[註記追加 15.10][文言追加 24日 9.41][註記追加 25日11.17]
東北のある県知事が、「津波に襲われた狭隘な海岸縁の一帯以外に平地がなく、仮設住宅を建てるにしても、山を切って造成しなければ敷地が確保できない」というようなことを語っていました。
おそらく「建物は平地・平場でなければ建てられない」、あるいは「傾斜地は平らに造成するものだ」、という考えが「常識」になって染み付いているのだと思われます。
たしかに、鉄骨の仮設住宅、通称プレファブを何棟も並べるには平地がいい、と言うより、仕事が楽です。
しかし、「山を切崩し平地をつくる」という発想は、重機万能の時代の発想に思えます。
もし重機がなかったなら、どうするのでしょうか。人力で山を切り崩して平地をつくるのでしょうか?
昔だって、とりあえずの建屋を建てなければならない、という状況はあったはずです。
そのとき、平地がないからだめだ、と考えたりはしなかったはずです。
まして「平地を求めて移住する」、などとは直ぐには考えない。
簡単に「移住」を口にするのも、自動車車万能の時代の発想。
山だからといって、すべてが切り立っているわけではありません。
多くの場合、山裾には多少なりとも 3/10~5/10程度の勾配の斜面は必ずあります。少し手間はかかっても、この程度なら、通称プレファブ小屋も建てることができます。
通常、簡単に木杭を打って、その上に置くのがプレファブ小屋のやりかた。少し丁寧になると、ブロックで基礎をつくることもあります。
いずれにしても、一定程度の斜面なら、片側を地面すれすれに据え、下側の基礎を高めにすれば、床は平らになります。
基礎の高さの調節で水平面を空中につくるわけです。
日本では、こういうことを、昔から本建築でもやってきています。
その代表が「清水寺」の舞台。他にも各地に例があります。
清水寺が建つ場所の勾配は、ほとんど45度に近い。勾配 8~9/10程度あります。
懸崖造(けがいづくり、けんがいづくり)懸造(かけづくり)などと呼ばれる方法。
清水寺の場合、建屋本体は、懸崖造の一部にだけ載り、大部分は地山(切った岩盤)に建っています。
このような建て方をしたのは、何も、当時重機がなかったからではありません。前掲記事でも触れていますが、
山を切ったりすると、山が崩れ始めてしまうことを知っていたからなのです。
山の形、それは、そうなるべくしてなった形なのです。
簡単に言えば、柔らかい部分が水で流れ去り、硬い部分が残った、と考えればよいでしょう。そして、安定した形になった。
子どものころの砂遊びで、砂場に水をそそぐ。そうすると、一面同じような砂で被われているのに、水は微妙な経路を描いて流れ、やがて吸い込まれる。
つまり、
同じような砂に埋め尽くされている砂場の砂にも、水に押し流されるところと、そうでないところがある。
だから、水みちも微妙に曲る。
これが、大地になれば、もっと差がある。
その結果、地表はデコボコになる。そうして「地形」ができる。
だから、「地形」と「地質」は深い関係がある。
往時の人びとは、「こういう事実・事象」を身をもって知っていた。
もちろんそれは、「現代科学による知見」を知って、つまり「ものの本」を読んだりして得た理解ではありません。
「現場」の僅かな「差異」をも見究める、人びとが「感性」で得た「理解」です。「感性」は「直観」と言い換えてもいい。
あるいは、それこそが、現代科学の礎になった「理解」と言ってもよいかもしれません。
だからこそ、往時の人びとは、自然が造り為した地形を、いたずらに弄る(いじる)ことはしなかったのだと私は思います。
註 このあたりのことについて、以前、「知見はどうして得られるか」で書いています。[註記追加 25日11.17]
そうは言っても、奈良時代の東大寺の伽藍は、若草山の山裾を造成して建てられています。
下図は、東大寺の伽藍配置図です(この図は以前にも載せてことがあります。再掲です)。
中国の伽藍にならった当時の国策的大事業:「東大寺」の大伽藍をつくるには、広大な平地が必要でした。
そこで、奈良盆地北東隅の若草山の西側緩斜面を切取って平地をつくったのです(なぜ盆地の平らな場所にしなかったか、については不詳であることを、前掲記事でも触れています)。
上掲の図の等高線を追ってゆくと、線の曲り方が不自然になる箇所がありますが、そこが切取った場所です。
当然、切取った土の処理が必要になりますが、おそらく西側の大仏池の堰堤あたりに盛ったのではないかと思われます。
しかし、現代と異なるのは、伽藍は、切土の箇所につくり、盛土した場所にはつくらなかったことです。
なお、東大寺より以前につくられた「法隆寺」伽藍では、きわめて緩い斜面に、斜面なりにつくられています。それでも、回廊を歩くと、北に向ってかなりの爪先上がりであることが分ります。
多分、地表を軽く均す程度だったのだと思われます。
ただし、礎石を据えるための地形(地業:ぢぎょう)には、細心の注意が払われています(「日本の建物づくりを支えてきた技術-3・・・・基礎と地形」参照)。
この「伽藍」の配置の決め方についての「想像」も、前記の記事で書きました。
この「盛土をして平らにした土地に建物は建てない」という「常識」は、おそらく近世まで継承されているように思います。
山間の地には、斜面に住み着いて暮している方がたの住居が見られます。知っている例で言えば、関西で紀伊半島の山中、関東では秩父の山中。全地域で見られるはずです。
この方たちの住まいもまた、なるべく地山はいじらず、切土・盛土する場合でも、大半は切土をした箇所に建屋を建て、盛ったところは庭先とするのが普通です。
最近の住宅地では、斜面であれば、そこを雛壇のように造成するのが当たり前になっています。
大規模住宅団地の場合にも、地山を大きくいじるのが普通です。
その「悪しき好例」の嚆矢は、広大な多摩丘陵を重機で切り刻んだ「多摩ニュータウン」でしょう。
神戸に至っては、六甲山を崩して平地をつくり、
崩した土をベルトコンベアで運び海岸を埋め立てる、ということを「公共」事業でやっていました。
そういう住宅地では、今回の地震で崖崩れや地滑り様の現象や、建物が大きく傾くという現象が生じています。
戸建て住宅地の雛壇の造成は、敷地の斜面方向の距離の半分を切り取って、残りの斜面の半分に切取った土を盛ることで平らな面をつくるのが普通です。つまり±0という方法。残土が出ないから、計算上では《合理的》です。
その結果、敷地の斜面下方側が盛土ということになり、その盛土を支えるために擁壁を築きます。
報道で見る限り、崖崩れや地滑りは、こういう方法で造成された新興住宅地の、擁壁で支えられた盛土部分で起きています。
多くの場合、こうしてつくられた住宅地は、敷地面積が狭隘のため、切土部分にだけ建屋を建てるわけにはゆかず、盛土部分にも載ることになります。
最近の普通の広さ(150~200㎡程度)の敷地なら、建屋の半分以上は盛土部分にかかります。
どんなに十分に突き堅め、がっしりとした擁壁を築こうが、所詮、盛土部分は既存の地面とは一体にはなっていない、いわば浮いている状態になっていますから、激しい揺れがあれば、盛った部分が容易に滑って動いてしまい、擁壁をも押し倒すのです。
どんなに突き固めようが、盛土が「安定」するには、最低でも20年はかかる、と
鳶職の方から うかがった覚えがあります。
たしかに、竣工後間もない高速道路などで、盛土部分が、地震がなくても路面が波を打っているのを見かけます。
道路と橋の取付き部でも、橋の路面と手前の盛土した道路面の間に段差が生じている例を数多く見かけます。
どんな地震でも崩壊しないような擁壁をつくるとなれば、
城郭の天守台の石垣のようなつくりにでもしなければならないでしょう。[文言追加 24日 9.41]
また、そのような住宅地で、建屋が傾いてしまったのは、基礎を布基礎やベタ基礎にしているためと思われます。
地盤調査をすれば、現行の建築基準法の基礎仕様規定から、自ずと布基礎やベタ基礎になるからです。
ところが、
建屋の半分以上が、盛土部分に載っているため、盛土部分の崩壊・崩落とともに、そこに載っていた布基礎・ベタ基礎ごと、建物全体が傾いてしまうのです。
布基礎やベタ基礎は、弱い地盤に建屋の重さを分散させ、不同沈下を避けることを目的に「提案」された方策ですが、それは、弱い地盤が弱いなりに「安定」していることが前提になります。
しかし、「切土」「盛土」で成り立っている敷地は、直ぐには「安定」しないのです。
布基礎の提案が、なぜ行われたのか、「『在来工法』はなぜ生まれたか-3」で触れています。
これが独立基礎、柱ごとの基礎なら、多分、部分的な被害、たとえば切土部分に載っている基礎は動かず、盛土部分では基礎が浮いてしまう、あるいは木造部が基礎から離れてしまうなどで済むと思われます。
以前、室町時代末に建てられたと推定されている「古井家」を紹介しました。
「古井家」は独立基礎:石場建てです。
下は、その桁行断面図です(「古井家」については、数多く触れていますので、「古井家」で検索してください)。
解体修理の際、この断面図の東側(図の右手)の一部は盛土部に載っていて、そこが沈下し、長年のうちに柱や横材の一部に折損が生じていたことが判ったそうです。
これは、切土部分は不動であったから起きた現象です。ベタ基礎のように、盛土部の沈下によって、全体が傾くことはなかったのです。
もちろん、沈下が始まっても、折損に至る前の早い段階では、木造部は、宙に浮いた形になっていたものと思われます。早く手を打てば、折損も起きなかったでしょう。
現在のように、独立基礎でも、柱を基礎に金物で結んでいると、多分、折損は早く生じたでしょう。ただ、転倒することはない。
つまり、盛土部分に建屋を載せること自体が問題を起こすのはたしかですが、独立基礎の方が、布基礎やベタ基礎よりも、影響が少ない、ということ、すなわち、現行の基準法の仕様規定の「想定」は、「実際・実状・現場: reality 」に合っていない、ということです。
最近の造成住宅地の中には、斜面の雛壇化のほかに、「低湿地の平地化」した例がかなりあるようです。谷地田や沼沢地、ときには休耕田など、あるいは海岸に盛土をして平地をつくりだす場合です。
住宅地で、今回の地震により液状化現象を起こしたのは、すべてそういう場所です。
これまで見られなかった内陸部の例が目立っていますが、潜在的に「起きる条件は整っていた」にすぎません。これまで起きなかっただけ、ということ。
これらの「宅地化」にあたっては、当然、土木・建築畑の技術者が計画に係わっているはずです。
では、なぜ彼ら「技術者」:「専門家」が、起きるであろう事態を予測しなかったのか?
多分彼らは、現行法令の諸規定に合わせればよい、と考えたに違いありません。それは、地盤の悪いところではベタ基礎にすればよい、で済ませてしまうのと同じです。
つまり、「技術者」の理解が、「設計とは、《法令の規定する基準》に合わせること」という「理解」になってしまっているということです。
これは「設計」の字義にももとる。そして、当然、そういうことをするのは、「技術者」にももとる。
では、専門家ではない人たちが、敷地の良し悪しを見分けるには、どうしたらよいか。
〇 先ず、建物は、平地でなくても建てられる、ということを知ること。
〇 ある土地を、見るとき、その「現状の姿」を見るだけではなく、
その土地を含めた一帯の様子を観察し、その土地の「元来の姿」を想像してみること。
近在に昔から暮している方がたから、以前の様子を聞き取ること。いわゆる「古老の話を聞く」のも一法。
もし図書館があれば、その地域の地誌や地名辞典などを調べるのも一法。
〇 周辺にも足を伸ばし、その地域に古くから在ると思われる家々が、どういうところに建っているかを知ること。
たとえば、その構え方から、風向きなども知ることができる。
〇 周囲が、既に建物で埋め尽くされている場合には、
戦後間もなくの頃、1950年代(昭和30年代)の地形図を見て、かつての地形の様子を知る。などなど。
なお、国土地理院発行の各年代の地形図は、
「日本地図センター」のネットショッピングで購入、あるいは複写を依頼できます。
「専門家でない人」が、敷地の良し悪しを見分けるには・・・と書きました。
しかし、なぜ?
建築などの「専門家」で、敷地の土地の履歴などを調べている人は、きわめて少ない、というのが、現実だから!!です。
だからこそ、
「専門家でない方がた」は、先ず「事実」を知って、その上で「専門家」と話をする、あるいは「専門家」の話をきくことが肝要なのです。
この場合の「専門家」とは、建築家(都市計画家も含む)、住宅メーカー、不動産業・・・の方がたです。
註 これは、「専門家でない方がた」が、
専門家たちを本当の専門家たらしめる為にできる、
最大の「教育」なのです。
そうでもしないと、多くの専門家は、自力で成長できないのが現実だからです。[註記追加 15.10]
今回の最後に、清々しい事例を紹介します。
地形にあわせて設計された集合住宅の事例です。
下は、その配置図です。
次は、断面図と、地山への載せ方を解説した図です。
これは、地山の原型を極力尊重した計画例です。
つまり、先ず敷地を平らにする、などということを考えていません。
どうすれば、「地山の形状をそのまま使えるか」と考えた、と言えるかもしれません。
もちろん、建物を据える場所では、地形(地業)のための「造成」=「原型の破壊」はしています。
もっとも、「段差無し=バリアフリー」論者からは、否定されるに違いない計画ですが・・・。
このような計画の場合、下手をすると、建物全体が、斜面を滑ることが起きかねません。
すなわち、建物重量の「斜面方向に向う分力」が「垂直方向への分力」よりも大きいと、建物全体は斜面を滑ります。
この計画では、第一層の斜面奥の部分、第三層の奥の部分が、地山にいわば喰いこんだ形になっていること、垂直方向の重量分力が圧倒的に大きいこと、が滑りを止めている、と考えられます。
この集合住宅は、フィンランドの建築家、アルバー・アアルトの設計です。
彼は、地山を削って平地化する住宅地建設を目の当たりにして、それは違う、としてこの計画を立案、実施したようです。
「 KAUTTUA の集合住宅」 企画・計画1937年、建設1938~1940年
出典:“ALVAR AALTO Ⅰ” Les Editions d'Architecture Artemis Zurich 刊
東北のある県知事が、「津波に襲われた狭隘な海岸縁の一帯以外に平地がなく、仮設住宅を建てるにしても、山を切って造成しなければ敷地が確保できない」というようなことを語っていました。
おそらく「建物は平地・平場でなければ建てられない」、あるいは「傾斜地は平らに造成するものだ」、という考えが「常識」になって染み付いているのだと思われます。
たしかに、鉄骨の仮設住宅、通称プレファブを何棟も並べるには平地がいい、と言うより、仕事が楽です。
しかし、「山を切崩し平地をつくる」という発想は、重機万能の時代の発想に思えます。
もし重機がなかったなら、どうするのでしょうか。人力で山を切り崩して平地をつくるのでしょうか?
昔だって、とりあえずの建屋を建てなければならない、という状況はあったはずです。
そのとき、平地がないからだめだ、と考えたりはしなかったはずです。
まして「平地を求めて移住する」、などとは直ぐには考えない。
簡単に「移住」を口にするのも、自動車車万能の時代の発想。
山だからといって、すべてが切り立っているわけではありません。
多くの場合、山裾には多少なりとも 3/10~5/10程度の勾配の斜面は必ずあります。少し手間はかかっても、この程度なら、通称プレファブ小屋も建てることができます。
通常、簡単に木杭を打って、その上に置くのがプレファブ小屋のやりかた。少し丁寧になると、ブロックで基礎をつくることもあります。
いずれにしても、一定程度の斜面なら、片側を地面すれすれに据え、下側の基礎を高めにすれば、床は平らになります。
基礎の高さの調節で水平面を空中につくるわけです。
日本では、こういうことを、昔から本建築でもやってきています。
その代表が「清水寺」の舞台。他にも各地に例があります。
清水寺が建つ場所の勾配は、ほとんど45度に近い。勾配 8~9/10程度あります。
懸崖造(けがいづくり、けんがいづくり)懸造(かけづくり)などと呼ばれる方法。
清水寺の場合、建屋本体は、懸崖造の一部にだけ載り、大部分は地山(切った岩盤)に建っています。
このような建て方をしたのは、何も、当時重機がなかったからではありません。前掲記事でも触れていますが、
山を切ったりすると、山が崩れ始めてしまうことを知っていたからなのです。
山の形、それは、そうなるべくしてなった形なのです。
簡単に言えば、柔らかい部分が水で流れ去り、硬い部分が残った、と考えればよいでしょう。そして、安定した形になった。
子どものころの砂遊びで、砂場に水をそそぐ。そうすると、一面同じような砂で被われているのに、水は微妙な経路を描いて流れ、やがて吸い込まれる。
つまり、
同じような砂に埋め尽くされている砂場の砂にも、水に押し流されるところと、そうでないところがある。
だから、水みちも微妙に曲る。
これが、大地になれば、もっと差がある。
その結果、地表はデコボコになる。そうして「地形」ができる。
だから、「地形」と「地質」は深い関係がある。
往時の人びとは、「こういう事実・事象」を身をもって知っていた。
もちろんそれは、「現代科学による知見」を知って、つまり「ものの本」を読んだりして得た理解ではありません。
「現場」の僅かな「差異」をも見究める、人びとが「感性」で得た「理解」です。「感性」は「直観」と言い換えてもいい。
あるいは、それこそが、現代科学の礎になった「理解」と言ってもよいかもしれません。
だからこそ、往時の人びとは、自然が造り為した地形を、いたずらに弄る(いじる)ことはしなかったのだと私は思います。
註 このあたりのことについて、以前、「知見はどうして得られるか」で書いています。[註記追加 25日11.17]
そうは言っても、奈良時代の東大寺の伽藍は、若草山の山裾を造成して建てられています。
下図は、東大寺の伽藍配置図です(この図は以前にも載せてことがあります。再掲です)。
中国の伽藍にならった当時の国策的大事業:「東大寺」の大伽藍をつくるには、広大な平地が必要でした。
そこで、奈良盆地北東隅の若草山の西側緩斜面を切取って平地をつくったのです(なぜ盆地の平らな場所にしなかったか、については不詳であることを、前掲記事でも触れています)。
上掲の図の等高線を追ってゆくと、線の曲り方が不自然になる箇所がありますが、そこが切取った場所です。
当然、切取った土の処理が必要になりますが、おそらく西側の大仏池の堰堤あたりに盛ったのではないかと思われます。
しかし、現代と異なるのは、伽藍は、切土の箇所につくり、盛土した場所にはつくらなかったことです。
なお、東大寺より以前につくられた「法隆寺」伽藍では、きわめて緩い斜面に、斜面なりにつくられています。それでも、回廊を歩くと、北に向ってかなりの爪先上がりであることが分ります。
多分、地表を軽く均す程度だったのだと思われます。
ただし、礎石を据えるための地形(地業:ぢぎょう)には、細心の注意が払われています(「日本の建物づくりを支えてきた技術-3・・・・基礎と地形」参照)。
この「伽藍」の配置の決め方についての「想像」も、前記の記事で書きました。
この「盛土をして平らにした土地に建物は建てない」という「常識」は、おそらく近世まで継承されているように思います。
山間の地には、斜面に住み着いて暮している方がたの住居が見られます。知っている例で言えば、関西で紀伊半島の山中、関東では秩父の山中。全地域で見られるはずです。
この方たちの住まいもまた、なるべく地山はいじらず、切土・盛土する場合でも、大半は切土をした箇所に建屋を建て、盛ったところは庭先とするのが普通です。
最近の住宅地では、斜面であれば、そこを雛壇のように造成するのが当たり前になっています。
大規模住宅団地の場合にも、地山を大きくいじるのが普通です。
その「悪しき好例」の嚆矢は、広大な多摩丘陵を重機で切り刻んだ「多摩ニュータウン」でしょう。
神戸に至っては、六甲山を崩して平地をつくり、
崩した土をベルトコンベアで運び海岸を埋め立てる、ということを「公共」事業でやっていました。
そういう住宅地では、今回の地震で崖崩れや地滑り様の現象や、建物が大きく傾くという現象が生じています。
戸建て住宅地の雛壇の造成は、敷地の斜面方向の距離の半分を切り取って、残りの斜面の半分に切取った土を盛ることで平らな面をつくるのが普通です。つまり±0という方法。残土が出ないから、計算上では《合理的》です。
その結果、敷地の斜面下方側が盛土ということになり、その盛土を支えるために擁壁を築きます。
報道で見る限り、崖崩れや地滑りは、こういう方法で造成された新興住宅地の、擁壁で支えられた盛土部分で起きています。
多くの場合、こうしてつくられた住宅地は、敷地面積が狭隘のため、切土部分にだけ建屋を建てるわけにはゆかず、盛土部分にも載ることになります。
最近の普通の広さ(150~200㎡程度)の敷地なら、建屋の半分以上は盛土部分にかかります。
どんなに十分に突き堅め、がっしりとした擁壁を築こうが、所詮、盛土部分は既存の地面とは一体にはなっていない、いわば浮いている状態になっていますから、激しい揺れがあれば、盛った部分が容易に滑って動いてしまい、擁壁をも押し倒すのです。
どんなに突き固めようが、盛土が「安定」するには、最低でも20年はかかる、と
鳶職の方から うかがった覚えがあります。
たしかに、竣工後間もない高速道路などで、盛土部分が、地震がなくても路面が波を打っているのを見かけます。
道路と橋の取付き部でも、橋の路面と手前の盛土した道路面の間に段差が生じている例を数多く見かけます。
どんな地震でも崩壊しないような擁壁をつくるとなれば、
城郭の天守台の石垣のようなつくりにでもしなければならないでしょう。[文言追加 24日 9.41]
また、そのような住宅地で、建屋が傾いてしまったのは、基礎を布基礎やベタ基礎にしているためと思われます。
地盤調査をすれば、現行の建築基準法の基礎仕様規定から、自ずと布基礎やベタ基礎になるからです。
ところが、
建屋の半分以上が、盛土部分に載っているため、盛土部分の崩壊・崩落とともに、そこに載っていた布基礎・ベタ基礎ごと、建物全体が傾いてしまうのです。
布基礎やベタ基礎は、弱い地盤に建屋の重さを分散させ、不同沈下を避けることを目的に「提案」された方策ですが、それは、弱い地盤が弱いなりに「安定」していることが前提になります。
しかし、「切土」「盛土」で成り立っている敷地は、直ぐには「安定」しないのです。
布基礎の提案が、なぜ行われたのか、「『在来工法』はなぜ生まれたか-3」で触れています。
これが独立基礎、柱ごとの基礎なら、多分、部分的な被害、たとえば切土部分に載っている基礎は動かず、盛土部分では基礎が浮いてしまう、あるいは木造部が基礎から離れてしまうなどで済むと思われます。
以前、室町時代末に建てられたと推定されている「古井家」を紹介しました。
「古井家」は独立基礎:石場建てです。
下は、その桁行断面図です(「古井家」については、数多く触れていますので、「古井家」で検索してください)。
解体修理の際、この断面図の東側(図の右手)の一部は盛土部に載っていて、そこが沈下し、長年のうちに柱や横材の一部に折損が生じていたことが判ったそうです。
これは、切土部分は不動であったから起きた現象です。ベタ基礎のように、盛土部の沈下によって、全体が傾くことはなかったのです。
もちろん、沈下が始まっても、折損に至る前の早い段階では、木造部は、宙に浮いた形になっていたものと思われます。早く手を打てば、折損も起きなかったでしょう。
現在のように、独立基礎でも、柱を基礎に金物で結んでいると、多分、折損は早く生じたでしょう。ただ、転倒することはない。
つまり、盛土部分に建屋を載せること自体が問題を起こすのはたしかですが、独立基礎の方が、布基礎やベタ基礎よりも、影響が少ない、ということ、すなわち、現行の基準法の仕様規定の「想定」は、「実際・実状・現場: reality 」に合っていない、ということです。
最近の造成住宅地の中には、斜面の雛壇化のほかに、「低湿地の平地化」した例がかなりあるようです。谷地田や沼沢地、ときには休耕田など、あるいは海岸に盛土をして平地をつくりだす場合です。
住宅地で、今回の地震により液状化現象を起こしたのは、すべてそういう場所です。
これまで見られなかった内陸部の例が目立っていますが、潜在的に「起きる条件は整っていた」にすぎません。これまで起きなかっただけ、ということ。
これらの「宅地化」にあたっては、当然、土木・建築畑の技術者が計画に係わっているはずです。
では、なぜ彼ら「技術者」:「専門家」が、起きるであろう事態を予測しなかったのか?
多分彼らは、現行法令の諸規定に合わせればよい、と考えたに違いありません。それは、地盤の悪いところではベタ基礎にすればよい、で済ませてしまうのと同じです。
つまり、「技術者」の理解が、「設計とは、《法令の規定する基準》に合わせること」という「理解」になってしまっているということです。
これは「設計」の字義にももとる。そして、当然、そういうことをするのは、「技術者」にももとる。
では、専門家ではない人たちが、敷地の良し悪しを見分けるには、どうしたらよいか。
〇 先ず、建物は、平地でなくても建てられる、ということを知ること。
〇 ある土地を、見るとき、その「現状の姿」を見るだけではなく、
その土地を含めた一帯の様子を観察し、その土地の「元来の姿」を想像してみること。
近在に昔から暮している方がたから、以前の様子を聞き取ること。いわゆる「古老の話を聞く」のも一法。
もし図書館があれば、その地域の地誌や地名辞典などを調べるのも一法。
〇 周辺にも足を伸ばし、その地域に古くから在ると思われる家々が、どういうところに建っているかを知ること。
たとえば、その構え方から、風向きなども知ることができる。
〇 周囲が、既に建物で埋め尽くされている場合には、
戦後間もなくの頃、1950年代(昭和30年代)の地形図を見て、かつての地形の様子を知る。などなど。
なお、国土地理院発行の各年代の地形図は、
「日本地図センター」のネットショッピングで購入、あるいは複写を依頼できます。
「専門家でない人」が、敷地の良し悪しを見分けるには・・・と書きました。
しかし、なぜ?
建築などの「専門家」で、敷地の土地の履歴などを調べている人は、きわめて少ない、というのが、現実だから!!です。
だからこそ、
「専門家でない方がた」は、先ず「事実」を知って、その上で「専門家」と話をする、あるいは「専門家」の話をきくことが肝要なのです。
この場合の「専門家」とは、建築家(都市計画家も含む)、住宅メーカー、不動産業・・・の方がたです。
註 これは、「専門家でない方がた」が、
専門家たちを本当の専門家たらしめる為にできる、
最大の「教育」なのです。
そうでもしないと、多くの専門家は、自力で成長できないのが現実だからです。[註記追加 15.10]
今回の最後に、清々しい事例を紹介します。
地形にあわせて設計された集合住宅の事例です。
下は、その配置図です。
次は、断面図と、地山への載せ方を解説した図です。
これは、地山の原型を極力尊重した計画例です。
つまり、先ず敷地を平らにする、などということを考えていません。
どうすれば、「地山の形状をそのまま使えるか」と考えた、と言えるかもしれません。
もちろん、建物を据える場所では、地形(地業)のための「造成」=「原型の破壊」はしています。
もっとも、「段差無し=バリアフリー」論者からは、否定されるに違いない計画ですが・・・。
このような計画の場合、下手をすると、建物全体が、斜面を滑ることが起きかねません。
すなわち、建物重量の「斜面方向に向う分力」が「垂直方向への分力」よりも大きいと、建物全体は斜面を滑ります。
この計画では、第一層の斜面奥の部分、第三層の奥の部分が、地山にいわば喰いこんだ形になっていること、垂直方向の重量分力が圧倒的に大きいこと、が滑りを止めている、と考えられます。
この集合住宅は、フィンランドの建築家、アルバー・アアルトの設計です。
彼は、地山を削って平地化する住宅地建設を目の当たりにして、それは違う、としてこの計画を立案、実施したようです。
「 KAUTTUA の集合住宅」 企画・計画1937年、建設1938~1940年
出典:“ALVAR AALTO Ⅰ” Les Editions d'Architecture Artemis Zurich 刊