよいよ「西南の役」の始まりである。
ドラマでは、中原尚雄が警視庁の密偵であると発覚したのがきっかけとなり、桐野利秋らが私学校の生徒を引き連れ、鹿児島にある政府の火薬庫を襲撃する。つづいて、私学校で激しい拷問を受けた(史実では警察で拷問された)中原が持っていた電信文「ボウズヲシサツセヨ」が、内務卿大久保利通による西郷暗殺指令と解釈され、西郷も涙を流しながら、上京を決意する。
このあたりの西郷の真意は、実際よく分からない部分が多い。戦う気があったのか、なかったのか。ドラマでも、尋問に行くだけと言いながら、息子菊次郎には戦争になる可能性もほのめかし、ちょっとモヤモヤした感じで描いていた。
東郷の西郷評
日露戦争でバルチック艦隊を壊滅させたことで知られる海軍大将の東郷平八郎は、西郷と同じ鹿児島城下加治屋町出身だった。文久3年(1863)の薩英戦争が初陣で、戊辰戦争にも従軍している。維新後は海軍に入り、明治4年から同11年までイギリスに留学していたため、征韓論争や西南戦争には直接関与していない。
昭和2年(1927)10月、鹿児島で行われた西郷没後五十年で、東郷は「南洲神社奉賛会総裁」を務めた。そのさい、東京麹町の自宅において、『鹿児島新聞』の記者が聴取した東郷の談話が残っている(拙著『語り継がれた西郷どん』朝日新書)。
「西郷さんの一生は実は征韓論時代で終わったのである。
明治十年の戦争は或る人が何と言っても、叛逆であると論じたごとく一大失敗で、アノ悲惨な最期を遂げられた。
明治政府といえども、西郷さんを暗殺するような事はしません。
もちろん私学校の連中が弾薬を奪ったりしたから、そのままジッとしておれば、政府から罰せられるという心配があったかも知れないが、兵を率いて説明に行く用はない……自分も西郷さんとは二十歳余りも年が違い、殊に明治四年から十一年まで倫敦(ロンドン)にいて、十年戦争も知らないのだから、詳しい話は出来ない」
これを読むと、東郷が西郷に対し、敬意を表しつつも、複雑な思いを抱いていたことが分かる。西南戦争を「一大失敗」と断言しており、少なくとも、手放しの礼讚をする気はない。
半世紀後を生きる東郷には、「暗殺」を真に受けて「上京」の途につく西郷は、軽率な人物に思えたらしい。そして鹿児島市照国神社で行われた五十年祭の式典に、「奉賛会総裁」の東郷は病気を理由に欠席した。翌日の新聞には、それを「すこぶる残念だ」との、関係者の談話が出ている。
>洋泉社歴史総合サイト
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