「地方功者(ぢかた こうしゃ)」・・・・「経済」の原義

2007-06-09 23:16:45 | 居住環境

[標題・副題変更:6月10日、1.48AM]

 今では、専門外の人からはまったく忘れられている言葉に「地方功者(ぢかたこうしゃ)」という語がある。私がこの言葉を知ったのは、今から30年ほど前、茨城に移り住んでからのこと。

  註 地方「功」者は地方「巧」者と記すこともある。
 
 茨城県の南部は、多くの河川が集中している。いずれも県境を流れる利根川へつながる。
 その一つの小貝川(こかいがわ)は、水海道(みつかいどう:現・常総市)と谷田部(やたべ:現・つくば市)との境を流れているのだが、そこに「福岡堰」というダムがある。昔から桜の名所。そのときは、小貝川沿いを車で巡っていてたまたま立ち寄ったのだが、堰のわきに立つ説明版を見て驚いた。この堰は、江戸幕府開設早々に、幕府の下で築かれたとあった。もちろん、建設当初のままではなく、今はコンクリート造のダム。

  註 上掲地図参照。国土地理院発行1/25000地形図「谷田部」の一部

 江戸時代以前、今の谷和原村(やわらむら)・伊奈町(いなまち)一帯は、河川の削り残した微高地が続き、目の前に川はあっても水利は悪く、未開の荒野が広がっていた。

  註 谷和原村と伊奈町は合併し、現在は「つくばみらい市」。

 徳川は、江戸に幕府を構える以前から、関東平野の開発(潮来など。もちろん、可耕地・未耕地の耕地化の意味の開発であり、現代の「開発」ではない)を積極的に行っているが、その一環として1625年、この地に堰を設けたのである(当初の堰は場所が若干異なり、後に福岡地内に改設され、以来福岡堰と呼ばれる)。
 堰止められた水は、台通り、川通りの二本に導水され、田畑を潤したあと、中通川へと排水される。こうして、一帯は肥沃な土地へと変っていったのである。

 この築造を含む一帯の開発を企て実行に移した、つまり、堰の位置を決め、用水路を開削し、田畑を開き、農民を定住・安住させる、・・この全仕事を差配したのは、伊奈備前守忠次(いな びぜんのかみ ただつぐ)という人物である。
 そして、その後、彼こそが「地方功者」の代表とされる人物であることを知ったのである。私が「地方功者」に関心を抱いたのも、彼の存在を通じてであった。


 『講座・日本技術の社会史 人物編 近世』(日本評論社)の中に、深谷克己氏の「田中丘隅(きゅうぐ)=地方功者の民政技術」という論説が載っている。その中に、「地方功者」を理解するために恰好の一節があるので、転載する。

 「地方功者について、みずからも地方の業務にたずさわってきた高崎藩の大石久敬は、その著『地方凡例録』のなかで以下のように述べている。

   註 この書の表記は「地方功者」

[・・俗語に地方(ぢかた)と唱るは政務のことにて、強ち(あながち)田畑の収納、諸帳面取調の取計ひのみに限ることにあらず、都て経済の義なれば聖賢の道を本とし理世安民の志を忘れず、地理に委しく(くわしく)用水、川除(かわよけ)修復等の弁利を考へ、稼穡(かしょく)の道を知り、国を富し風俗を善することに心を用ひ、上下の損益を勘弁し、農業の時を失はざるやうに教導して民を撫育し、公事訴訟等の取計ひに私なく、理非を決断して国家安泰に治るべきことを旨とし、当前の時務をも程よく取扱ふを地方功者(ぢかたこうしゃ)とも云ふべきことなるに、いまの地方功者と用ひらるる人を見るに、民の困苦をも厭わず、前後の勘弁もなく無理に取箇(とりか)を進めて、下に少しの有余あれば物に寄せ事に触れて課役を掛け、民の疲労するをも知らず、眼前の利益をのみ手柄と心得、当時の務め斗り(ばかり)を専らとし、筆算達者にて諸勘定、諸帳面を能く(よく)取調る人を地方功者と言は愚かなること也、是等は業(わざ)を能く(よく)する人とも云ふべきか・・・]

    註 これは、18世紀末期の実情についての記述。

・・地方功者が大石久敬の述べる存在であるとすれば、「技術」の意味は、自然との闘いという範囲をこえて、社会組織を持続させるための営為と言う経世済民 の法にまで広げられなくてはならない・・・」 

   読むための註(「広辞苑」による) 
    経済:下記「経世済民」参照。
    理世:世をおさめること。治世。
       理世撫民:世をおさめ民をいたわること。
    稼穡:穀物の植えつけと取りいれ。農事。農業。
    撫育:いつくしみそだてること。
    経世済民:国を治め民を救う。「済」は救う、生活を安定させること、
         また、悪を改めさせること。
         「経済」の語源   (この項、「新漢和辞典」による)
    当時:目前の、といったような意味。
    業(わざ):つとめとしてすること、職としてすること。
          ∴業を能くする人⇒単なる「能吏」という意。

 地方功者を現代語で語れば、それは地方政治家でもなければ地方公務員でもなく、不動産屋ではもちろんなく、都市計画家でも、測量士でも、土木技師でもない。一言で言えば、こういった一切のものを取り込み、語の本義の「経世済民」にかかわる「技術者」としか言いようがない。つまり、残念ながら、こんな人物は、現代には存在しない。

 しかし、伊奈忠次をはじめとする地方功者は、自らの手で土を掘り、堰を築き、田畑を耕したわけではない。つまり、それらについてのhow toは知っていても、具体的に手を下したのではなく、それを手際よく実際にこなす人びとは、彼の配下に別にいたのである。
 けれども伊奈忠次は、どのように取水し、どこを通すのがよいか、どう土を掘り、どのような堰を築くのがよいか、・・いかなる耕作が適しているか、どうすれば定住できるか・・・つまり、「何をしたらよいのか」について、適切な方策を考えることができたのである。これは、土を掘る、堰を築く・・といった技術とは、別種の「技術」と言えるだろう。

 では、彼は、そのような「技術」をどうやって身につけたのだろうか。
 おそらく、彼は、常に人びとの実際の「暮しの現場」にいて、人びとと語らい、また、自然の営みとその中での人びとの日々の営みを「観る」ことを通じて、その「技術」を獲得し、自らの中に体系として整えたにちがいない。
 彼の立て実行した「施策」「設計」が人びとから理解され、支持されたのは、それゆえだ、と言ってよいだろう。

 上掲の地図は、伊奈忠次の施策で開かれた耕地の現状である。ここで収穫される米は、上質だったという。なお、元・伊奈町の「伊奈」は伊奈忠次の名からとられたもの。

 今、一帯は、「現代の開発」によって、変ろうとしている。忠次のつくった用水路は、そのうちに、かつての東京郊外にあったそれと同じように、下水道になってしまうのかもしれない。
 そして、ことによると、地名から「伊奈」が消えていったように、地方功者たちの考えてきた「経世済民」の本義も忘れ去られ、現代の「経済」が幅をきかすことになるのだろう。

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