死に急ぐ人を思って
昨日、NHKの解説委員影山日出夫氏がNHKのトイレで首つり自殺を図り、搬送先の病院で亡くなったと知った。56歳だったそうだ。50歳代の死がこのところ続いている。ショックを受けている。人の死に遭遇するのはいずれにせよショックだが、歳が近いと、自分と照らしていろいろ考えてしまう。また、遺書があったようだが、体調を気にしていたと言うような部分だけ、少し報じていた。自殺の場所が職場と言うことに、無言の訴えのような意図的なことでもあったのだろうか。
「日曜討論」は、毎回と言うほどでもなかったが、政局に何が起きたり、その時々に関心事があるとラジオの音声かTV放送を見ていた。今月の8月1日放送は影山さんが司会を担当していたと思うので、あれが彼の最後の出演になったのだろうか。歯に衣(きぬ)を着せない、ストレートなものの言い方で、かなり鋭い指摘をする人だと感じていた。ジャーナリストであり、解説委員を務めるのであるならば相当だと思っていた。もしかしたら、NHKという枠にいなかったらもっと溌剌とした姿を見られたのではないかと想像していた。こういったポジションの人を亡くしたということも残念だが、歳の近い人が自殺したことが何よりもショックだ。
ここ二日ほど私自身の心の中のことを書いているが、意図的ではないが、心の中にとぐろを巻いて絡まりあっている雑念を、浄化しながら不要なものを吐き出そうとしているのだと思う。それがまだ良く出せていないのだが、微妙に心の不安定を作っているものを暴き出そうとしている。そう思う。自殺に至る心境は語れないとしても、不安定な心情の時、自分を信じられないというのが一番危ない時だと思う。自分が分らないがため、非常に不安になる。そのきっかけとなりやすい年齢が、50歳代にはあると思う。またはリタイヤする年齢辺り。
結局、年齢というよりも人生に対して真面目過ぎるというか。今の50代は、日本の高度成長時代を生きてきてこの長いデフレに立会い、しっかりと時代を見てきている。働く世界の動きも敏感に感じ取ってきている。心のどこかに、古きよき時代と現実との差異を感じつつ自身の生きる場を模索するような、奔走するような焦りのようなものがあるのではないだろうか。影山氏の自殺で気付かされたようなものだが、昨日までの私自身を振り返ると、その焦りの表れではないかと思った。
生きようともがいた結果、何処かに諦めというピリオドを打ってしまった時、行き着く答えを自殺に求めてしまうのではないだろうか。心の訴えは結局誰にも届かないのだし、仮に届けたい人に届いても直ぐにどうすることもできない現実があれば、勇み足ということにもなる。一日寝て起きれば、死にたい気持ちは収まっただろうに。それが、待てなかったのだろうか。
生きていさえいれば何かが変わる。今日どうにもならないことでも、寝て起きたら気分だけは変わっている。昨日のようには思わない。また、ある日、まったく期待もしていなかったようないいことだってある。ないこともある。なかったら、また寝て一日置いてみる。そういうなんでもない繰り返しが生きるということだったりする。あまり意味なんてない。
自殺するなんて、なんて身勝手な人だろうかと思う。究極の頑固野郎ってだけだ。後に遺された者のことも考えない身勝手な大馬鹿野郎ってだけの話だ。
その悩みを打ち明けてもくれなかったという無念さを悔恨の思いとして一生背負う周囲の人間を、そこまであなたは恨んでいたとでも言うのだろうか。
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