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最終回・ 土佐藩士の悲惨列伝

今回は連載の最終回。連載が続けられたのも江戸時代の史料が良好な状態で保存されたお蔭です。ということで、対象を幕臣に限定せず、幕府と藩の記録保存(または廃棄)について、エピソードをご紹介します。

 

「土佐国古城伝承記」という史料(『土佐国群書類従』巻46所収)には、土佐藩士のさまざまな逸事が記されている。

たとえば知行1400石の朝比奈右京の場合は。

 

 寛文7年(1667)8月25日のこと、朝比奈は老女(幹部女中)一人を連れて屋敷の土蔵に入った。艶っぽい目的があったからではない。「鼠狩」、ネズミ退治のためである(当時は知行1000石以上の藩士でも自身でネズミ退治をしたのだ)。ところが焔硝(火薬)壺の中にネズミが隠れているかもしれないと思って、火を灯した紙燭で壺の中を照らしたのが間違いのもと。たちまち発火し、ふたりとも火だるまになり、爆発で身体はバラバラになった(「忽火うつり其身老女ともからたすたすたにちぎれ死す」)。宵の六つ(午後6時)の出来事だったが、爆発のすさまじい轟音は遠くまで響き渡り、みな肝をつぶしたという。

 

危機管理意識が薄いというか、危険物の扱いに無知だった藩士(とその老女)の悲劇というお話。まるで最近札幌で起きた消臭スプレー爆発事件みたい。

 

 服部源右衛門は、藩主に憎まれて御暇を命じられ(藩士の身分を剥奪され)土佐国を去らなければならなかった。いったいどんな不始末を仕出かしたのか。父の家督を相続したとき、父の知行500石を200石削られ300石と聞いた服部は、その場(家督相続を仰せつけられた席)で、これを拒否した(「御請不仕」)。組頭(上司)は真っ青になり、それは無礼だ(「無礼なり」)と服部を説得し、なんとか300石で承諾させたという。同様の事態がまた起きたら……。この事件をきっかけに、以後、土佐藩では家督相続を仰せつける際には、組頭が同席し、横目(監察役)が立ち会うようになった。服部の不服従が藩の制度を改変させたのである。

 憎まれた原因はこれだけではない。服部には妾腹の長男と本妻が産んだ次男があったが、次男を惣領にしたいと願い出た。どうやらこれが藩の方針に反する行為だったらしい。かくして服部は土佐藩を追い出された(彼のその後については未調査)。

 

突然の俸給カットに対して敢然と不服従の態度を示した服部に喝采する読者もいるかもしれないが、藩主を頂点とする組織の中では到底許されなかったのだろう。
 

ごく単純な不注意で知行1200石の家を断絶させた人もいる。

 

  森主馬一長は、末期養子の願書を作成する際に「江州長浜」と書くべきところを「遠州長浜」と書き違えてしまった。

 末期養子の願書は、当主の病状が重く(もはや快復の見込みもない)しかも跡継ぎの子がいないとき、急遽養子を迎え家督を相続させたいと願い出る文書。通常当主はすでに亡くなっている場合が多く、そうでなくても文字など書ける状態ではないから、書き間違えたのはもちろん当主の森主馬ではない。森家では誤記に気づかないまま担当の奉行に提出し、奉行もまたよく確かめもしないで藩主に差し上げてしまった。ミスを重ねたのだ。江州(近江国。現・滋賀県)でも遠州(遠江国。現・静岡県)でもたいした違いじゃないさ、と広い心で見てくれればよかったのだが、藩主の山内豊昌(在任期間は1669~1700)は違った。豊昌は「有論(うろん)に被思召」(乱雑極まりないふるいだ!)と激昂し、なんと森主馬の家の相続を許さなかったのである(「跡式断絶被仰付」)。


 「江」と「遠」のたった一字の誤りで家を取り潰された土佐藩士。悪意など微塵もなかっ
ただけに哀れこの上ない。

 

終わりのない謹慎処分

 「土佐国古城伝承記」には他にもさまざまな藩士の不幸が記され、読む者の興味をそそってやまない(他人の不幸は蜜より甘い)。しかしなにより印象深かったのは、町市左衛門(知行400石)の例である。

  町は寛文4年(1664)の夏のある日、前藩主の山内忠義から「遠慮」を命じら

れた。「遠慮」とは、自宅の門は閉じたままだが夜中の外出は許されるという軽い謹慎である。軽いとはいえ不名誉な処分に変わりはない。しかし、いずれ近いうちに処分は解かれるはずと町が期待しているうちに、同年11月、町の処分を解かないうちに忠義は亡くなってしまう。悪いことに、町に謹慎処分を下した記録が忠義の手許にも役人の公文書の中にも残されていなかった(「御手許の御書付諸役手の記録にも不相見」)。処分が下された記録がないのだから処分を解きようがない。結果、町の件は放置され、藩主の忠豊もその次の豊昌も彼の「遠慮」を解こうとしなかった(というか町が処分を受けた事実そのものが忘れられていたようだ)。

  それでも処分が正式に解除されるまで、町はひたすら待ち続けた。こうして寛文4年から元禄4年(1691)まで、実に28年も謹慎生活を余儀なくされたのである。ならば元禄4年に処分が解かれたのかといえば、そうではない。この年、町市左衛門は「遠慮」のまま(屋敷の門を開くことさえ許されない状態で)病死。結局死ぬまで謹慎を解かれなかったというわけ。幸い家の断絶は免れ、町の「世倅」(息子)は8人扶持を給されて「御馬廻末子」に召し出されたという。

 

 町市左衛門の悲劇は異例中の異例かもしれない。記録の付け方や管理方法が確立していなかった江戸初期(17世紀)ならではの〝事故〟と言えるだろう。18世紀半ばを過ぎれば、さすがにこんな事態にはならなかったと思う。なぜなら先例を重視する役人たちは、記録の引継ぎと保存に労力を惜しまなくなるからだ。
 
 幕府の場合も同様で、江戸城が火災に見舞われたとき、大量の公文書を短時間で安全な場所に移せないと判断した担当者たちは、日誌や記録類を江戸城内の井戸に放り込んで焼失を防いだという。水に浸せば修復は困難だが、和紙に墨で書かれているので判読不能になる恐れはない。鎮火後、井戸から引き揚げ、時間と労力を費やして(暇な幕臣を動員して)浸水した記録を書写させ、新たに冊子を作製したのである。公文書再生御用。

 一方、さして重要でない(将来まで保存する必要がないとみなされた)記録類は、人足寄場に送られて再生紙の原料とされたり、それぞれの役所でメモ用紙として用いられたりした。廃棄される公文書といっても、紙が貴重だった時代のこと、焼却処分にはされなかった。幕府の各部署で大量の廃棄文書を燃やせば、万が一火災を起こす恐れもあった。

 

火中に投じられた将軍の直筆

 惜しげもなく燃やされた文書もある。しかもただの役所の公文書ではない。なんと将軍直筆の文書が火中に投じられたのである。3代将軍徳川家光の寵臣(才気煥発な男でもあった)で幕府の中枢となり、家光没後も4代将軍家綱を補佐した松平信綱(15961662)は、死の数日前に家光から授かった「御書」(自筆の書簡等)を焼却するよう息子たちに遺言した(『甲子夜話続篇』巻28)。


 本来ならば家宝として保存すべき「御書」をなぜ? 信綱は「これは御直筆で大切に保存すれば子々孫々まで当家の珍宝となるに違いない。しかしもし外に漏れ、後世の人がこれを見て家光公のご判断を批判したら……。そのようなことになったら、私の不忠になるから」(意訳)と語った。


 信綱は武蔵国川越藩75000石の藩主だった。跡継ぎの松平甲斐守輝綱は、弟たちと一緒に「御書」を薬缶に入れて焼き、その内容を一目たりとも見ないよう、頭を振りながら灰にして袋に入れた(原文は「彼御書を薬鑵に入れて火にて焼き、各一目も見ざるやうに、頭を振て敬て灰となし、其灰を袋に入て」)。それからどうしたか。輝綱らは、その袋を信綱の死骸の首にかけて共に埋葬したという。

 
 こうして「御書」は灰にされたが、信綱の手もとにあった重要な文書がすべて焼かれたわけではなく、「御機密の日記数冊」だけは子孫に伝えられた。ただし子孫といえども中をのぞき見ることは許されないという条件付きで。

文政12年(1829)当時、これらの日記は三河国吉田藩主の松平伊豆守信順(信綱の子孫はその後、下総国古河、三河国吉田、遠江国浜松を経て、寛延2年〈1749〉に再び吉田藩主となっていた)の下屋敷に特別に設けられた蔵に厳重に保存されていたが、同年321日、神田佐久間町に発した大火で灰になってしまう。


 松平家では、さぞかし貴重な記録の焼失を惜しみ嘆いたに違いない。ところが平戸藩老公の松浦静山は、松平家の家臣某の意外な言葉を耳にした。「この秘冊は家の襲宝といへども、子々孫々覧ることも協はざることなれば、焚亡せし社(こそ)時なり。惜むべき物にも非ず」。どうせ無駄に保存しているだけで、末代まで誰も閲覧することができない機密日記だから、焼亡しても惜しくはない、というのだ。

さすがに静山は「本当にそうだろうか(本当にそう言ったのだろうか)」(原文は「信(まこと)にかゝることならん歟」)と疑っているが、面倒な物が焼けてホッとしたという心情はよく理解できる。今も昔も過去の重大な機密を記した文書が持て余し物になることに変わりはない。

<了>

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最終回 敬天愛人

戦闘シーンのこと

 最終回は、敗走を続ける西郷軍が延岡を追われた明治10年(1876)8月半ばあたりから始まり、9月24日の城山総攻撃のクライマックスを経て、翌11年5月14日の大久保暗殺事件までが描かれる。


 戦闘シーンは、やたら火薬が爆発して土煙が立ち、兵士たちは血と泥にまみれている。西郷も小銃を抱えて最前線を走り回って戦う。至近距離で戦いを追いかけているような感じが続き、観ている方はいささか疲れる。

 俯瞰的な戦闘シーンを描くことは作品の規模からも、無理があるのだろう。それは、単なるカメラワークの問題では無く、西南戦争がどんな戦争だったのか、いまひとつ伝わって来ない。

 もっとも、演出と音楽で盛り上げ、回想シーンを多用して、最終回らしい雰囲気を醸し出していた。まずは、作り手の方々に、一年間、お疲れさまでしたと述べておきたい。

 

民との関係回収出来ず


 ドラマの息子菊次郎によれば、西郷は新しい時代の波に乗り切れなかった侍たちを、「抱きしめ、飲み込み、つれ去りました」と言う。

 それは間違いではないのだが、あれほど「民のため、民のため」と言い続けて来た西郷が、最終回に至り「侍の最後」とか「ニッポンの誇り」とか叫んで、最後の城山の戦いに身を投じるのは、ちょっと理解に苦しむ。あの「民のため」は、どこに消えてしまったのだろうか。


 この伏線を回収出来ず、ラストを単なる不平士族の反乱として描いてしまったところは、ドラマとしては失敗だったと思う。

 ちなみにドラマの西郷の周囲には、「新政厚徳」と大書された旗が2旒掲げられていた。あれは確かフィクションなのだが、西南戦争当時に出された錦絵には、早くも「新政厚徳」の旗が数多く描かれている。つまり、西郷が民のため、世直しのために決起してくれたというのは、民衆が創作した最も古い西郷を題材としたフィクションなのだ。


 西郷と民の間に横たわっていた溝を作り手が真剣に研究を重ね、検討して、ドラマに盛り込めば、あるいは「名作」が誕生したかも知れない。「民のため」を連呼することで西郷を「善い人」に見せ、一方の民は小汚い貧乏人で、西郷にヘコヘコしながら食料を持って来るだけでは、歴史はさっぱり見えて来ない。民の視点を象徴するのが、奄美大島の妻である愛加那のはずだったが、それが途中から完全消滅してしまった(登場回が無かったと言っているわけではない)。


 これらの点と関わるのが、大久保と西郷がなぜ決裂したかという大きな問題が、ドラマなりの解釈で描き切れていなかったことである。

 記憶の限りでは、岩倉使節団に加わり欧米を巡視し、帰国した大久保が、すっかり変わってしまったという印象だけで、ドラマは二人の決裂を描こうとしていた。西郷はあくまで「善い人」であり、変わらないというのがスタンスのようだが、大久保の言い分も同等に時間を費やして描かなければ(欧米における、数々の失敗体験など)、親友を切り捨てても突き進むしかなかった最終回の大久保の悲しみが、伝わって来ないのである。

 

西郷がヒーローに


 錦絵に描かれた「新政厚徳」の旗でも分かるとおり、確かに西郷は西南戦争を起こしたことで、民の間でアンチ・ヒーローになった。


 ドラマでも岩倉具視が大久保に、西郷の芝居を観に行こうと誘っていたが、西南戦争終結から半年後には、早くも劇化されている。

 河竹新七(黙阿弥)が西南戦争を西郷側から描いた「西南雲晴朝東風」がそれで、西郷には市川団十郎が扮した。上演場所は東京・新富座。明治11年2月23日初日で、80日も大入りが続いたという。実名では生々しかったのか、役名は「西条高盛」になっている。この芝居は同年6月に別の劇場でも再演され、そのさい大臣、参議、大輔なども観劇したという(拙著『幕末時代劇「主役」たちの真実』講談社+α新書)。


 西郷が主役の物語だから、当然政府高官たちの耳障りの良い話ばかりではなかっただろう。政府批判の路線だろうが、そのために芝居が弾圧されたという話は聞かない(江戸時代なら、一発でアウトである)。その自由さこそが、近代化のはじまりとされる「明治」という時代でなければならない。ドラマで描かれた西郷人気の高さ、芝居について語る岩倉具視のお気楽そうな顔は、実は重要な意味を持つ。


 ところが、その後誕生する映画というメディアでは、西郷という題材は政府に対する反乱を肯定することにつながるとして、危険視されたことは以前書いた(政府がイチャモンをつけた事件も起こったらしい)。また、戦後は「征韓論」の問題から、これまたドラマ化するには慎重にならざるを得なくなったことも書いた。


 平成27年、吉田松陰の妹を主人公にした『花燃ゆ』を観るまで、僕が大河ドラマを通しで全話観たのは昭和55年の『獅子の時代』が最後であった。三十数年ぶりに観た大河ドラマである『花燃ゆ』は、あまりにも劣化が甚だしくて驚いた。物語づくりにも、時代考証にも、呆れ返りながら、この「歴史REALWEB」の連載批評を書いたことなど思い出す(まだ読めます)。しかも週刊誌をたびたび賑わせた、製作決定に至るまでの政権絡みのきな臭くも、みっともない話の数々も含め、とても正視出来ないことがあった。


 ドラマが終了してから、ずいぶん政治絡みの方たちから陰険な嫌がらせや、脅しを受けた。「ドラマを批評したことは、行政を批判したこと」との旨、エエ年をした公立の博物館長から言われたのが、なんとなく忘れられない。我々が住む国は、とうとうこれ程まで馬鹿になってしまったのか。


 ここまで来ると、政権は明治維新を描く大河ドラマに、一体何を期待しているのだろうかと思えて来る。少なくとも、娯楽目的だけではなさそうだ。

 だから、『西郷どん』を観る仕事を引き受けた。作品についてはさんざん書いて来たので触れないが、いつか『花燃ゆ』と共に「明治150年」についてまとめる時が来たら、論じられたらと思う。

 

 一年間にわたりご愛読くださり、ありがとうございました。さようなら。

<了>

 

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第46回 西南戦争

すべて周囲が悪い


 今回は、西郷軍が鹿児島を発つ明治10年(1877)2月から始まる。ドラマの西郷はあくまで平和主義であり、政府に「尋問」に行くだけと言う。

「全国の士族たちの思い。その全てを政府に訴える」と、一万三千もの私学校生徒とともに鹿児島を発つ。現代で言うところの「デモ」として、作り手は描こうとする。


 その「デモ」が、なぜ「戦争」に発展するのかと言えば、内務卿の大久保利通が西郷潰しを企んでいるからだ。独裁者を気取る大久保は「おいが政府じゃ」と言ってはばからず、戦争に持ち込むために、天皇から西郷征討の詔を引き出す。

 だが、ドラマの西郷はそんなこととは露知らず、武装した一万数千人を引き連れて熊本までやって来る。ところが「意外」にも熊本鎮台が抵抗して来たので、ようやく「戦争」になると気づく。大久保に嵌められたと、悔しがる。


 失礼だが、この西郷はどうみてもアホにしか見えない。現代でも、武装した一万数千人が国会議事堂を取り囲めば、おそらく機動隊が出て来る。そこに至り、「なんでじゃ?」と、憤慨しているデモのリーダーのようなものである。


 なお、実際の西郷はここまでくると、「デモ」ではなく、「戦争」をやる気満々だった。このドラマ最大の難点は、すべて評価を強引に現代に引き寄せ、主人公の西郷を徹底した「善人」として描こうとするところである(このあたりは、3年前の『花燃ゆ』も非常に似ている)。今回も、すべて悪いのは大久保を中心とする政府であり、西郷の意に反して西南戦争が行われたことになっている。戊辰戦争の時も、西郷は江戸城を無血開城させ、平和裡に解決したつもりだったが、東北諸藩が勝手に反乱を起こし、戦火が拡大してしまったとの解釈だった。すべて、周囲が悪いのである。


 史実云々ではなく、ここまで一人の人間を空想の中で祭り上げてしまったら、それはもう一種の宗教であり、ドラマとして面白くないのは当然であろう。

 武士にとり、政治問題の解決手段としての戦争は現代よりもずっと身近にあったことが、伝わって来ない。まして西郷は、戦争好きなのである。


 決して西郷を、悪人として描けと言っているわけではない。そういう現代人とは違う側面が示されてこそ、現代劇ではない、歴史を題材としたドラマの面白さがある。

 現代の物差しですべてを計り、「悪」、あるいは「封建的」「非開明的」とみなされる部分はたとえ史実であっても、徹底的に消そう、潰そうという傾向が最近特に強まっている気がしてならない。日本人が、幼稚化している証拠である(そのことは、青志社から来月出す拙著『吉田松陰190歳』に書いた)。そんな中での「明治維新150年」だったことを思うと、盛り上がらなかったのも当然であろう。

 

遊び心の無いドラマ


 西郷の息子菊次郎の語りで、

「後に『西南戦争』と呼ばれる戦いに突入してゆきました」

 とあったが、「西南戦争」という呼び方は意外に新しい。昭和3年(1928)まで生きた菊次郎の存命中には、ほとんど無かった。少なくともメーンになるのは、第二次世界大戦後であろう。その前は「西南の役」であり、古くは「十年の役」とか干支から取って「丁丑の役」というのが多い。


 ドラマの西郷は、熊本ではからずも戦争に巻き込まれたので、しばらくは田原坂などでの戦闘シーンが続く。あまりにも小規模で、数十人の小競り合いにしか見えない。予算が無いのかも知れないから、このあたりは目を瞑ろう。西郷の末弟小兵衛が戦死し、菊次郎も足を負傷する。


 前々回、私学校に現れた桐野利秋が、日本刀で小銃をスッパリと斬って見せたが、あのネタがドラマの戦闘シーンでも描かれるのかと思いきや、無かった。いっそ、桐野の指導を受けた西郷軍の兵士たちが、政府軍の小銃を片っ端から斬って回る、平田弘史の時代劇マンガばりのシーンでもあればと期待していたのに、残念である。そういう創り物ならではの、ぶっ飛んだ楽しさが無いのも、このドラマの魅力を半減させる。


 僕が一番好きな幕末時代劇映画は、五社英雄監督『人斬り』(昭和44年)だ。50回以上は観ている。勝新太郎扮する岡田以蔵が京都から「天誅」が行われる石部(現在の滋賀県湖南市)までを、一気に疾走するシーンがあるのだが、そこでマンガチックな演出がなされる。以蔵の走った後ろに、派手な土煙がもくもくと立つのだ。つづいて石部に着いた以蔵が桶の水を頭から浴びると、一気に湯気が吹き出す。実際には有り得ない現象だろうが、それを描いてしまう。そんな、ちょっとした遊び心が「西郷どん」には皆無である。

 

妻が訪ねて来る


 熊本をはじめ、戦場になった町や村の多くが甚大な被害を受けたことは史実としても沢山残っているのだが、ドラマでは一切描かれていない。


 後年、松本清張が小説の題材にして有名になった「西郷札」などは、西郷軍による私製の紙幣である。これを使って強引に買い物をするのだから、庶民にとっては大迷惑だったはずだ。事実、戦後は「西郷札」は紙くずになってしまった。

 あれほど「民が、民が」と言っていた西郷が、なぜこんな戦争を行ったのかという、ドラマとしての辻褄合わせをする気はないようである。そもそも西南戦争の目的からして、「士族の声」を東京の政府に届けるためとしていた。すでに「民」の視点は無い。それは史実としては大体合っているのだが、ドラマとしてはいささか破綻している。


 8月半ば、西郷軍が延岡の近く、俵野まで落ちて行くと、いきなり民衆たちが食料を持って馳せ参じて来る。西郷を世直しの神様と称え、拝むがごとし勢い。薄汚れた、いかにも貧しそうな民を見ながら、ニコニコとほほ笑む西郷は、どこぞの国の将軍様に見えて来て、いささか不気味ではある。


 それから、なんと俵野に西郷の妻糸子が訪ねて来る。これはまったくのフィクションだが、呆れた。

 まず、妻に陣営を訪ねさせるという、作り手の歴史に対する感覚を疑う。下っ端の兵士だったら、処刑されるレベルの話である。維新のさい、恋人が陣営に訪ねて来たため、心中に追い込まれる兵士の史実を、僕も著作で紹介したことがある(『長州奇兵隊』中公新書)。


 『花燃ゆ』では、下関で外国艦への砲撃真っ只中の久坂玄瑞のもとを、妻文が訪ねて来るというとんでもない創作逸話があったことなどを思い出す。あの後、玄瑞は文にひざ枕をしてもらいながら、話していたと記憶する。『花燃ゆ』も色々と批判はあったはずだが(僕の周囲では絶賛以外の評価は厳禁だったようで、追従するか、黙りこくるかだった)、あまり反省になっていないのだろう。変なところで、「薩長同盟」が締結されているものである(玄瑞については来月ミネルヴァ書房から出す『久坂玄瑞』に、さんざん書いた)。


 さて、このドラマでは西郷を訪ねて来た糸子が、

「吉之助さあが、ただのお人だったらどんなに良かったか」

 と言い、涙を落とす。つづいて西郷は糸子を抱き寄せる。糸子の台詞は実感が籠もっていて、悪くない。しかし、それを西郷を訪ねて来て直接言わせたことで、ドラマはぶち壊しになったと僕は思う。


 これは2月に鹿児島を発つ前夜に、交わしておかねばならない夫婦の別れのシーンである。

 それが出来なかったのは、平和主義の西郷は、一万数千人の武装集団を率いて「尋問」に行くだけであり、まさか「戦争」になるなど予想外という設定のためであろう。そして妻もまた、戦争になるとか、死ぬとかは想像も出来なかった。だから、別れの言葉も交わさなかったのだ。


 ならば、それを知った糸子は死んでゆく夫に思いを馳せながら、ひとり鹿児島で後悔すべきであろう。そして涙を流し、件の台詞をつぶやいた方が何倍もいい。

 「会いたい」と思えば簡単に会えるのならば、兵士たちの家族が鹿児島から大挙して俵野にやって来なければならない。ぐっと押さえるからこそ、どうにもならない非情の現実が観る者の心にまで迫って来る。「会いたかったから、来ましたわ」では、まともなドラマにならないと思うのだが。

<了>

 

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