PDF1983年度「筑波通信 №5」 A4版10頁
現代 頼母子講・・・・父母による「施設」普請・・・・ (1983年度「筑波通信 №5」)
頼母子(たのもし)講あるいは頼母子無尽という中世以来庶民の問に脈々と生きながらえてきた制度がある。大言海によれば「相救ヒテ頼もしキ意」とあるが、要するに、数人が集まって一定の口数と給付すべき金品を予定し、定期にそれぞれ引き受けた口数に応じた金品の掛込を行い、抽選、入札その他の方法により、順次金品の給付を受ける組合類似のしくみのことである(平凡社・世界大百科事典他による)。
鎌倉時代に、一団の人々が相寄り、少しづつ金穀を出しあい、これを一団中の困窮者に融通し救済したのにはじまり、神社・仏閣の維持修繕あるいは社寺への参拝費の融通などにも利用されたという。そのしくみは、室町時代にはほぼ現在行われているものと大差ないまでに整えられたらしい。言うならば、いまの共済組合のごとき性格がある。親もしくは親方と呼ばれる一人または数人の発起人とその発起人が募集した数人ないしは十数人の仲間から成り、それを講というのである。江戸期になると、講の目的によっていろいろな目的に広がった。たとえば、特定人の救済のための「親頼母子]、被救済者の特足しない純然たる相互扶助のための「親なし頼母子」などかある(以上、いずれも同上書による)。
先号で紹介した「 S 園 」の話について、いろいろな声がきこえてきた。建物についてもさることながら、あの「施設」の建設の経緯や、前文で「現在の状況」としてしか触れなかった状況について詳しく知りたいというのである。そして、これをどのように説明したらよいものかと考えていたとき、ふと思いついたのが、なんとなく知っていた「頼母子講」というしくみのことであった。この施設の建設は、言ってみれば現代風頼母子講によって建てられたといえるのではないか、と。そこで事典などをあたって「頼母子」について調べてみたのが前述の内容である。わたしが頼母子になぞらえたのは、それほどまちがったことでもなさそうである。
いま私の手元に、「 S 園 」の建設を願った親たちのガリ版刷りの文集がある。親たちが考えていたことを知るのには、そのいくつかを紹介するのが一番手っとり早いだろう。
〇子どもが小学校3年生のころでしたでしょうか。片道1時間半位かかる養護学校に親子で通っていたのですが、電車のなかで、私の向い側に座っている子どもに知らない女の人が何かしきりに言っています。そばに行ってきいてみると、赤ちゃんを抱いた人が立っているので、席をゆずってあげるように話をしていたとのことです。「この子は知恵おくれだから」と言いかけて、思いなおして、子どもを立たせ席をゆずりました。
「知恵がおくれていても身体はしっかりしている。知恵は遅れていても、世問は、9歳の子は9歳にみる」。だから、頭を使うことは無理としても身体を使うことはできるだけ歳なみにさせなければと思いました。そして、親としてその努力をするつもりでした。ところが、どんなに秀れた教育者の子どもでも、その学業の修業は親ではできかねるように、この子たちの生活習慣の訓練をすることは、なかなか親では難しいのです。人にあずけると「とても良い子」なのに、将来をだれにもまして案じている親には「とても困った子」なのです。かと言って、精神年令が3歳にもならない、身体は大きくなっても、パンドラの筐(かご・かたみ・キョウ)から出てきたといううそとかねたみとかを身につける以前の人間のような人を他人にあずけることはできません。あずける未来も考えられません。私と子どもとは30歳違うので、真剣にその差を縮める方法がないかと考えたものです。考えに考えて悩みに悩んで到達した答が、親がつくり、親が(集って)育ててゆく施設だったのです。・・・・
〇・・・・知恵おくれだと分ったとき、あちらこちらと病院めぐり、とうとう大阪では納得がゆかず、治療と教育の場所を求めて上京し、・・・・なけなしの財布をはたいての母娘での東奔西走の明け暮れ、文字どおり、髪ふり乱してのいだ天走り、何とも哀れで、他人の目にはちょっとおかしい姿ではあったのです。泣いた涙の量は計り知れず、眠れぬ夜は数えきれず、・・・・武蔵野の雑木林の中に立ち、闇を見つめたこともあったのです。
〇・・これまで親は、先生や近所の方がたの理解と協力を得て、なんとかがんばってきましたが、この先どうあがいても、この子を残してゆくわけで、親なきあと、安心してまかせておける生活の場をつくっておかなくてはなりません。・・・・
〇私はこの子がかわいいです。いとおしいのです。またにくらしくもあるのです。こんな澄んだ目をしているのに、こんなにかわいい手をしているのに、努力しないのだろうか・・・・。たとえ少しでも良い効果があってほしい。「生あるものは変り得る」私はこのことばを信じます。現在の社会のなかでは、障害児の生きてゆく基礎はまだまだ非常に微弱だと思います。私たちの子どもがこれからどんなに成長したとしても、それだけで生きてゆくことができるとは考えられません。
〇名前を呼んでも何を話しかけても知らん顔、視線をあわせることはほとんどなく、おもちゃなど全く興味を示しませんでした。夜中にきまって目をさまし、大好きなひもをふっては明けがたまで遊んでいる状態が来る日も来る日も続きました。・・・・真夜中に子どもと二人で起きているときなど、「いっそのこと・・・・」と考えたのも一度や二度ではありませんでした。4歳をすぎたころ、幼児グループという(非公認の)通園施設があるのを知り、通いはじめました。そこに2年、(理解ある)幼稚園に1年、(養護学校が義務教育として制度化されてから、その)小学部へ入り、そこを終えて、いまは中学部にいます。・・・・私たちの一番気がかりなのは、学生生活を終えてからのことなのです。・・・・
〇土曜日の午後、寄宿舎を尋ねると、待ちかねていたらしく、体じゅうで喜びを表して、ぴょんぴょん跳びはねています。一週間よくがんばったね、というと、おかあちゃん、とこたえます。こういうように呼ぶようになったのは、この養護学校の寄宿舎に入ってからです。それまでの12年間、おかあさん、と呼ばれてみたいというのが夢だったのです。その夢がかなうことになったきっかけは、皮肉にも、主人の入院という不幸があったからです。核家族ゆえの窮余の策で寄宿舎に入れたのでした。それは大きな試練であったとみえ、おねしょをしはじめたり、わざといたずらをしたり、自分の体を傷つけたりして困らせました。それを見るたびに、家庭から離すことはマイナスなのではないかと悩みながらもどうすることもできず、親子ともども耐えるしかありませんでした。
そんなとき、ある日突然、おかあちゃん、と言いだしたのです。それをきっかけに、好きな先生や友だちに愛情を示すようになり、土曜日、おかあちゃん、おむかえ、と自分に言いきかせながら、月曜から土曜までは寄宿舎にいなければいけないのだと納得できるようまでに成長したのです。たまたまやむを得ず家庭から離したわけですが、それまでどおり家庭においたら、はたしてこれだけの成長をしてくれたろうかと思うとはっきり言って私には自信がありません。家庭という温床はもちろん必要条件ですが、この子たちの能力を最大限伸ばしてやるには十分条件とは言えないのだと認めざるを得ません。よき指導者のもとでの生活が望まれるのです。
〇・・・・多勢の人のなかほど孤独を感じるということがありますが、(障害児が)普通児のなかへ入ってゆこうとすればするほど、みじめな気持になることも事実で、幾度も挫折感を昧ったものです。健康な人も、障害のある人も、いたわりと謙虚な気持で互いに認めあう社会であってほしいというのが、障害児を持つ親の一番の願いではないでしょうか。いままでの施設はもちろんのこと、老人ホームでさえも、人里離れたさびしい所に建てられることが多かったのですが、(私たちの望む施設は)そうあってはほしくないのです。(私たちの望んだ施設ができ、子どもたちをそこに入れたら)親の役目は済んだとは、わたしたちのだれも思うわけもなく、親だけでは限界がある生涯教育を、専門の方の指導の下でしていただき、そして物心両面でできるだけ支えてゆきたい、というのが、私ども親の心境です。
〇児を抱き想いのままに雲を追う 流れゆきたる病児との日々
この文集は、建設予定地の地元の人たちに施設建設の意義を理解していただくために編まれたもので、ここに引用したのはごく一部である。
おそらく概略お分りいただけたのではないかと思うが、この親たちをして、いわば無暴な施設づくりに走らせたものは、おおよそ次のように要約できるだろう。すなわち、親たちは平均すると30代後半から40代。子どもの年令が10代前半、いわゆる中程度から重度の障害のある子どもを持っていて、家庭だけでの保護に先行きの不安を抱いている。つまり、養護学校を出たあとの行く末が不安なのである。もちろん、通園施設、通勤寮、更生施設、授産施設、あるいは収容施設等、建前の制度としては整えられつつあるが、それでもなお全般的に不備といってよく、入所を待たされることはあたりまえになっている(たとえば、この「そだち園」は更生施設にあたるが、入所志望者は30名の定員に対し、5倍以上の167人もいたのである)。そしてまた、それらの施設の多くは(全てではないのはもちろんだが)人里から隔離されすぎたり、まったく収容所であったりして、子どもそれぞれの個性に対応した指導や教育の点では頭をかしげたくなるものになりがちなのである。ひどい場合には、大きいことはよいことと、という企業論理がもちこまれたりさえするのである。
親が望むような施設ができるようになるのを待っていても、国などの動きは決して早くない。まして、それを待っていたのでは親子とも歳をとり、先きゆきの不安は増えるばかり。であるならば、指導者を探して自分たちで望ましい施設をつくってしまえないだろうか。
実際、自らの手で自分たちの望む施設を、といういわば無暴な夢は、とある日の午後、喫茶店での(障害児を持つ)数人の母親の会話からはじまったのだそうである。彼らは既に、それぞれ自分の子どもを抱え東奔西走してきているから、いろいろな施設や指導・教育のさまを知っていた。実現の可否は別として、夢に実体をもたせることはむしろ簡単なことだったろう。問題は、実体を実現させ得るかどうかなのである。おそらくそれが母親たちの強みなのであって、父親たちであったならば、実現の見込みなどあるわけはないとして夢は夢として放りだしたにちがいないが、母親たちは逆にかすかな手ざわりをもとに調べだした。一定の自己資金と土地がありさえすれば、国からの補助金によって設立が可能なことが判ってきた。そこまで判ると、さしもの現実的な父親たちも心を動かしだす。数人の母親たちが発起人となり、施設設立を願う集団が発足する。 25の家族(当初は26)が結集するのは、そんなに時開がかからなかった。ほんの数ヶ月なのである。もちろんそれには、この親たちの熱意もさることながら、現在園長をつとめているT氏をはじめとするその道の先導的な指導者・専門家たちの側面あるいは正面からの援助があったことは言うまでもない。
彼らはいろいろな施設の見学会や、結集した全家族親子の参加する合宿をするなどして意志の結束につとめるとともに、一家族200万円の資金積みたてを行い、あわせ土地選びに奔走した。 200万円という金額は決して小さいものではなく、土地選びはずぶの素人にとっては初めての、しかも海千山千の不動産業者が必らずかんでくる厄介な代物だったといってよい。
土地ははじめから山梨県の東部に白羽の矢がたれられ、いろいろ探された。その理由は、大きく言って二つあった。一つは、東京都内には土地がないこと、仮にあったとしても法外な値であって手がでないこと、あるいは人里離れた場所になってしまうこと、そしてもう一つは、園長自身、ここ十数年山梨県営の心障者施設で活躍されていた関係で、なにかと地元の関係者とのコンタクトが得られやすいことが、運営上も得策だったからである。更に言えば、そこは東京からは車で1時間ちょっと、父母が容易に訪れることができるのも決め手であった。(毎土曜・日曜には東京へ送迎車を出すそうである。)
土地は、現在の地に決定するまでにいくつもの候補地があった。そして、これが決るまでの経緯は、まさに筆舌に尽し難い。別にとりたててこの種の施設の建設反対が(都会でのように)あったわけではない。むしろ、町を構成している各のなかでの微妙な人間関係の確執が内での対立を生み(たとえば、あれが賛成するならば反対だ、というようなことも起きるのである)あえて反対をとなえる理由として逆に施設反対を持ちだすこともあったようである。もちろん、施設アレルギ一が皆無であったわけではないが、日夜を問わぬ父母の説明(一戸ずつまわるのである)に、まずほとんどの人たちは納得してくれたのである。いまも、まず友好的だし協力的である。いずれにしろ、土地が最終的に決ったのは、開園予定の8ヶ月前、それまでに1年半以上もかかったのである。その間に、一方では国の補助金の申請は着々と(というと簡単であるが、やたらと書類がおびただしい)進み、その面での可能性は、まず確実なものになってゆきつつあった。いまだからこそ言えるのではあるけれども、この1年半以上にわたる地元の人たちとの接触は、決して無用なことではなかったと私は思う。いまの地元の人たちの理解と好意は、それによって醸成された面が多分にあると思うからである。もっともその時点では、なかなか土地が決らず、土地が決らないことは即補助金も下りないことであったから、いらいらのしどおしであった。
設計者としての私がこの設立に係わりをもったのは、父母たちの結集が終り、土地選びがはじまりだしたころのことであった。つまり、いまから2年半ぐらい前になる。この人たちとの出会いは、まったく偶然だと言ってもよいだろう。大分前に、ちょうど中野の江原小改築問題というこれまた前代未聞の父母の運動に傍から参画していたころ、これも折から制度化された都立養護学校の設計について、その学校へ子どもを通わせることになる母親から相談を受け、都の教育行政に精通していた江原小の母親たちに都への仲介をお願いしたことがあった。養護学校の相談に見えた人が、この今回の「 S 園 」設立のそもそもの発起人(喫茶店で夢を語った人たち)の一人だったのである。江原小の人たちは、ことによると忘れているかもしれない。
私も何度か、土地選びの段階で、現地を訪れたけれども、しかし、あの父母たちのようには地元の人たちと接触したわけではない。私のしたことは、その段階では、候補地の建設敷地としての可否や問題点を示し、場合によると、そこでの建物の姿を図にしてみること、そして地元の人たちに説明する程度であった。むしろ私はそのとき、この父母の、まさに驚嘆すべき熱意・迫力と、地元の人たち(主にぶどう園などを営む農家の人たちである)のしたたかさと村の人間関係の微妙さ・複雑さに、文字どおり、教えられる、との思いでいっぱいであった。普通の(都会の)設計ならビジネスライクにすいすいと割り切って進む話が、ここではそうはゆかない。おそらく、ビジネスライクにすいすいと事を進めること自体が、どこか重要な点を見失っているのではないか、というようにさえ私は思ったものだ。多分それはまちがっていないだろう。
土地がさまざまな曲析を経てほほ落着をすると、設計図をひかなくてはならなくなる。てんてこまいをするのは、今度は私たちの番だ。仕事は敷地の高低測量を自前でやることからはじまった。
そのときまでに、別の敷地での計画案として数案既に提示し、いろいろな検討は行われていたのであるが、敷地が変り、急挙また三案ほど計画案をつくりなおした。そして、いま建っている建物の基本は、実は、ほんの2・3時間で、園長の自宅でつくりあげたものである。昨年の七月半ば、猛烈な雷雨のさなか。いま決めないともう時間がない、まるで試験を受けているような気分で、せっぱつまってつくりあげたものである。とにかくこの案でGOサインがでて実施図面作成に移行するわけであるが、そこに至るまでの諸々の経緯もまた筆舌に尽し難いと言ってよい。しかしそれは、設立運動そのものに比べたら小さな小さなことなのだ。
私が(正確には私たちなのだが)この設立・設計にあたって考えたことは、先号で、少しまわりくどい言いかたではあったけれども、言わせてもらったので、あらためて詳しく言うつもりはない。けれども、一言だけあえて付け加えさせてもらうと、私は、心障者の更生指導・教育(の理想的な形)はかくかくしかじかなものである、あるいはあらねばならない、などということをあらかじめ設定して事をはじめることはしなかった。
なぜなら、指導も教育も、心障者をしていわゆる社会復帰せしめることをもって目標としても、それへ向っての具体的なやりかた・展開は定型があるわけでもなく、絶対的な姿があるわけではない、ただあるのは、試行錯誤・模索の連続だけだと私は思うからである。だが、ともすると建築家の多くは、その建物での生活のしかた(この場合で言えば、指導・教育のしかた)を定め、それに合うように室を用意すればよい、とする考えかたをとってきたから、そのあるべき生活の型の設定に意をそそぎがちであったように思う。この考えかたは、なにもこの種の建物でなくても、まちがいだと私は思う(これについては、なかば逆説的に「建物は雨露がしのげればよいか」1983.3 昨年度第12号で、分かりにくい書きかたであるが、書いたとおりである)。ならば、この設計で私は何を考えたか。それは極めて単純な話であって、一軒の「家」をつくることなのであった。
実施設計は八月と九月のニケ月。ここで考えられたことのポイントはいかにローコストで質を高めるか、という点に尽きる。建物は約1000㎡の平家建、一部二階。鉄筋コンクリート造が要求される(耐火建築=コンクリートという規定がある。当初、工期短縮をねらい、屋根を鉄骨で考えていたのだが、この規定ゆえに全面的にコンクリートとなる)。かけられる費用は、建物(電気・給排水・暖房・調理設備などを含む)に対して約1億6000万円、坪当り約53万円、おそらくこれは普通の小学校よりも安いだろう。こうなると、重点的に費用を使うしかない。構造を極力簡単にし、既製品を最大限使い(アルミサッシは住宅用の一番安いのを使う、など共通のおさまりを各所に使う一方で、配管の保全を容易にするため全館に床下のピット(トンネル)を設け、温風の床暖房をしくんだりしている。暖房等は、いわゆるセントラル方式をやめ、ブロックごとに制御するようになっている。これも保全経費を安くするためである。こういう施設の場合、建設費もさることながら、運用上の経費が安価になることも重要なのである。床材は相対的には高いものを使っているが、壁や天井材は、多分、これより安いものはないという材料:石こうボードを使っている。しかし実際に見ていただくと判るのだが、それほど安いなあとの感じは受けないはずである。それは、ほぼ全館にわたって、木製の幅本(床と壁の境)、腰長押(こしなげし:床よりの高さ約80cmの位置にまわした帯)、長押(なげし:床より約180cm)、そして天井の回り縁を盛大に設けたためである。天井にも、要所に、木製の縁を付けている。壁の保護にもなるし、またものをはりつけたり、かけたりするのに都合がよい。使った木自体は決して高い材ではないが、たったこれだけで、非常に木村を使ったような錯覚を与え、全体が暖か味を帯びてくるから不思議である。これはなにも私たちの独創でもなんでもない。その昔、フランク・ロイド・ライトという建築家(昔の帝国ホテルを設計したアメリカ人)が多用した手法であり、元をただせば、多分、彼は日本の建築からその手法を学んだはずである。
とにかくローコストに徹し、設計はあがったのだが、次の難題は、いかに年度内工事として完了するかであった。十一月初旬の着工で工期は正規には五ヶ月、大目に見てもらっても六ヶ月しかない。工事は敷地への取付道路からはじめなければならず、足場も悪い。おまけに冬であるから作業時間も短かく、その上寒冷地。これ以上はないという悪条件。実際に本体に手がつけられだしたのは、十二月も末、だから主体は年が開けてからとなってしまった。それでいて、五月の連休前にほぼできあがってしまったのであり、この問の経緯もまた、筆舌に尽し難い、としかまったく言いようがないのである。
そして六月一日、建物はできあがり、施設は開園した。「夢が実体を帯びてくるころは、まさに夢であって楽しかった。しかし、実体が実現するまでは、これはまさに、スリルとサスペンスに満ちた綱渡りの連続であった]とだれかが述懐していたが、それはほんとに実感である。私が先号に付けた「 S 園 によせて」という文の末尾で「・・・・建物は、いま、何事もなかったかのように静かに建っていますが、それは、天から降ってわいたかのごとくに何事もなくそこに在ったわけではないのです」などと言わずもがなのことを書いたのも、この実感が強烈だったからなのである。
施設の建物はできた。しかし、この施設建設を目ざした現代頼母子講は、目的を達したとして解散できるわけではない。目的は建物そのものをつくることではなかったからであり、第一、この大事業は自己資金だけでは成し得ず、補助金の他に、7000万円という多大な借入金をかかえている。それを今後20年間、返し続けなければならない。そして、もう一つ根本的な問題がある。それは、頼母子講とは根本的に違う点なのだが、出資者必ずしもこの施設を利用できない、という点である。それはなぜか。補助金の性格ゆえである。補助金は公共の事業に対する補助であるから、建前としては、入所者を出資者の子どもに限定することはできない、というのである。 200万円という出資が可能な恵まれた人だけが補助金の恩恵を受けられるというのでは不公平である、という行政側の説明は、確かに一理ある。つまり、この講に参加した25人の家族は行政側に言わせると(建前の上では)数少ない秀れた施設づくり:施設運営にのりだした篤志家・ボランティアということになってしまうのである。
もちろん、ここに結集した父母たちが、単に篤志家たらんとしたわけではないのは言うまでもない。彼らは、それぞれ、将来この施設に自分の子どもたちを入れることを望んでいるのである。そして、現に、この父母たちだけではなく、実は他に多くの父母たちが、自分たちの施設づくりを望んでいるのが実際なのである。これはいったいどういうことなのだろうか。
端的に言えば、確かに一時に比べれば各種の心障者施設は整備されてはきているが、未だ十分なわけではなく、更に重要なことは、父母たちが心底から自分の子ども(の未来)を託し得ると信頼できる施設がないということを意味しているのである。国や都道府県などが建ててきているいわゆる公共団体立のこの種の施設でさえもが、決して父母の願望に応えているとは言い難く、むしろ、公共団体立の方に問題が多いようである。建物にかけられる費用も多く立派なのだが、建てかたも、規模もそして運営も、単に制度上の施設にすぎない場合が多く、父母たちの目には、字のごとく収容所としか見えないことがしばしばある。実際、父母たちが信頼できる施設というのは、経済的にもきりきりの民間の施設のようである。だが、こういうことは、公共団体立の公共の施設の本義から言って、おかしなことだ。しかし、おかしな現象は、なにもこの種の施設についてだけではない。他のいわゆる「公共施設」が、まずほとんど、その「公共」の本義からかけはなれているのである。ただ、他の公共施設の場合、それを使う側がなんとかやりくりし、また設立側も適当にお茶をにごして済ますことができるけれども、この種の施設ではそうはゆかない。そのありかたのありさま、そのまずさは、ことばの上の説明や弁解では済まず、直接的にしっかり見えてきてしまうのだ。本来、全ての公共施設が、本当の意味で対応していなければならないはずの、その「公共」を構成している「個」の問題に対する想いの欠落が、この種の施設では如実に明らかとなってくるからである。
その意味では、この「 S 園 」の設立を願う父母の運動は、そしてそれに類するいろいろな、そして各地での運動の顕在化は、まさに「行政]のありかた、いわゆる「地方公共団体」「国」の「公共」に対する理解のしかた:認識のありかた、、を問うていることに他なるまい。人々は、税金という掛金を毎年積んでいるにも拘らず、「地方公共団体」あるいは「国」という頼母子講は、少しも「頼もしく」ないのである。そして、だからこそ彼らは、自らの頼母子講を組織したのである。
だが、ここで、ことによると、一つの疑問が提起されるかもしれない。この人たちは200万円用意できたからいい。借金をしようがしまいが、とにかく 200万用意できた。借金もままならない人たちはどうするのかという疑問である。正直に言って、私にはそれに十分に答える回答がない。そして、こういう疑問があるからといって、この彼らの運動を、ぜいたくな運動だとは思わない。 200万の有無に拘らず、いまの世のなかで、公共施設のありかた・建てられかたの本来のありかたを問う意味では、必要不可欠なことだと思うからである。できる所からやらなければならないと思うし、現に、「 S 園 」設立に係わった父母たちも、200万がない人たちはどうでもよいなどとは、少しも考えていないからである。
まさに筆舌に尽し難いことがいっぱいあった。しかし、この運動の傍に参画できたことは、建築の設計に係わる者の一人として、設計者の係わりかたを問われる意味で、望外の幸であり、そして、現実に建物ができあがったなどということは、まさに信じられないくらいである。
開園後一ヶ月半経った七月半ば、泊りかけて訪れてみた。皆が歓迎してくれた。設計のまずさも目についた。だが、入居者たちは、どうやらそれぞれ好みの場所も見つけ、なじんでくれたようであり、建物は生きていた。そして、全ての職員は、さわやかに、情熱をぶつけていた。多分、この人たちの力で、「 S 園 」が名実ともに「 S 園 」として結果したとき、そこでまたあらためて「公共施設」とは本来何であったかが、世に問えるのではなかろうか。
あとがき
〇筆舌に尽し難い、ということばは便利なことばである。これによって、大分話が簡単になる。たとえば、農民のしたたかさ、としか書かなかったことも、具体的に書きだしたらどれだけの分量になるか知れたものではないし、そしてまた都会の生活に慣れた父母の行動原理もまた、この農民のそれと対比して書いてみたくなる。実際のはなし、同じ日本人でこれだけものの考えかたが違う、と感嘆したものであった。
〇私が一番感心し、そして困ったのは、建物づくりはつまるところ人間関係次第でよくもなりまたわるくもなる、ということを、なかなか分ってもらえないことだった。たとえば、同じ一つの細工を仕上げるのでも、職人が気分よく仕事できるかできないかが仕上りを左右してしまう、ということが、近代的契約に慣れてしまっている人たちには不思議のことのようだった。仕様の指示が同じなら、気分のよさわるさとは関係なく仕様どおりに仕上って当りまえだ、と信じてしまっている。理屈は確かにそのとおりなのだが、しかし、それはそうではない。ロボットではなく人間だからである。彼らは同じ10万の仕事だって、仕事にのれば、その10万を、それ以上の価値にすることを心得ていて、そうだからといってやりすぎたとか損をしたとか、決して思わないはずなのだ。
〇この父母たちが、実際に出資した額は200万である。しかしそれは、あくまでも、帳面づらのはなしである。彼らが地元に、ときには泊りがけで日夜訪れ、また勤めを休み役所と話し合いをもち、あるいは集会をもつ、といった諸々の日常的な活動は、もとより手べんとうであり、それは数字に単純に置きかえてみても、多分、出資額に倍する以上のものになってしまうだろう。つまり、単に金さえあればできるというものではないのである。
〇ハングリーな条件の方がよいものがつくれるんですね。いまのところ、見にくる人たちにはわりと好評で助っているが、そのうちの一人が語った皮肉ともなんとも分りかねる評語である。意外とあたっているかもしれないとも思う。
〇職員は皆若く20代が多い。その活動のさまを何と言い表したらよいかといろいろ考えたけれども、さわやか、ということばしか浮んでこなかった。
〇暑中お見舞申しあげます。それぞれなりのご活躍を!
1983・7・28 下山 眞司